第06話:再会
――轟、と。
大気が、軋んだ。
黒華の小さな体を芯にして、黒紫の瘴気が渦を巻いている。
それは煙のようでいて、煙ではなかった。
重く、粘り、地を這うように広がって、道の両脇の下草を根元から薙ぎ倒していく。
杉の枝が一斉に撓り、葉が擦れて悲鳴のような音を立てた。
――威圧している。
この山そのものを。たった五歳の、子供が。
「……ぁ……ぅ……」
当の黒華は、両手で頭を抱えて震えていた。
目は開いている。だが、何も映してはいない。
瞼の裏に焼き付いた橙色が、どうしても消えてくれないのだ。
カーテンを舐め上げる、あの炎。
覆い被さってきた、母の背中。
――熱い。熱い。
――触るな‼
(……ちがう……ちがうの……)
言葉にならない声が、喉の奥で潰れる。
(わたし、もうやってない……いい子にしてたもん……)
その否定が強くなるほどに。
黒紫の渦は、勢いを増していった。
❆
「――‼」
最初に反応したのは、紅葉の周りにいた狼たちだった。
白く濁った目が、一斉に紅葉から逸れる。
鼻先が、黒華の方へ向いた。
――獣の貌に、歓喜が浮かんでいた。
「黒華ちゃん‼」
翠織は叫び、小さな体を背へ庇った。
同時に、深く息を吸う。
臍の下。魂の在り処から、霊力を汲み上げる。
両脚へ。両腕へ。指の先まで。
――身体強化。
巡らせた霊力が、緑色の淡い光となって肌の上を走った。
「――ふっ‼」
飛びかかってきた一頭の顎を、下から蹴り上げる。
鈍い音とともに、黒い体が宙で捻じれた。
地に落ちる前に、続けざまに二頭目。
伸ばした手のひらが、その額を捉える。
――破魔。
悪しきものを打ち破り、追い払う。八雲翠織という神子に宿った力は、文字通りそういう力だ。
込めた霊力が触れた瞬間、狼の頭が内側から弾けるように崩れ、黒い霧となって散華した。
(――弓は、駄目)
奥歯を噛みながら、翠織は判断する。
彼女の神器は、背丈ほどもある大弓だ。
射線を確保し、狙いを定め、矢をつがえて引き絞る――そういう戦い方をする武器である。
こんな、四方をぐるりと囲まれて、背中に子供を張り付かせた状態で振り回せるものではない。
(……この子から、一歩も離れられないんだもの)
選択肢は、端から一つしかなかった。
❆
狼は、次から次へと湧いてきた。
紅葉が相手にしていた個体だけではない。
斜面の上から。藪の奥から。倒木の陰から。
まるで、地面そのものが黒い獣を産み落としているかのようだった。
「翠織さん‼ そっちに三体――‼」
紅葉の声が飛ぶ。
炎が走り、迫っていた一頭が横薙ぎに焼き払われた。
だが、その紅葉もまた、倒すたびに立ち昇る紫の靄を胸に吸い込まされている。
一頭焼くごとに、彼女の膝は確実に落ちていた。
「……っ、ええ‼ こっちは大丈夫‼」
叫び返しながら、翠織は三頭目の牙を肘で受け流す。
袖が裂けた。腕に、熱い線が走る。
構っていられない。
振り向きざまの蹴りで一頭を木に激突させ、そのまま反転して、黒華へ伸びていた前足を掴み、投げ飛ばす。
――倒しても、倒しても。
数が、減らない。
(……ああ、そういうこと)
息を切らせながら、翠織はようやく理解した。
新しく現れる狼たちは、どこか遠くから走ってきているのではない。
この場で、生まれているのだ。
――魔物とは、魔力異常の生じた土地で、彷徨う獣の魂が浸蝕されて生まれる存在。
であれば、答えは一つしかない。
(この子の魔力が――糧になってる)
背中に張り付いた小さな体が、震えるたびに黒紫を吐き出す。
その一吹きごとに、森のどこかで新しい獣が目を開ける。
(つまり、今のこの子は……)
思い浮かんだ言葉を、翠織は口に出さなかった。
出してしまえば、認めることになる気がしたからだ。
――黒華という女の子そのものが、歩く魔力異常である、と。
連れてくるべきではなかった、と思ったのは。
この子が怯えるからでも、足手纏いになるからでもない。
この子がいる場所が、そのまま戦場になってしまうからだ。
(結界が張ってある、施設の中か神社へ置いておくのが無難だった……一体、何者なの。この子は)
人間でありながら、魔力を宿し。
恐怖ひとつで、山ひとつ分の魔物を呼び寄せる。
魔蝕者でもない。魔神でもない。
そんな存在を、翠織は聞いたことがなかった。
「――っ、はぁ……っ」
頭の片隅で疑問を転がしながら、なおも腕を振るう。
だが。
指先が、痺れ始めていた。
巡らせていた霊力の光が、じりじりと薄れていく。
(……もたない)
霊力量は一般的。相克庭の中でも、可もなく不可もなくといったところだ。
統括と指導に専念してきた身で、これだけの数を捌き続けるのは、端から無理があった。
(このままじゃ――)
――その、思考の隙間を縫うように。
一頭が、地を這うように低く滑り込んできた。
翠織の死角。
その先には、頭を抱えて蹲る、小さな背中。
「――しまっ……‼」
声が、間に合わない。
白く濁った目が、黒華を捉える。
開いた顎が、幼い肩へ届く――その、直前。
――空が、白く爆ぜた。
「――そこどいてっ‼」
真上から。
杉の枝を蹴った白い影が、隕石のような速度で落ちてきた。
両足が、狼の首筋に突き刺さる。
路面に叩きつけられた黒い体が、一拍遅れて霧となって散った。
舞い上がった土煙の中。
ひらり、と白銀の髪が翻る。
セーラー服の襟を風に遊ばせながら、その少女は着地と同時に膝を折り、黒華の顔を覗き込んだ。
「大丈夫⁉ 黒華ちゃん‼」
「…………」
陽だまりのような焦げ茶色の瞳が、ゆっくりと焦点を結ぶ。
白い髪。白い瞳。
春の陽射しみたいに、あたたかい手のひら。
「……お、ねえ……ちゃん……」
張り詰めていた小さな肩から、糸が切れたように力が抜けた。
黒華は、縋るように白い袖を掴む。
「うん。……ごめんね、遅くなって」
白雪姫は、その手を握り返した。
❆
「――白雪姫ちゃん⁉」
翠織の声が、裏返っていた。
無理もない。
腕時計の針は、十六時を少し回ったところ。
確かに、桜ケ丘小中学校の授業はとうに終わっている時間だ。
だが、細見町からここまでは、自転車で小一時間。
どう考えても、早すぎる。
「どうしてここに――‼」
「だって」
白雪姫は、何でもないことのように答えた。
「早く帰ってくるって、黒華ちゃんと約束したから」
「……え」
「今朝、いい子にしててねって言ったの、私だもん。……私が遅れたら、嘘つきになっちゃう」
翠織は、一瞬言葉を失った。
「……それにしたって、どうやって」
「道の下にある橋のあたりで、紅葉ちゃんの霊力が迸るのを感じたんです」
白雪姫は、後ろの山道を指さす。
「そこからは、自転車じゃ間に合わないと思って。……ごめんなさい、道の途中に乗り捨ててきちゃいました」
「乗り捨てって、あなた……」
「坂道を走ると、どうしても遅くなるから」
少女は、困ったように笑った。
「だから、木の上を通ってきたんです。枝から枝へ跳んだ方が、ずっと真っ直ぐ来られるので」
――だから、上空から降ってきたのか。
翠織は、眩暈を堪えるように額を押さえた。
「蒼波ちゃんは、今日日直で。日誌を書いたりとかいろいろあるから、それをして帰るって言ってました」
「……そう。それは、不幸中の幸いね」
翠織は、深々と息を吐いた。
――そして、気付く。
風向きが、変わっていた。
あれほど吹き荒れていた黒紫の渦が、潮が引くように静まっていく。
黒華の頬に浮かんでいた文様も、薄い墨のように滲んで消えかけている。
――安心したのだ。
この子は、白雪姫の顔を見ただけで。
それに応じて、森からの湧き出しも止まっていた。
残っているのは、すでにこちらに出てきた分だけ。
それでも、十体を下らないが。
「黒華ちゃん」
白雪姫は、しゃがんだまま目線を合わせた。
「先生の近くにいて。絶対に、離れちゃだめだよ」
「……お、おねえちゃんは?」
「私は、ちょっとだけ行ってくる」
小さな手が、袖を掴む力を強めた。
白雪姫はその手をそっと解いて、代わりに小指だけを絡める。
「大丈夫。すぐ戻るから」
黒華は、しばらく俯いて。
それから、こくん、と頷いた。
❆
紅葉は、道の中ほどで片膝をついていた。
顔は青白く、額には玉の汗。
黒曜石の瞳が、焦点を失いかけている。
「――紅葉ちゃん」
「……白雪姫」
顔を上げた紅葉は、無理に口角を上げた。
「早かったわね。……ごめんなさい、情けないところを見せて」
「大丈夫?」
白雪姫の問いに、紅葉は少しだけ黙った。
嘘をつこうとして、諦めたような間だった。
「……少し、きついかも」
やはり、と白雪姫は思う。
昨夜、精神世界で聞いたばかりだった。
(……白櫻姫ちゃん)
――白櫻姫曰く。
魂に刻まれた〝魔神の断片〟は、器のようなものであると。
零れた魔力を吸い、溜め、満ちれば溢れる。
『――ええ。視えております』
胸の奥で、涼やかな声が響いた。
『あの子の中の濁りは、港神社の夜ほどではないにしろ、かなりの量が溜まっております。……これ以上は、危のうございます』
(……うん)
白雪姫は、紅葉の前に立った。
そして、真っ直ぐに言った。
「紅葉ちゃん。翠織先生と一緒に、下がっていて」
「…………は?」
紅葉の目が、見開かれる。
「待って。何を言っているの、あなた」
膝に力を入れて、無理やり立ち上がろうとする。
「見なさいよ、あの数を。神器も出せない、霊術も撃てないあなたが、一人で――」
「うん。だから、体だけで倒す」
あっさりと。
まるで、夕飯の献立でも決めるような口調だった。
「……あなたね」
「紅葉ちゃんが一体倒すたびに、紅葉ちゃんの中に溜まっていくんでしょう。……それって、私が代わればいいだけだよね」
――言葉に、詰まった。
確かに、白雪姫が倒せば、瘴気は風に乗ってどこかへ流れていくだけだ。
いずれ、どこかで新しい魔物になる。
それは、千年前から変わらない、この世界のありふれた循環。
――今日、この場で、紅葉の中に爆弾を積み上げるよりは、ずっといい。
「…………」
紅葉が黙り込むと、白雪姫はふっと表情を崩した。
怯えでも、気負いでもない。
どこか悪戯っぽい、それでいて勇ましい笑顔だった。
「それにね」
白い瞳が、狼の群れを見据える。
「この子たちには、ちょっとばかりやり返さないと、気が済まないから」
――紅葉は、その顔をじっと見つめた。
千年生きて、数えきれないほどの神子を見てきた。
その中で、こういう顔をする子は、たった一人しか知らない。
(……本当に、似てるわね)
「……分かったわ」
紅葉は、肩の力を抜いた。
「任せる。……無茶はしないで」
「うん。行ってきます」
紅葉は、ふらつく足で翠織のもとへ下がっていった。
❆
白い少女が、ただ一人。
黒い獣の輪が、それをぐるりと取り囲む。
――狼の魔物。
あの夜、行縢神社からの帰り道で、彼女を喰い殺しかけた連中。
もっとも、個体は違うだろう。あの時のものは、白櫻姫の手ですべて散った。
それでも――久しぶりに、両者は向かい合っていた。
あの時は、逃げることしかできなかった。
息が切れて、足がもつれて、土の上を転がって。
――今は。
白雪姫は、静かに構えた。
半身。爪先を内へ。膝は柔らかく。
足の裏に、霊力を薄く敷く。
――咆哮。
黒い獣が、一斉に地を蹴った。
❆
――白雪姫は、すごかった。
正面から飛びかかってきた一頭。
その牙を、半歩だけ懐へ潜り込むことで外す。
避けるのではない。入るのだ。
相手の間合いの内側は、牙も爪も届かない死角になる。
――白櫻姫が、毎晩嫌というほど叩き込んできた足捌き。
そのまま体を沈め、伸び上がる勢いで掌底を突き上げた。
顎を跳ね上げられた狼が、宙で無様に仰け反る。
着地を待たず、白雪姫はもう次へ動いていた。
背後から来た二頭目の前足を掴み、自らの回転に巻き込んで、三頭目へ叩きつける。
まだ拙い。
まだ荒い。
白櫻姫のそれが水面を滑る舞だとするなら、白雪姫のそれは、必死に真似る子供の手遊びだ。
――それでも、形になっている。
(……ええ。間違いありません)
胸の奥から、白櫻姫はその戦いを視つめていた。
(この子は、自然の中で遊んで育った子)
思い出すのは、先々週の行縢山。
訓練を兼ねた登山で、白雪姫は確かに息を切らしていた。
それでも、その足取りだけは、終いまで乱れなかったのだ。
濡れた岩の斜面に足をかけるとき、足首を絶妙な角度に捻って滑りを殺す。
バランスを崩しかければ、考えるより先に傍らの幹へ手が伸び、それを支点にくるりと体を捻って立て直す。
ぬかるみを避け、木の根の隙間を選び、無駄のない歩幅で登っていく。
――蒼波は、終いには呆れ半分に笑っていた。
(教えられずとも、体が知っている。……それは、才能と呼んでよいものです)
千年前、白櫻姫は幼い頃から剣を握らされ、型を叩き込まれて育った。
だが、この子が持っているものは、型以前のものだ。
倒れないための感覚。足元を読む目。
――生きるために、山が教えた術。
(わたくしの技を注ぎ込む器としては、これ以上ないほどに)
❆
「…………嘘でしょう」
道の端で、紅葉は目を見張っていた。
千年前。
彼女は、白櫻姫という怪物の戦いを、誰よりも近くで見続けてきた。
だからこそ、分かってしまう。
今、白い少女が刻んでいる足運びは、紛れもなくあの子のものだ。
速さも、精度も、見る影もない。
それでも、骨格が同じなのだ。
(神子になって、まだ一月くらいよ……?)
「……先生」
「ええ」
翠織もまた、静かに頷いた。
教える立場として、この一ヶ月、この子の不器用さを嫌というほど見てきた。
霊力を練れば暴走し、集めれば漏れ、維持しようとすれば崩れた。
その子が、今。
(……追い抜かれるのは、案外すぐかもしれないわね)
悔しさよりも、誇らしさが勝った。
そして、その足元。
翠織の手をきゅっと握ったまま、黒華は瞬きも忘れて白雪姫を見つめていた。
(……お、おねえちゃん……)
怖くない。
あんなに恐ろしい獣の中にいるのに、あの背中は、ちっとも怖くなかった。
――かっこいい。
黒華は、そう思った。
❆
最後の一頭が、断末魔を上げて霧に還る。
その群れを、白雪姫は。
術も、神器も使わず――ただ体術だけで、倒し切ってみせたのだった。
❆
「……はぁっ、はぁ……」
膝に手をついて、白雪姫は肩で息をする。
制服は土埃まみれで、髪には杉の葉が絡まっていた。
それでも、怪我はない。
「……終わった、かな」
呟いて、顔を上げた。
――その、瞬間だった。
ぞわり、と。
産毛が一斉に逆立つ。
空気が、揺れた。
いや――押し退けられた、というのが正しい。
道の奥。杉の木立が、内側から押し広げられるように軋み、倒れる。
黒い巨躯が、ぬう、と身を起こした。
二本の足で立っている。
背丈は、五メートル。
伸びきった爪の一本一本が、人ひとりを串刺しにするに足りる。
「……そんな」
紅葉の声が、掠れた。
白雪姫は、それを知っている。
――忘れるはずが、ない。
頭を鷲掴みにされ、宙に吊るされて。
なすすべもなく、胸を抉られた、あの日。
血の味と、自分の体が壊れていく音。
『――白雪姫。あれは、あの時の個体ではありません』
(……うん。分かってる)
『ですが、格は同じ。霊術を持たぬ今のあなたには――』
(白櫻姫ちゃん)
少女は、胸の奥の声を、そっと遮った。
(大丈夫。逃げないよ)
白い髪が、風に舞う。
白雪姫は、巨獣を真っ直ぐに見上げた。
白い瞳に、怯えはなかった。
「……また会ったね」
小さく白い拳が、ぎゅっと握られる。
背後には、守るべき者たちがいる。
あの日、地面に這いつくばっていた自分は、もういない。
「――でも、あの時とは違うから」
真剣な面持ちで。
少女は、その巨躯を見据えた。
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