第03話:雪は解け、桜が舞う
持ち帰る荷物は、思っていたよりもずっと少なかった。
両親と幼い自分が写った写真立てが、ひとつ。
まだサイズの合いそうな部屋着と普段着が、数着。
去年まで着ていた、冬物のコートが一着。
それだけだった。
十二年分の暮らしが、車のトランクの片隅にすっぽりと収まってしまう。
「……これで、全部です」
「そう。……もし後から必要なものが出てきても、また来ればいいけんね」
施設の先生が、そっとトランクを閉めた。
パタン、という音が、静かな山あいに小さく響く。
(……これからは、あの施設で暮らすんやね)
頭では分かっていた。
それでも、閉ざされた扉を見ていると、胸の奥に隙間風が吹き込むようだった。
車の時計は、まだ十二時を少し回ったところを指している。
今日は入学式だったから、学校はとっくに終わっている。
時間だけは、たっぷりと余っていた。
「白雪姫ちゃん。……ごめんね、私、施設に戻らんといかんとよ。事務仕事が残っちょって」
「あ……はい、大丈夫です」
「本当ならこのまま一緒に回ってあげたいっちゃけど……。ねえ、白雪姫ちゃん。せっかくやし、この町を少し歩いてみたらどう?」
「……この町を?」
「うん。あなたがずっと暮らしてきた町やろ。昔よく歩いた道とか、遊んだ場所とか。……そういうのを見て回るのって、きっと気持ちの整理になると思うとよ」
思い出の場所を、見て回る。
その言葉が、白雪姫の胸にすとんと落ちた。
両親と暮らした家には、もう戻れない。
けれど、この町の景色だけは、ちゃんとこの目に焼き付けておきたい。
「……はい。少し、歩きたいです」
「そっか。じゃあ、これ持って行き」
先生は鞄から一台のスマートフォンを取り出し、白雪姫の手に握らせた。
「位置情報をオンにしちょるから、何かあってもすぐ場所が分かるけん。通話もできるようにしちょるよ。……体調が悪くなったら、我慢せんですぐ連絡すること。約束ね」
「……はい。ありがとうございます」
「三時間後くらいに迎えに来るね。それまでは、ゆっくりしとき」
白いワゴン車が、砂利を鳴らして遠ざかっていく。
やがてエンジンの音も聞こえなくなり、あとには静寂だけが残された。
木々のざわめき。
遠くの小鳥のさえずり。
――それだけの世界に、白雪姫は一人で立っていた。
「……よし」
ぽつりと呟いて、白雪姫は歩き出した。
❆
まずは、家の前に広がる小道へ入る。
そこへ入ると、道の両脇が一気に桜色に染まった。
桜並木だ。
花の盛りを迎えた枝が、頭上でトンネルのように交差している。
風が吹くたび、花びらがはらはらと舞い落ちて、アスファルトを桜色に染めていた。
「……きれい」
半年前の自分は、この景色を当たり前だと思っていた。
毎年咲くから。
毎年、父と母と、三人で見上げていたから。
(……当たり前じゃ、なかったんやね)
桜並木を抜け、坂道を下る。
そのまま正面へ進み、雑草が生い茂る木々の奥に足を踏み入れた。
小さな川がある。
川面に陽の光が反射して、きらきらと目を刺すように輝いている。
夏になると、父に手を引かれてここで水に足を浸したものだ。
冷たい、と叫んだら、父が笑って、わざと水をかけてきた。母がそれを見て、もっと笑った。
確か、父が竹で釣り竿を自作して、それで釣りをしたこともあった。
一匹も釣れなかったが。
思い出は、痛い。
けれど――今日は、少しだけ、あたたかい痛みだった。
川沿いの道を辿り、〝松田ファーム〟と書かれた看板と、その傍にある、何度も渡った橋の上に立つ。
欄干に手を置いて、流れる水面をしばらく見つめた。
(……なんでやろ、私からしたら昨日とかそれくらいの感覚やのに、所々変わってるせいか、懐かしく感じるなぁ)
そんなことを、今更のように思う。
そうして歩き続けるうちに、白雪姫は町の奥の奥――行縢神社の鳥居の前へ辿り着いていた。
❆
ここは、白雪姫にとって特別な場所だった。
家からそれなりの距離ではあるが、近く、少し高い場所にあるせいか、真夏でも風が涼しく通り抜ける。
友達のいなかった幼い頃、白雪姫はよくこの境内の木陰に座り込んで、一人でごっこ遊びをしたり、本を読んだりして時間を潰していた。
石段を上り、境内へ入る。
ぱん、ぱん、と柏手を打つ。
目を閉じて、何を祈ればいいのか分からないまま、しばらくそうしていた。
顔を上げると――視界いっぱいに、山があった。
行縢山。
標高八百三十メートルの雄岳と、八百九メートルの雌岳。
二つの巨大な岩壁が、まるで天を裂くように並び立っている。
その荒々しい岩肌を、春の陽が白く照らしていた。
(……相変わらず、おっきいなぁ)
見上げていると、自分の悩みが、ちっぽけなもののように思えてくるから不思議だ。
登山口の手前には、大きな建物が構えられている。
――〝むかばき青少年自然の家〟。
中には、大人数が集まってイベントを行うプレイホールや、研修室、ラウンジ。それに、大勢で泊まれる宿泊棟まで揃っている。
敷地の外側には、広いキャンプ場と、石造りの野外炊飯場。
(……あそこで、カレー作ったっけ)
小学生の頃、夏休みの地域行事でここに泊まったことがあった。
薪がパチパチとはぜる音。
煙に目をこすりながら、父と母と、近所のおじさんたちと一緒に作った、少し焦げたカレー。
夜には、大きなキャンプファイヤーを囲んで歌を歌った。
翌朝は早起きをして、あの山に登った。山頂から見た景色は、今でも鮮明に思い出せる。
「……あんなことも、あったなぁ」
白雪姫の口元が、自然と綻んだ。
クラスメイトの声。
小さな手のぬくもり。
この町の、変わらない景色。
胸を覆っていた重たい雲が、ほんの少しだけ晴れていくのを感じた。
スマートフォンを取り出して時刻を確かめる。
迎えの時間が、そろそろ近い。
「……戻ろう」
白雪姫は神社に背を向けて、生家へと続く一本道を歩き出した。
❆
――異変に気づいたのは、それから十数分後のことだった。
……ぴたり、と。
鳥の声が、消えた。
「……え?」
思わず足を止める。
風も、止まっていた。
さっきまで枝を揺らしていた春風が、まるでスイッチを切ったかのように、ぴたりと動きを止めている。
木々は、一枚の葉すら揺らさない。
(……なに、これ)
空気が、重い。
ずしり、と肩にのしかかるような、粘つく冷たさ。
四月とは思えないほど、気温が急激に下がっていく。
白い息が、ふっと漏れた。
そして――臭った。
「……っ、うぇ……っ」
思わず、口元を押さえる。
肉が腐ったような、鉄と泥を混ぜたような、刺すような異臭。
嗅いだことのない匂いなのに、身体が勝手に反応していた。
ぞわり、と。
うなじの毛が総立ちになる。全身に鳥肌が走り、心臓が痛いほど跳ね上がった。
(危ない――)
理屈ではなかった。
本能が、細胞のひとつひとつが、けたたましく警報を鳴らしていた。
(ここにいたら、まずい)
――ガサッ。
「……っ‼」
背後の森で、草木が鳴った。
白雪姫の身体が、びくりと跳ねる。
振り向きたくない。
でも、振り向かないともっと怖い。
軋むような動きで、白雪姫はゆっくりと首を巡らせた。
――そこに、〝それ〟はいた。
「……ヒ、ッ」
喉が、鳴った。
鬱蒼とした木々の影から、ぬうっと姿を現したもの。
姿は、オオカミに似ていた。
だが、大型犬の倍はある巨躯。全身を覆う体毛は、光を吸い込むように真っ黒だ。
その体表からは、紫がかった黒い霧のようなものが、ゆらゆらと立ち上っている。
そして、顔。
両目には瞳孔がなかった。
ただ濁った白目だけが、ぎょろりと白雪姫を捉えている。
剥き出しの牙の隙間から、粘ついた涎が糸を引いて垂れ落ちた。
「グルルルルル……ッ」
喉の奥から漏れる、地を這うような唸り声。
(違う……こんなの、動物じゃない……っ)
オオカミなんて、この国にはもういないはずだ。
仮にいたとしても、あんなものは動物じゃない。
もっと――もっと、穢れた〝なにか〟だ。
逃げなきゃ。
そう思うのに、膝がガクガクと震えて、足の裏が地面に張りついたように動かない。
その一瞬の硬直を、獣は見逃さなかった。
――ドンッ‼
「――ッ⁉」
黒い塊が、飛んだ。
「いやぁっ‼」
震える足が、勝手に縺れた。
結果として、それが命を救った。
転倒するように崩れ落ちた白雪姫の頭上を、鋭い爪が空を切って通過していく。
風圧。
そして、鼻を殴りつけるような腐臭。
「あ……あぁっ……!」
悲鳴を上げながら、白雪姫は転がるように立ち上がり、走り出した。
山道を下る。
枝が頬を裂く。石ころに足を取られる。
構っていられなかった。
――タタタタタッ!
背後から、軽やかな四足の足音が迫る。
速い。
人間の足で敵うはずがない。
「ハァッ……ハァッ……ぐ、うっ……!」
十数メートル走っただけで、肺が焼けるように痛んだ。
半年間、寝たきりだった身体だ。
筋力の低下こそ奇跡的になかったが、運動そのものを久しくしていない。
息が、続かない。
――ガッ‼
「きゃあっ⁉」
下り坂で足を踏み外し、白雪姫は前のめりに転倒した。
その真上を、二撃目の爪が通り過ぎていく。
――また、偶然に助かった。
けれど、偶然は三度も続かない。
「はっ……はっ……はっ……」
両手と膝を地面につき、白雪姫は激しく肩を上下させていた。
視界が明滅する。
足に、まったく力が入らない。
ペタ、ペタ、と。
余裕たっぷりの足音が、近づいてくる。
顔を上げれば、白目を剥いた獣がすぐそこにいた。
――もう、走れない。
獣が、後ろ足に力を溜める。
跳んだ。
牙が、爪が、白雪姫の喉元めがけて迫る。
(――いやだ)
――必ず狩る――という目が、白雪姫を睨む。
(死にたくない)
それは、心からの叫びだった。
(誰か――誰か‼)
「来ないでぇぇぇぇぇっ‼」
目を瞑り、白雪姫は両手を前に突き出した。
その、瞬間。
――ゴォォォォォッ‼
突き出した手のひらから、眩い白光が弾けた。
同時に噴き出したのは、凍てつくような、雪混じりの突風。
バキバキバキッ、と周囲の木々が音を立てて撓む。
「グルガッ⁉」
空中の獣は、真正面からその奔流を叩きつけられた。
悲鳴を上げる間もなく、黒い体躯が数十メートル後方へと吹き飛ばされ、太い幹に激突する。
ドスンッ、という重たい音。
地面に落ちた獣は、二、三度身体を痙攣させたあと――動かなくなった。
「……ハァ……ハァ……」
風が、止む。
辺りに、しん、と静寂が戻った。
白雪姫は、突き出したままの自分の両手を、茫然と見つめていた。
その手のひらからは、微かな白い冷気が、ゆらりと立ち上っている。
(……いま、なに……?)
そして、僅かな冷たさを感じる。
(私の手から……雪が、出た……?)
理解が、追いつかない。
自分の身体に何が起きているのか。
なぜ、こんなことができたのか。
何ひとつ、分からない。
――けれど。
(……逃げなきゃ! 今のうちに……‼)
考えるのは後だ。
震える足に、白雪姫はありったけの力を込めて立ち上がった。
家へ。
人のいる場所へ。
そう思って、走り出そうとした――その時。
――ズズズズ……ッ。
「……え」
地面が、鳴った。
いや、地面だけではない。
空気が。木々が。山そのものが。
振動していた。
ミシ、ミシ、と、山奥の木々が押し倒されていく音。
ドスン。
ドスン。
重い足音が、ひとつ。またひとつ。
(あ……)
白雪姫の全身が、金縛りにあったように固まった。
(あ、あ……)
森を割って現れたそれは――先ほどの獣とは、明らかに〝格〟が違った。
輪郭こそオオカミに似ている。
だが、それは二本の足で立っていた。
見上げなければ顔も見えない。体高は、五メートルを優に超えている。
全身を覆う、禍々しい漆黒の毛並み。
両手の指から伸びる爪は、一本一本が人間を軽々と串刺しにできるほど太く、長く、鋭い。
口から突き出た牙は、もはや刃物というより、刀そのものだった。
白目を剥いた顔が、ぎょろりと動く。
――白雪姫を、見た。
(に、逃げ――)
その言葉を、最後まで思い浮かべることすらできなかった。
――ドォォォンッ‼
「がぁッ⁉」
空気が爆ぜた。
あの巨体からは想像もつかない速度。目で追うことすら叶わなかった。
突進をまともに受けた白雪姫の小さな身体は、紙屑のように宙を舞う。
そのはずみで、ポケットからスマートフォンが飛び出した。
――パリンッ。
岩に叩きつけられ、白雪姫の唯一の命綱は、あっけなく砕け散った。
――ドカァッ‼
「か……はッ……‼」
地面へ叩きつけられる。
口から、大量の血が吐き出された。
全身が、痛い。
痛いという言葉ではとても足りない、殺人的な激痛が、身体の内側から暴れ回っている。
「ごほっ……‼ ごぼぉっ……‼」
肺が押し潰されたのか、息が上手く吸えない。
ヒュー、ヒューと、喉から情けない音が漏れるだけだ。
(痛い……痛い、痛い……っ)
腕を動かそうとした瞬間、ゴリ、と嫌な感触がした。
――折れている。
感覚で、分かってしまった。
怖い。
死にたくない。
早く、ここから逃げたい。
涙が、勝手に溢れてくる。
なのに身体は、白雪姫の願いを何ひとつ聞いてはくれなかった。
「う……あ……っ……」
血に濡れた手で、地面をかきむしる。
四つん這いになろうと、必死にもがく。
――ズリ、と数センチ。
それが、限界だった。
ペタ……。
ペタ……。
静かな足音が、近づいてくる。
巨大な影が、白雪姫の小さな身体を、すっぽりと覆い隠した。
「ぁ……」
太い腕が、無造作に振り下ろされる。
頭を、鷲掴みにされた。
グイ、と持ち上げられ、白雪姫の身体が宙に吊り上げられる。
抵抗など、できるはずもなかった。
骨は折れ、力は入らず、ただ人形のように手足がぶら下がるだけ。
できることは、恐怖に引きつった白い瞳で、目の前の醜い顔を見つめることだけだった。
(……お父さん……)
思い浮かぶのは、父の顔。
(……お母さん……)
そして、母の顔だった。
巨獣が、空いたもう片方の手を、ゆっくりと持ち上げる。
――ナイフのように尖った、長大な爪。
それが。
――ドスッ‼
「――ッ⁉ ――――……ッ‼」
声にすら、ならなかった。
肉が裂け、内臓が押し潰される感覚。
背中まで貫通した爪の先から、夥しい量の血が噴き出す。
ボタ、ボタ、ボタ……。
真下の地面が、みるみるうちに赤く染まっていく。
だらり、と。
白雪姫の両腕が、力を失って垂れ下がった。
それを確かめると、巨獣は爪を引き抜き、白雪姫の身体を、まるで食べ残しのゴミのように血だまりの中へ投げ捨てた。
ドサッ。
白い髪が、赤に染まっていく。
ぴくりとも動かない少女を見下ろし、巨獣は天を仰いだ。
「ヴォォォォォォォンッ‼」
地を揺るがす咆哮。
――呼応するように。
周囲の森の影から、最初に白雪姫を襲ったのと同じ黒いオオカミたちが、三匹、五匹、十匹と、ぞろぞろと姿を現した。
それはまるで――親が仕留めた獲物を、我が子に与える合図のようだった。
「「「グルルル……」」」
血の匂いに引き寄せられ、獣たちが、じり、じりと群がっていく。
(……ああ)
薄れゆく意識の中で、白雪姫は思った。
(……お父さんと、お母さんに……会えるっちゃろか。――でも)
視界が、暗闇に沈んでいく。
(――死にたく…………な……)
――その、瞬間だった。
ひらり、と。
血だまりの上に、一枚の花びらが落ちた。
薄紅色の――桜の、花びらが。
「……グルァ?」
オオカミの一匹が、怪訝そうに顔を上げる。
ひらり。
ひらり、ひらり。
風もないのに、花びらは次から次へと舞い落ちてくる。
やがてそれは吹雪のように渦を巻き、白雪姫の身体を包み込んでいった。
――ピシャァッ‼
少女の身体から、眩い桜色の光が弾けた。
「グァッ⁉」
「ギャンッ‼」
獣たちが跳ね上がって後退する。
五メートルの巨獣ですら、その圧倒的な気配に、白目を見開いて後ずさった。
――そして。
舞い散る桜の中心で。
血だまりに沈んでいた少女の身体が、ゆっくりと、起き上がっていく。
砕けていた骨が、音もなく繋がった。
胸を貫いた致命傷が、まるで巻き戻すように塞がっていく。
制服の裂け目までもが、綻びを縫うように元へ戻っていった。
立ち上がった少女は、ゆっくりと――その目を開ける。
そこにあったのは、あの日からずっと少女を苦しめてきた〝白い瞳〟ではなかった。
透き通るように気高く、幻想的で。
満開の桜をそのまま写し取ったかのような――〝桜色の瞳〟。
少女は舞い散る花びらの中で、口元にやわらかな笑みを浮かべた。
そして、鈴を鳴らすような澄んだ声で、静かに言葉を紡ぐ。
「――ふふ」
千年の時を越えて。
「……久しぶりの人間界ですね」
ここまで読んでいただきありがとうございます!
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