第04話:〝紅い葉〟と〝黒い華〟
朝の光が、カーテンの隙間から一筋、床に落ちていた。
黒華の瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
最初に飛び込んできたのは、白だった。
雪みたいに真っ白な髪。すぐ目の前で、規則正しく上下している肩。
「…………」
夢じゃない。
昨日の夜、確かに――あしたも、いるよ――と言ってくれた、あの声の主が、ちゃんとそこにいる。
(――いた)
じわり、と胸の奥が温かくなって。
黒華は、へにゃりと笑った。
そして、そのまま、ぐいっと白雪姫の胸元に潜り込む。
「んむっ⁉」
突撃を受けた側が、当然、目を覚ました。
「え、え、なに、なに……⁉」
寝ぼけ眼で白雪姫が視線を落とすと、そこには黒い頭の天辺があった。
自分のパジャマに顔をぐりぐりと押し付けている、小さなつむじ。
「…………」
一瞬の混乱のあと、白雪姫の口元が、自然と緩んだ。
昨日、この子はこの腕の中で泣いていたのだ。
その同じ腕の中で、今朝は笑っている。
「……おはよう、黒華ちゃん」
白雪姫は、黒華の背中に腕を回して、そっと抱き締めた。
もう片方の手で、寝癖のついた黒髪を梳くように撫でてやる。
「……おはよ、おねえちゃん」
くぐもった声が、胸元から返ってくる。
その声が、あまりにも幸せそうだったものだから。
(……なんだろう、これ)
白雪姫は、天井を見上げて考えた。
守ってあげなきゃ、と思っていたはずなのに。
どうして自分の方が、こんなに満たされた気持ちになっているのだろう。
「――おはよう。ずいぶん賑やかね」
畳スペースの方から、淡々とした声が飛んできた。
振り向くと、紅葉がすでに着替えを済ませ、胡坐をかいて座っている。
「紅葉ちゃん、早い……」
「私は寝なくても平気だもの」
「そういう問題じゃないよ⁉」
賑やかな声に、今度は隣のベッドが、もぞりと動いた。
「……んぅ~……あと五分……」
「蒼波ちゃん、朝だよ」
「……あと三分……」
「減ってる」
布団の山が、しばらく蠢いて。
やがて、ぼさぼさ頭の蒼波が、のっそりと顔を出した。
そして、白雪姫の腕の中の小さな影を見つけて、ぴたりと固まる。
「…………」
「蒼波ちゃん?」
「……なんでもないっちゃ。うん。なんでもない」
妙に力の入った声で言って、蒼波はベッドから降りた。
その背中を見送りながら、紅葉が小さく息を吐く。
「……子供ね」
「聞こえちょるよ⁉」
❆
食堂は、朝から味噌汁の匂いで満ちていた。
四人でトレーを運び、いつもの長机に並んで座る。
黒華は当然のように白雪姫の隣を陣取って、両手を合わせた。
「……いただきます」
「上手上手。昨日より言えてるね」
焼き鮭の身を白雪姫がほぐしてやると、黒華はそれを口いっぱいに頬張った。
「あれ、翠織先生は?」
辺りを見回して、蒼波が首を傾げる。
「翠織さんなら、朝からずっと電話しているみたいよ」
紅葉が、湯呑みに口をつけたまま答えた。
「二階の廊下まで声が漏れてたわ。……相手は、多分〝上〟ね」
「……上」
その一言で、蒼波の箸が止まる。
白雪姫も、味噌汁の椀を持ったまま、ちらりと隣を見た。
黒華は、何も分かっていない顔で、卵焼きと格闘している。
(……大丈夫。翠織先生が、責任は取るって言ってくれたもん)
そう自分に言い聞かせて、白雪姫は話題を変えることにした。
「――そういえば蒼波ちゃん。今日は、行かないとだよね」
「あー……そうやね。昨日休んでるし、さすがに二日連続はまずいっちゃないかな」
蒼波は、はぁ、と大きな溜息をついた。
「港神社の件があった翌日やし、翠織先生が学校に連絡してくれたけど……」
「うん。〝体調不良〟で二日は、ちょっと不自然かも」
「そうそう。それに、今日は数学の小テストがあるやん?」
「……あ」
白雪姫の動きが、ぴたりと止まった。
「……小テスト?」
「知らんかった?」
「……知らなかった」
がっくりと肩を落とす白雪姫に、蒼波がけらけらと笑う。
その様子を、黒華は不思議そうに見上げていた。
❆
部屋に戻り、白雪姫は箪笥からセーラー服を取り出した。
紺色のセーラーカラーに、赤のスカーフ。
袖を通し、リボンを結び、鏡の前で襟を整える。
「…………」
その一部始終を、黒華はベッドの上から、じっと見つめていた。
膝を抱えて、瞬きもせずに。
「……おねえちゃん」
「ん?」
「……どこか、いくの?」
小さな声だった。
けれど、その声に含まれていたものに、白雪姫はすぐに気付いた。
――怯えだ。
「うん。学校に行ってくるんだ」
白雪姫は、努めて明るく答えた。
「蒼波ちゃんと一緒にね。夕方には帰ってくるよ」
「……がっこう」
黒華は、その言葉を口の中で転がして。
それから、ぱっと顔を上げた。
「わたしも、いく」
「え」
「わたしも、がっこう、いく」
ベッドから飛び降りて、黒華は白雪姫のスカートの裾を掴んだ。
「――えっと、黒華ちゃん」
白雪姫は、膝を折って目線を合わせた。
「学校はね、黒華ちゃんが行くところじゃないの。黒華ちゃんくらいの子は、まだ行けないんだよ」
「…………」
「だから、お留守番できるかな? もう一人のお姉ちゃんも一緒にいてくれるし――」
「やだっ‼」
弾かれたような声だった。
スカートを掴む手に、ぎゅうっと力がこもる。
「やだ、やだ! いっしょがいい‼」
部屋の空気が、びりりと震えた。
畳スペースに座っていた紅葉が、わずかに眉を動かす。
鞄を背負いかけていた蒼波も、動きを止めた。
――そして。
叫んだ黒華自身が、いちばん驚いていた。
「――……あ」
ぽかんと開いた口。
見開かれた陽だまりのような焦げ茶色の瞳が、ゆっくりと、自分の握り締めた手へと落ちていく。
――近付くな‼
――触るな‼
脳裏に、鬼のような顔が蘇る。
わがままを言ったら。
いい子にしていなかったら。
この人も、きっと。
「――ごめんなさいっ」
黒華は、弾かれたように手を離した。
そして、その場にぺたんと座り込み、頭を抱えるようにして小さくなる。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ……」
「黒華ちゃん⁉」
「わがまま、いわないから……いい子に、してるから……っ」
震える肩。
握り締められた、白い指先。
「――だから、たたかないでっ」
その一言が、部屋に落ちた。
蒼波が、息を呑む。
「…………」
白雪姫は、何も言わなかった。
ただ、床に膝をついて。
その小さな体を、正面から、まるごと抱き締めた。
「――……っ」
「……大丈夫だよ」
耳のすぐそばで、囁くように。
「叩かないよ。絶対に、叩かない」
背中を、ゆっくりと擦る。
昨日と同じように。何度でも。
「怒ってもないよ。黒華ちゃんは、悪いことなんてしてないもん」
「……でも、わたし……」
「黒華ちゃん」
白雪姫は、少しだけ体を離して。
まっすぐに、その顔を覗き込んだ。
「あのね。これからは、いっぱい我儘を言っていいんだよ」
「…………え」
「〝一緒にいたい〟も、〝やだ〟も、〝ちょうだい〟も。ぜんぶ言っていいの」
黒華の目が、まん丸になる。
「だって、それが言えないと、私、黒華ちゃんが何をしてほしいか分からないんだもん」
白雪姫は、にこりと笑った。
「困らせてくれていいんだよ。……それくらい、お姉ちゃんなんだから」
「――……ほんと……?」
「本当だよ」
迷いのない返事だった。
黒華の睫毛が、ふるふると震えて。
それから、こくん、と小さく頷いた。
「……ただね」
白雪姫は、申し訳なさそうに眉を下げる。
「これだけは、聞いてほしいの。学校には、どうしても行かなくちゃいけないんだ」
「…………」
「でも、なるべく早く帰ってくる。走って帰ってくるから」
小指を立てて、黒華の前に差し出す。
「だから、いい子にして待っててくれる?」
黒華は、その小指をじっと見つめて。
やがて、自分の小指を、そっと絡めた。
「……うん」
❆
玄関で靴を履きながら、蒼波がぽつりと言った。
「……白雪姫ちゃん」
「なに?」
「うち、さっきの、ちょっと泣きそうやった」
「……うん」
白雪姫は、それだけ答えた。
二人分の足音が、朝の砂利を踏んでいく。
振り返ると、三階の窓に、小さな影がひとつ。
白雪姫が大きく手を振ると、その影も、ぶんぶんと手を振り返した。
❆
――そして、部屋には二人だけが残された。
「…………」
「…………」
沈黙が、重い。
紅葉は畳スペースに座ったまま、窓の外を眺めるふりをしていた。
黒華は、白雪姫のベッドの上で、膝を抱えて座っている。
二人の間には、五メートルほどの距離と、それ以上の何かがあった。
(……気まずいわね)
千年以上を生きてきた身で、五歳児相手に何をやっているのか。
紅葉は内心で自嘲した。
――もっとも。
この子に対して、紅葉は最初から、妙な親しみを覚えていた。
この子が魂に宿しているのは、霊力ではなく魔力だ。
人でありながら、人ならざる力を抱えている。
(――私も、同じだもの)
自分の魂には、千年前に刻まれた〝魔神の断片〟がある。
間接的にとはいえ、魔力を宿した存在。
人でありながら、人ならざるもの。
――それに、もうひとつ。
(……〝落ちこぼれ〟)
神子の家系に生まれながら、いつまでも力の開花しなかった娘。
役立たず。穀潰し。家の恥。
千年前、実家の廊下で浴びせられた声は、今でも一言違わず思い出せる。
――〝永遠記憶〟という術は、時にひどく残酷だった。
(……居場所がないっていうのは、ああいうことよ)
だからだろうか。
あのベッドの上で膝を抱えている背中が、どうしても、他人事に思えなかった。
紅葉は、小さく息を吸った。
「――ねぇ、黒華ちゃん」
声は、あえて張らなかった。
驚かせないように。届く程度の、静かな音量で。
「…………」
肩が、ぴくりと震える。
黒い髪の隙間から、焦げ茶色の目がこちらを窺っていた。
「……そのまま、動かなくていいわ」
紅葉は、ゆっくりと立ち上がった。
畳を降りて、一歩。
「大丈夫。何もしないから」
二歩。
「近付くだけよ。……手も、伸ばさない」
三歩。
黒華が座っているベッドの、対角。
いちばん距離の取れる位置にあるベッドの端に、紅葉はそっと腰を下ろした。
それ以上は、近付かない。
「…………」
「…………」
また、沈黙。
だが、先ほどよりは、いくらか薄い沈黙だった。
「……ここでの暮らしは、どう」
紅葉が訊いた。
「やっていけそう?」
黒華は、喋らなかった。
代わりに、こくん、と頷く。
「……そう。それならよかった」
紅葉の口元が、微かに緩んだ。
「じゃあ、もうひとつ。……白雪姫お姉ちゃんのことは、好き?」
――その瞬間だった。
「だいすきっ‼」
黒華が、勢いよく顔を上げた。
膝から手を離し、身を乗り出さんばかりの満面の笑み。
あまりの変わりように、紅葉の方が面食らった。
「……そ、そう」
思わず、声が上ずる。
「やっぱり、優しいから?」
「うんっ‼」
これ以上ないほど、大きく頷く。
「あとね、あとね」
黒華は、自分の髪の毛を一房つまんで見せた。
「しろくて、きれいだから」
「……ああ」
紅葉は、窓の方へ視線を流した。
朝日を透かした、あの白銀の髪。
千年前に見た誰かの髪と、まったく同じ色をした――。
「そうね。雪みたいに綺麗だものね」
「うん」
黒華は、こくこくと頷いて。
それから、ほんの少しだけ声を落とした。
「……あとね」
「ん?」
「おねえちゃんも、きれいだよ」
「…………」
紅葉は、瞬きをした。
一度、二度。
(……誰のこと?)
この部屋には、自分たち以外に誰もいない。
だが、この子が〝おねえちゃん〟と呼ぶのは、あの白い少女のはずで。
――しかし、黒華の視線は、真っ直ぐにこちらを向いていた。
「……私?」
紅葉は、自分の顔を指さした。
「うん」
あっさりと、頷かれた。
「…………」
黒曜石の瞳が、ほんの少し、泳いだ。
この千年、綺麗だと言われたことがなかったわけではない。
だが、こんなにも真っ直ぐな言い方をされたことは――。
「……あのね、黒華ちゃん」
照れ隠しのつもりで、紅葉は自分の目元を指した。
「私、目つきが鋭いのよ。よく言われるの。……怖いでしょう?」
黒華は、じいっと紅葉の顔を見つめた。
それから、ふるふる、と首を横に振る。
「ううん」
そして、たった一言。
「かっこいい」
「――……っ」
紅葉は、咄嗟に俯いた。
長い黒髪が、ばさりと顔にかかる。
「……そう」
声が、少しだけ震えていた。
「……ありがとう」
髪の隙間から覗いた口元は、はにかむように、綻んでいた。
❆
(……白雪姫のおかげね)
しばらくして、紅葉は思った。
昨日の朝、この子は誰の顔を見ても震えていた。
差し伸べられた手を叩き落とし、掛け布団の奥に縮こまっていた。
その子が、今こうして、自分と言葉を交わしている。
――たった一人の少女が、この子の心を解したのだ。
(……なら、私はもう一歩だけ、進んでみようかしら)
紅葉は、姿勢を正した。
「――ねえ、黒華ちゃん」
「……なあに?」
「白雪姫たちが帰ってくるまで、まだずいぶん時間があるわ。……この建物の中、案内してあげましょうか」
「…………」
「あなたは、まだここのことを何も知らないでしょう。どこに何があるか分かった方が、暮らしやすいと思うの」
言ってから、紅葉は付け加えた。
「もちろん、嫌なら断っていいのよ。無理に連れ回すつもりはないから」
――黒華は、しばらく迷っていた。
膝の上で、指をもじもじと絡ませて。
行きたい、と思う気持ちと。
我儘を言ってはいけない、という思いと。
――我儘を、言っていいんだよ。
朝の、あの声。
小指の温度が、まだ残っている気がする。
「…………」
やがて、黒華は。
ごく小さく、遠慮がちに、こくっと頷いた。
❆
昼前。
二人は、並んで施設の廊下を歩いていた。
――並んで、とはいっても。
その間には、大人一人分ほどの隙間が空いている。
(……これが、心の距離ってやつかしらね)
紅葉は、そんなことを考えながら、一階の廊下を指し示した。
「ここがプレイホール。雨の日でも走り回れるように、床が広く取ってあるの」
「わあ……」
体育館ほどもある空間に、黒華が目を輝かせる。
「その隣がプログラム室。研修の準備をしたり、道具を置いたりする部屋よ。……で、そっちが医務室」
「いむしつ?」
「怪我をしたり、具合が悪くなった時に行くところ。……あなた、体中に擦り傷があるでしょう。あとで薬をもらいましょうね」
「……うん」
階段を上がり、二階へ。
「創作室。工作なんかをする部屋ね。それから第二研修室」
黒華は、背伸びをして窓から中を覗き込んでいる。
その仕草が妙に微笑ましくて、紅葉は少しだけ足を緩めた。
「……ここが、第一研修室」
次の扉の前で、紅葉は立ち止まった。
中からは、微かに人の気配がする。
「今は、翠織さんが使っているの。あの人はここで寝泊まりしてるから」
「…………」
その名前を聞いた途端、黒華の足がぴたりと止まった。
半歩、後ろに下がる。
「――大丈夫。入らないわ」
紅葉は、穏やかに言った。
「今日はお仕事が忙しいみたいだから、邪魔しちゃ悪いもの。……行きましょう」
ほっとしたように、黒華が後をついてくる。
その距離が、ほんの少しだけ縮まっていた。
❆
「――ここが、ラウンジ」
窓の大きな、明るい部屋だった。
壁際には自動販売機が二台並んでいる。
紅葉は財布から小銭を取り出すと、無造作に投入口へ落とした。
「何が飲みたい?」
「……え」
「好きなのを選んでいいわよ」
黒華は、ぱっと販売機に駆け寄って――そして、固まった。
ずらりと並んだボタンを前に、指が宙で彷徨っている。
「……えらべない」
「じゃあ、これ」
紅葉は、迷わずオレンジジュースのボタンを押した。
がこん、と重い音を立てて、紙パックが落ちてくる。
「甘いものは、大抵の子供が好きだから」
「…………」
差し出されたそれを、黒華は両手で受け取った。
ストローを刺してやると、恐る恐る一口。
――そして、双眸がまん丸に見開かれた。
「……おいしいっ」
「そう。よかったわ」
ちゅうちゅうと懸命に吸っている姿を、紅葉は横目で眺めていた。
三階へ上がる。
「ここは宿泊室ね。あなたが今寝ている部屋も、この階よ」
廊下の突き当たりまで歩き、紅葉は扉を示した。
「その先が大浴場。昨日、白雪姫と入ったところ」
「おふろ!」
「……ずいぶん気に入ったのね」
「あったかかった」
次はテラス。
行縢の山が、正面に大きく聳えていた。
深い緑の斜面と、灰白色の岩肌。その中腹に、白い筋が一本走っている。
「あの白いのが、行縢の滝よ」
「たき……」
「日本の滝百選に選ばれてる、立派な滝。……いつか、白雪姫に連れて行ってもらうといいわ」
そして、最後に。
紅葉が押し開けた扉の先には、丸屋根の部屋があった。
「――天体観測ドーム」
「わ、わあ……っ」
薄暗い室内の中央に、それは鎮座していた。
人の背丈をゆうに越える、白い筒。
ずんぐりとした胴体が、斜め上を向いて静止している。
「口径四百ミリの、天体望遠鏡ですって」
「よんひゃく?」
「……ええと」
紅葉は、少し困った。
「大きいってことよ。……ごめんなさい、私も使ったことがないの」
千年生きていても、知らないものは知らない。
平安の京に、こんなものはなかった。
「でも、星がとても大きく見えるらしいわ」
「ほし……」
黒華は、爪先立ちになって、必死に望遠鏡を見上げていた。
だが、五歳の背丈では、接眼部にはまるで届かない。
その様子を、紅葉はしばらく眺めていて。
「……こっちにおいで」
膝をついて、背中を向けた。
「え……?」
「肩に乗りなさい。……近くで見たいんでしょう」
黒華は、ぽかんと口を開けて。
それから、おずおずと紅葉の肩に、小さな足をかけた。
「――いくわよ」
ぐん、と視界が持ち上がる。
「ふわあ……っ‼」
天井が近い。望遠鏡が、目の前にある。
黒華は両手をぱたぱたと振り回して、歓声を上げた。
「たかいっ、たかいよ‼」
「落ちるから、暴れないの」
言いながら、紅葉は小さな足首をしっかりと押さえた。
肩に乗っている重みは、驚くほど軽い。
(……この軽さで、あの森を歩いたのね)
この肩に、こんなにも軽くて、こんなにも温かいものが乗っている。
(……悪くないわね)
紅葉の口元が、微かに綻んだ。
❆
外に出ると、春の風が頬を撫でた。
施設の裏手には、広い敷地が広がっている。
「あっちがキャンプ場。テントを張って泊まれるようになってるの」
「……てんと」
「それから、そこが野外炊飯場。竈で火を熾して、みんなでカレーを作ったりするところよ」
説明しながら、紅葉は最後の場所へと足を向けた。
石を円形に並べた、広場。
中央には、燃え残りの炭が黒々と積まれている。
「――ここが、営火場」
「えいかじょう?」
「篝火を焚くところ。……キャンプファイヤーって言った方が分かるかしら」
――その瞬間だった。
紅葉の後ろで、黒華の足音が止まった。
「…………」
振り返る。
黒華は、円形の広場を見つめたまま、そわそわと体を揺らしていた。
両手で服の裾を握り締め、視線が落ち着かない。
そして、あれだけ空いていた距離を詰めて、紅葉のすぐ横まで寄ってくる。
(――しまった)
紅葉は、奥歯を噛んだ。
――キャンプ。
この子が親に捨てられた、あの日の口実。
「……ごめんなさい。配慮が足りなかったわ」
膝を折って、紅葉は言った。
「怖かったら、すぐに戻りましょう。……ここは、あの日とは違うから」
「……ちがう」
しかし、黒華は、首を横に振った。
「……ちがうの」
「え?」
「……なんか、へん」
黒華は、自分の胸のあたりを、小さな手で押さえていた。
「……どうしたの? どこか痛い?」
訊いても、黒華は答えなかった。
ただ、落ち着きなく、山の方へ視線を向けている。
「黒華ちゃん――」
――そして、次の瞬間だった。
❆
どくん、と。
紅葉の胸中に、鈍い疼きが走った。
「――……っ」
息が、詰まる。
覚えのある感覚だった。
いや――覚えがありすぎる。
一昨日の夜。青い鳥居の下。
海から這い上がってきた、あの異形が生まれた瞬間と、まったく同じ。
(――魔物)
紅葉は、素早く意識を研ぎ澄ました。
濁った気配が、大気を這っている。
場所は――遠くない。
施設の正門を出て、山道を下った先。
この行縢に来るまでの、あの道中だ。
(……有り得ない)
紅葉は、思わず山を見上げた。
霊気に満ちた霊峰――行縢山。
その麓に鎮座する行縢神社を鍵として、この一帯には強固な結界が張られている。
神子の霊力すら覆い隠すほどの、深い霊気の帳。
――そこへ、魔物が湧いた。
(……襲撃、というほどのことではない。この結界の内側で、大した個体が生まれるはずもないもの)
それでも、と紅葉は思う。
この土地に魔物が発生したという事実そのものが、一大事だった。
「――黒華ちゃん」
紅葉は、黒華の肩に手を置いた。
「少しだけ、用事ができたの。……ここに座って、待っていてくれる?」
営火場の脇に置かれた、石製の長椅子。
そこへ座らせようとして――紅葉の手が、止まった。
黒華の小さな指が、紅葉の服の裾を、ぎゅっと握り締めていたからだ。
「……黒華ちゃん?」
力は、驚くほど強かった。
放したら二度と会えないとでも思っているような、必死の握り方。
(――怖がっている)
紅葉は、そう感じた。
そして、その顔を覗き込んで――息を呑んだ。
「――……なに、これ」
黒華の右の頬から額にかけて。
黒い文様が、肌の下から滲み出るように浮かび上がっていた。
蔓のような。あるいは、罅のような。
墨で描いたにしては、あまりにも整いすぎた紋。
そして、その紋の周りから――微かに、黒紫の気配が立ち昇っている。
(……魔力……?)
紅葉の背筋が、冷えた。
この子が魔力を持っていることは知っている。
だが、これは何だ。
この文様には、見覚えがない。千年生きて、一度も。
(――……いえ)
考えかけて、紅葉は首を振った。
(今は、後回し)
優先すべきは、魔物の方だ。
放っておけば、山を下りて人里へ向かう。この道の先には、民家がある。
(……まずは、翠織さんに連絡を――)
思いかけて、紅葉は舌打ちしそうになった。
翠織の部屋は、二階の第一研修室。
ここから戻り、階段を上がり、事情を説明して、それから山道を下る。
――時間が、掛かりすぎる。
(黒華ちゃんに伝えてもらう?)
一瞬そう考えて、紅葉はすぐに却下した。
この子は、翠織を怖がっている。
大人という存在そのものに、怯えている。
そんな子供に、自分から大人の部屋の扉を叩けと言うのか。
(……そんな無理、させられるわけがないでしょう)
結論は、すぐに出た。
(――こうなれば、私一人でやるしかない)
幸い、相手は魔物だ。
魔物一体程度なら、神子一人で始末できる。
まして、神器を顕現できる自分なら。
「……ごめんね、黒華ちゃん。案内は、また今度」
紅葉は、黒華の手を取った。
そして、足早に施設の玄関まで戻る。
❆
玄関で、紅葉は膝を折った。
「――いい? よく聞いて」
「…………」
「この階段を上がって、まっすぐ三階まで行くの。それで、朝いた部屋に戻っていなさい」
「…………」
「途中で、外には出ないこと。誰かに会っても、怖くないから。……できる?」
黒華は、しばらく紅葉の顔を見つめていた。
そして、こくん、と頷いた。
「……うん」
返事は、あった。
だが、その顔は晴れない。
眉は下がったまま、口元は固く結ばれていて。
――頬に浮かんだ黒い文様も、消えていなかった。
「…………」
紅葉は、一瞬だけ逡巡して。
それから、口角を上げた。
できるだけ、優しく。できるだけ、柔らかく。
――白雪姫が、いつもそうしているように。
「……いい子ね」
そう言って、黒華の頭に手を置き、ゆっくりと撫でた。
「すぐに戻るわ。白雪姫たちが帰ってくる頃には、ちゃんとね」
「……うん」
「約束よ」
最後にもう一度だけ頭を撫でて、紅葉は立ち上がった。
背を向け、玄関を出る。
――振り返らなかった。
振り返れば、あの顔を見てしまう。
見てしまえば、置いていけなくなる。
(……大丈夫。すぐに終わらせる)
春の風が、長い黒髪を攫っていく。
その先。
山道の向こうに蟠る濁った気配へと――紅葉は、真っ直ぐに足を向けた。
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