第02話:入学式
朝の光を反射させながら、白いワゴン車が国道を走っていく。
後部座席の窓に額を寄せて、白雪姫は流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
空はどこまでも青い。
街路樹の若葉が、風にきらきらと揺れている。
春だ。
誰の目にも、間違いなく春だった。
(……なのに、なんで私だけ、こんなに寒いっちゃろ)
膝の上に置いた鞄の持ち手を、白雪姫はぎゅっと握りしめた。
「白雪姫ちゃん、緊張してる?」
運転席から、施設の先生が柔らかく声をかけてくる。
入所した日から、何かと親身に世話を焼いてくれている女性職員だ。
「……少し」
「そっか。まあ、無理はせんでいいからね。しんどくなったら、いつでも保健室に行っていいって、先生方にもちゃんと伝えてあるけん」
「……はい」
本当は、少しどころではなかった。
心臓は朝からずっと嫌な速さで鳴りっぱなしだし、手のひらは汗で湿っている。
できることなら、このまま車が学校を通り過ぎてしまえばいいのに、とすら思っていた。
「今日は入学式やけん送っていくけど、明日からは自転車通学よ。……まあ、遠いっちゃけどね。天気の悪い日とかは、また私が送るから」
「……ありがとうございます」
やがて、車は細見町へ入る。
見慣れた田んぼ。
見慣れた坂道。
そして――見慣れた、校舎。
〝桜ケ丘小中学校〟。
宮崎県延岡市細見町にある、市立の小中一貫校だ。
全校生徒の数は多くない。一学年に一クラスしかない、こぢんまりとした学校である。
運動場の奥には、昼休みによく遊んだ〝さくらがおか〟と呼ばれる小高い丘が広がっていて、その手前には、見上げても頂上が見えないほど大きなイチイガシの大木が、校舎を見下ろすように聳え立っている。
傍らには、古びた旧校舎。
そして、もう運営を終えて廃園になった〝桜ケ丘幼稚園〟の建物が、静かに佇んでいた。
「――着いたよ」
車が停まる。
シートベルトを外す音が、やけに大きく響いた。
❆
校門をくぐった瞬間、白雪姫は妙な感覚に襲われた。
(……なんか、変な感じ)
去年まで、毎日のように通っていた場所だ。
どこに何があるのか、目をつぶってでも歩ける。そのはずなのに。
まるで、生まれて初めて訪れる、知らない学校の門をくぐっているような気がした。
(半年ぶりだから……? それとも――)
風が吹いて、白い髪がふわりと舞い上がる。
視界の端でひらめくその色に、白雪姫はきゅっと唇を噛んだ。
(……私が、こんなふうになっちゃったから、っちゃろか)
受付を済ませ、施設の先生とともに中学部の職員室へ向かう。
書類の提出や、今後の連絡についての手続きを済ませるためだった。
「失礼します」
ガラガラ、と扉を開ける。
その瞬間、職員室のざわめきが、すっと引いた。
教師たちの視線が、一斉に集まる。
驚き。
戸惑い。
そして、慌ててそれを隠そうとする、ぎこちない笑顔。
「……っ」
白雪姫は思わず肩をすくめ、先生の背中に半歩隠れた。
ただ一人、事情を聞かされていたらしい若い女性教師だけが、まっすぐに歩み寄ってきてくれた。
「柊野さん、おはよう。今日から一年一組の担任になります。よろしくね」
「……あ……よろしく、お願いします」
声は、ちゃんと出ただろうか。
手続きの間、白雪姫はずっと下を向いていた。
職員室を出ると、施設の先生が肩をぽん、と叩いた。
「私は入学式の準備で第一体育館の方に行っちょくね。また後で」
「……はい」
「あ、そうそう。――入学、おめでとう。白雪姫ちゃん」
そう言い残して、先生は行ってしまった。
残されたのは、静かな廊下と、白雪姫一人だけ。
中学部の校舎は、小学部の頃も行事で何度か使ったことがある。どの階に何の教室があるかは、だいたい頭に入っていた。
――だから、迷うことはない。
迷うことはないのに、階段を上る足は、鉛のように重かった。
❆
〝一年一組〟。
その札の下で、白雪姫の足はぴたりと止まった。
扉の向こうから、賑やかな声が漏れ聞こえてくる。
――久しぶりやね。
――同じクラスやん!
――中学の制服、なんか変な感じせん?
小学部からの、変わらない顔ぶれ。変わらない声。
(……開けたくない)
喉が渇いていた。
扉に手をかけたまま、白雪姫は動けなかった。
(開けたら、みんな、こっちを見る。……見て、それで――)
息が浅くなる。
このまま逃げてしまいたい。保健室に行って、気分が悪いと言えばいい。
そんな考えが頭をよぎる。
けれど。
(……逃げても、明日が来るだけ、やもんね)
勇気を出したのか、それとも諦めたのか。
自分でもよく分からないまま、白雪姫は震える手で、そっと扉を横に滑らせた。
――ガラガラ。
教室の音が、ぴたりと止まった。
約二十人分の視線が、一斉にこちらを向く。
「……っ、ぁ」
突き刺さるような沈黙。
覚悟していたはずなのに、白雪姫の身体は勝手に竦み上がった。
――気味悪い。
――なにあれ。
――かわいそう。
次に来る言葉を、白雪姫は目をつぶって待った。
けれど。
「――白雪姫ちゃんっ!」
「え……?」
弾かれたように顔を上げる。
窓際の席から立ち上がった女子が、こちらへ駆け寄ってきていた。
「よかったぁ、ほんとに来た! もう身体は大丈夫と⁉」
「あ、ずるい、私も言おうと思っちょったのに!」
「白雪姫ちゃん、席こっちよ!」
「なんかしんどくなったら、すぐ言ってね。荷物とか持つし」
――言葉が、降ってくる。
悪意ではなく。
好奇でもなく。
ただ、まっすぐな気遣いとして。
「…………え、と」
頭が、まったく追いつかなかった。
どうして。
どうして、誰も驚かないのだろう。
どうして、誰も、私の髪を見て顔を歪めないのだろう。
「あー、白雪姫ちゃん、びっくりしてる」
最初に駆け寄ってきた女子が、へへ、と笑った。
「あんな、先生が春休みに全員集めて、話してくれたとよ。白雪姫ちゃんが目を覚ましたこと。……その、事故のことも」
「……先生が……?」
「うん。髪とか目の色が変わっちょっけど、病気とかじゃないし、白雪姫ちゃんは白雪姫ちゃんやからって。……あと、めっちゃ頑張って戻ってくるんやから、みんなで待っちょってあげてって」
ぐらり、と視界が揺れた気がした。
――担任の先生。
さっき職員室で、まっすぐに歩み寄ってきてくれた、あの人。
(……先生が、私のために……?)
知らないところで、誰かが、自分のために準備をしていてくれた。
そんなことは、生まれて初めてだった。
よく見れば、クラスメイトたちの表情には、やっぱりどこかぎこちなさが残っている。
どう接すればいいのか、迷っているのが分かる。
――それでも。
誰一人として、白雪姫を気味悪がってはいなかった。
誰一人として、白雪姫から離れようとはしなかった。
「……っ」
胸の奥。
半年間、ずっと氷が張っていた場所に、ぽたりと、温かいものが落ちた気がした。
「……あの」
喉に力を込める。
病院を出てから、こんなに大きな声を出そうとしたのは初めてだった。
「……みんな……ありがとう」
小さな声だった。
けれど、確かに教室に届く声だった。
一瞬の静寂のあと、教室がわっと沸いた。
「うわ、白雪姫ちゃん喋った!」
「こら、失礼やろ!」
「ごめんごめん、なんか感動しちゃって……!」
(……変なの)
わあわあと騒ぐクラスメイトたちを見ながら、白雪姫は目元を擦った。
学校という場所が、ほんのちょっぴりだけ、怖くなくなった気がした。
――けれど。
この日の試練は、まだ終わっていなかった。
❆
入学式である。
クラスメイトはいい。事情を知っていてくれるから。
問題は、それ以外だ。
中学部の先輩たち。小学部の子どもたち。
そして――今日は、小学一年生の保護者と、中学一年生の保護者までもが体育館に集まっている。
生徒数が何百人もいるような学校なら、群衆に紛れることもできただろう。
けれど、この学校の人数では、一人一人の姿が嫌でも目立ってしまう。
(……やっぱり、無理かも)
入場を待つ廊下で、白雪姫は俯いていた。
そこへ、進行役の教師の声が響く。
「はい、中学一年生の皆さんは、小学一年生さんと手を繋いで入場しますよー! 二列に並んでくださいねー!」
「……手を、繋ぐ……?」
言われてみれば、去年もそうだった。
毎年恒例の、この学校の入場スタイルだ。
――でも。
ぱたぱたと小さな足音を立てて、ぶかぶかの制服を着た小学一年生たちが並んでいく。
やがて、白雪姫の隣にも、一人の女の子がちょこんと立った。
ランドセルよりも小さな肩。
真新しい上履き。
そして、その子は――じーっと、白雪姫を見上げていた。
白い髪を。
白いまつ毛を。
白い瞳を。
(……見られてる)
ぞわり、と背中が冷えた。
子どもの好奇心は、時に刃物よりも鋭い凶器になる。
悪意がないぶん、容赦がないのだ。
――お姉ちゃん、なんで白いの。
――こわい。
――おばけみたい。
白雪姫は、ぎゅっと目を閉じた。
言われる。
絶対に、言われる。
「――お姉ちゃん」
「……っ、はい」
「すっごく、きれいだね!」
「…………え?」
目を開ける。
女の子は、こぼれ落ちそうなくらい大きな目をきらきらさせて、白雪姫を見上げていた。
「お店に飾ってある、お人形さんみたい! 髪も、まつげも、ぜんぶ白くて、きらきらしてる!」
「…………」
「あのね、わたし、白いの、だいすき!」
そう言って、女の子は――他の新入生たちと同じように、ごく当たり前のように。
ぎゅっと、白雪姫の手を握った。
「……あ」
小さな、小さな手だった。
ぷにぷにと柔らかくて、少し汗ばんでいて。
そして、びっくりするほど、あたたかかった。
(……あったかい)
半年間、冷え切っていた指先に、その熱がじんわりと染み込んでいく。
胸の奥から、熱いものが込み上げてきた。
鼻の奥がつんとして、視界が滲む。
――嬉しい。
ただ、それだけの感情なのに。
どうしてこんなに、涙が出そうになるのだろう。
「……ふふ」
気づけば、白雪姫の口元は、綻んでいた。
あの日以来――両親の死を告げられたあの日以来、一度も浮かべることのできなかった、笑顔だった。
制服の裾が汚れるのも構わず、白雪姫はその場にしゃがみ込み、女の子と目線を合わせる。
「……ありがとう。あなた、優しいっちゃね」
「えへへ」
「私、柊野白雪姫。……今日は、よろしくね」
「うん! こゆきおねえちゃん、よろしくおねがいします!」
――繋いだ手から伝わる小さな勇気を、白雪姫は決して離さなかった。
❆
入学式は、つつがなく進んだ。
新入生入場の際、体育館にはたしかにざわめきが走った。
保護者席から、他学年の生徒たちから、白雪姫の白い髪に驚きの視線が向けられたのが分かった。
けれど、それは。
――パチパチパチパチ!
体育館いっぱいに響き渡る、盛大な拍手の音にかき消された。
誰かの囁きよりも、拍手のほうが、ずっとずっと大きかった。
(……大丈夫。歩ける)
繋いだ手をほんの少しだけ握り返して、白雪姫は前を向いて歩いた。
その後の教室での帰りの会も、白雪姫は最後まで乗り越えることができた。
❆
すべてが終わり、校門を出ると、施設の先生が待っていた。
「お疲れさま、白雪姫ちゃん。……どうやった?」
心配と優しさの入り混じった目で、そう問いかけてくる。
白雪姫は一度だけ、校庭の桜を見上げた。
ひらり、ひらりと、花びらが青空に舞っている。
「……すごく、怖かったです」
「……うん」
「でも」
白雪姫は先生の目をまっすぐに見て、静かに答えた。
「……来て、よかったです」
その言葉に、先生は心底ほっとしたように胸を撫で下ろし、柔らかく笑った。
「そっか。……そっかぁ」
そして、少し考えるような素振りを見せてから、こう続けた。
「ねえ、白雪姫ちゃん。せっかく細見町まで来たんやし……このまま、行縢町まで行ってみん?」
「……行縢……」
「白雪姫ちゃんのおうちから、生活用品とか思い出の品を持ち出す手筈になっちょったでしょ。今日は入学式で早く終わったし、時間もあるっちゃけど……どうやろ?」
その地名を聞いた瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
行縢町。
父と、母と、三人で暮らしていた家がある町。
少しの沈黙のあと、白雪姫は静かに頷いた。
「……行きたいです。お願いします」
❆
車は細見町を抜け、舞野町へ、そして行縢町へと走っていく。
車窓を流れる景色は、半年前と何一つ変わっていなかった。
青々とした山。
どこまでも続く田畑。
陽射しを弾いて光る、川の水面。
――あの家、いつ建ったんだろう。
――あの〝サトウ工務店〟の看板、昔は〝サトウエ務店〟って呼んでたっけ。
――この公民館でよく一人で遊んじょったっけ。
――ここの木、ちょっと伐られたっちゃ。
覚えている。
全部、覚えている。
自分の姿だけが変わってしまったのに、町はこんなにも、あの頃のままだった。
それが嬉しいような、少しだけ苦しいような、不思議な気持ちだった。
やがて車は、深い森に囲まれた集落へと入る。
近所に家は数軒しかない、静かな田舎町。
その一角に――柊野の家は、立っていた。
「……着いたわ」
車を降りる。
鳥のさえずりと、木々のざわめきだけが響いていた。
半年間、誰も手入れをしていない我が家。
庭の草は伸び放題になり、ポストからは色あせたチラシが数枚はみ出している。
「…………ただいま」
誰も答えない玄関に、白雪姫はそう呟いた。
鍵を開けて、中へ入る。
――ひやり、と。
沈んだ冷たい空気と、埃の匂いが鼻をついた。
かつて、家族三人の笑い声で満ちていたリビング。
今はただ、しん、と静まり返っている。
テーブルの上には、あの日のまま置きっぱなしになったマグカップ。
カレンダーは、半年前の月をめくったまま止まっていた。
時間だけが、この家に置き去りにされている。
「……お母さん、片付けんまま出かけたんやね」
白雪姫は薄く笑って、そっとマグカップに触れた。
冷たかった。
――と、その時。
リビングの棚に置かれた、一つの写真立てが目に留まった。
「……あ」
吸い寄せられるように歩み寄り、そっと手に取る。
指先で、うっすらと積もった埃を払った。
現れたのは――
満面の笑みを浮かべる父。
その隣で、少し照れくさそうに笑う母。
そして二人の間で、はしゃぐように笑っている、まだ髪の黒い、幼い日の自分。
「…………」
止まった。
息も、指も、思考も、全部が止まった。
――ああ。
埃をかぶった家。
止まったカレンダー。
冷たいマグカップ。
そして、写真の中で笑っている、二人。
それらがひとつに繋がって、逃げようのない現実が、白雪姫の胸をまっすぐに貫いた。
――本当に、いないんだ。
――お父さんも、お母さんも。もう、どこにも。
「……あ……」
喉の奥から、掠れた音が漏れた。
ぽたり、と。
写真立てのガラスの上に、雫が落ちる。
それが自分の涙だと気づくまでに、少しかかった。
「……っ、う……」
膝から、力が抜けた。
その場に崩れ落ち、白雪姫は写真立てを胸にきつく抱きしめる。
「うぁ……っ、あああぁぁぁぁっ……!」
――泣けた。
病院で両親の死を告げられて以来、白雪姫はずっと泣けなかった。
悲しむことも、嘆くことも忘れて、感情を失った人形のように過ごしてきた。
けれど今日、教室でクラスメイトの声に触れて。
小さな手のぬくもりに触れて。
固く閉ざされていた心の扉が、ほんの少しだけ、開いてしまったのだ。
その隙間から、半年分の悲しみが、濁流となって溢れ出す。
「お父さん……っ! お母さんっ……! なんで……なんでいなくなったの……っ‼」
誰もいない、汚れたリビング。
真っ白な少女は、小さな子どもに戻ったように、声を上げて泣きじゃくった。
ボロボロと零れる涙が、白い頬を伝い、抱きしめた写真立てを濡らしていく。
――でも。
激しい悲しみに引き裂かれながら、白雪姫の心の片隅で、微かな灯りのようなものが揺れていた。
(……この悲しさも)
あんなに怖かった教室の扉を、ほんの少しだけ開けられたように。
(……いつか、乗り越えられる日が……くるっちゃろか)
答えは、まだ出ない。
駆け寄ってきた施設の先生が、その小さな背中を、静かに、そして強く抱きしめる。
窓の外では、名前も知らない誰かが植えた庭の桜が、ひらひらと花びらを散らしていた。
――この平穏が、あと数時間で終わることを。
この時の白雪姫は、まだ知らない。
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