第04話:初戦闘
――静寂が、森を支配していた。
血だまりの中で息絶えたはずの少女が、いま、二本の足で立っている。
その事実を、獣たちの単純な脳は処理しきれずにいた。
「グル……ルル……ッ」
黒い毛並みが、逆立っている。
牙を剥き出しにしながらも、一歩も踏み出せない。
目の前にいるのは、たしかに先ほどまで泣きながら這いずっていた、あの矮小な人間の娘のはずだった。
――なのに。
立ち上るこの気配は、なんだ。
肌を焼くように濃密で、清らかで、そして絶対的な。
まるで、山そのものが人の形をとって立っているかのような。
「…………ふむ」
少女は――白櫻姫は、獣たちに一瞥もくれなかった。
細くしなやかな指を目の前に掲げ、桜色の瞳でしげしげと眺めている。
「……不思議ですね」
その声は、鈴を転がすように澄んでいた。
「わたくしは確かに、あの罪人の丘で、天照様のお手によって命を散らしたはず。……なぜ、こうして人間界にいるのでしょう?」
風に舞う白い髪を、指先でそっと梳く。
「それに――あれから、どれほどの月日が流れたのでしょうか」
白櫻姫は空を仰いだ。
「空気の匂いも、大気に満ちる霊気の質も、神界へ渡る前とはずいぶん変わってしまっているようですね。……百年、といったところでしょうか」
実際には、その十倍の時が流れている。
だが、目覚めたばかりの彼女に、それを知る由はなかった。
「……あら?」
ふと足元に目を落とし、白櫻姫は不思議そうに屈み込んだ。
黒く、平らで、硬い地面。
石でも土でもない、見たこともない代物だった。
「これは……何でできているのでしょう。ずいぶんと滑らかな道ですこと」
興味深そうに指先で撫でてから、彼女はすっと立ち上がる。
そして、改めて自分の手のひらを見つめた。
小さな手だった。
傷ひとつない、けれど、まだ何も知らない子どもの手。
「……この体は、どなたのものなのでしょう」
白櫻姫は、その手を胸元にそっと当てた。
「とても小さくて、幼くて……。それなのに、どこか愛おしくて、懐かしい温もりがいたします」
――目の前で唸り声を上げ、じりじりと包囲を狭めている獣たちなど、まるで視界に入っていないかのようだった。
「グル、ル……ッ」
獣たちの本能が、けたたましい警鐘を鳴らしていた。
――近づくな。
――あれに触れれば、消える。
言葉を持たぬ彼らでさえ、魂の奥で理解していた。目の前の存在との、絶望的な〝格〟の違いを。
だが。
「――ヴォォンッ‼」
その恐怖を、咆哮で押し潰した者がいた。
五メートルの巨獣である。
一度は仕留めた獲物だ。
どれほど雰囲気が変わろうと、所詮は小さな人間の娘に過ぎない。
巨獣は地面を踏み砕き、長大な爪を振りかざした。
――ドォンッ‼
空気を裂き、必殺の一撃が振り下ろされる。
しかし。
「…………」
白櫻姫の姿は、すでにそこになかった。
ふわり、と。
まるで舞い落ちる花弁のような軽やかさで、彼女は横合いへと身を躱していた。
音もなく着地し、静かに距離を取る。
(……さて)
彼女にとって、この程度の獣を塵に変えることなど造作もない。
だが。
(久方ぶりの人間界。しかも、慣れ親しんだわたくしの体ではありません)
白櫻姫はちらりと、自分の細い腕に目をやった。
(――少しばかり、力試しをさせていただきましょうか)
その思考を、隙と見たのだろう。
横合いから跳躍した一匹のオオカミが、牙を剥いて彼女の首元へと喰らいついた。
「くすっ。威勢だけは良いのですね」
――すり抜ける。
微風のような動作で牙をかわし、白櫻姫は交差する一瞬に手を伸ばした。
空中で体勢を崩した獣の頭部と、顎。
その両方を、繊細な手つきで包み込む。
――カチリ。
まるで、舞のひと動作のような。
無駄のない、美しい手首の捻り。
ゴキリ、と鈍い音が響いた。
黒い獣の首が、あってはならない方向へ折れ曲がる。
地面に落ちた亡骸は、一度も痙攣することなく、そのまま紫黒の霧となって霧散した。
「「「グ……ッ⁉」」」
残った獣たちが、足をもつれさせて後退りする。
――何が起きたのか、理解できていない。
一瞬前まで生きていた仲間が、触れられただけで消えたのだ。
もしこの場に観客がいたなら、そのあまりの美しさに息を呑んで見惚れたことだろう。
もっとも――大抵の人間には、速すぎて何も見えなかっただろうが。
「なるほど」
返り血ひとつ浴びていない手を、白櫻姫は改めるように眺めた。
「霊力による身体強化は、問題なさそうですね。……この体でも、神子としての力は扱えるようです」
胸元にそっと手を当て、内に流れるものを探る。
そして――微かに、目を見開いた。
「……まあ」
驚きが、その声に滲んだ。
「それどころか……以前のわたくしの体よりも、この子の内に眠る霊力のほうが、遥かに多いようです」
果てが見えない。
湖だと思って覗き込んだそこが、底の知れない深海だったような感覚。
「なんて凄まじい資質でしょう……。この子は、一体……」
仲間を瞬く間に失った獣たちは、もはや飛びかかることもできず、唸り声を上げるだけの案山子と化していた。
その様子に、白櫻姫はようやく――本当にようやく、彼らへと視線を向けた。
「そういえば、あなた方は……〝魔物〟でしょうか?」
小首を傾げる。
「百年経ってもなお、この人間界に蔓延っていたのですね。……庭の雑草のように、抜いても抜いてもきりがないこと」
まるで、道端の石ころを見咎めたような口ぶりだった。
白櫻姫は顎に指を添え、優雅に微笑む。
「体術の確認は済みました。次は……そうですね。武器を用いた戦い方を試しましょうか」
そして、ごく自然に。
まるで、いつもそうしてきたかのように。
彼女は、その名を呼んだ。
「――白百合、お願い」
……。
……何も、起きなかった。
風が木々を鳴らす音だけが、森に響く。
手に馴染んだあの柄の感触も、いじっぱりで寂しがりな、あの小さな声も。
どこからも、返っては来なかった。
「……あら?」
白櫻姫は不思議そうに目を瞬かせ、自分の手のひらを見下ろした。
――そして、思い出す。
「……そうでした」
その表情から、すっと色が抜け落ちた。
「あの子との契約は……あの魔神との戦いの、前に」
小さな声だった。
――危ないから、あなたは来ないで。
――嫌です! わたちも一緒に行きます!
――ごめんなさいね、白百合。
あの日、泣きじゃくるあの子を振り切って、契約を断ち切ったのは自分自身だ。
守るために。
巻き込まないために。
「…………」
白櫻姫は静かに目を伏せ、しばらくの間、そうしていた。
――だが、それも数秒のこと。
「……ふう」
息を吐き、彼女は顔を上げる。
感傷に浸っている場合ではない。
視線を巡らせると、足元に一本の木の棒が転がっているのが目に入った。
嵐か何かで折れたのだろう。何の変哲もない、ただの枯れ枝である。
白櫻姫はそれを拾い上げ、袴ではなくスカートであることも気に留めず、すっと構えた。
「お待たせいたしました。……いつでもどうぞ?」
優雅な誘い。
もう後には引けなかったのか、それとも追い詰められた獣の狂気か。
数匹のオオカミが、一斉に地を蹴った。
――そして。
――一閃。
木の棒が、光の軌跡を描いた。
名刀の一振りのごとき、完璧な剣筋。
「ガァッ⁉」
刃など存在しないはずのただの枯れ枝が、獣たちの頑強な肉体を、豆腐のように易々と断ち切った。
悲鳴を上げる間もなく、黒い霧となって消えていく獣たち。
――これは、常軌を逸した技術である。
己の拳や脚といった身体の一部、あるいは長年使い込んで馴染んだ武具であれば、霊力を纏わせることは難しくない。
だが、そこらに落ちていた木切れに、寸分の狂いもなく高密度の霊力を纏わせ、刃として成立させる――。
現役の神子であっても、まず不可能な芸当だった。
そして、間を置かず。
――バッ‼
獣たちの視界から、少女の姿が掻き消えた。
次の瞬間。
群れの中心に君臨していた巨獣の、背後から。
「――やはり、ただの木の棒では耐えられませんか」
澄んだ声が、響いた。
「――ッ⁉」
巨獣が、慌てて振り返る。
そこには、先端が折れてしまった枯れ枝を手に、佇む少女の姿。
そして――同時だった。
周囲に残っていたオオカミたちが、全身を綺麗に断ち切られ、一斉に黒い霧となって弾け飛んでいく。
巨獣が振り向く、その刹那。
たったそれだけの時間で、白櫻姫は群れのすべてを屠っていたのだ。
手の中で半ばから折れた枝を見つめ、白櫻姫は少しだけ申し訳なさそうに呟いた。
「……無理をさせてしまいましたね。ありがとう」
枯れ枝を、そっと地面に置く。
そして、立ち上がった。
「――ですが、武器がないのであれば」
右手を、静かに天へと翳す。
「作ればよいだけのこと」
――ザァッ。
暖かな春の風が、森を吹き抜けた。
その風に乗って、無数の花弁が舞い上がる。
薄紅の桜。
鮮やかな椿。
可憐な梅。
――そして、この季節には決して咲かないはずの、秋桜までもが。
どこから現れたとも知れない色とりどりの花弁が、彼女の手元へと吸い寄せられていく。
濃密な桜色の霊気を纏いながら、それらは凄まじい密度で収束し――
――サァァァァッ。
光が収まったとき、少女の手には、一振りの刀が握られていた。
刀身をなすのは、結晶化した無数の花弁。
息を呑むほどに美しく。
そして、恐ろしいほどの霊気を放つ――〝花弁の刃〟。
「…………ッ」
巨獣は、完全に硬直していた。
逃げることも、吠えることも、指一本動かすことすらできない。
絶対的強者を前にした、生物としての本能。
そんな哀れな獣へと、白櫻姫はゆっくりと歩み寄る。
そして。
「――そうでした」
声から、温もりが消えた。
「あなたは、この体を……この子のことを、傷つけましたね?」
桜色の瞳が、昏く翳る。
――脳裏に浮かぶのは、この身体に刻まれた記憶。
同じ肉体を使う以上、記憶もまた共有されている。
助けを呼ぼうとして砕かれた連絡手段。
折れた骨を引きずり、地面を這った数センチ。
貫かれる瞬間、声にすらならなかった絶叫。
そして――両親に会えるだろうか、と願いながら閉じた瞼。
「…………」
まだ十二年しか生きていない子どもが、味わってよい痛みではない。
「――ヴ、ヴォ……ッ」
殺意を向けられた瞬間、巨獣は生まれて初めての恐怖に全身を苛まれた。
戦うなど論外。
一刻も早くこの場を離れなければ、魂ごと砕かれる。
巨獣は反転し、狂ったように山奥へと逃げ出そうとした。
――しかし。
――ザザザザッ‼ バキバキバキッ‼
行縢の山が、脈動した。
地面から、樹木から、岩の隙間から。
無数の枝葉と蔓が、爆発的な勢いで芽吹き、伸び上がっていく。
それはまるで――この地の草木のすべてが、少女の降臨を喜んでいるかのようだった。
「ヴォォッ⁉」
巨獣の四肢が、太い枝と頑強な蔓に絡め取られる。
もがけばもがくほど、緑の拘束は深く食い込んでいった。
これこそが、少女――白櫻姫の神子としての能力。
植物の生命力を無制限に活性化させ、意のままに操る力。
どんな真冬であろうと桜を満開に咲かせ、枯れ果てる寸前の草花にすら、命の輝きを取り戻させる。
白櫻姫は静かな歩調で巨獣の前に立ち、花弁の刃を構えた。
「……この健気で、優しい子の身体を」
声は、あくまで穏やかだった。
だからこそ――凍てつくようだった。
「こんなにも痛めつけた罪は、重いですよ」
「ヴ、ヴォォ……ッ‼」
「確か……こうでしたね」
――ズドッ‼
花弁の刃が、巨獣の胸元を一直線に貫いた。
先ほど、この獣が白雪姫に対して行ったのと、まったく同じように。
「――――……ッ‼」
声にならない咆哮。
桜色の光が内側から溢れ出し、巨大な体躯を蝕んでいく。
やがて巨獣は、他の魔物たちと同じように――
跡形もなく、消滅した。
風が、止む。
舞っていた花弁が、さらさらと地面へ降り積もっていった。
行縢の森に、静けさが戻る。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、白櫻姫は花弁の刃を光の粒へと還した。
――と、その時。
(……っ)
指先の感覚が、わずかに遠のいた。
意識の深いところで、この体の本来の持ち主が、ゆっくりと浮上してきているのが分かる。
(……ああ。もうすぐ、この子と交代ですね)
借りていられる時間は、ほんの僅かだったらしい。
白櫻姫は、自分の――いや、少女の小さな手をじっと見つめた。
この手に刻まれた、健気で哀しい記憶。
両親を失い、たった一人で絶望に耐え、それでも今朝、震えながら教室の扉を開けた、幼いお姫様。
「…………」
白櫻姫の唇に、慈愛に満ちた微笑みが浮かんだ。
「……せめて、残った傷の治療と」
ぐるりと、汚れた制服を見下ろす。
「あとは、この可愛らしいお召し物を直しておいてあげましょうか」
すう、と息を吸う。
「――霊術【光合成】」
少女の身体が、柔らかな陽の光に包まれた。
僅かに残っていた擦り傷が消えていく。
裂けた制服の繊維が、目に見えぬ手に縫われるように織り直されていく。
やがて光が収まったとき、そこには――何事もなかったかのような、一人の少女が立っていた。
「あとは、ゆっくりお休みなさい」
春の風が、白い髪をそっと撫で上げていく。
「かわいらしい、小さなお姫様」
瞼が、重くなっていく。
沈んでいく意識の底で、白櫻姫は最後にこう囁いた。
「――次にお会いできるのを、楽しみにしていますよ」
支えを失った小さな身体が、ゆっくりと膝から崩れ落ちる。
どさり、と。
少女は、静かに眠りについた。
その周囲には。
彼女の降臨を祝うかのように咲き誇った、色とりどりの春の花々が。
甘い香りを漂わせながら、幼いお姫様を優しく包み込んでいた。
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