第07話:白雪姫の能力
黒い巨躯は、動かなかった。
なぎ倒された木立の中に二本の足で立ち、白く濁った目で、ただ小さな少女を見下ろしている。
風が、止んでいた。
鳥も鳴かない。葉擦れの音すら、しない。
この山ひとつが、まるごと息を潜めているようだった。
『――白雪姫』
胸の奥から、涼やかな声が響く。
『ひとつだけ、確かめさせてください』
(うん)
『あれは、あなたを一度喰い殺しかけた獣と、同じ貌をしています』
その声には、珍しく躊躇の色が滲んでいた。
『……本当に、大丈夫なのですか』
――当然の問いだった。
一度牙を立てられた相手というのは、厄介なものだ。
頭では違うと分かっていても、体の奥の方に、恐怖が錆のようにこびりついて落ちない。
まして白雪姫は、まだ十二歳。神子になって、ようやく一月ほどの少女なのだ。
――だが。
(大丈夫だよ)
白雪姫は、心の中でそう答えた。
(前の私とは、違うから)
あの夜は、何も知らなかった。
自分の中に眠る力のことも、魔物のことも、霊力というものの意味も。
ただ訳も分からず追い回されて、転んで、土の上を這った。
――今は、違う。
(それに、何より)
白い髪が、ふわりと揺れる。
(白櫻姫ちゃんが、いてくれるから)
刹那、胸の奥が、じんわりと温かくなった。
『…………』
短い、けれど確かな沈黙があって。
『――ええ。結構です』
声から、迷いが消えていた。
『行きなさい、白雪姫、そして証明してみせてください。……あなたはもう、獲物ではないと』
(――うん‼)
❆
先に動いたのは、獣の方だった。
四肢が地を噛み、膨れ上がった筋肉が一息に弾ける。
――突進。
あの夜、白雪姫の体を藁束のように跳ね飛ばした、あの一撃と同じ。
迫り来る、黒い壁。
避けることは、できた。
今の彼女の目には、その動きははっきりと視えている。
半歩退がって、体を捻る。それだけで済む話だ。
――だが。
(……後ろに、みんながいる)
道の端。
片膝をついた紅葉。袖を裂かれ、腕に血の線を引いた翠織。
そして、その足元から自分を見つめる、小さな黒華。
自分が躱せば、この巨体はそのまま三人のところへ届く。
(――私が、守る‼)
白雪姫は、退がらなかった。
両腕を胸の前で交差させ、爪先を地面へ喰い込ませる。
――正面から、受け止める。
衝突。
空気が爆ぜたような音が、山肌に反響した。
路面に罅が走り、土煙が円を描いて吹き飛ぶ。
「――白雪姫ちゃん‼」
翠織の悲鳴が、遅れて届いた。
――しかし。
煙が晴れた先に立っていたのは、膝一つ折っていない、白い少女だった。
靴底の跡が、舗装の上に数十センチほど擦れているだけ。
交差させた腕にも、擦り傷ひとつない。
「……嘘」
紅葉が、掠れた声を零した。
――咄嗟の判断ではあった。
だが、白雪姫の体には、最初から備えがあった。
身体強化。
巡らせ続けていたのだ。ここへ来るまでの、ずっと。
橋の袂で紅葉の霊力を感じ取ったあの瞬間から、坂を駆け上がり、木の枝を蹴って跳び、群れを一つ残らず叩き伏せる、その間ずっと。
――普通なら、とうに枯れている。
霊力とは、魂に宿る生命力そのものだ。時間が経てば回復するとはいえ、垂れ流せば、命が削れる。
だが、白雪姫の器は、底が抜けていた。
汲んでも、汲んでも、減った気配がない。
「――次は」
白雪姫は、白い瞳を上げた。
「こっちの番だよ」
地面が、爆ぜた。
❆
黒い巨躯が、白雪姫を見失う。
いや――見失ったのではない。
その目が、白雪姫の速さに追いつけなかったのだ。
懐。
巨体が最も脆い、内側の死角。
そこへ滑り込んだ白雪姫は、腰を落とし、体の捻りをすべて右腕に乗せた。
――掌底。
「――はぁっ‼」
どぐん、と。
鈍く重い音が、獣の腹の内側で鳴った。
毛皮が波打ち、肋骨の軋む音がそれに続く。
黒い体が、宙に浮いた。
五メートルを超える巨躯が、紙風船のように後方へ飛び、幾本もの杉枝をへし折って地に落ちる。
口から溢れた血が、黒い霧を混ぜながら舗装を打った。
「…………」
道の端で、翠織は言葉を失っていた。
――霊術ではない。神器でもない。
ただの、掌底である。
(……あの子、いったいどれだけ霊力を注ぎ込んでいるの)
数秒ののち。
獣は、地響きを立てて立ち上がった。
――だが。
その動きは、明らかに変わっていた。
振り抜かれた爪は狙いが甘く。
黒紫の魔力を纏わせた拳は、風を切る音すら細い。
突進も、咆哮も、先ほどまでの覇気がまるでない。
まるで、別の獣と入れ替わってしまったかのようだった。
「――っ、と」
白雪姫は、振り下ろされた前足を半身で流し、その手首を掌底で打ち上げる。
返す動きで、膝の裏へ蹴りを叩き込む。
黒い巨体が、大きくよろめいた。
(……あれ?)
拍子抜けするほど、当たる。
(さっきの一発で、骨が折れちゃったのかな。それとも、罅が入った、とか……)
それにしても、と白雪姫は思う。
衰えているのは、動きの速さだけではない。
――勢いそのものが、萎んでいる。
『白雪姫。腹を御覧なさい』
胸の奥から、静かな声が届いた。
(お腹……?)
言われるままに、白雪姫は目を凝らす。
――あった。
先ほど掌底を叩き込んだ、まさにその一点。
黒い毛皮の上に、うっすらと白いものが広がっている。
霜だ。
まるで、冬の朝の窓ガラスのような、細かな結晶の膜。
『あなたの手のひらには、冷気が宿っていたのでしょう』
白櫻姫の声は、確信に満ちていた。
『打ち込んだ霊力が、そのまま獣の腹を凍らせたのです』
(……えっ。でも)
白雪姫は、迫る爪を屈んで躱しながら、心の中で首を横に振った。
(それ、おかしくない?)
仮に凍ったのだとしても、それは一瞬のはずだ。
相手は生き物で、体温がある。魔力だって漲っている。
数秒もあれば、解けて消えてしまうのが道理ではないか。
(それなのに、まだ残ってるなんて――)
『おかしいことなど、何も』
声は、柔らかく、しかしきっぱりと白雪姫の疑問を遮った。
『あなたの作り上げる氷と冷気は既に、数秒で解けるようなものなどではない……それほどの域に達しているということなのですよ』
(……域)
『覚えておいででしょう。桜ケ丘幼稚園の、あの猪を』
――忘れるはずもない。
廃園の庭。雑草の海。
あの日、白雪姫の手のひらから生まれた一本の氷柱は、五メートル級の巨体を、頭から縦に貫いた。
『初めて氷を象った者が、たった数度の試行であそこまで至る。……あれは、本来あり得ぬことです』
(で、でも、あれは白櫻姫ちゃんが教えてくれたから……)
『わたくしは、想像の道筋を示しただけ』
声が、ふっと綻んだ。
『施設でも。学校でも。そして毎晩の精神世界でも。……あなたは、訓練を一日も欠かしませんでしたね』
(…………)
『机の下で、指先に霊力を集めては散らす。箸を持つ手に、薄く纏わせて維持する。湯船の中で、水面が凍らぬぎりぎりまで冷やしてみる』
――誰にも気付かれないように。
誰にも言わないままに。
『あの霜は、あなたが日々積み上げてきたものの、結晶です』
白雪姫の頬が、かっと熱くなった。
「……ばれてたっちゃね……。い、言っとくけど、お風呂はちゃんと最後に入った時にしかやってないからね⁉」
思わず、声に出してしまった。
『くすっ。……わたくしは、あなたの中におりますのよ? それくらい分かります』
❆
――生き物というのは、体温が下がれば、それだけで動けなくなる。
恒温動物であれば、ある程度は耐える。
だがそれとて、限りがある。
だからこそ、この獣は鈍っているのだ。
骨が折れたからでも、罅が入ったからでもなく――凍えているから。
「…………」
その事実に思い至った瞬間。
白雪姫の中で、ひとつの光景が形になった。
――氷柱で貫くのではなく。
――冷気で、削り取る。
「……ごめんね。ちょっとだけ、我慢して」
白雪姫は、そう呟いた。
右の手のひらに、意識を落とす。
汲み上げた霊力を、ゆっくりと、丁寧に冷やしていく。
水が冷え、白く曇り、やがて硬い結晶へと変わっていく――あのときと、同じ想像で。
手のひらの上の空気が、白く煙った。
――そして、白雪姫は駆けた。
「――っ‼」
懐へ。
振り抜かれる爪をくぐり、腹へ一発。
背後へ回って、後ろ足へ一発。
跳び上がり、肩口へ一発。
どれも、吹き飛ばすほどの威力はない。
叩き込んでいるのは、衝撃ではなく、冷気だ。
何度も。
何度も。
何度も。
――白い花が、黒い毛皮の上で咲いていく。
生物の体には水分がある。
打たれた場所から霜が広がり、隣の霜と手を繋ぎ、やがて面になる。
獣の動きが、目に見えて重くなっていった。
振り上げた腕が、途中で止まる。
開いた顎がガタガタと震え、そこから漏れる息が、白く濁る。
黒紫だった魔力の輝きが、燃え尽きる炭のように弱まっていく。
やがて。
巨体は、四肢を投げ出すように、腕がだらんと垂れ、膝は地面に突く。
瞼が落ちる。荒かった呼吸が、ゆっくりと、深いものへ変わっていく。
――眠りに、堕ちていくように。
「…………」
全身を包んだ霜は、厚い氷へと変わっていた。
夕日を受けて、透き通った青と白がきらめく。
牙も、爪も、逆立った背中の毛の一本一本までもが、そのままの形で閉じ込められている。
――獰猛な獣は、いつしか、美しい氷の彫像になっていた。
白雪姫は、その前に立った。
拳を握り、そして、少しだけ俯く。
「……ごめんね」
小さな声だった。
この獣もまた、元は山を駆けていただけの命なのだと、知っていたからだ。
「――でも、あなたには、みんなを傷つけさせない」
半身。爪先を内へ。膝を柔らかく。
白い少女は、最後の一歩を踏み込んだ。
――渾身の掌底が、氷の胸元を捉える。
パキン、と。
鈴を割ったような、澄んだ音が鳴った。
次の瞬間、氷の彫像は内側から砕け散り、無数の欠片となって山道に舞い上がった。
夕日を浴びた氷の粒が、きらきらと煌めきながら降ってくる。
――厳冬の朝にだけ現れるという、ダイヤモンドダストのように。
その光の中で、黒紫の魔力が糸を解くように霧散していった。
魔物の命が、潰えた証だった。
❆
(…………ああ)
その光景を、白櫻姫は胸の奥から見つめていた。
白雪姫には、悟られぬように。
(――これこそが)
自分の力は、命を芽吹かせる力だ。
真冬に桜を咲かせ、枯れかけた木に再び水を巡らせる、陽の力。
ならば、この子の力は。
周囲から熱を奪い、動きを止め、静寂へと還す。
――命を刈り取る、陰の力。
(同じ体に宿りながら、わたくしたちは、真逆なのですね)
美しく、そして、どこか寂しい。
自分たちは、命に関する力を有する。しかしその真髄は正反対。
それが、白雪姫の霊力の真骨頂なのだと。
千年を生きた神子は、そう思わずにはいられなかった。
❆
「……終わった、わね」
紅葉が、道の端で長く息を吐いた。
顔色はまだ悪い。だが、その目には確かな安堵があった。
「ええ。……本当に」
翠織も、肩の力を抜く。
裂けた袖から覗く傷は、幸い浅い。
そして――彼女の胸を撫で下ろさせていたものは、実のところ、それだけではなかった。
(……助かった、と言うと、不謹慎かしら)
昨夜、相克庭の観測部から入った、行縢の魔力反応。
あの一報を、翠織は〝とある理由〟で誤魔化していた。
正直に報告すれば、黒華のことに触れざるを得ない。
人間でありながら魔力を宿す、五歳の女の子。
――組織が黙っているはずが、ない。
(けれど、これだけの群れが出たのなら)
道路の上には、無数の黒煙の跡と、抉れたアスファルト。
これほどの規模の魔物の発生があれば、昨夜の反応の説明も信憑性を増せる。
(……ごめんなさいね。嘘つきの先生で)
書くべき報告書の文面を頭の中で組み立てながら、翠織はそっと目を伏せた。
――と、その足元から、小さな影が飛び出した。
「おねえちゃんっ‼」
「わっ」
黒華だった。
止める間もない。小さな体が、まっすぐに白雪姫へと駆けていく。
そして、そのまま胸元へ飛び込んだ。
白雪姫は、咄嗟にその体を受け止める。
「……っと。あはは、危ないよ」
「……っ、……ぅ……っ」
小さな肩が、震えていた。
泣き声を堪えて、それでも顔を上げようとして、また俯いて。
白雪姫は、その頭を撫でた。
「ごめんね。……いっぱい、怖い思いさせちゃったね」
「……こわく、なかった、もん」
「うん、そっか。黒華ちゃんは、強いね」
言いながら、白雪姫は黒華の体を抱っこして持ち上げた。
――もっとも、白雪姫自身、同年代より頭ひとつ小さい。
五歳児を抱えると、腕の中に収まりきらず、姿勢はどうにも危うい。
それでも、重くはなかった。
身体強化を掛けたままの腕には、羽のようなものだ。
「……あら」
翠織が、微かに笑った。
「その体格で抱っこは、さすがに無理があるんじゃないかしら」
「大丈夫です。霊力があるから、全然平気です」
「……その使い方でいいのかしらね、神子の力って」
紅葉が、呆れたように零した。
その口元は、しかし、確かに緩んでいる。
「――さ、戻りましょう」
翠織が、山道の先を示した。
「蒼波ちゃんが帰ってきたら、食堂で話しましょう。……黒華ちゃんのことも、今日のことも、全部。前に、組織へ報告した内容も共有したいし」
「はい」
夕日が、杉の間から斜めに差し込んでいた。
氷の欠片はもう溶けて、濡れた路面を光らせているだけだった。
四人は、坂道を上っていく。
――白い髪の少女の腕の中で、黒華はいつの間にか、静かな寝息を立てていた。
❆
同じ頃。
延岡駅の改札を、一人の少女が抜けた。
年の頃は、十六か、そこら。
紺のブレザーに、膝丈のスカート。この街の高校の制服ではない。
背中には、大きなゴルフバッグ。
地面には、その少女の持ち物であろうキャリーケース。
――だが、その中身がゴルフクラブでないことは、一目で知れた。
布地の内側に浮かんでいるのは、直線の輪郭。
彼女が歩くたび、中で硬いものが、こつん、こつんと鳴っている。
少女はロータリーの手前で足を止め、眩しそうに西日を見上げると、ポケットからスマートフォンを取り出した。
画面に地図を映し、指で縮尺を変えて、しばらく睨む。
それから、盛大に溜め息をついた。
「……んー。むかばき青少年自然の家って、どう行くんだろ?」
バスの時刻表と、地図と、山の方角を順に見比べる。
どう見ても、駅前から歩いて行ける距離ではない。
少女はバッグを背負い直すと、恨めしげに呟いた。
「――ったく、組織は人使い荒いんだから……」




