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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第03章:〝魔〟を操る者
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第04話:〝紅い葉〟と〝黒い華〟

 朝の光が、カーテンの隙間から一筋、床に落ちていた。


 黒(くろ)華(か)の瞼(まぶた)が、ゆっくりと持ち上がる。


 最初に飛び込んできたのは、白だった。


 雪みたいに真っ白な髪。すぐ目の前で、規則正しく上下している肩。


「…………」


 夢じゃない。


 昨日の夜、確かに――あしたも、いるよ――と言ってくれた、あの声の主が、ちゃんとそこにいる。


(――いた)


 じわり、と胸の奥が温かくなって。


 黒(くろ)華(か)は、へにゃりと笑った。


 そして、そのまま、ぐいっと白雪姫(こゆき)の胸元に潜(もぐ)り込む。


「んむっ⁉」


 突撃を受けた側が、当然、目を覚ました。


「え、え、なに、なに……⁉」


 寝ぼけ眼(まなこ)で白雪姫(こゆき)が視線を落とすと、そこには黒い頭の天(てん)辺(ぺん)があった。


 自分のパジャマに顔をぐりぐりと押し付けている、小さなつむじ。


「…………」


 一瞬の混乱のあと、白雪姫(こゆき)の口元が、自然と緩(ゆる)んだ。


 昨日、この子はこの腕の中で泣いていたのだ。


 その同じ腕の中で、今朝は笑っている。


「……おはよう、黒(くろ)華(か)ちゃん」


 白雪姫(こゆき)は、黒(くろ)華(か)の背中に腕を回して、そっと抱き締めた。


 もう片方の手で、寝癖のついた黒髪を梳(す)くように撫でてやる。


「……おはよ、おねえちゃん」


 くぐもった声が、胸元から返ってくる。


 その声が、あまりにも幸せそうだったものだから。


(……なんだろう、これ)


 白雪姫(こゆき)は、天井を見上げて考えた。


 守ってあげなきゃ、と思っていたはずなのに。


 どうして自分の方が、こんなに満たされた気持ちになっているのだろう。


「――おはよう。ずいぶん賑やかね」


 畳スペースの方から、淡々とした声が飛んできた。


 振り向くと、紅葉(もみじ)がすでに着替えを済ませ、胡(あぐ)坐(ら)をかいて座っている。


「紅葉(もみじ)ちゃん、早い……」


「私は寝なくても平気だもの」


「そういう問題じゃないよ⁉」


 賑やかな声に、今度は隣のベッドが、もぞりと動いた。


「……んぅ~……あと五分……」


「蒼(あお)波(ば)ちゃん、朝だよ」


「……あと三分……」


「減ってる」


 布団の山が、しばらく蠢(うごめ)いて。


 やがて、ぼさぼさ頭の蒼(あお)波(ば)が、のっそりと顔を出した。


 そして、白雪姫(こゆき)の腕の中の小さな影を見つけて、ぴたりと固まる。


「…………」


「蒼(あお)波(ば)ちゃん?」


「……なんでもないっちゃ。うん。なんでもない」


 妙に力の入った声で言って、蒼(あお)波(ば)はベッドから降りた。


 その背中を見送りながら、紅葉(もみじ)が小さく息を吐く。


「……子供ね」


「聞こえちょるよ⁉」





❆





 食堂は、朝から味噌汁の匂いで満ちていた。


 四人でトレーを運び、いつもの長机に並んで座る。


 黒(くろ)華(か)は当然のように白雪姫(こゆき)の隣を陣取って、両手を合わせた。


「……いただきます」


「上手上手。昨日より言えてるね」


 焼き鮭の身を白雪姫(こゆき)がほぐしてやると、黒(くろ)華(か)はそれを口いっぱいに頬(ほお)張(ば)った。


「あれ、翠(み)織(おり)先生は?」


 辺りを見回して、蒼(あお)波(ば)が首を傾(かし)げる。


「翠(み)織(おり)さんなら、朝からずっと電話しているみたいよ」


 紅葉(もみじ)が、湯呑みに口をつけたまま答えた。


「二階の廊下まで声が漏れてたわ。……相手は、多分〝上〟ね」


「……上」


 その一言で、蒼(あお)波(ば)の箸(はし)が止まる。


 白雪姫(こゆき)も、味噌汁の椀を持ったまま、ちらりと隣を見た。


 黒(くろ)華(か)は、何も分かっていない顔で、卵焼きと格闘している。


(……大丈夫。翠(み)織(おり)先生が、責任は取るって言ってくれたもん)


 そう自分に言い聞かせて、白雪姫(こゆき)は話題を変えることにした。


「――そういえば蒼(あお)波(ば)ちゃん。今日は、行かないとだよね」


「あー……そうやね。昨日休んでるし、さすがに二日連続はまずいっちゃないかな」


 蒼(あお)波(ば)は、はぁ、と大きな溜息をついた。


「港(みなと)神(じん)社(じゃ)の件があった翌日やし、翠(み)織(おり)先生が学校に連絡してくれたけど……」


「うん。〝体調不良〟で二日は、ちょっと不自然かも」


「そうそう。それに、今日は数学の小テストがあるやん?」


「……あ」


 白雪姫(こゆき)の動きが、ぴたりと止まった。


「……小テスト?」


「知らんかった?」


「……知らなかった」


 がっくりと肩を落とす白雪姫(こゆき)に、蒼(あお)波(ば)がけらけらと笑う。


 その様子を、黒(くろ)華(か)は不思議そうに見上げていた。





❆





 部屋に戻り、白雪姫(こゆき)は箪(たん)笥(す)からセーラー服を取り出した。


 紺色のセーラーカラーに、赤のスカーフ。


 袖を通し、リボンを結び、鏡の前で襟を整える。


「…………」


 その一部始終を、黒(くろ)華(か)はベッドの上から、じっと見つめていた。


 膝を抱えて、瞬(まばた)きもせずに。


「……おねえちゃん」


「ん?」


「……どこか、いくの?」


 小さな声だった。


 けれど、その声に含まれていたものに、白雪姫(こゆき)はすぐに気付いた。


 ――怯(おび)えだ。


「うん。学校に行ってくるんだ」


 白雪姫(こゆき)は、努めて明るく答えた。


「蒼(あお)波(ば)ちゃんと一緒にね。夕方には帰ってくるよ」


「……がっこう」


 黒(くろ)華(か)は、その言葉を口の中で転がして。


 それから、ぱっと顔を上げた。


「わたしも、いく」


「え」


「わたしも、がっこう、いく」


 ベッドから飛び降りて、黒(くろ)華(か)は白雪姫(こゆき)のスカートの裾(すそ)を掴んだ。


「――えっと、黒(くろ)華(か)ちゃん」


 白雪姫(こゆき)は、膝を折って目線を合わせた。


「学校はね、黒(くろ)華(か)ちゃんが行くところじゃないの。黒(くろ)華(か)ちゃんくらいの子は、まだ行けないんだよ」


「…………」


「だから、お留守番できるかな? もう一人のお姉ちゃんも一緒にいてくれるし――」


「やだっ‼」


 弾かれたような声だった。


 スカートを掴む手に、ぎゅうっと力がこもる。


「やだ、やだ! いっしょがいい‼」


 部屋の空気が、びりりと震えた。


 畳スペースに座っていた紅葉(もみじ)が、わずかに眉を動かす。


 鞄を背負いかけていた蒼(あお)波(ば)も、動きを止めた。


 ――そして。


 叫んだ黒(くろ)華(か)自身が、いちばん驚いていた。


「――……あ」


 ぽかんと開いた口。


 見開かれた陽だまりのような焦げ茶色の瞳が、ゆっくりと、自分の握り締めた手へと落ちていく。


 ――近付くな‼


 ――触るな‼


 脳裏に、鬼のような顔が蘇(よみがえ)る。


 わがままを言ったら。


 いい子にしていなかったら。


 この人も、きっと。


「――ごめんなさいっ」


 黒(くろ)華(か)は、弾かれたように手を離した。


 そして、その場にぺたんと座り込み、頭(あたま)を抱えるようにして小さくなる。


「ごめんなさい、ごめんなさいっ……」


「黒(くろ)華(か)ちゃん⁉」


「わがまま、いわないから……いい子に、してるから……っ」


 震える肩。

 握り締められた、白い指先。


「――だから、たたかないでっ」


 その一言が、部屋に落ちた。


 蒼(あお)波(ば)が、息を呑む。


「…………」


 白雪姫(こゆき)は、何も言わなかった。


 ただ、床に膝をついて。


 その小さな体を、正面から、まるごと抱き締めた。


「――……っ」


「……大丈夫だよ」


 耳のすぐそばで、囁(ささや)くように。


「叩かないよ。絶対に、叩かない」


 背中を、ゆっくりと擦(さす)る。


 昨日と同じように。何度でも。


「怒ってもないよ。黒(くろ)華(か)ちゃんは、悪いことなんてしてないもん」


「……でも、わたし……」


「黒(くろ)華(か)ちゃん」


 白雪姫(こゆき)は、少しだけ体を離して。


 まっすぐに、その顔を覗(のぞ)き込んだ。


「あのね。これからは、いっぱい我(わが)儘(まま)を言っていいんだよ」


「…………え」


「〝一緒にいたい〟も、〝やだ〟も、〝ちょうだい〟も。ぜんぶ言っていいの」


 黒(くろ)華(か)の目が、まん丸になる。


「だって、それが言えないと、私、黒(くろ)華(か)ちゃんが何をしてほしいか分からないんだもん」


 白雪姫(こゆき)は、にこりと笑った。


「困らせてくれていいんだよ。……それくらい、お姉ちゃんなんだから」


「――……ほんと……?」


「本当だよ」


 迷いのない返事だった。


 黒(くろ)華(か)の睫(まつ)毛(げ)が、ふるふると震えて。


 それから、こくん、と小さく頷いた。


「……ただね」


 白雪姫(こゆき)は、申し訳なさそうに眉を下げる。


「これだけは、聞いてほしいの。学校には、どうしても行かなくちゃいけないんだ」


「…………」


「でも、なるべく早く帰ってくる。走って帰ってくるから」


 小指を立てて、黒(くろ)華(か)の前に差し出す。


「だから、いい子にして待っててくれる?」


 黒(くろ)華(か)は、その小指をじっと見つめて。


 やがて、自分の小指を、そっと絡めた。


「……うん」





❆





 玄関で靴を履きながら、蒼(あお)波(ば)がぽつりと言った。


「……白雪姫(こゆき)ちゃん」


「なに?」


「うち、さっきの、ちょっと泣きそうやった」


「……うん」


 白雪姫(こゆき)は、それだけ答えた。


 二人分の足音が、朝の砂利を踏んでいく。


 振り返ると、三階の窓に、小さな影がひとつ。


 白雪姫(こゆき)が大きく手を振ると、その影も、ぶんぶんと手を振り返した。





❆





 ――そして、部屋には二人だけが残された。


「…………」


「…………」


 沈黙が、重い。


 紅葉(もみじ)は畳スペースに座ったまま、窓の外を眺めるふりをしていた。


 黒(くろ)華(か)は、白雪姫(こゆき)のベッドの上で、膝を抱えて座っている。


 二人の間には、五メートルほどの距離と、それ以上の何かがあった。


(……気まずいわね)


 千年以上を生きてきた身で、五歳児相手に何をやっているのか。


 紅葉(もみじ)は内心で自(じ)嘲(ちょう)した。


 ――もっとも。


 この子に対して、紅葉(もみじ)は最初から、妙な親しみを覚えていた。


 この子が魂(たましい)に宿しているのは、霊(れい)力(りょく)ではなく魔(ま)力(りょく)だ。


 人でありながら、人ならざる力を抱えている。


(――私も、同じだもの)


 自分の魂には、千年前に刻まれた〝魔(ま)神(じん)の断片〟がある。


 間接的にとはいえ、魔力を宿した存在。


 人でありながら、人ならざるもの。


 ――それに、もうひとつ。


(……〝落ちこぼれ〟)


 神(み)子(こ)の家系に生まれながら、いつまでも力の開花しなかった娘。


 役立たず。穀(ごく)潰(つぶ)し。家の恥。


 千年前、実家の廊下で浴(あ)びせられた声は、今でも一言違(たが)わず思い出せる。


 ――〝永(えい)遠(えん)記(き)憶(おく)〟という術(じゅつ)は、時にひどく残酷だった。


(……居場所がないっていうのは、ああいうことよ)


 だからだろうか。


 あのベッドの上で膝を抱えている背中が、どうしても、他人事に思えなかった。


 紅葉(もみじ)は、小さく息を吸った。


「――ねぇ、黒(くろ)華(か)ちゃん」


 声は、あえて張らなかった。


 驚かせないように。届く程度の、静かな音量で。


「…………」


 肩が、ぴくりと震える。


 黒い髪の隙間から、焦げ茶色の目がこちらを窺(うかが)っていた。


「……そのまま、動かなくていいわ」


 紅葉(もみじ)は、ゆっくりと立ち上がった。


 畳を降りて、一歩。


「大丈夫。何もしないから」


 二歩。


「近付くだけよ。……手も、伸ばさない」


 三歩。


 黒(くろ)華(か)が座っているベッドの、対(たい)角(かく)。


 いちばん距離の取れる位置にあるベッドの端に、紅葉(もみじ)はそっと腰を下ろした。


 それ以上は、近付かない。


「…………」


「…………」


 また、沈黙。


 だが、先ほどよりは、いくらか薄い沈黙だった。


「……ここでの暮らしは、どう」


 紅葉(もみじ)が訊いた。


「やっていけそう?」


 黒(くろ)華(か)は、喋らなかった。


 代わりに、こくん、と頷く。


「……そう。それならよかった」


 紅葉(もみじ)の口元が、微(かす)かに緩んだ。


「じゃあ、もうひとつ。……白雪姫(こゆき)お姉ちゃんのことは、好き?」


 ――その瞬間だった。


「だいすきっ‼」


 黒(くろ)華(か)が、勢いよく顔を上げた。


 膝から手を離し、身を乗り出さんばかりの満面の笑み。


 あまりの変わりように、紅葉(もみじ)の方が面食らった。


「……そ、そう」


 思わず、声が上ずる。


「やっぱり、優しいから?」


「うんっ‼」


 これ以上ないほど、大きく頷く。


「あとね、あとね」


 黒(くろ)華(か)は、自分の髪の毛を一房つまんで見せた。


「しろくて、きれいだから」


「……ああ」


 紅葉(もみじ)は、窓の方へ視線を流した。


 朝日を透かした、あの白銀の髪。


 千年前に見た誰かの髪と、まったく同じ色をした――。


「そうね。雪みたいに綺麗だものね」


「うん」


 黒(くろ)華(か)は、こくこくと頷いて。


 それから、ほんの少しだけ声を落とした。


「……あとね」


「ん?」


「おねえちゃんも、きれいだよ」


「…………」


 紅葉(もみじ)は、瞬きをした。


 一度、二度。


(……誰のこと?)


 この部屋には、自分たち以外に誰もいない。


 だが、この子が〝おねえちゃん〟と呼ぶのは、あの白い少女のはずで。


 ――しかし、黒(くろ)華(か)の視線は、真っ直ぐにこちらを向いていた。


「……私?」


 紅葉(もみじ)は、自分の顔を指さした。


「うん」


 あっさりと、頷かれた。


「…………」


 黒曜石の瞳が、ほんの少し、泳いだ。


 この千年、綺麗だと言われたことがなかったわけではない。


 だが、こんなにも真っ直ぐな言い方をされたことは――。


「……あのね、黒(くろ)華(か)ちゃん」


 照れ隠しのつもりで、紅葉(もみじ)は自分の目元を指した。


「私、目つきが鋭いのよ。よく言われるの。……怖いでしょう?」


 黒(くろ)華(か)は、じいっと紅葉(もみじ)の顔を見つめた。


 それから、ふるふる、と首を横に振る。


「ううん」


 そして、たった一言。


「かっこいい」


「――……っ」


 紅葉(もみじ)は、咄(とっ)嗟(さ)に俯(うつむ)いた。


 長い黒髪が、ばさりと顔にかかる。


「……そう」


 声が、少しだけ震えていた。


「……ありがとう」


 髪の隙間から覗いた口元は、はにかむように、綻(ほころ)んでいた。





❆





(……白雪姫(こゆき)のおかげね)


 しばらくして、紅葉(もみじ)は思った。


 昨日の朝、この子は誰の顔を見ても震えていた。


 差し伸べられた手を叩(はた)き落とし、掛け布団の奥に縮こまっていた。


 その子が、今こうして、自分と言葉を交わしている。


 ――たった一人の少女が、この子の心を解(ほぐ)したのだ。


(……なら、私はもう一歩だけ、進んでみようかしら)


 紅葉(もみじ)は、姿勢を正した。


「――ねえ、黒(くろ)華(か)ちゃん」


「……なあに?」


「白雪姫(こゆき)たちが帰ってくるまで、まだずいぶん時間があるわ。……この建物の中、案内してあげましょうか」


「…………」


「あなたは、まだここのことを何も知らないでしょう。どこに何があるか分かった方が、暮らしやすいと思うの」


 言ってから、紅葉(もみじ)は付け加えた。


「もちろん、嫌なら断っていいのよ。無理に連れ回すつもりはないから」


 ――黒(くろ)華(か)は、しばらく迷っていた。


 膝の上で、指をもじもじと絡ませて。


 行きたい、と思う気持ちと。


 我儘を言ってはいけない、という思いと。


 ――我儘を、言っていいんだよ。


 朝の、あの声。


 小指の温度が、まだ残っている気がする。


「…………」


 やがて、黒(くろ)華(か)は。


 ごく小さく、遠慮がちに、こくっと頷いた。





❆





 昼前。


 二人は、並んで施設の廊下を歩いていた。


 ――並んで、とはいっても。


 その間には、大人一人分ほどの隙間が空いている。


(……これが、心の距離ってやつかしらね)


 紅葉(もみじ)は、そんなことを考えながら、一階の廊下を指し示した。


「ここがプレイホール。雨の日でも走り回れるように、床が広く取ってあるの」


「わあ……」


 体育館ほどもある空間に、黒(くろ)華(か)が目を輝かせる。


「その隣がプログラム室。研修の準備をしたり、道具を置いたりする部屋よ。……で、そっちが医務室」


「いむしつ?」


「怪我をしたり、具合が悪くなった時に行くところ。……あなた、体中に擦(す)り傷(きず)があるでしょう。あとで薬をもらいましょうね」


「……うん」


 階段を上がり、二階へ。


「創作室。工作なんかをする部屋ね。それから第二研修室」


 黒(くろ)華(か)は、背伸びをして窓から中を覗き込んでいる。


 その仕草が妙に微笑ましくて、紅葉(もみじ)は少しだけ足を緩めた。


「……ここが、第一研修室」


 次の扉の前で、紅葉(もみじ)は立ち止まった。


 中からは、微かに人の気配がする。


「今は、翠(み)織(おり)さんが使っているの。あの人はここで寝泊まりしてるから」


「…………」


 その名前を聞いた途端、黒(くろ)華(か)の足がぴたりと止まった。


 半歩、後ろに下がる。


「――大丈夫。入らないわ」


 紅葉(もみじ)は、穏(おだ)やかに言った。


「今日はお仕事が忙しいみたいだから、邪魔しちゃ悪いもの。……行きましょう」


 ほっとしたように、黒(くろ)華(か)が後をついてくる。


 その距離が、ほんの少しだけ縮まっていた。





❆





「――ここが、ラウンジ」


 窓の大きな、明るい部屋だった。


 壁際には自動販売機が二台並んでいる。


 紅葉(もみじ)は財布から小銭を取り出すと、無造作に投入口へ落とした。


「何が飲みたい?」


「……え」


「好きなのを選んでいいわよ」


 黒(くろ)華(か)は、ぱっと販売機に駆け寄って――そして、固まった。


 ずらりと並んだボタンを前に、指が宙(ちゅう)で彷(さ)徨(まよ)っている。


「……えらべない」


「じゃあ、これ」


 紅葉(もみじ)は、迷わずオレンジジュースのボタンを押した。


 がこん、と重い音を立てて、紙パックが落ちてくる。


「甘いものは、大抵の子供が好きだから」


「…………」


 差し出されたそれを、黒(くろ)華(か)は両手で受け取った。


 ストローを刺してやると、恐る恐る一口。


 ――そして、双(そう)眸(ぼう)がまん丸に見開かれた。


「……おいしいっ」


「そう。よかったわ」


 ちゅうちゅうと懸(けん)命(めい)に吸っている姿を、紅葉(もみじ)は横目で眺めていた。


 三階へ上がる。


「ここは宿泊室ね。あなたが今寝ている部屋も、この階よ」


 廊下の突き当たりまで歩き、紅葉(もみじ)は扉を示した。


「その先が大浴場。昨日、白雪姫(こゆき)と入ったところ」


「おふろ!」


「……ずいぶん気に入ったのね」


「あったかかった」


 次はテラス。


 行(むか)縢(ばき)の山が、正面に大きく聳(そび)えていた。


 深い緑の斜面と、灰(はい)白(はく)色(しょく)の岩肌。その中腹に、白い筋が一本走っている。


「あの白いのが、行縢の滝よ」


「たき……」


「日本の滝百選に選ばれてる、立派な滝。……いつか、白雪姫(こゆき)に連れて行ってもらうといいわ」


 そして、最後に。


 紅葉(もみじ)が押し開けた扉の先には、丸屋根の部屋があった。


「――天体観測ドーム」


「わ、わあ……っ」


 薄暗い室内の中央に、それは鎮座していた。


 人の背丈をゆうに越える、白い筒(つつ)。


 ずんぐりとした胴体が、斜め上を向いて静止している。


「口径四百ミリの、天体望遠鏡ですって」


「よんひゃく?」


「……ええと」


 紅葉(もみじ)は、少し困った。


「大きいってことよ。……ごめんなさい、私も使ったことがないの」


 千年生きていても、知らないものは知らない。


 平安の京に、こんなものはなかった。


「でも、星がとても大きく見えるらしいわ」


「ほし……」


 黒(くろ)華(か)は、爪(つま)先(さき)立ちになって、必死に望遠鏡を見上げていた。


 だが、五歳の背丈では、接眼部にはまるで届かない。


 その様子を、紅葉(もみじ)はしばらく眺めていて。


「……こっちにおいで」


 膝をついて、背中を向けた。


「え……?」


「肩に乗りなさい。……近くで見たいんでしょう」


 黒(くろ)華(か)は、ぽかんと口を開けて。


 それから、おずおずと紅葉(もみじ)の肩に、小さな足をかけた。


「――いくわよ」


 ぐん、と視界が持ち上がる。


「ふわあ……っ‼」


 天井が近い。望遠鏡が、目の前にある。


 黒(くろ)華(か)は両手をぱたぱたと振り回して、歓(かん)声(せい)を上げた。


「たかいっ、たかいよ‼」


「落ちるから、暴れないの」


 言いながら、紅葉(もみじ)は小さな足首をしっかりと押さえた。


 肩に乗っている重みは、驚くほど軽い。


(……この軽さで、あの森を歩いたのね)


 この肩に、こんなにも軽くて、こんなにも温かいものが乗っている。


(……悪くないわね)


 紅葉(もみじ)の口元が、微かに綻んだ。





❆





 外に出ると、春の風が頬を撫でた。


 施設の裏手には、広い敷地が広がっている。


「あっちがキャンプ場。テントを張って泊まれるようになってるの」


「……てんと」


「それから、そこが野外炊飯場。竈(かまど)で火を熾(おこ)して、みんなでカレーを作ったりするところよ」


 説明しながら、紅葉(もみじ)は最後の場所へと足を向けた。


 石を円形に並べた、広場。


 中央には、燃え残りの炭(すみ)が黒々と積まれている。


「――ここが、営火場」


「えいかじょう?」


「篝(かがり)火(び)を焚(た)くところ。……キャンプファイヤーって言った方が分かるかしら」


 ――その瞬間だった。


 紅葉(もみじ)の後ろで、黒(くろ)華(か)の足音が止まった。


「…………」


 振り返る。


 黒(くろ)華(か)は、円形の広場を見つめたまま、そわそわと体を揺(ゆ)らしていた。


 両手で服の裾を握り締め、視線が落ち着かない。


 そして、あれだけ空いていた距離を詰めて、紅葉(もみじ)のすぐ横まで寄ってくる。


(――しまった)


 紅葉(もみじ)は、奥歯を噛んだ。


 ――キャンプ。


 この子が親に捨てられた、あの日の口実。


「……ごめんなさい。配慮が足りなかったわ」


 膝を折って、紅葉(もみじ)は言った。


「怖かったら、すぐに戻りましょう。……ここは、あの日とは違うから」


「……ちがう」


 しかし、黒(くろ)華(か)は、首を横に振った。


「……ちがうの」


「え?」


「……なんか、へん」


 黒(くろ)華(か)は、自分の胸のあたりを、小さな手で押さえていた。


「……どうしたの? どこか痛い?」


 訊いても、黒(くろ)華(か)は答えなかった。


 ただ、落ち着きなく、山の方へ視線を向けている。


「黒(くろ)華(か)ちゃん――」


 ――そして、次の瞬間だった。





❆





 どくん、と。


 紅葉(もみじ)の胸(きょう)中(ちゅう)に、鈍(にぶ)い疼(うず)きが走った。


「――……っ」


 息が、詰まる。


 覚えのある感覚だった。


 いや――覚えがありすぎる。


 一昨日の夜。青い鳥居の下。


 海から這い上がってきた、あの異(い)形(ぎょう)が生まれた瞬間と、まったく同じ。


(――魔(ま)物(もの))


 紅葉(もみじ)は、素早く意識を研(と)ぎ澄(す)ました。


 濁った気配が、大気を這(は)っている。


 場所は――遠くない。


 施設の正門を出て、山道を下った先。


 この行縢に来るまでの、あの道中だ。


(……有り得ない)


 紅葉(もみじ)は、思わず山を見上げた。


 霊気に満ちた霊峰――行縢山。

 その麓に鎮座する行縢神社を鍵(かぎ)として、この一帯には強固な結界が張られている。


 神子の霊力すら覆い隠すほどの、深い霊気の帳(とばり)。


 ――そこへ、魔物が湧いた。


(……襲撃、というほどのことではない。この結界の内側で、大した個体が生まれるはずもないもの)


 それでも、と紅葉(もみじ)は思う。


 この土地に魔物が発生したという事実そのものが、一大事だった。


「――黒(くろ)華(か)ちゃん」


 紅葉(もみじ)は、黒(くろ)華(か)の肩に手を置いた。


「少しだけ、用事ができたの。……ここに座って、待っていてくれる?」


 営火場の脇に置かれた、石製の長椅子。


 そこへ座らせようとして――紅葉(もみじ)の手が、止まった。


 黒(くろ)華(か)の小さな指が、紅葉(もみじ)の服の裾を、ぎゅっと握り締めていたからだ。


「……黒(くろ)華(か)ちゃん?」


 力は、驚くほど強かった。


 放したら二度と会えないとでも思っているような、必死の握り方。


(――怖がっている)


 紅葉(もみじ)は、そう感じた。


 そして、その顔を覗き込んで――息を呑んだ。


「――……なに、これ」


 黒(くろ)華(か)の右の頬から額(ひたい)にかけて。


 黒い文(も)様(よう)が、肌の下から滲(にじ)み出るように浮かび上がっていた。


 蔓(つる)のような。あるいは、罅のような。


 墨(すみ)で描いたにしては、あまりにも整いすぎた紋。


 そして、その紋の周りから――微かに、黒(くろ)紫(むらさき)の気配が立ち昇(のぼ)っている。


(……魔力……?)


 紅葉(もみじ)の背筋が、冷えた。


 この子が魔力を持っていることは知っている。


 だが、これは何だ。


 この文様には、見覚えがない。千年生きて、一度も。


(――……いえ)


 考えかけて、紅葉(もみじ)は首を振った。


(今は、後回し)


 優先すべきは、魔物の方だ。


 放っておけば、山を下りて人里へ向かう。この道の先には、民家がある。


(……まずは、翠(み)織(おり)さんに連絡を――)


 思いかけて、紅葉(もみじ)は舌打ちしそうになった。


 翠(み)織(おり)の部屋は、二階の第一研修室。


 ここから戻り、階段を上がり、事情を説明して、それから山道を下る。


 ――時間が、掛かりすぎる。


(黒(くろ)華(か)ちゃんに伝えてもらう?)


 一瞬そう考えて、紅葉(もみじ)はすぐに却下した。


 この子は、翠(み)織(おり)を怖がっている。


 大人という存在そのものに、怯えている。


 そんな子供に、自分から大人の部屋の扉を叩けと言うのか。


(……そんな無理、させられるわけがないでしょう)


 結論は、すぐに出た。


(――こうなれば、私一人でやるしかない)


 幸い、相手は魔物だ。


 魔物一体程度なら、神(み)子(こ)一人で始末できる。


 まして、神(じん)器(ぎ)を顕(けん)現(げん)できる自分なら。


「……ごめんね、黒(くろ)華(か)ちゃん。案内は、また今度」


 紅葉(もみじ)は、黒(くろ)華(か)の手を取った。


 そして、足(あし)早(ばや)に施設の玄関まで戻る。





❆





 玄関で、紅葉(もみじ)は膝を折った。


「――いい? よく聞いて」


「…………」


「この階段を上がって、まっすぐ三階まで行くの。それで、朝いた部屋に戻っていなさい」


「…………」


「途中で、外には出ないこと。誰かに会っても、怖くないから。……できる?」


 黒(くろ)華(か)は、しばらく紅葉(もみじ)の顔を見つめていた。


 そして、こくん、と頷いた。


「……うん」


 返事は、あった。


 だが、その顔は晴れない。


 眉は下がったまま、口元は固く結ばれていて。


 ――頬に浮かんだ黒い文様も、消えていなかった。


「…………」


 紅葉(もみじ)は、一瞬だけ逡(しゅん)巡(じゅん)して。


 それから、口角を上げた。


 できるだけ、優しく。できるだけ、柔(やわ)らかく。


 ――白雪姫(こゆき)が、いつもそうしているように。


「……いい子ね」


 そう言って、黒(くろ)華(か)の頭に手を置き、ゆっくりと撫でた。


「すぐに戻るわ。白雪姫(こゆき)たちが帰ってくる頃には、ちゃんとね」


「……うん」


「約束よ」


 最後にもう一度だけ頭を撫でて、紅葉(もみじ)は立ち上がった。


 背を向け、玄関を出る。


 ――振り返らなかった。


 振り返れば、あの顔を見てしまう。


 見てしまえば、置いていけなくなる。


(……大丈夫。すぐに終わらせる)


 春の風が、長い黒髪を攫(さら)っていく。


 その先。


 山道の向こうに蟠(わだかま)る濁った気配へと――紅葉(もみじ)は、真っ直ぐに足を向けた。





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