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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第01章:白雪の少女
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第04話:初戦闘

 ――静寂が、森を支配していた。


 血だまりの中で息絶えたはずの少女が、いま、二本の足で立っている。


 その事実を、獣たちの単純な脳は処理しきれずにいた。


「グル……ルル……ッ」


 黒い毛並みが、逆立っている。


 牙を剥き出しにしながらも、一歩も踏み出せない。


 目の前にいるのは、たしかに先ほどまで泣きながら這いずっていた、あの矮小な人間の娘のはずだった。


 ――なのに。


 立ち上(のぼ)るこの気配は、なんだ。


 肌を焼くように濃密で、清(きよ)らかで、そして絶対的な。


 まるで、山そのものが人の形をとって立っているかのような。


「…………ふむ」


 少女は――白櫻姫(こさき)は、獣たちに一(いち)瞥(べつ)もくれなかった。


 細くしなやかな指を目の前に掲げ、桜色の瞳でしげしげと眺めている。


「……不思議ですね」


 その声は、鈴を転がすように澄んでいた。


「わたくしは確かに、あの罪人の丘で、天(アマ)照(テラス)様のお手によって命を散らしたはず。……なぜ、こうして人間界にいるのでしょう?」


 風に舞う白い髪を、指先でそっと梳(す)く。


「それに――あれから、どれほどの月日が流れたのでしょうか」


 白櫻姫(こさき)は空を仰いだ。


「空気の匂いも、大気に満ちる霊(れい)気(き)の質も、神(しん)界(かい)へ渡る前とはずいぶん変わってしまっているようですね。……百年、といったところでしょうか」


 実際には、その十倍の時が流れている。


 だが、目覚めたばかりの彼女に、それを知る由(よし)はなかった。


「……あら?」


 ふと足元に目を落とし、白櫻姫(こさき)は不思議そうに屈(かが)み込んだ。


 黒く、平らで、硬い地面。

 石でも土でもない、見たこともない代物だった。


「これは……何でできているのでしょう。ずいぶんと滑(なめ)らかな道ですこと」


 興味深そうに指先で撫でてから、彼女はすっと立ち上がる。


 そして、改めて自分の手のひらを見つめた。


 小さな手だった。

 傷ひとつない、けれど、まだ何も知らない子どもの手。


「……この体は、どなたのものなのでしょう」


 白櫻姫(こさき)は、その手を胸元にそっと当てた。


「とても小さくて、幼くて……。それなのに、どこか愛おしくて、懐かしい温もりがいたします」


 ――目の前で唸り声を上げ、じりじりと包囲を狭めている獣たちなど、まるで視界に入っていないかのようだった。


「グル、ル……ッ」


 獣たちの本能が、けたたましい警鐘を鳴らしていた。


 ――近づくな。


 ――あれに触れれば、消える。


 言葉を持たぬ彼らでさえ、魂の奥で理解していた。目の前の存在との、絶望的な〝格〟の違いを。


 だが。


「――ヴォォンッ‼」


 その恐怖を、咆哮(ほうこう)で押し潰した者がいた。


 五メートルの巨獣である。


 一度は仕留めた獲物だ。

 どれほど雰囲気が変わろうと、所詮は小さな人間の娘に過ぎない。


 巨獣は地面を踏み砕き、長大な爪を振りかざした。


 ――ドォンッ‼


 空気を裂き、必殺の一撃が振り下ろされる。


 しかし。


「…………」


 白櫻姫(こさき)の姿は、すでにそこになかった。


 ふわり、と。


 まるで舞い落ちる花弁のような軽やかさで、彼女は横合いへと身を躱(かわ)していた。


 音もなく着地し、静かに距離を取る。


(……さて)


 彼女にとって、この程度の獣を塵(ちり)に変えることなど造作もない。


 だが。


(久方ぶりの人間界。しかも、慣れ親しんだわたくしの体ではありません)


 白櫻姫(こさき)はちらりと、自分の細い腕に目をやった。


(――少しばかり、力試しをさせていただきましょうか)


 その思考を、隙と見たのだろう。


 横合いから跳躍した一匹のオオカミが、牙を剥いて彼女の首元へと喰らいついた。


「くすっ。威勢だけは良いのですね」


 ――すり抜ける。


 微(び)風(ふう)のような動作で牙をかわし、白櫻姫(こさき)は交差する一瞬に手を伸ばした。


 空中で体勢を崩した獣の頭部と、顎(あご)。

 その両方を、繊細な手つきで包み込む。


 ――カチリ。


 まるで、舞のひと動作のような。


 無駄のない、美しい手首の捻(ひね)り。


 ゴキリ、と鈍い音が響いた。


 黒い獣の首が、あってはならない方向へ折れ曲がる。


 地面に落ちた亡骸は、一度も痙攣することなく、そのまま紫(し)黒(こく)の霧となって霧(む)散(さん)した。


「「「グ……ッ⁉」」」


 残った獣たちが、足をもつれさせて後(あと)退(ずさ)りする。


 ――何が起きたのか、理解できていない。


 一瞬前まで生きていた仲間が、触れられただけで消えたのだ。


 もしこの場に観客がいたなら、そのあまりの美しさに息を呑んで見惚れたことだろう。


 もっとも――大抵の人間には、速すぎて何も見えなかっただろうが。


「なるほど」


 返り血ひとつ浴びていない手を、白櫻姫(こさき)は改めるように眺めた。


「霊力による身体強化は、問題なさそうですね。……この体でも、神子(みこ)としての力は扱えるようです」


 胸元にそっと手を当て、内に流れるものを探る。


 そして――微(かす)かに、目を見開いた。


「……まあ」


 驚きが、その声に滲んだ。


「それどころか……以前のわたくしの体よりも、この子の内に眠る霊力のほうが、遥かに多いようです」


 果てが見えない。


 湖だと思って覗き込んだそこが、底の知れない深海だったような感覚。


「なんて凄まじい資質でしょう……。この子は、一体……」


 仲間を瞬く間に失った獣たちは、もはや飛びかかることもできず、唸り声を上げるだけの案山子と化していた。


 その様子に、白櫻姫(こさき)はようやく――本当にようやく、彼らへと視線を向けた。


「そういえば、あなた方は……〝魔(ま)物(もの)〟でしょうか?」


 小首を傾(かし)げる。


「百年経ってもなお、この人間界に蔓延(はびこ)っていたのですね。……庭の雑草のように、抜いても抜いてもきりがないこと」


 まるで、道端の石ころを見咎めたような口ぶりだった。


 白櫻姫(こさき)は顎に指を添え、優雅に微笑む。


「体術の確認は済みました。次は……そうですね。武器を用いた戦い方を試しましょうか」


 そして、ごく自然に。


 まるで、いつもそうしてきたかのように。


 彼女は、その名を呼んだ。


「――白(しら)百(ゆ)合(り)、お願い」


 ……。


 ……何も、起きなかった。


 風が木々を鳴らす音だけが、森に響く。


 手に馴染んだあの柄の感触も、いじっぱりで寂しがりな、あの小さな声も。


 どこからも、返っては来なかった。


「……あら?」


 白櫻姫(こさき)は不思議そうに目を瞬(またた)かせ、自分の手のひらを見下ろした。


 ――そして、思い出す。


「……そうでした」


 その表情から、すっと色が抜け落ちた。


「あの子との契約は……あの魔神との戦いの、前に」


 小さな声だった。


 ――危ないから、あなたは来ないで。


 ――嫌です! わたちも一緒に行きます!


 ――ごめんなさいね、白(しら)百(ゆ)合(り)。


 あの日、泣きじゃくるあの子を振り切って、契約を断ち切ったのは自分自身だ。


 守るために。

 巻き込まないために。


「…………」


 白櫻姫(こさき)は静かに目を伏せ、しばらくの間、そうしていた。


 ――だが、それも数秒のこと。


「……ふう」


 息を吐き、彼女は顔を上げる。


 感傷に浸っている場合ではない。


 視線を巡らせると、足元に一本の木の棒が転がっているのが目に入った。


 嵐か何かで折れたのだろう。何の変哲もない、ただの枯れ枝である。


 白櫻姫(こさき)はそれを拾い上げ、袴(はかま)ではなくスカートであることも気に留めず、すっと構えた。


「お待たせいたしました。……いつでもどうぞ?」


 優雅な誘い。


 もう後には引けなかったのか、それとも追い詰められた獣の狂気か。


 数匹のオオカミが、一斉に地を蹴った。


 ――そして。


 ――一閃。


 木の棒が、光の軌跡を描いた。


 名刀の一振りのごとき、完璧な剣筋。


「ガァッ⁉」


 刃など存在しないはずのただの枯れ枝が、獣たちの頑強な肉体を、豆腐のように易々と断ち切った。


 悲鳴を上げる間もなく、黒い霧となって消えていく獣たち。


 ――これは、常軌を逸した技術である。


 己の拳や脚といった身体の一部、あるいは長年使い込んで馴染んだ武具であれば、霊力を纏わせることは難しくない。


 だが、そこらに落ちていた木切れに、寸分の狂いもなく高密度の霊力を纏(まと)わせ、刃として成立させる――。


 現役の神子(みこ)であっても、まず不可能な芸当だった。


 そして、間を置かず。


 ――バッ‼


 獣たちの視界から、少女の姿が掻き消えた。


 次の瞬間。


 群れの中心に君臨していた巨獣の、背後から。


「――やはり、ただの木の棒では耐えられませんか」


 澄んだ声が、響いた。


「――ッ⁉」


 巨獣が、慌てて振り返る。


 そこには、先端が折れてしまった枯れ枝を手に、佇(たたず)む少女の姿。


 そして――同時だった。


 周囲に残っていたオオカミたちが、全身を綺麗に断ち切られ、一斉に黒い霧となって弾け飛んでいく。


 巨獣が振り向く、その刹那。


 たったそれだけの時間で、白櫻姫(こさき)は群れのすべてを屠(ほふ)っていたのだ。


 手の中で半ばから折れた枝を見つめ、白櫻姫(こさき)は少しだけ申し訳なさそうに呟いた。


「……無理をさせてしまいましたね。ありがとう」


 枯れ枝を、そっと地面に置く。


 そして、立ち上がった。


「――ですが、武器がないのであれば」


 右手を、静かに天へと翳(かざ)す。


「作ればよいだけのこと」


 ――ザァッ。


 暖かな春の風が、森を吹き抜けた。


 その風に乗って、無数の花弁が舞い上がる。


 薄紅の桜。

 鮮やかな椿。

 可(か)憐(れん)な梅。


 ――そして、この季節には決して咲かないはずの、秋(コス)桜(モス)までもが。


 どこから現れたとも知れない色とりどりの花弁が、彼女の手元へと吸い寄せられていく。


 濃密な桜色の霊気を纏いながら、それらは凄まじい密度で収束し――


 ――サァァァァッ。


 光が収まったとき、少女の手には、一振りの刀が握られていた。


 刀身をなすのは、結晶化した無数の花弁。


 息を呑むほどに美しく。

 そして、恐ろしいほどの霊気を放つ――〝花弁の刃〟。


「…………ッ」


 巨獣は、完全に硬直していた。


 逃げることも、吠えることも、指一本動かすことすらできない。


 絶対的強者を前にした、生物としての本能。


 そんな哀れな獣へと、白櫻姫(こさき)はゆっくりと歩み寄る。


 そして。


「――そうでした」


 声から、温(ぬく)もりが消えた。


「あなたは、この体を……この子のことを、傷つけましたね?」


 桜色の瞳が、昏(くら)く翳(かげ)る。


 ――脳裏に浮かぶのは、この身体に刻まれた記憶。


 同じ肉体を使う以上、記憶もまた共有されている。


 助けを呼ぼうとして砕かれた連絡手段。

 折れた骨を引きずり、地面を這った数センチ。

 貫かれる瞬間、声にすらならなかった絶叫。


 そして――両親に会えるだろうか、と願いながら閉じた瞼(まぶた)。


「…………」


 まだ十二年しか生きていない子どもが、味わってよい痛みではない。


「――ヴ、ヴォ……ッ」


 殺意を向けられた瞬間、巨獣は生まれて初めての恐怖に全身を苛(さいな)まれた。


 戦うなど論外。

 一刻も早くこの場を離れなければ、魂ごと砕かれる。


 巨獣は反転し、狂ったように山奥へと逃げ出そうとした。


 ――しかし。


 ――ザザザザッ‼ バキバキバキッ‼


 行縢の山が、脈動した。


 地面から、樹木から、岩の隙間から。


 無数の枝葉と蔓(つる)が、爆発的な勢いで芽吹き、伸び上がっていく。


 それはまるで――この地の草木のすべてが、少女の降臨を喜んでいるかのようだった。


「ヴォォッ⁉」


 巨獣の四肢が、太い枝と頑強な蔓に絡め取られる。


 もがけばもがくほど、緑の拘束は深く食い込んでいった。


 これこそが、少女――白櫻姫(こさき)の神子(みこ)としての能力。


 植物の生命力を無制限に活性化させ、意のままに操る力。


 どんな真冬であろうと桜を満開に咲かせ、枯れ果てる寸前の草花にすら、命の輝きを取り戻させる。


 白櫻姫(こさき)は静かな歩調で巨獣の前に立ち、花弁の刃を構えた。


「……この健気で、優しい子の身体を」


 声は、あくまで穏やかだった。


 だからこそ――凍(い)てつくようだった。


「こんなにも痛めつけた罪は、重いですよ」


「ヴ、ヴォォ……ッ‼」


「確か……こうでしたね」


 ――ズドッ‼


 花弁の刃が、巨獣の胸元を一直線に貫いた。


 先ほど、この獣が白雪姫(こゆき)に対して行ったのと、まったく同じように。


「――――……ッ‼」


 声にならない咆哮。


 桜色の光が内側から溢れ出し、巨大な体躯を蝕(むしば)んでいく。


 やがて巨獣は、他の魔物たちと同じように――


 跡形もなく、消滅した。


 風が、止む。


 舞っていた花弁が、さらさらと地面へ降り積もっていった。


 行縢の森に、静けさが戻る。


「……ふぅ」


 小さく息を吐き、白櫻姫(こさき)は花弁の刃を光の粒へと還した。


 ――と、その時。


(……っ)


 指先の感覚が、わずかに遠のいた。


 意識の深いところで、この体の本来の持ち主が、ゆっくりと浮上してきているのが分かる。


(……ああ。もうすぐ、この子と交代ですね)


 借りていられる時間は、ほんの僅かだったらしい。


 白櫻姫(こさき)は、自分の――いや、少女の小さな手をじっと見つめた。


 この手に刻まれた、健気で哀しい記憶。


 両親を失い、たった一人で絶望に耐え、それでも今朝、震えながら教室の扉を開けた、幼いお姫様。


「…………」


 白櫻姫(こさき)の唇に、慈愛に満ちた微笑みが浮かんだ。


「……せめて、残った傷の治療と」


 ぐるりと、汚れた制服を見下ろす。


「あとは、この可愛らしいお召し物を直しておいてあげましょうか」


 すう、と息を吸う。


「――霊術【光合成(こうごうせい)】」


 少女の身体が、柔(やわ)らかな陽の光に包まれた。


 僅かに残っていた擦り傷が消えていく。

 裂けた制服の繊維が、目に見えぬ手に縫われるように織り直されていく。


 やがて光が収まったとき、そこには――何事もなかったかのような、一人の少女が立っていた。


「あとは、ゆっくりお休みなさい」


 春の風が、白い髪をそっと撫で上げていく。


「かわいらしい、小さなお姫様」


 瞼が、重くなっていく。


 沈んでいく意識の底で、白櫻姫(こさき)は最後にこう囁いた。


「――次にお会いできるのを、楽しみにしていますよ」


 支えを失った小さな身体が、ゆっくりと膝から崩れ落ちる。


 どさり、と。


 少女は、静かに眠りについた。


 その周囲には。


 彼女の降臨を祝うかのように咲き誇った、色とりどりの春の花々が。


 甘い香りを漂わせながら、幼いお姫様を優しく包み込んでいた。





ここまで読んでいただきありがとうございます!

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