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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第01章:白雪の少女
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第01話:目覚め

 ――白(しろ)。


 視界のすべてが、白かった。


 雪のようでもあり、光のようでもある。

 どこまでも続くその白の中で、誰かが、遠くで、名前を呼んでいた気がした。


 ――ごめんなさい。


 ――どうか、どうか、あなただけは。


 誰の声だったのか、思い出せない。

 手を伸ばそうとした瞬間、白は音もなく崩れ、代わりに、ツンとした消毒液の匂いが鼻を突いた。





❆





「…………ぁ」


 喉から漏れたのは、声とも呼べない、掠(かす)れた息だった。


 ピ、ピ、と規則正しい電子音。

 まぶたを持ち上げると、蛍(けい)光(こう)灯(とう)の光と、染み一つない天井が目に飛び込んでくる。


(……ここ……どこ……?)


 少女――柊(ふき)野(の)白雪姫(こゆき)は、ぼんやりと視線を彷(さ)徨(まよ)わせた。


 薄いカーテン。点滴の袋。金属製のベッド柵。

 腕には管が繋がれていて、指先を動かすと、シーツがかさりと鳴った。


(私……なんで、こんなところで寝てるっちゃろ……?)


 思い出そうとする。


 けれど、記憶を辿(たど)ろうとすると、頭の中に厚い靄(もや)がかかって、そこから先へ進めない。

 昨日、自分が何をしていたのか。ここへ来る前、どこにいたのか。


 何一つ、出てこなかった。


「……ん、しょ……っ」


 ゆっくりと身体を起こそうとした、その時。


 カラカラ、と軽い音を立てて病室のドアが開いた。


「白雪姫(こゆき)ちゃん、失礼しますね。今日も点滴の――」


 入ってきたのは、検温のカートを押した看護師の女性だった。

 その足が、ぴたりと止まる。


 バサッ、と。


 抱えていたファイルが、床に落ちた。


「……え……あの……」


「――嘘……っ⁉ 白雪姫(こゆき)ちゃん⁉ 目、開いて……っ、意識が、戻って……⁉」


「あ、の……」


「先生! 先生っ! 誰か、先生を呼んでください!」


 白雪姫(こゆき)が何かを言う間もなく、看護師は廊下へ飛び出していった。

 バタバタと慌(あわ)ただしい足音と、切(せっ)羽(ぱ)詰(つ)まった声が、遠ざかっていく。


 残された病室で、白雪姫(こゆき)はぽつんと座り込んだまま、自分の手のひらを見つめていた。


(……先生って、なんの……? 私、そんなに、悪いと……?)


 やがて、白衣(はくい)の裾(すそ)を翻(ひるがえ)しながら、息を切らせた女性の主(しゅ)治(じ)医(い)が駆け込んできた。


「白雪姫(こゆき)ちゃん! 私の声、聞こえる⁉」


「……はい……聞こえ、ます」


「頭は痛くない? 気持ち悪さは? まぶしくない?」


「……大丈夫、です。ちょっと、声が……出しにくい、だけで……」


「良かった……本当に……!」


 主治医はへなへなとベッドの脇にしゃがみ込み、それから慌てて立ち上がって、ペンライトを取り出した。


「ごめんね、少し目を照らすわ。……うん、瞳(どう)孔(こう)の反応も正常。血圧測るからね。手、貸してもらえる?」


「……はい。……あの」


「なに?」


「ここ……どこ、ですか」


 主治医の手が、ほんのわずかに止まった。


「延(のべ)岡(おか)の、県病院よ」


「……病院……」


 宮(みや)崎(ざき)県延(のべ)岡(おか)市。

 自分が生まれ育った町の名前だ。それは分かる。分かるのに、なぜ自分がそこの病院にいるのかが、分からない。


 主治医と看護師は、手際よく検査を進めていく。

 体温、血圧、反射、握力。問(と)いかけと応(こた)え。淡々と積み上げられていくその作業の間、二人は何度も、白雪姫(こゆき)の顔ではない〝どこか〟に視線をやっていた。


 ――正確には、白雪姫(こゆき)の、髪に。


「……信じられないわ」


 一通りの診察を終えて、主治医は深く息を吐いた。


「半年間の遷(せん)延(えん)性(せい)意識障害……所(いわ)謂(ゆる)、植物状態だったのよ、あなた。それが、突然こんな風に……。反射も、呼吸も、受け答えも、全部が正常。……一点を、除いて」


「……一点……?」


 主治医と看護師が、目配せを交わした。


 看護師はしばらく逡(しゅん)巡(じゅん)していたが、やがて覚悟を決めたように引き出しを開け、小さな手鏡を取り出した。


「白雪姫(こゆき)ちゃん。……驚かないで、聞いてね」


 差し出された鏡。


「これを、見てもらえるかな」


「……鏡? 私、顔になにか……」


 言いながら、白雪姫(こゆき)は何気なくそれを覗(のぞ)き込んで――




 息が、止まった。




「…………だれ」


 そこに映っていたのは、知らない誰かだった。


 肩までしかなかったはずの髪は、腰に届くほど長く伸びていた。

 そして、その一筋残らず――真(ま)っ白(しろ)だった。


 眉も。

 まつ毛も。

 焦(こ)げ茶色だったはずの瞳さえも。


 まるで色という色を、根こそぎ抜き取られてしまったかのような、雪の色。


「……なに、これ……」


 鏡を持つ手が、震え出す。


「なにこれ……っ、私の髪……っ、目も……っ、なんで……⁉」


「落ち着いて、白雪姫(こゆき)ちゃん。ゆっくり息を吸って」


「答えてくださいっ! なんで私、こんな……こんな、化(ば)け物(もの)みたいに……っ!」


「――昨日の検査の時点では、あなたの髪は黒かったの」


 主治医の言葉に、白雪姫(こゆき)の動きが止まった。


「え……」


「本当よ。カルテにも記録が残ってる。だから、色が抜けたのは……あなたが目を覚ます、ほんの数時間の間の出来事なの」


「そんな……そんなこと……」


「血液検査、脳波、CT、全部見たわ。異常はどこにもない。色素が抜けたことで、身体に害が出ている様子もないの」


 主治医は、そっと白雪姫(こゆき)の肩に手を置いた。


「見た目が変わってしまったこと以外……あなたの身体は、奇跡みたいに健康なのよ」


「健康……?」


 ぽつり、と白雪姫(こゆき)は呟(つぶや)いた。


(こんなに、真っ白になってしまったのに?)


 自分の髪を一房、指ですくってみる。


 さらさらとした感触が指先を滑っていく。間違いなく自分の髪だ。自分の髪のはずなのに、まるで他人のものに触れているようだった。


 頭が、追いつかない。


 そして、そんな白雪姫(こゆき)に、主治医はさらに重たい口を開いた。

 その顔から、労(いた)わりの笑みが消えていく。


「……白雪姫(こゆき)ちゃん。もう一つ、話さなきゃいけないことがあるの」


「……」


「あなたが、どうして半年もここで眠っていたのか。……その理由よ」


 病室の空気が、ずしりと重くなった気がした。


「……私に、何が、あったんですか」


 自分でも驚くほど、小さな声だった。


 主治医は一度目を伏せ、それから、まっすぐに白雪姫(こゆき)を見つめ返した。


「半年前――あなたはご両親と一緒に、車に乗っていたの。その車が、事故に……とても、痛ましい事故に遭(あ)ったのよ」


「……事故」


「あなたは一命を取り留めた。……でも、そのまま意識が戻らなくなってしまった」


「……お父さんと、お母さんは」


 言葉が、勝手に口から零(こぼ)れていた。


 主治医は、答えなかった。


「……先生」


 答えられなかったのだ。


「お父さんと、お母さんは、どこですか」


「…………ごめんなさい」


 絞り出すような、声だった。


「搬送された時には、もう……。二人とも、即死だったの」


 ――そくし。


 その言葉の意味を理解するのに、たっぷり十秒はかかった。


 時間が止まった。


 主治医の唇が動いている。看護師が何か言っている。

 なのに、音が、意味を結ばない。


 耳の奥で、キーン、と甲高い音が鳴っていた。


「……嘘」


 白雪姫(こゆき)の白い瞳が、ゆっくりと見開かれる。


「……嘘、ですよね……? だって、朝ごはんの時……お母さん、卵焼き、焦がして……お父さんが笑って……」


 思い出せる。

 ちゃんと、思い出せるのに。


「白雪姫(こゆき)ちゃん――」


「嘘って言って! 嘘だって言ってよっ‼」


 叫んだ瞬間、堰が切れた。


「お父さん‼ お母さんっ‼ ……いやだ、いやだよぉ……っ、なんで……なんでっ……!」


 シーツを掻(か)きむしり、白雪姫(こゆき)は声を限りに泣き叫んだ。


 看護師が慌ててその小さな身体を抱きしめる。主治医が背中をさすっている。

 けれど、その温もりは、何一つ白雪姫(こゆき)には届かなかった。


 ――友達は、いない。


 引っ込み思案で、教室ではいつも一人だった。休み時間は本を読むふりをして、机の木目を数えていた。


 ――頼れる親戚も、いない。


 父も母も、それぞれ遠(とお)縁(えん)しかいないと言っていた。年賀状すら来ない家だった。


 だから、あの二人だけが。

 あの二人だけが、白雪姫(こゆき)の世界のすべてだった。


(……私、ひとりになったんだ)


 白い髪が、涙で頬に貼(は)りついた。


(真っ白で、気持ち悪くて、ひとりぼっちの、私だけが……残っちゃったんだ)


 窓の外では、穏(おだ)やかな午後の日差しが、何事もなかったかのように町を照らしていた。





❆





 その日を境に、白雪姫(こゆき)は口を閉ざした。


「白雪姫(こゆき)ちゃん、ごはんだよ。少しでも食べようね」


「…………」


 運ばれてきた食事は、残さず食べた。

 けれどそれは、味わうためではなく、生きるための作業だった。冷めた白米を、機械のように口へ運ぶ。


「どこか痛いところとか、苦しいところはない?」


「……ないです」


「そっか。何かあったら、すぐナースコールを押してね」


「……はい」


 必要最低限の言葉以外、彼女は何も発しなくなった。


 心の扉に、重い錠前を下ろしてしまったのだ。


 経過観察のための入院生活は、静かに過ぎていった。


 本来、半年も寝たきりであれば、筋肉は萎(い)縮(しゅく)し、立ち上がることすら困難なはずだった。車椅子生活と、気の遠くなるようなリハビリが待っているはずだった。


 だが。


「白雪姫(こゆき)ちゃん、ちょっと立ってみてくれる?」


 言われるまま、白雪姫(こゆき)はベッドから降り、床に足をつけた。


 ふらつきは、なかった。


「……そのまま、廊下の端まで歩いてみて」


 すたすたと、白雪姫(こゆき)は歩いた。


 まるで、昨日まで普通に登校していたかのように。


「…………ありえない」


 背後で、主治医が呆然と呟(つぶや)いていた。




 ――そして、約三ヶ月後。


「医学的には、まったく説明がつかないわ」


 退院の日、主治医は診断書を差し出しながら、困(こま)り果てたように苦笑した。


「精密検査も、脳波も、血液も、全部が完璧な正常値なの。髪と瞳の色以外、あなたはどこも悪くない。……これ以上、病院であなたにしてあげられる治療がないのよ」


「……はい」


「何か少しでも変わったことがあったら、すぐに来るのよ。約(やく)束(そく)して」


「……はい。ありがとう、ございました」


 ぺこりと頭を下げた白雪姫(こゆき)の白い瞳には、光が宿っていなかった。





❆





 身寄りのない十二歳の少女に、帰る家などあるはずもなかった。


 白雪姫(こゆき)が引き取られたのは、延(のべ)岡(おか)市内にある児童養護施設だった。


「今日からここで暮らすことになった、柊(ふき)野(の)白雪姫(こゆき)ちゃんです。みんな、仲良くしてあげてね」


 職員の紹介に、白雪姫(こゆき)は小さく頭を下げた。


 ――ざわり、と。


 子どもたちの間に、波(は)紋(もん)のようなざわめきが広がる。


「……ねえ、あの子の髪、真っ白やない?」

「おばあちゃんみたい」

「目まで白いよ。こわ……」


 聞こえていた。


 全部、聞こえていた。


 けれど白雪姫(こゆき)は、俯(うつむ)いたまま何も言わなかった。


「ねえ、お姉ちゃん。なんでそんなに髪が白いと? 絵の具でも塗ったと?」


「…………」


「ねえってば。なんで喋らんの?」


「こら! そういうこと言わんの! ……ごめんね、白雪姫(こゆき)ちゃん」


 大人たちは、みんな親切だった。


 〝かわいそうな子〟として親(しん)身(み)に接してくれる職員もいたし、淡(たん)々(たん)と事務的に世話を焼いてくれる職員もいた。


 けれど、白雪姫(こゆき)はもう、誰にも心を開かなかった。


 与えられた小さな部屋の隅で、真っ白な少女が膝を抱えて座り込んでいる。

 その姿は、賑(にぎ)やかな施設の中で、そこだけ季節を間違えた雪だるまのように、ぽつんと浮いていた。





❆





 ――それでも、時間は無情に流れていく。


 施設にやってきてから、十日ほどが過ぎた。


 カレンダーは四月をめくり、外の空気には、柔(やわ)らかな春(はる)の匂いが混じり始めていた。


 そして今日、十二歳の白雪姫(こゆき)は、中学校の入学式を迎える。


 通うのは――〝桜(さくら)ケ(が)丘(おか)小中学校〟。


 桜ケ丘と呼ばれる丘を背負い、見上げても頂上が見えないほど大きなイチイガシの大木が校舎を見下ろす、自然豊かな小中一貫校だ。


 本来なら、施設から近い中学校へ通うのが筋だろう。

 だが、白雪姫(こゆき)の心の状態と、あまりにも大きすぎる見た目の変化を考慮して、環境だけは変えないほうがいい――そう判断されたのだと、職員が言っていた。


 つまり、校舎も、通学路も、同級生も、去年までと何一つ変わらない。


 変わってしまったのは、自分だけだ。


「…………」


 小さな部屋の姿(すがた)見(み)の前で、白雪姫(こゆき)は新品の制服に袖を通していた。


 紺(こん)色(いろ)のセーラー服。

 真新しい赤のスカーフ。


 サイズはぴったりのはずなのに、鏡に映るその姿は、どうしようもなく歪(いびつ)に見えた。


 白い髪。

 白い眉。

 雪の結晶みたいな、白いまつ毛。

 そして、何の感情も浮かんでいない、白い瞳。


 紺色の制服が、その白さを、これでもかというほど際立たせていた。


「……桜の季節、なのにね」


 窓の外に目をやる。


 施設の庭の桜が、風にほろほろと花びらを散らしていた。

 薄紅色。若草色。空の水色。


 世界はこんなにも、暖かい色であふれているのに。


(……私だけ、置いていかれてる)


 あの日から。

 半年前のあの日から、自分だけが、ずっと冬の中に立ち尽くしている。


 ふと、鞄の中の封筒が目に入った。


 〝学校提出用〟と書かれた、それ。


 退院の日に、主治医が気を利かせて書いてくれた診断書だ。

 〝色素異常。原因不明の変色であり、意図的な染髪ではない〟――そう記された、たった一枚の紙切れ。


 染髪禁止の校則に、引(ひ)っかからないための。


「……これがあれば、怒られはしないって」


 封筒を、ぎゅっと握りしめる。


 けれど、問題は、そこじゃない。


(……みんな、私を見たら、なんて言うっちゃろ)


 まぶたの裏に、去年までのクラスメイトの顔が浮かぶ。


 ――ねえ見て、白雪姫(こゆき)さんの髪、真っ白。

 ――目まで白いよ、なんか怖くない?

 ――事故で親が死んだショックで、ああなったんだって。


 想像しただけで、指先が冷たくなった。


 もともと友達なんて一人もいない。話しかけてくれる人もいない。

 そんな自分が、この姿で、あの教室のドアを開ける。


「……っ、無理……」


 膝が、笑い始めていた。


「怖い……学校、行きたくない……っ」


 誰も、答えてはくれない。


 施設の廊下から、他の子どもたちの賑(にぎ)やかな声が聞こえてくる。時計の針は、容(よう)赦(しゃ)なく登校時刻へ近づいていた。


 ――と。


 その時。


 ふわり、と。


 開いた窓から、一枚の桜の花びらが舞い込んできた。


 それは春の風に乗って、真っ白な少女の目の前を、ゆっくりと横切っていく。


「…………あ」


 思わず、手を伸ばした。


 その瞬間。


 ――どくん、と。


 心臓が、大きく脈打った。


「……え……?」


 胸の奥。

 ずっと空っぽだったはずのそこが、なぜか、じんわりと温かい。


 まるで、自分の中に、もう一人、誰かがいるみたいに。


「……なに、今の……」


 白雪姫(こゆき)は胸元を押さえたまま、しばらく動けなかった。


 差し込む朝の光。

 舞い落ちる花びら。

 鏡の中で、白い少女が、不思議そうに首をかしげている。


 やがて、白雪姫(こゆき)は小さく息を吐いた。


「……行かなきゃ」


 震える手で鞄を持ち、ドアノブに指をかける。


 ――この日が、自分の運命を根こそぎ変える一日になることを。


 この時の白雪姫(こゆき)は、まだ何も知らなかった。





ここまで読んでいただきありがとうございます!

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