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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第03章:〝魔〟を操る者
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第05話:魔の力

 行(むか)縢(ばき)の山道は、昼でも薄暗い。


 両側から迫る杉が空を狭め、舗(ほ)装(そう)の上に斑(まだら)の影を落としている。


 その影を踏みながら、紅葉(もみじ)は正門から続く坂道を下っていた。


 ――むかばき青少年自然の家へと繋がる、一本きりの道。


 道は広いが、路(ろ)肩(かた)には落ち葉と小石が溜まっている。


 滅多に車の通らない道だ。


「…………」


 その道の途中で、紅葉(もみじ)は足を止めた。


 風が、止(や)んでいる。


 枝も、葉も、まったく動かない。


 鳥の声も、蝉(せみ)にはまだ早いこの季節にあるはずの、小さな虫の羽音すら聞こえない。


 代わりに、道の真ん中に、澱(よど)みがあった。


 目に見えるわけではない。


 だが、そこだけ空気が重く、粘つくように沈んでいる。


「……間違いないわね」


 紅葉(もみじ)は、自分の胸に手を当てた。


 どくり、と。


 服の下で、心臓とは別のものが脈を打っている。


 ――魔(ま)力(りょく)の異常。


 それを、彼女は肌でも目でもなく、胸の奥で嗅ぎ分けていた。


 なぜなら。


(……欲しがってるのね。あなたが)


 千年前、魂(たましい)に刻み込まれた〝魔(ま)神(じん)の断片〟。


 あれが、道の先に漂(ただよ)う濁(にご)りに向かって、涎(よだれ)を垂らすように疼いている。


 紅葉(もみじ)は、胸に当てた手をゆっくりと下ろした。


「……気持ちの悪い体」


 ぽつりと、そう零(こぼ)した。





❆





 ――そして、それは来た。


 森の奥。下(した)草(くさ)の擦(こす)れる音が、ざり、と鳴る。


 黒い影が、藪(やぶ)を割って道路へと出てきた。


 一頭。二頭。


 少し遅れて、斜面の上からもう一頭。


 いずれも、狼(おおかみ)だった。


 体毛はどれも墨を塗ったように真っ黒で、目は白く濁り、瞳孔がない。


 口元からは、禍(まが)々(まが)しい黒紫の霧が糸を引くように漏れている。


 魔(ま)物(もの)。


 魔力異常の生じた土地で、彷(さ)徨(まよ)う獣の魂が魔力に浸蝕されて生まれる、異形の成れの果て。


「……あなたたち」


 紅葉(もみじ)の目が、わずかに細くなる。


 その姿には、覚えがあった。


 ――少し前。行縢神社からの帰り道で、一人の少女が喰い殺されかけた。


 白い髪の、まだ神(み)子(こ)の力を知りもしなかった少女。


 あの夜のことは、本人の口からも、翠(み)織(おり)の口からも聞いている。


「……白雪姫(こゆき)を殺しかけたっていう奴と、同じ顔ね」


 グルル、と喉が鳴った。


 三頭が、じりじりと間合いを詰めてくる。


 この道は滅多に車が来ない。


 だが〝滅多に〟は、〝絶対に〟ではない。


 この先には民家が数軒あり、行縢山の登山客だって通る。


 ――早く、片付けなければ。


 そう分かっているのに。


「…………」


 紅葉(もみじ)の右手は、自分の胸元を掴んだまま、動かなかった。





❆





 魔物は、倒されると消える。


 黒い霧となって霧(む)散(さん)し、死骸ひとつ残らない。


 ――だがその瞬間、その体からは必ず、紫の瘴(しょう)気(き)が立ち昇(のぼ)る。


 それは、砕けた魂の残りかす。そして、その魂に宿っていた魔力そのものだ。


 行き場を失ったそれは、風に乗り、空気に溶け、やがてどこか遠くの土地へと運ばれていく。


 そして、そこでまた新しい魔力異常となる。


 ――たんぽぽの種と同じだ、と紅葉(もみじ)はいつも思う。


 黄色い花はやがて白く綻(ほころ)び、綿毛だけになって、風に攫(さら)われていく。


 落ちた先で根を張り、また新しい花を咲かせる。


 魔力も、それとまったく同じ。


 つまり、魔物を倒したところで、脅威が去るのは一時のこと。


 殺した数だけ、どこかで新しい魔物が生まれるだけなのだ。


 ――もっとも。


(……私の場合は、もっと質(たち)が悪いのだけど)


 紅葉(もみじ)が魔物を倒せば、その瘴気は風には乗らない。


 真っ直ぐに、彼女の胸へ来る。


 魂に刻まれた魔神の断片が、貪(むさぼ)るようにそれを吸い上げてしまうのだ。


 即(すなわ)ちそれは、他(よ)所(そ)へ撒(ま)き散らすのを防げるということでもある。


 その一点だけを見れば、彼女ほど魔物退治に向いた存在もいない。


 だが、と紅葉(もみじ)は思う。


 撒き散らさない代わりに、それはすべて、自分の内側に溜まっていく。


 一滴ずつ、確実に。


 ――そして、いつか零れる。


 零れた時に生まれるのは、魔物などという可愛らしいものではない。


「…………」


 思い出すのは、一昨日(おととい)の夜だ。


 港(みなと)神(じん)社(じゃ)の海岸。


 海面を割って這(は)い上がってきた、あの巨大な海(かい)龍(りゅう)。


 あれは、千年分の魔力が、彼女の内から溢(あふ)れ出た結果だった。


 自分が積み上げたもので、街ひとつが沈みかけた。


 自分が積み上げたもので、白雪姫(こゆき)の腹に、穴が開いた。


(……怖い、わね)


 千年生きて、不老不死になって、頭を潰(つぶ)されようが心臓を抉(えぐ)られようが治る体を手に入れて。


 それでもまだ、怖いものがある。


 ――自分自身という、時限爆弾が。


 紅葉(もみじ)は、目を閉じた。


 瞼(まぶた)の裏に、白い髪の少女が浮かぶ。


 ――紅葉(もみじ)ちゃんは、友達だよ。


 あの、真(ま)っ直(す)ぐな声。


「…………」


 目を開けたとき、そこにはもう、迷いはなかった。


「――けど、それでも」


 右手を、前へ。


「倒さなきゃ、いけないでしょう」


 ――轟(ごう)、と。


 差し出した手のひらの上に、橙(だいだい)色の炎が咲いた。


 空気が歪(ゆが)み、アスファルトの上に陽(かげ)炎(ろう)が立ち上る。


 神(じん)器(ぎ)を顕現させるまでもない。


 この程度の相手なら、霊(れい)力(りょく)を炎に変えて放つだけで事(こと)足(た)りる。


「――消えなさい」


 炎が、迸(ほとばし)った。


 真っ先に飛びかかってきた一頭が、咆(ほう)哮(こう)を上げる間もなく白い光に飲まれる。


 骨まで灰にする熱。


 黒い体は一瞬で炭(すみ)と化し、輪郭を失い、風に攫われて消えた。


 ――そして、次の瞬間。


 消滅した狼のいた場所から、紫の靄(もや)が立ち昇った。


 それは風に流れることなく。


 まるで意思を持ったかのように、真っ直ぐ紅葉(もみじ)の胸へと奔(はし)り――吸い込まれた。


「――ぐ、ぅ……っ‼」


 膝が、折れた。


 アスファルトに片手をつき、紅葉(もみじ)は喉の奥で呻(うめ)く。


 熱い。


 いや、熱いのではない。


 内側から、何かが膨(ふく)らんでいる。


 胃の底に鉛を流し込まれたような重さと、爪で内側から胸を掻かれるような、悍(おぞ)ましい疼き。


「……っ、は……」


 肺から、無理やり息を吐き出す。


 汗が一筋、顎(あご)を伝って落ちた。


(……一気に、片付けるのはまずいわね)


 残る二頭が、じり、と距離を詰めてくる。


 まとめて焼き払うのは簡単だ。一秒も掛からない。


 だが、その分だけ瘴気も一度に流れ込んでくる。


 ――そうなれば、膝をつく程度では済まない。


「……仕方ないわ」


 紅葉(もみじ)は、震える足で立ち上がった。


 乱れた前髪を掻(か)き上げ、黒曜石の瞳を上げる。


「一頭ずつ、相手してあげる」


 その手のひらに、再び炎が灯(とも)った。





❆





 同じ頃。


 むかばき青少年自然の家、二階の廊下。


 第二研修室の扉の前に、小さな影が立っていた。


 ――黒(くろ)華(か)である。


「…………」


 ――三階の部屋に戻っていなさい。


 そう言われたはずだった。約束も、した。


 だからここに立っているのは、いけないことだ。


(……でも)


 胸の奥が、ずっとざわざわしている。


 営火場で、あの綺麗なお姉ちゃんの顔つきが変わった時から、ずっと。


 黒(くろ)華(か)は、小さな手を握り締めた。


 ――我(わが)儘(まま)を、言っていいんだよ。


 朝の、あの人の声。


 小指に絡んだ、あの温度。


「…………っ」


 持ち上げた手が、扉の前で止まる。


 この扉の向こうにいるのは、大人だ。


 大人は、怖い。


 優しい顔をしていても、ある日突然、こちらを叩(たた)く。


 それでも。


 こん、こん。


 ためらいながらも、黒(くろ)華(か)は扉を叩いた。


「――どうぞ」


 中から、落ち着いた女性の声が返る。


 黒(くろ)華(か)は、両手で扉に取りつくようにして、ゆっくりとそれを開けた。


「どうしたの、紅葉(もみじ)ちゃ――」


 書類から顔を上げかけた翠(み)織(おり)の言葉が、途中で途切れた。


 当然だ。


 白雪姫(こゆき)と蒼(あお)波(ば)は、今日は学校。


 そして残った一人は、自分を怖がっている五歳の女の子。


 であれば、この扉を叩くのは紅葉(もみじ)しかいない。


 ――そう、思っていたのに。


「…………」


 開いた扉の隙間から、こちらを見上げている焦げ茶色の瞳。


 翠(み)織(おり)の顔が、強(こわ)張(ば)った。


(……どうしよう)


 昨日、この子は自分の伸ばした手を叩(はた)き落とした。


 迂(う)闊(かつ)に動けば、また怯(おび)えさせてしまう。


 翠(み)織(おり)は椅子から立ち上がりかけて――思い直し、静かに座り直した。


「……ど、どうしたの?」


 できるだけ、穏(おだ)やかに。


 できるだけ、声を張らずに。


 黒(くろ)華(か)は、扉の縁(ふち)を握ったまま、しばらく黙っていた。


 そして、ぽつり、ぽつりと話し始める。


「……あのね」


「ええ」


「くろいかみの、おねえちゃんが」


 ――黒い髪の、お姉ちゃん。


 その呼び方に、翠(み)織(おり)は一瞬戸惑った。


 が、すぐに思い当たる。


(……そうか、この子はまだ、紅葉(もみじ)ちゃんの名前を聞いていないのね)


「……うん。それで、紅(もみ)――そのお姉ちゃんが、どうしたの?」


「……ようすが、かわって。そとのほうに、いっちゃったの」


 翠(み)織(おり)の眉が、微(かす)かに動いた。


「様子が変わって、というのは……どんなふうに?」


 黒(くろ)華(か)は、うまく言葉が見つからないのか、自分の顔をぺたぺたと触った。


「……こわい、かんじ。めが、きゅっ、てなって」


「…………」


「あわてんぼさんみたいに、なってた」


 ――焦っていた、ということだろうか。


 子供の言葉を頭の中で組み直しながら、翠(み)織(おり)は静かに耳を傾ける。


 そして、黒(くろ)華(か)は。


 ほんの少しだけ、声を落とした。


「……あとね」


「ええ」


「おねえちゃん、ないちゃいそうだった」


 翠(み)織(おり)の指先が、机の上で止まる。


「もりに、すてられたときのわたしと、おなじかおだったの」


 黒(くろ)華(か)は、自分の胸のあたりをきゅっと掴んだ。


「……だから、かわいそうだったの」


「…………」


 翠(み)織(おり)は、返す言葉を見つけられなかった。


 ――森に捨てられた時の、自分と同じ顔。


 この子は、それを〝可哀想〟と言った。


 自分がされたことの意味も、まだ半分も分かっていないだろうに。


 他人の顔に、それを見つけて、心配して、ここまで来たのだ。


(……この子は)


 喉の奥に、熱いものが込み上げる。


 しかし、翠(み)織(おり)はそれを飲み込んで、頭を切り替えた。


 今は、そちらではない。





❆





(……また、何かを感じ取ったのかしら)


 思い浮かぶのは、一昨日の港神社。


 あの時も、紅葉(もみじ)は誰よりも早く異変を察知し、誰にも告げずに走り出した。


 あの子の胸に刻まれたものは、〝魔〟の気配に対してだけは、どんな観測装置よりも鋭い。


 だが。


 翠(み)織(おり)は、机の上のスマートフォンに目をやった。


 画面は、暗いまま。


 相(そう)克(こく)庭(てい)の観測部からは、魔力異常の一報も入っていない。


(――昨夜の報告は、〝あの理由〟でどうにか誤魔化したけれど)


 行縢で観測された、微弱な魔力反応。


 あれの正体が、今この部屋の入口に立っている女の子だということは、まだ組織の誰も知らない。


 知られるわけには、いかない。


 ――とはいえ、観測が来ていないのなら、これは新規の案件ではない可能性が高い。


 であれば、魔物か。


 この行縢の結界の内側で生まれる程度の個体なら、紅葉(もみじ)が一人で片を付けてしまうだろう。


(……なるほど。それで、この子をこちらに寄(よ)越(こ)したのね)


 翠(み)織(おり)は、そっと息を吐いた。


 自分のところへ来させたのは、一人にしておけないと判断した紅葉(もみじ)の指示。


 ――つまり、この子の意思ではない。


 分かっている。分かってはいるのだが。


(……少しだけ、残念だわ)


「……ありがとう、黒(くろ)華(か)ちゃん。教えてくれて助かったわ」


 翠(み)織(おり)は、精一杯の笑顔を作った。


「お姉ちゃんに、〝翠(み)織(おり)さんのところへ行きなさい〟って言われてきてくれたのね」


 ――ところが。


「……ううん」


 黒(くろ)華(か)は、首を横に振った。


「へやに、もどってなさいって、いわれた」


「え」


「……でも、わたし、きた」


 小さな声だった。


 けれど、はっきりとした声だった。


「…………」


 翠(み)織(おり)は、目を見張った。


 言われたからではなく。


 誰に頼まれたわけでもなく。


 大人が怖くて、扉の前で足が止まって、それでも自分の意思で、この子はここへ来たのだ。


(……ああ、もう)


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


「……ありがとう」


 その言葉は、さっきよりも、ずっと自然に出てきた。


「よく来てくれたわね。……とても、偉かったわ」


 黒(くろ)華(か)の頬が、ほんのりと赤くなった。





❆





「――さて。それじゃあ、黒(くろ)華(か)ちゃんはお部屋に戻っていてくれる?」


 立ち上がりながら、翠(み)織(おり)は言った。


 ここから先は、神(み)子(こ)の仕事だ。


 しかし、黒(くろ)華(か)は、その場から動かなかった。


「…………」


「黒(くろ)華(か)ちゃん?」


「……ひとりは、こわい」


 小さな肩が、きゅっと縮こまる。


「…………」


 翠(み)織(おり)は、言葉に詰まった。


 ――当然だ、と思う。


 五歳の子供を、慣れない建物の一室に一人で置いていく。


 それがどれほど心細いか、想像できないほど鈍いつもりはない。


 施設の職員に見てもらう、という手も一瞬考えた。


 だが、この子は大人そのものに怯えている。


 知らない大人と二人きりにするのは、部屋に一人でいさせるより、よほど酷(こく)だろう。


 そして何より。


(……この子は、魔力を持っているもの)


 万一のことがあれば、対処できるのは自分しかいない。


「…………」


 数秒。


 翠(み)織(おり)は、逡(しゅん)巡(じゅん)して――そして、腹を決めた。


「――分かったわ。一緒に行きましょう」


「……いいの?」


「ええ。ただし、ひとつだけ約束して」


 人差し指を立てて、翠(み)織(おり)は言う。


「何があっても、私から離れないこと。……できる?」


「……うん」


 こくん、と。


 黒(くろ)華(か)が頷いたのを見て、翠(み)織(おり)は床に膝をついた。


 大人の高さから、子供の高さへ。


 視線が、ぴたりと重なる。


「それと――黒(くろ)華(か)ちゃん」


「……なあに?」


「昨日は、ごめんなさいね」


 黒(くろ)華(か)の目が、まん丸になった。


「いきなり手を伸ばして、怖がらせてしまったでしょう。……あれは、私が悪かったわ」


 翠(み)織(おり)は、真っ直ぐに頭を下げた。


 大人が、子供に。


 言い訳もなく、条件もつけずに。


「…………」


 黒(くろ)華(か)は、しばらくその旋(つむ)毛(じ)を見つめていた。


 それから、もじもじと指を絡ませて、小さく言った。


「……わたしも、ごめんなさい」


「え?」


「……はたいちゃって、ごめんなさい」


 ――翠(み)織(おり)の口元が、綻んだ。


「いいのよ。そんなこと」


 そう言って、そっと手を伸ばす。


 烏(からす)羽(ば)色の髪に、手のひらが触れる。


 ――黒(くろ)華(か)は、逃げなかった。


(……撫でるだけなら、平気になったのね)


 この数日、白雪姫(こゆき)がこの子の心を解(ほぐ)し続けてくれた成果だ。


 その事実が、翠(み)織(おり)には何より嬉しかった。


 ――だが、そこで。


「…………え」


 翠(み)織(おり)の手が、止まった。


 前髪の下。


 黒(くろ)華(か)の右の頬から額にかけて、黒い文(も)様(よう)が浮かび上がっていた。


 蔓(つる)のような、あるいは罅(ひび)のような、歪(いびつ)に整った紋。


「黒(くろ)華(か)ちゃん。……この、お顔の模様。どうしたの?」


「……もよう?」


 黒(くろ)華(か)は、きょとんとして自分の頬を触った。


 どうやら、本人にはまるで自覚がないらしい。


(……魔力に関するもの、かしら)


 気にはなる。


 それも、猛烈に。


 だが、今はそれよりも優先すべきことがある。


「……ううん、何でもないわ。行きましょうか」


 翠(み)織(おり)は立ち上がり、黒(くろ)華(か)の小さな手を――取ろうとして、やめた。


 代わりに、自分の手を差し出して、待った。


 黒(くろ)華(か)は少し迷ってから、その指先を、きゅっと摘(つま)んだ。


 それだけで、十分だった。


 翠(み)織(おり)は目を閉じ、意識を外へと研(と)ぎ澄(す)ませる。


 ――霊力感知。


 行縢山の濃密な霊気の中に、灼(や)けつくように熱い、見知った気配がひとつ。


 位置は、正門を出て、坂道を下った先。


「……見つけた」


 翠(み)織(おり)は目を開けて、走り出した。





❆





 坂道を下りきる手前で、それは見えた。


 道路の上に蟠(わだかま)る、黒い影の群れ。


 そして、その中心で舞う、橙(だいだい)色の光。


「――紅葉(もみじ)ちゃん‼」


 翠(み)織(おり)が声を上げる。


 振り向いた紅葉(もみじ)の顔には、玉の汗が浮いていた。


 肩で息をしながら、彼女は目を見開く。


「翠(み)織(おり)さん……⁉ どうして、ここに――」


 言いかけて、その視線が、翠(み)織(おり)の背後で止まった。


「……っ、なんで、黒(くろ)華(か)ちゃんまで連れて――‼」


 叫びながらも、紅葉(もみじ)の手は止まらない。


 振り抜いた炎が、飛びかかってきた一頭を真っ二つに焼き裂く。


 黒い体が灰になり、紫の靄が立ち昇り――そしてまた、彼女の胸へと吸い込まれていった。


「……ぐ、っ」


「紅葉(もみじ)ちゃん⁉」


「――大丈夫。これは、いつものことだから」


 息を切らせながら、紅葉(もみじ)はそう言い切った。


 そのやり取りの間。


 翠(み)織(おり)の指を摘んでいた小さな手は、いつの間にか、力を失っていた。


「…………」


 黒(くろ)華(か)が、立(た)ち竦(すく)んでいる。


 その目は、紅葉(もみじ)の手のひらに宿る炎に、釘付けになっていた。


「黒(くろ)華(か)ちゃん?」


 異変に気付いた翠(み)織(おり)が、振り返る。


 小さな体が、がたがたと震えていた。


 歯の根が合わず、唇(くちびる)が戦(おのの)いている。


「……ほのお……」


 掠(かす)れた声だった。


「……いや……いやぁ……」


 ――それは、黒(くろ)華(か)の中の、最も深い場所にある傷だった。


 狭い部屋。


 カーテンに走った、橙色の炎。


 覆い被(かぶ)さってきた、母の背中。


 ――熱い、熱い‼


 のたうち回る母に、恐る恐る手を伸ばして。


 ――触るな‼


 鬼の形相と、叩き落とされた手のひら。


 あの炎を出したのは。


 お母さんを焼いたのは。


 ――ほかの誰でもない、わたしだ。


「黒(くろ)華(か)ちゃん、どうしたの⁉」


 翠(み)織(おり)が肩を掴む。


 だが、その声はもう、届いていなかった。


「黒(くろ)華(か)ちゃん――‼」


 紅葉(もみじ)も気付き、こちらへ駆け寄ろうとして。


 ――次(つぎ)の瞬間。


 轟、と。


 黒(くろ)華(か)の体から、黒(くろ)紫(むらさき)の柱が噴き上がった。


「――⁉」


 道路の路面に罅が走る。


 周囲の木々が、爆風に煽(あお)られて一斉に軋(きし)んだ。


 頬の文様が、肌の下で脈を打つように光っている。


 ――異常な、魔力だった。


 五歳の子供が抱えていていいものではない。


 いや、人間が抱えていていいものですら、ない。


「……嘘、でしょう」


 紅葉(もみじ)の顔から、血の気が引いた。


 そして。


 その魔力に応えるように――森が、鳴いた。


 ざあ、と。


 斜面のあちこちで下草が割れ、木の影という影から、白く濁った目が浮かび上がる。


 二つ。四つ。十。


 ――数えるのを、諦めるほどに。


 道路を囲む森のすべてから、黒い獣が這い出してくる。


 残っていた狼たちも、紅葉(もみじ)から興味を失ったかのように、いっせいに黒(くろ)華(か)の方へと首を巡(めぐ)らせた。


 ――ご馳走の匂いに、集まってきたのだ。


「…………っ」


 翠(み)織(おり)は、震える黒(くろ)華(か)を咄(とっ)嗟(さ)に背へ庇った。


 包囲されている。


 完全に。


(――しまった)


 奥歯が、ぎりと鳴る。


(……やっぱり、連れてくるべきじゃなかった)





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