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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第03章:〝魔〟を操る者
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第06話:再会

 ――轟(ごう)、と。


 大気が、軋(きし)んだ。


 黒(くろ)華(か)の小さな体を芯にして、黒紫(むらさき)の瘴(しょう)気(き)が渦を巻いている。


 それは煙のようでいて、煙ではなかった。


 重く、粘り、地を這(は)うように広がって、道の両脇の下草を根元から薙(な)ぎ倒していく。


 杉の枝が一斉に撓(しな)り、葉が擦れて悲鳴のような音を立てた。


 ――威圧している。


 この山そのものを。たった五歳の、子供が。


「……ぁ……ぅ……」


 当の黒(くろ)華(か)は、両手で頭を抱えて震えていた。


 目は開いている。だが、何も映してはいない。


 瞼(まぶた)の裏に焼き付いた橙(だいだい)色が、どうしても消えてくれないのだ。


 カーテンを舐(な)め上げる、あの炎。


 覆い被(かぶ)さってきた、母の背中。


 ――熱い。熱い。


 ――触るな‼


(……ちがう……ちがうの……)


 言葉にならない声が、喉の奥で潰れる。


(わたし、もうやってない……いい子にしてたもん……)


 その否定が強くなるほどに。


 黒紫の渦は、勢いを増していった。





❆





「――‼」


 最初に反応したのは、紅葉(もみじ)の周りにいた狼(おおかみ)たちだった。


 白く濁った目が、一(いっ)斉(せい)に紅葉(もみじ)から逸(そ)れる。


 鼻先が、黒(くろ)華(か)の方へ向いた。


 ――獣(けもの)の貌(かお)に、歓喜が浮かんでいた。


「黒(くろ)華(か)ちゃん‼」


 翠(み)織(おり)は叫び、小さな体を背へ庇(かば)った。


 同時に、深く息を吸う。


 臍(へそ)の下。魂(たましい)の在(あ)り処(か)から、霊(れい)力(りょく)を汲み上げる。


 両脚へ。両腕へ。指の先まで。


 ――身体強化。


 巡らせた霊力が、緑色の淡い光となって肌の上を走った。


「――ふっ‼」


 飛びかかってきた一頭の顎(あご)を、下から蹴り上げる。


 鈍(にぶ)い音とともに、黒い体が宙(ちゅう)で捻(ね)じれた。


 地に落ちる前に、続けざまに二頭目。


 伸ばした手のひらが、その額(ひたい)を捉(とら)える。


 ――破(は)魔(ま)。


 悪しきものを打ち破り、追い払う。八(や)雲(くも)翠(み)織(おり)という神(み)子(こ)に宿った力は、文字通りそういう力だ。


 込めた霊力が触れた瞬間、狼の頭が内側から弾(はじ)けるように崩れ、黒い霧となって散(さん)華(げ)した。


(――弓は、駄目)


 奥歯を噛(か)みながら、翠(み)織(おり)は判断する。


 彼女の神(じん)器(ぎ)は、背(せ)丈(たけ)ほどもある大弓だ。


 射線を確保し、狙(ねら)いを定め、矢(や)をつがえて引き絞(しぼ)る――そういう戦い方をする武器である。


 こんな、四方をぐるりと囲まれて、背中に子供を張り付かせた状態で振り回せるものではない。


(……この子から、一歩も離れられないんだもの)


 選択肢は、端(はな)から一つしかなかった。





❆





 狼は、次から次へと湧いてきた。


 紅葉(もみじ)が相手にしていた個体だけではない。


 斜面の上から。藪(やぶ)の奥から。倒(とう)木(ぼく)の陰から。


 まるで、地面そのものが黒い獣を産み落としているかのようだった。


「翠(み)織(おり)さん‼ そっちに三体――‼」


 紅葉(もみじ)の声が飛ぶ。


 炎が走り、迫っていた一頭が横薙ぎに焼き払われた。


 だが、その紅葉(もみじ)もまた、倒すたびに立ち昇る紫の靄(もや)を胸に吸い込まされている。


 一頭焼くごとに、彼女の膝(ひざ)は確実に落ちていた。


「……っ、ええ‼ こっちは大丈夫‼」


 叫び返しながら、翠(み)織(おり)は三頭目の牙(きば)を肘(ひじ)で受け流す。


 袖(そで)が裂けた。腕に、熱い線が走る。


 構っていられない。


 振り向きざまの蹴りで一頭を木に激突させ、そのまま反転して、黒(くろ)華(か)へ伸びていた前足を掴(つか)み、投げ飛ばす。


 ――倒しても、倒しても。


 数が、減らない。


(……ああ、そういうこと)


 息を切らせながら、翠(み)織(おり)はようやく理解した。


 新しく現れる狼たちは、どこか遠くから走ってきているのではない。


 この場で、生まれているのだ。


 ――魔(ま)物(もの)とは、魔(ま)力(りょく)異常の生じた土地で、彷(さ)徨(まよ)う獣の魂が浸(しん)蝕(しょく)されて生まれる存在。


 であれば、答えは一つしかない。


(この子の魔力が――糧(かて)になってる)


 背中に張り付いた小さな体が、震えるたびに黒紫を吐き出す。


 その一吹きごとに、森のどこかで新しい獣が目を開ける。


(つまり、今のこの子は……)


 思い浮かんだ言葉を、翠(み)織(おり)は口に出さなかった。


 出してしまえば、認めることになる気がしたからだ。


 ――黒(くろ)華(か)という女の子そのものが、歩く魔力異常である、と。


 連れてくるべきではなかった、と思ったのは。


 この子が怯(おび)えるからでも、足手纏いになるからでもない。


 この子がいる場所が、そのまま戦場になってしまうからだ。


(結界が張ってある、施設の中か神社へ置いておくのが無難だった……一体、何者なの。この子は)


 人間でありながら、魔力を宿し。


 恐怖ひとつで、山ひとつ分の魔物を呼び寄せる。


 魔(ま)蝕(しょく)者(しゃ)でもない。魔(ま)神(じん)でもない。


 そんな存在を、翠(み)織(おり)は聞いたことがなかった。


「――っ、はぁ……っ」


 頭の片隅で疑問を転(ころ)がしながら、なおも腕を振るう。


 だが。


 指先が、痺(しび)れ始めていた。


 巡らせていた霊力の光が、じりじりと薄(うす)れていく。


(……もたない)


 霊力量は一般的。相(そう)克(こく)庭(てい)の中でも、可もなく不可もなくといったところだ。


 統括と指導に専念してきた身で、これだけの数を捌(さば)き続けるのは、端から無理があった。


(このままじゃ――)


 ――その、思考の隙間を縫(ぬ)うように。


 一頭が、地を這うように低く滑り込んできた。


 翠(み)織(おり)の死角。


 その先には、頭を抱えて蹲(うずくま)る、小さな背中。


「――しまっ……‼」


 声が、間に合わない。


 白く濁った目が、黒(くろ)華(か)を捉える。


 開いた顎が、幼い肩へ届く――その、直前。


 ――空が、白く爆(は)ぜた。


「――そ(・)こ(・)ど(・)い(・)て(・)っ(・)‼」


 真上から。


 杉の枝を蹴った白い影が、隕石のような速度で落ちてきた。


 両足が、狼の首筋に突き刺さる。


 路面に叩きつけられた黒い体が、一拍遅れて霧となって散った。


 舞い上がった土煙の中。


 ひらり、と白(しろ)銀(がね)の髪が翻(ひるがえ)る。


 セーラー服の襟(えり)を風に遊ばせながら、その少女は着地と同時に膝を折り、黒(くろ)華(か)の顔を覗き込んだ。


「大丈夫⁉ 黒(くろ)華(か)ちゃん‼」


「…………」


 陽だまりのような焦げ茶色の瞳が、ゆっくりと焦点を結ぶ。


 白い髪。白い瞳。


 春の陽(ひ)射(ざ)しみたいに、あたたかい手のひら。


「……お、ねえ……ちゃん……」


 張り詰めていた小さな肩から、糸が切れたように力が抜けた。


 黒(くろ)華(か)は、縋(すが)るように白い袖を掴む。


「うん。……ごめんね、遅くなって」


 白雪姫(こゆき)は、その手を握り返した。





❆





「――白雪姫(こゆき)ちゃん⁉」


 翠(み)織(おり)の声が、裏返っていた。


 無理もない。


 腕時計の針は、十六時を少し回ったところ。


 確かに、桜(さくら)ケ(が)丘(おか)小中学校の授業はとうに終わっている時間だ。


 だが、細(ほそ)見(み)町(ちょう)からここまでは、自転車で小一時間。


 どう考えても、早すぎる。


「どうしてここに――‼」


「だって」


 白雪姫(こゆき)は、何(なん)でもないことのように答えた。


「早く帰ってくるって、黒(くろ)華(か)ちゃんと約束したから」


「……え」


「今朝、いい子にしててねって言ったの、私だもん。……私が遅れたら、嘘つきになっちゃう」


 翠(み)織(おり)は、一瞬言葉を失った。


「……それにしたって、どうやって」


「道の下にある橋のあたりで、紅葉(もみじ)ちゃんの霊力が迸(ほとばし)るのを感じたんです」


 白雪姫(こゆき)は、後ろの山道を指さす。


「そこからは、自転車じゃ間に合わないと思って。……ごめんなさい、道の途中に乗り捨ててきちゃいました」


「乗り捨てって、あなた……」


「坂道を走ると、どうしても遅くなるから」


 少女は、困ったように笑った。


「だから、木の上を通ってきたんです。枝から枝へ跳(と)んだ方が、ずっと真(ま)っ直(す)ぐ来られるので」


 ――だから、上空から降ってきたのか。


 翠(み)織(おり)は、眩(めま)暈(い)を堪(こら)えるように額を押さえた。


「蒼(あお)波(ば)ちゃんは、今日日直で。日誌を書いたりとかいろいろあるから、それをして帰るって言ってました」


「……そう。それは、不幸中の幸いね」


 翠(み)織(おり)は、深々と息を吐いた。


 ――そして、気付く。


 風向きが、変わっていた。


 あれほど吹き荒れていた黒紫の渦が、潮(しお)が引くように静まっていく。


 黒(くろ)華(か)の頬に浮かんでいた文様も、薄い墨のように滲(にじ)んで消えかけている。


 ――安心したのだ。


 この子は、白雪姫(こゆき)の顔を見ただけで。


 それに応じて、森からの湧き出しも止まっていた。


 残っているのは、すでにこちらに出てきた分だけ。


 それでも、十体を下(くだ)らないが。


「黒(くろ)華(か)ちゃん」


 白雪姫(こゆき)は、しゃがんだまま目線を合わせた。


「先生の近くにいて。絶対に、離れちゃだめだよ」


「……お、おねえちゃんは?」


「私は、ちょっとだけ行ってくる」


 小さな手が、袖を掴む力を強めた。


 白雪姫(こゆき)はその手をそっと解(ほど)いて、代わりに小指だけを絡める。


「大丈夫。すぐ戻るから」


 黒(くろ)華(か)は、しばらく俯(うつむ)いて。


 それから、こくん、と頷(うなず)いた。





❆





 紅葉(もみじ)は、道の中ほどで片膝をついていた。


 顔は青白く、額には玉の汗。


 黒曜石の瞳が、焦点を失いかけている。


「――紅葉(もみじ)ちゃん」


「……白雪姫(こゆき)」


 顔を上げた紅葉(もみじ)は、無理に口角を上げた。


「早かったわね。……ごめんなさい、情(なさ)けないところを見せて」


「大丈夫?」


 白雪姫(こゆき)の問いに、紅葉(もみじ)は少しだけ黙った。


 嘘をつこうとして、諦めたような間だった。


「……少し、きついかも」


 やはり、と白雪姫(こゆき)は思う。


 昨夜、精神世界で聞いたばかりだった。


(……白櫻姫(こさき)ちゃん)


 ――白櫻姫(こさき)曰(いわ)く。


 魂に刻まれた〝魔神の断片〟は、器(うつわ)のようなものであると。


 零(こぼ)れた魔力を吸い、溜め、満ちれば溢(あふ)れる。


『――ええ。視(み)えております』


 胸の奥で、涼(すず)やかな声が響いた。


『あの子の中の濁りは、港(みなと)神(じん)社(じゃ)の夜ほどではないにしろ、かなりの量が溜まっております。……これ以上は、危のうございます』


(……うん)


 白雪姫(こゆき)は、紅葉(もみじ)の前に立った。


 そして、真っ直ぐに言った。


「紅葉(もみじ)ちゃん。翠(み)織(おり)先生と一緒に、下がっていて」


「…………は?」


 紅葉(もみじ)の目が、見開かれる。


「待って。何を言っているの、あなた」


 膝に力を入れて、無理やり立ち上がろうとする。


「見なさいよ、あの数を。神器も出せない、霊(れい)術(じゅつ)も撃てないあなたが、一人で――」


「うん。だから、体だけで倒す」


 あ(・)っ(・)さ(・)り(・)と。


 まるで、夕(ゆう)飯(はん)の献(こん)立(だて)でも決めるような口調だった。


「……あなたね」


「紅葉(もみじ)ちゃんが一体倒すたびに、紅葉(もみじ)ちゃんの中に溜まっていくんでしょう。……それって、私が代わればいいだけだよね」


 ――言葉に、詰まった。


 確かに、白雪姫(こゆき)が倒せば、瘴気は風に乗ってどこかへ流れていくだけだ。


 いずれ、どこかで新しい魔物になる。


 それは、千年前から変わらない、この世界のありふれた循(じゅん)環(かん)。


 ――今日、この場で、紅葉(もみじ)の中に爆弾を積み上げるよりは、ずっといい。


「…………」


 紅葉(もみじ)が黙り込むと、白雪姫(こゆき)はふっと表情を崩した。


 怯えでも、気負いでもない。


 どこか悪(いた)戯(ずら)っぽい、それでいて勇(いさ)ましい笑顔だった。


「それにね」


 白い瞳が、狼の群れを見(み)据(す)える。


「この子たちには、ちょっとばかりやり返さないと、気が済まないから」


 ――紅葉(もみじ)は、その顔をじっと見つめた。


 千年生きて、数(かぞ)えきれないほどの神子を見てきた。


 その中で、こういう顔をする子は、たった一人しか知らない。


(……本当に、似てるわね)


「……分かったわ」


 紅葉(もみじ)は、肩の力を抜いた。


「任せる。……無茶はしないで」


「うん。行ってきます」


 紅葉(もみじ)は、ふらつく足で翠(み)織(おり)のもとへ下がっていった。





❆





 白い少女が、ただ一人。


 黒い獣の輪が、それをぐるりと取り囲む。


 ――狼の魔物。


 あの夜、行(むか)縢(ばき)神社からの帰り道で、彼女を喰(く)い殺しかけた連中。


 もっとも、個体は違うだろう。あの時のものは、白櫻姫(こさき)の手ですべて散った。


 それでも――久しぶりに、両者は向かい合っていた。


 あの時は、逃げることしかできなかった。


 息が切れて、足がもつれて、土の上を転がって。


 ――今は。


 白雪姫(こゆき)は、静かに構えた。


 半身。爪先を内へ。膝は柔(やわ)らかく。


 足の裏に、霊力を薄く敷く。


 ――咆(ほう)哮(こう)。


 黒い獣が、一(いっ)斉(せい)に地を蹴った。





❆





 ――白雪姫(こゆき)は、すごかった。


 正面から飛びかかってきた一頭。


 その牙を、半歩だけ懐(ふところ)へ潜り込むことで外(はず)す。


 避(さ)けるのではない。入るのだ。


 相手の間合いの内側は、牙も爪も届かない死角になる。


 ――白櫻姫(こさき)が、毎晩嫌というほど叩き込んできた足捌き。


 そのまま体を沈め、伸び上がる勢いで掌(しょう)底(てい)を突き上げた。


 顎を跳(は)ね上げられた狼が、宙で無様に仰(の)け反(ぞ)る。


 着地を待たず、白雪姫(こゆき)はもう次へ動いていた。


 背後から来た二頭目の前足を掴み、自(みずか)らの回転に巻き込んで、三頭目へ叩きつける。


 まだ拙(つたな)い。


 まだ荒(あら)い。


 白櫻姫(こさき)のそれが水(みな)面(も)を滑(すべ)る舞(まい)だとするなら、白雪姫(こゆき)のそれは、必死に真(ま)似(ね)る子供の手遊びだ。


 ――それでも、形になっている。


(……ええ。間違いありません)


 胸の奥から、白櫻姫(こさき)はその戦いを視(み)つめていた。


(この子は、自然の中で遊んで育った子)


 思い出すのは、先々週の行縢山。


 訓練を兼ねた登山で、白雪姫(こゆき)は確かに息を切らしていた。


 それでも、その足取りだけは、終(しま)いまで乱れなかったのだ。


 濡れた岩の斜(しゃ)面(めん)に足をかけるとき、足首を絶妙な角度に捻(ひね)って滑りを殺す。


 バランスを崩しかければ、考えるより先に傍(かたわ)らの幹(みき)へ手が伸び、それを支点にくるりと体を捻って立て直す。


 ぬかるみを避(よ)け、木の根の隙(すき)間(ま)を選び、無駄のない歩幅で登っていく。


 ――蒼(あお)波(ば)は、終いには呆れ半分に笑っていた。


(教えられずとも、体が知っている。……それは、才能と呼んでよいものです)


 千年前、白櫻姫(こさき)は幼い頃から剣を握らされ、型(かた)を叩き込まれて育った。


 だが、この子が持っているものは、型以前のものだ。


 倒れないための感覚。足元を読む目。


 ――生きるために、山が教えた術(すべ)。


(わたくしの技を注ぎ込む器としては、これ以上ないほどに)





❆





「…………嘘でしょう」


 道の端(はた)で、紅葉(もみじ)は目を見張っていた。


 千年前。


 彼女は、白櫻姫(こさき)という怪物の戦いを、誰よりも近くで見続けてきた。


 だからこそ、分かってしまう。


 今、白い少女が刻んでいる足運びは、紛(まぎ)れもなくあの子のものだ。


 速さも、精度も、見る影もない。


 それでも、骨格が同じなのだ。


(神子になって、まだ一(ひと)月(つき)くらいよ……?)


「……先生」


「ええ」


 翠(み)織(おり)もまた、静かに頷いた。


 教える立場として、この一ヶ月、この子の不器用さを嫌というほど見てきた。


 霊力を練れば暴走し、集めれば漏れ、維持しようとすれば崩れた。


 その子が、今。


(……追い抜かれるのは、案外すぐかもしれないわね)


 悔しさよりも、誇らしさが勝った。


 そして、その足元。


 翠(み)織(おり)の手をきゅっと握ったまま、黒(くろ)華(か)は瞬(まばた)きも忘れて白雪姫(こゆき)を見つめていた。


(……お、おねえちゃん……)


 怖くない。


 あんなに恐ろしい獣の中にいるのに、あの背中は、ちっとも怖くなかった。


 ――かっこいい。


 黒(くろ)華(か)は、そう思った。





❆





 最後の一頭が、断末魔を上げて霧に還(かえ)る。


 その群れを、白雪姫(こゆき)は。


 術も、神器も使わず――ただ体術だけで、倒し切ってみせたのだった。





❆





「……はぁっ、はぁ……」


 膝に手をついて、白雪姫(こゆき)は肩で息をする。


 制服は土(つち)埃(ぼこり)まみれで、髪には杉の葉が絡まっていた。


 それでも、怪(け)我(が)はない。


「……終わった、かな」


 呟(つぶや)いて、顔を上げた。


 ――その、瞬間だった。


 ぞわり、と。


 産(うぶ)毛(げ)が一斉に逆(さか)立(だ)つ。


 空気が、揺れた。


 いや――押(お)し退(の)けられた、というのが正しい。


 道の奥。杉の木(こ)立(だち)が、内側から押し広げられるように軋み、倒れる。


 黒い巨(きょ)躯(く)が、ぬう、と身を起こした。


 二本の足で立っている。


 背丈は、五メートル。


 伸びきった爪の一本一本が、人ひとりを串(くし)刺(ざ)しにするに足りる。


「……そんな」


 紅葉(もみじ)の声が、掠(かす)れた。


 白雪姫(こゆき)は、それを知っている。


 ――忘れるはずが、ない。


 頭を鷲(わし)掴みにされ、宙に吊(つ)るされて。


 なすすべもなく、胸を抉(えぐ)られた、あの日。


 血の味と、自分の体が壊れていく音。


『――白雪姫(こゆき)。あれは、あの時の個体ではありません』


(……うん。分かってる)


『ですが、格は同じ。霊術を持たぬ今のあなたには――』


(白櫻姫(こさき)ちゃん)


 少女は、胸の奥の声を、そっと遮(さえぎ)った。


(大丈夫。逃げないよ)


 白い髪が、風に舞う。


 白雪姫(こゆき)は、巨獣を真っ直ぐに見上げた。


 白い瞳に、怯えはなかった。


「……また会ったね」


 小さく白い拳が、ぎゅっと握られる。


 背後には、守るべき者たちがいる。


 あの日、地面に這いつくばっていた自分は、もういない。


「――でも、あの時とは違うから」


 真剣な面持ちで。


 少女は、その巨躯を見(み)据(す)えた。





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