序章:櫻散る
――神は、死なない。
永劫の時を生き、世界の理を司る者たちに、終わりという概念は存在しない。
……ただ、たった一つの例外を除いて。
その例外の名を、〝神殺しの刑〟という。
――今から、およそ千年前。
数多の国から集った神々が住まう世界――〝神界〟。
その中央に聳え立つ〝罪人の丘〟の頂に、一柱の神が磔にされていた。
風が吹く。
腰まで届く長い髪が、白銀の糸のように靡いた。
白と朱を基調に、綻びかけの桜の意匠をあしらった巫女装束。両の手首を戒める光の枷。そして、透き通るような桜色の瞳。
――椿宮白櫻姫神。
人間界にその名を知る者は全くと言っていいほどいない。神々の間では白櫻姫と呼ばれる、まだ年端もいかぬ少女の姿をした新米の神だった。
「……惜しいな。せっかく神の座に連なったばかりだというのに」
「同情するな。あれの魂に何が刻まれているのか、忘れたわけではあるまい」
丘を取り囲む神々が、囁きを交わす。
主神の位に在る者から、名も知られぬ末席の小神まで。国も信仰も違う神々が、今日ばかりは同じ場所に肩を並べていた。
「聞いた話では、あれはかつて人の身であったそうだ。人間界に生まれた神子の娘が、人間界を滅ぼしかねないほどの強力な魔神を討ち果たして神へと昇った……たったの百年前の話だぞ」
「それほどの魔神を、たった一人でか?」
「ああ。だが――代償として、その魂に〝魔神の断片〟を刻み込まれた」
その一言で、辺りの空気が凍った。
「……我らの誰一人として、あれを浄化することはできなかった。断片が芽吹けば、次に生まれるのは神界の内側から世界を蝕む災いだ」
「ならば、答えは一つしかあるまい」
神々の視線が、一斉に丘の頂へと注がれる。
磔にされた少女は、うつむいたまま、何も言わなかった。
ただ静かに、自らを裁く声を受け入れているようだった。
❆
カツン、と。
石の階段を踏む音が、静寂を裂いた。
丘を登ってくる、眩いばかりの白い絹衣。腰まで流れる漆黒の髪は、赤と金の組紐と勾玉の髪飾りで結わえられている。
歩みに合わせて、その身から零れる光が、丘の石畳を淡く照らした。
――〝天照大神〟。
日本の主神にして、太陽を司る女神。
そして、この日の処刑の――執行人だった。
「……白櫻姫よ」
凛とした声が、わずかに震えていた。
少女がゆっくりと顔を上げる。
桜色の瞳が、女神の姿を映した。
「天照様」
少女は、微笑んだ。
これから殺される者の顔ではなかった。まるで、いつも通りの朝の挨拶を交わすかのような、穏やかな笑みだった。
「……わざわざ、あなた様がお越しくださるとは。恐れ多いことでございます」
「たわけたことを申すな」
天照の眉間が、苦しげに寄せられる。
この百年、この少女の世話を焼いてきたのは自分だった。
箸の上げ下ろしから、神としての心構え、神術の手ほどきに至るまで。厳しく叱り、時に褒め、ともに笑ってきた百年だった。
(……助けたい)
胸の内で、声がした。
(今すぐこの枷を砕き、この子を抱えて、誰も知らぬ場所へ逃げてしまえたら)
できるはずだった。
主神たる自分の力をもってすれば、この場から少女を連れ去ることなど造作もない。
だが――。
背後から突き刺さる、無数の冷たい視線。
ここで情に流されれば、神界は真っ二つに割れる。神々の戦は世界そのものを砕き、結果として、この子も、人間界も、何一つ救われない。
握りしめた拳の中で、爪が掌に食い込んでいた。
「……怨むか」
天照は、絞り出すように問うた。
「お前を救えぬ、この不甲斐ない師を。……怨んでよいのだぞ」
「まさか」
白櫻姫は、静かに首を横に振った。
「わたくしがこの百年、心穏やかに過ごせたのは、天照様がいてくださったからです。……人であった頃のわたくしは、髪も、瞳も、力も、何もかもが人と違いました。誰もが、わたくしを化け物を見る目で見ていた」
少女の声は、あくまで柔らかかった。
「けれど、あなた様だけは、わたくしを〝子ども〟として扱ってくださいました。……あの日々があっただけで、わたくしはもう、じゅうぶんでございます」
「白櫻姫……!」
「わたくしの魂に眠るものが、いつか天照様や、この神界に災いをもたらすというのなら」
少女は、まっすぐに女神を見つめた。
「――この命、喜んで差し出します」
その瞳に、迷いはなかった。
「……なぜだ」
天照の声が、掠れる。
「お前は、世界を救うために戦ったのだぞ。人の身で魔神に挑み、勝ち、その果てに何を得た? ……たったの百年ではないか。神の寿からすれば、瞬きほどの時間ではないか!」
「天照様」
少女は、そっと目を伏せた。
「……一つだけ、我儘を申してもよろしいでしょうか」
「……申せ」
「人間界に、紅葉という娘がおります。わたくしの、たった一人の友でした」
風が、少女の白い髪を撫でていく。
「あの子とは、別れの言葉すら交わせないままでした。……もし、いつか。あの子がまだあの空の下で笑っているのなら――どうか、少しだけ、幸せであるようにと」
少女は顔を上げ、もう一度微笑んだ。
「それだけが、心残りでございます」
天照の瞳から、一筋の涙が頬を伝った。
「おい、天照! 馴れ合いはそこまでだ!」
「同郷の情に絆されるな! 早く刑を執行しろ!」
「断片が目を覚ましたらどうする気だ!」
丘の下から、怒号が飛ぶ。
もはや、一刻の猶予も残されてはいなかった。
天照は、ゆっくりと右手を掲げた。
「…………神器顕現」
眩い光が収束し、天照の手に一振りの刀を形作る。
神器〈光臨の陽刀〉――太陽そのものを鍛え上げたかのような、白金の刃。天照の魂に宿る、太陽神に相応しい神器だ。
その切っ先が、少女の胸元へと向けられる。
「……さらばだ。我が、愛しき弟子よ」
「はい」
白櫻姫は、ふわりと笑った。
「――行ってまいります、天照様。今日まで、本当に、ありがとうございました」
それは、満開の桜のような笑顔だった。
――ザクリ。
「――っ、あぁぁぁぁぁぁっ……!」
絶叫したのは、刺された少女ではなく、刺した女神のほうだった。
少女の身体が、端から光の粒子となって解けていく。
痛みに歪む顔一つ見せず、最後の瞬間まで、白櫻姫はただ穏やかに微笑んでいた。
そして――消えた。
その場に残ったのは、無数の桜の花弁だった。
どこから舞い込んだのかも分からない。神界に、桜の木など一本たりとも生えてはいないというのに。
桜色の花弁は、少女が磔にされていた石畳の上へ、敷物のようにしんしんと降り積もっていく。
それはあまりにも美しく――そして、春の終わりを告げるには、あまりにも静かすぎた。
「……終わったな」
「これで神界は安泰だ」
安堵の息をつき、神々は一柱、また一柱と丘を去っていく。
誰もいなくなった処刑場で、天照はその場に崩れ落ちた。
両手いっぱいに花弁をかき集め、胸に抱きしめる。
「……すまぬ……すまぬ、白櫻姫……っ」
嗚咽が、光の丘に響いた。
――その時。
うずくまる女神の傍らで、一枚の花弁が、風もないのに、ふわりと舞い上がった。
それは降り積もる花弁の群れから離れ、ゆっくりと、ゆっくりと。
まるで何かに引かれるように、遥か眼下の――人間界へと、落ちていった。
涙に暮れる天照は、それに気付かない。
その場に居合わせた神も、もはや一柱として残ってはいなかった。
誰にも看取られぬまま、白い光の欠片は、千年の闇の中へと堕ちていく。
――それから、月日は流れ。
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