第03話:守るべきもの
泣き声が、少しずつ細くなっていく。
しゃくり上げる間隔が、だんだんと長くなって。
やがて、部屋の中には、鼻をすする小さな音だけが残った。
「…………」
白雪姫の胸元に押し付けられていた頭が、もぞり、と動く。
そして、ゆっくりと持ち上がった。
涙で濡れた睫毛。真っ赤になった目元。
鼻の頭まで赤らめて、黒華は白雪姫を見上げていた。
「……落ち着いた?」
白雪姫は、できるだけ穏やかに訊いた。
「……うん」
こくり、と。
黒華は頷いて、それから、へにゃりと笑った。
泣き腫らした顔のままの、ぐしゃぐしゃの笑顔。
――それを見た瞬間、白雪姫の胸の奥が、じんわりと温かくなった。
(……よかった)
と、黒華の視線が、ふと下に落ちる。
「……あっ」
「え?」
「……ごめんなさいっ」
黒華が、慌てて身を引いた。
小さな指が指しているのは、白雪姫の服の胸元。
涙と鼻水で、濃い色に滲んでしまっている。
「おようふく、ぬらしちゃった……」
しゅん、と。
あれだけ綻んでいた顔が、あっという間に俯いてしまう。
「あー……」
白雪姫は自分の胸元をつまんで、ひらひらと振ってみせた。
「これくらい平気だよ。洗えば落ちるもん」
「……でも」
「それに」
白雪姫は、にっと笑った。
「私、さっきまで外で組手してたから。もうとっくに汗でびしょびしょなんだ」
「……くみて?」
「えっとね、柔道とか空手みたいなやつ。ぽかぽか殴り合うの」
「……おねえちゃん、なぐるの?」
黒華の目が、まん丸に見開かれた。
「な、殴るっていうか、その、訓練っていうか……」
言い訳をしながら、白雪姫は内心で頭を抱えた。
(あー、紅葉ちゃんと運動してたって言った方がまだ印象がよかったかも……)
それでも、黒華の顔から曇りが消えたのだから、結果としては上々だった。
「……あのね」
黒華が、ぽつりと言った。
「おねえちゃんの、おなまえ。おしえて?」
――ああ。
そういえば、まだ名乗っていなかった。
自分ばかり、この子の名前を訊いておいて。
「……ごめんね。私の方が、後になっちゃった」
白雪姫は姿勢を正して、黒華と正面から向き合った。
「柊野白雪姫。〝白雪姫〟って呼んでね」
「……こゆき」
舌の上で転がすように、黒華はその音を繰り返した。
「しろい、ゆき」
「うん。そのまんまの名前でしょ?」
自分の白い髪の毛を一房つまんで、白雪姫はおどけてみせる。
黒華は、じっとそれを見つめて。
それから、両手を膝の上でぎゅっと握って、深く、ぺこりと頭を下げた。
「ありがと……白雪姫おねえちゃんっ」
「――……っ」
白雪姫の動きが、止まった。
じわじわと、耳の先が熱くなっていく。
(お、お姉ちゃん……⁉)
白雪姫は一人っ子だ。
親戚も近くにはいなかったし、そもそも学校でも誰かに頼られる側だったことがない。
いつも、誰かの背中を遠くから眺めているような子供だった。
――なのに、今。
こんなに小さな子が、自分のことを〝お姉ちゃん〟と呼んでいる。
「……い、いいんだよ。うん。いいんだよ、そんなの」
「おねえちゃん、おかおまっか」
「そ、そんなことないっ‼」
『――ふふ。可愛らしいこと』
(う、うるさいよ! 白櫻姫ちゃん‼)
胸の奥から響いてきた涼やかな笑い声を、白雪姫は必死に押し返した。
こほん、とわざとらしく咳払いをして、白雪姫は姿勢を戻す。
「……ねえ、黒華ちゃん」
「うん?」
「もう、大丈夫?」
「……うん。だいじょうぶ」
その返事に、迷いはなかった。
だから白雪姫は、もう一歩だけ、踏み込むことにした。
「じゃあ……もう一回、みんなと会える?」
――びくり、と。
黒華の肩が、明らかに強張った。
「多分、このドアの向こうに、まだいると思うから」
「…………」
視線が、白雪姫の顔から、扉の方へ。
それから、また膝の上へ、逃げるように戻ってくる。
小さな手が、シーツをぎゅっと握り締めた。
「……うん」
返ってきた声は、蚊の鳴くようだった。
(……あ)
白雪姫には、すぐに分かった。
この〝うん〟は、大丈夫の〝うん〟じゃない。
――白雪姫おねえちゃんが言うから、そうする。
そういう〝うん〟だ。
(まだ、全然大丈夫じゃないよね)
もう少し、二人きりでいてあげたかった。
この部屋の中でなら、この子はきっと、もっと笑ってくれる。
――だけど。
(ここで止まってたら、黒華ちゃんはずっと、この部屋から出られないままになっちゃう)
守るというのは、閉じ込めることじゃない。
そう思ったから、白雪姫はベッドから立ち上がった。
「――じゃあ、行こっか」
そして、右手を差し出す。
さっきと同じように、手のひらを上に向けて。
「……っ」
黒華は、少しだけ躊躇って。
それから、今度は迷わず、その手をぎゅっと握った。
さっきよりも、ずっと強い力で。
「うん」
二人分の足音が、床を踏む。
白雪姫は、扉の取っ手に手を掛けた。
❆
かちり、と。
扉が開く。
廊下では、翠織、蒼波、紅葉の三人が、先刻とまったく同じ場所に立っていた。
誰も、一歩も動いていなかったらしい。
「白雪姫ちゃん、どうやった? さっきすごい魔力反応が部屋から感じたけど――」
言いかけた蒼波の声が、途中で止まる。
「…………え」
琥珀に輝く焦げ茶色の目が、まん丸になった。
白雪姫の隣。
その白い手をしっかりと握って、烏羽色の髪の女の子が、半分体を隠すようにして立っていたからだ。
「……嘘」
「……早いわね」
紅葉が、壁から背を離す。
黒曜石のような瞳が、微かに見開かれていた。
「三十分も経ってないわよ、白雪姫」
「え、そんなに短かった?」
「短いわ。あれだけ怯えてた子が、手を繋ぐまでいくなんて……」
――翠織は、何も言わなかった。
ただ、その端整な顔に、ゆっくりと感嘆の色が広がっていく。
(……本当に、この子は)
たった三十分経たずで、白雪姫は黒華の心を開いた。
霊力でも、神器でもない。
ただ、その心根ひとつで。
「――先生」
白雪姫が、口を開いた。
「この子、黒華ちゃんっていいます。黒花黒華ちゃん。五歳です」
「黒花……黒華ちゃん」
翠織が、その名を噛み締めるように繰り返す。
それから白雪姫は、部屋の中で聞いたことを、ひとつずつ話していった。
――手から炎が出たこと。
――その炎で、母親が大やけどを負ったこと。
――それから両親に怯えられ、話しかけてもらえなくなったこと。
――久しぶりに誘われたキャンプで、森の奥に――待っててね――と置いていかれたこと。
――そして、二度と迎えが来なかったこと。
話が進むにつれて、廊下の空気が、重く沈んでいった。
「ちなみに、さっき三人が感じた魔力も、黒華ちゃんが出した炎です。私の冷気で消したので、被害はありませんから安心してください」
「……嘘やろ」
蒼波が、口元を押さえる。
「五歳の子を……森に……?」
「紅葉ちゃんと白櫻姫ちゃんの霊力が、黒華ちゃんの服から感じられました。……たぶん、昨夜の港神社の一撃です」
「……その子を助けたのが、私たちの流れ弾ってことね」
紅葉が、低く呟いた。
その声には、微かな安堵と、それを上回る苦さが混じっていた。
「――……そう」
翠織は、静かに息を吐いた。
そして、膝を折る。
深い緑のドレスの裾が、廊下の床にふわりと広がった。
「……ごめんなさいね」
黒華の目線に高さを合わせて、翠織は言った。
「そうとは知らずに、いきなり手なんて伸ばして。……怖かったでしょう」
「――……っ」
黒華は、白雪姫の背中に、勢いよく隠れた。
服の裾を握り込んで、そこからほんの少しだけ顔を出して、翠織を窺っている。
「…………」
翠織は、そのまましばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと立ち上がると、困ったように笑う。
「……完全に嫌われちゃったわね、私」
笑ってはいたが、その声には、隠しきれない寂しさがあった。
「あっ、そ、そういうんじゃないと思いますよ⁉」
白雪姫が、慌てて手を振る。
「どちらかというと……大人の人が、怖いんだと思います」
「……大人の人が」
「はい。黒華ちゃんを叩いたのも、置いていったのも、全部大人だったから」
――なるほど、と。
翠織は、納得したように目を伏せた。
その理屈は、神子の知識とは何の関係もない。
だが、あまりにも、筋が通っていた。
「……そっか。じゃあ、私が悪いってわけじゃないのね。ちょっとだけ、ホッとしたかも」
「白雪姫ちゃん、うちは? うちは大人じゃないよ?」
そう言って、蒼波がぱたぱたと近付いてくる。
「黒華ちゃん、はじめまして。うちは古閑蒼波。白雪姫ちゃんのお友達だよ」
「…………」
黒華は、白雪姫の後ろから顔だけを出して、じっと蒼波を見た。
そして。
すす、と。
また、背中の陰に引っ込んでしまった。
「……あれ?」
蒼波が固まる。
「あ、あれれ? うち、雫には懐かれちょっちゃけど……」
「それはあなたの妹だからでしょう」
紅葉が、淡々と切って捨てた。
そして、自分も一歩前へ出ようとして――やめた。
黒華の視線が、明らかに、こちらを警戒していたからだ。
(……まあ、当然か)
紅葉は小さく息を吐いて、その場に留まった。
この子にとって、自分たちはまだ〝知らない人〟でしかない。
――そして。
この短い時間で、この子が心を預けた相手は、たった一人だけ。
「……白雪姫ちゃんだけ、なんやね」
蒼波が、少しだけ眉を下げて呟いた。
その声に、嫉妬のような、羨ましさのような、複雑なものが滲んでいたことに、当の白雪姫は気付かなかった。
❆
「――白雪姫ちゃん」
場の空気が落ち着いた頃合いを見て、翠織が口を開いた。
その声色が、先ほどまでとは明らかに違っていた。
「……ひとつ、話しておかないといけないことがあるの」
「……はい」
白雪姫の背筋が、自然と伸びる。
「その子の話を聞いて、はっきりしたことがあるわ。……その子は、生きたまま魔力を宿している。霊力とは明らかに違う力も感じる上に、手から炎を出すというのは、そういうこと」
「…………」
「あなたも、教えたことは覚えているわね」
翠織は、声をひとつ落とした。
――そして、あえて、直接的な言葉を避けた。
「〝そうなってしまった者〟を、私たちは、どう扱うことになっているか」
――魔蝕者。
その単語を、翠織は口に出さなかった。
だが、白雪姫には、痛いほどに伝わった。
――魔蝕者になってしまった者は、神子として、倒さなければならない。
あの夜、この人が言った言葉だ。
「……先生」
「もちろん、断定はしないわ。この子は言葉を話すし、笑うし、痛みも分かる。私が知っているそれとは、まるで違う」
翠織は静かに続けた。
「けれど、〝分からない〟というのは、それだけで危険なの。……何も分からないまま、身元も分からない子をここに置いておくというのは、この施設にいる全員を賭けるということよ」
――神子管理組織。その肩書きを背負う大人としては、それが当然の判断だった。
感情ではなく、責任で物を言っている。
白雪姫にも、それは分かっていた。
分かっていた、けれど。
「――黒華ちゃん、ちょっとごめんね」
白雪姫は、身をかがめた。
そして、両手で、そっと黒華の耳を塞いだ。
「……?」
黒華が、きょとんと見上げてくる。
その顔をまっすぐ見つめ返して、白雪姫は、翠織に向き直った。
「――絶対に、嫌です」
廊下の空気が、張り詰めた。
「白雪姫ちゃん……」
「先生の言ってることが正しいのは、分かります。私、まだ神子になって日も浅いし、先生みたいに責任がある立場でもないから。……甘いって言われても、仕方ないと思ってます」
声は、震えていなかった。
「でも」
白雪姫は、まっすぐに翠織を見上げた。
「この子は、一回捨てられてるんです」
「――……」
「〝おかしなものを持ってるから〟って。それだけの理由で。……いちばん守ってくれるはずだった人たちに、森の真ん中に置いていかれたんです」
握った拳が、白くなっていた。
「同じことを、私たちがやるんですか?」
「…………」
「〝魔力を持ってるから危ないかもしれない〟って。それって、あの人たちが言ったのと、何が違うんですか」
――翠織は、答えなかった。
答えられなかった、というほうが近い。
「私は、嫌です」
白雪姫は、はっきりと言い切った。
「私が守ります。……ううん、私と、ここにいるみんなで、この子を守ります」
「――……困難な道になるわよ」
翠織の声が、低くなった。
「組織に知られれば、必ず調査が入る。この子の中の魔力が、いつ、どんな形で暴れるかも分からない。……あなたが傷付くことも、あなたのその手で止めなければならなくなることも、有り得るのよ」
最後の一言は、残酷だった。
わざと、そう言ったのだと分かった。
――それでも?
目でそう問われて。
「――それでも、です」
白雪姫は、一歩も引かなかった。
――ふ、と。
その横で、紅葉が笑った。
「……翠織さん。多分、何を言っても無駄だと思いますよ」
「紅葉ちゃん」
「私が保証する。この子、こうなったら絶対に折れないから」
紅葉は壁を離れ、白雪姫の隣に並んだ。
「それに――千年前、私も同じことを言われた側だから」
「……え?」
「私は神子の家系に生まれたにも関わらず、神子の力にいつまでも目覚めなかった。だから、〝落ちこぼれ〟〝穀潰し〟〝役に立たない〟。実家でも、周りでも、ずっとね」
紅葉の声は、いつもと変わらず淡々としていた。
だからこそ、その言葉は重かった。
「そんな私に、〝そんなことない〟って言い続けて、そんな私に手を差し伸べてくれた子がひとりいた。……あの子がいなかったら、私は千年前に、とっくに腐ってた」
――白櫻姫。
名前は出さなかった。出す必要もなかった。
「だから、私も白雪姫の行動を支持する」
「紅葉ちゃん……っ」
「うちもですっ‼」
勢いよく手を挙げたのは、蒼波だった。
「うちの父さんと母さんが、この子を拾ったんです。……だったら娘のうちも、責任を取ります」
握りこぶしを作って、蒼波は言い切った。
「それに――」
ちらり、と白雪姫を見る。
「白雪姫ちゃんが泣くようなことは、うちが絶対に許しませんから」
「……あ、蒼波ちゃん、それはちょっと怖いっちゃけど」
「怖くないよ?」
にっこりと笑う蒼波に、白雪姫は曖昧に頬を掻いた。
――そして。
三人分の視線を受けた翠織は、しばらく天井を仰いだあと。
はあ、と。
この日いちばん深い溜め息を吐いた。
「……ずるいわね、あなたたち」
「せ、先生?」
「大人ひとりに、三人がかりで」
その口調からは、もう険しさが消えていた。
「――分かったわ。あの子は、この施設で預かります」
「……っ‼」
白雪姫の顔が、ぱっと明るくなる。
「ただし」
人差し指が、ぴん、と立てられた。
「保護者としての責任は、私が取ります。組織への報告とか、この先何があっても、矢面に立つのは私。……そこは、子供が背負うところじゃないから」
「先生……」
「その代わり、条件がひとつ」
翠織は、白雪姫の目をまっすぐに見た。
「あの子の面倒は、あなたが見なさい。白雪姫ちゃん」
「……えっ」
「ごはんも、お風呂も、寝支度も。あの子が頼れるのは、今のところあなただけよ。……〝守る〟って言うのは、そういうことでしょう?」
――言い逃れの余地のない条件――だが、白雪姫の返事に、迷いはなかった。
「――はいっ‼」
その元気な返事を聞いて、翠織はようやく、いつもの柔らかな笑みを零した。
――と。
「……おねえちゃん」
ずっと耳を塞がれていた黒華が、もぞもぞと白雪姫の手を外した。
「なあに?」
「……おこられてた?」
「――ううん」
白雪姫は、屈み込んで笑った。
「黒華ちゃんが、今日からここに住んでいいって、許してもらってたの」
「…………ここに?」
「うん。私と一緒に」
黒華の目が、見開かれる。
そして。
その大きな瞳が、みるみるうちに潤んでいった。
「……いていいの?」
「いていいよ」
「……あしたも?」
「あしたも。あさっても」
――ぎゅう、と。
黒華は、白雪姫の腰に飛びついた。
その様子を眺めながら、翠織は、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……さて。問題は、上をどう誤魔化すか、なんだけれど」
❆
夕方。
むかばき青少年自然の家の大浴場は、白い湯気で満たされていた。
高い天井に、湯を汲む音が反響する。
「……お風呂、怖い?」
「……ううん」
黒華は首を横に振った。
――が。
その手は、白雪姫の腕を、決して離そうとしなかった。
ずっとだ。
服を脱ぐ時も、洗い場へ向かう時も、片手だけは、ずっと白雪姫の腕を握っている。
「……よし。じゃあ、髪の毛から洗おっか」
小さな椅子に黒華を座らせて、白雪姫はシャワーの温度を確かめた。
ぬるめ。少しだけ、ぬるめに。
「熱かったら言ってね」
「うん」
しゃあ、と湯が落ちる。
烏羽色の髪に、白い泡が広がっていく。
――何日も、洗えていなかったのだろう。
指の腹で地肌を梳くたび、砂の粒がじゃりじゃりと指に当たった。
(……いっぱい、歩いたんだね)
細い腕にも、膝にも、擦り傷と掻き傷が数えきれないほど残っている。
その一つ一つが、あの森の夜の記録だった。
「……痛くない?」
「うん。きもちいい」
黒華は目を閉じたまま、ふにゃりと笑った。
「おかあさんも、まえは、こうしてくれた」
「――……そっか」
白雪姫は、喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。
代わりに、もう少しだけ丁寧に、その髪を洗った。
――泡を流し終える頃には、烏羽色の髪は、見違えるほどの艶を取り戻していた。
「わ。黒華ちゃん、髪の毛きれいだね」
「……そう?」
湯船に浸かると、黒華は――はぁ――と、五歳児とは思えない年寄りくさい息を吐いた。
そして、湯の中でもやはり、白雪姫の腕をぎゅっと掴んだまま離さない。
「……おねえちゃん」
「うん?」
「あったかいね」
「……うん。あったかいね」
湯気の向こうの窓からは、夕焼けに染まった行縢の山影が見えていた。
❆
風呂から上がり、廊下を歩いて食堂へ向かう。
扉を開けた瞬間、甘辛い匂いが押し寄せてきた。
「――ぐぅ~……」
「あ」
黒華のお腹が、盛大に鳴った。
本人が驚いた顔で、自分のお腹を見下ろしている。
「……なった」
「なったね」
白雪姫が吹き出しかけたところで、奥のテーブルから声が飛んできた。
「黒華ちゃん、お腹すいたと?」
蒼波である。
いそいそと鞄を漁り、色鮮やかな袋を取り出した。
「うち、お菓子持ってきてたの。いる?」
「蒼波ちゃん、ご飯前だよ?」
「……あっ」
蒼波の手が止まる。
その間に挟まれた黒華は、袋と白雪姫の顔を交互に見て、あわあわと両手を彷徨わせた。
「……えっと、えっと」
食べたい。でも、白雪姫おねえちゃんがだめって言ってる。
でも、優しくしてくれてるお姉ちゃんの好意を断るのは、いけないことなんじゃないか。
そんな葛藤が、幼い顔に全て出ていた。
「――食べなくていいわよ」
そこへ、静かな声が割って入った。
紅葉である。
長机の端に腰掛けたまま、微笑んでいた。
「そんなもの、後からいくらでも食べられるもの。……今は、温かいものを食べた方がいいわ」
「……うん」
こくり、と黒華が頷く。
「ちょ、紅葉ちゃん⁉ 〝そんなもの〟って何⁉」
「事実でしょう」
「うちの大好物やっちゃけど⁉」
二人のやりとりに、白雪姫は思わず――ふふっ――と笑ってしまった。
――トレーを受け取り、長机に並ぶ。
今日の献立は、チキン南蛮だった。
「……っ、やったぁ」
「白雪姫ちゃん、今いちばんいい顔しちょったよ」
黒華は、白雪姫の隣の席にちょこんと座った。
両手を合わせるのは、白雪姫の真似をして、見様見真似で。
「……いただきます」
――そこからは、凄まじかった。
箸はまだ上手に使えないらしく、フォークを握り締めて、一心不乱に口へ運んでいく。
「黒華ちゃん、おいしい?」
「――おいしいっ‼」
口の周りをタルタルソースだらけにして、黒華は満面の笑顔で答えた。
頬には、ごはん粒が三つほど貼り付いている。
「……せっかくお風呂入ったのに……もう」
白雪姫は苦笑しながら、指でそれをひょいと摘み取った。
「ゆっくり食べていいんだよ。もう、誰も取ったりしないから」
「……うん」
もぐもぐと頬を膨らませながら、黒華が頷く。
――その様子を少し離れた席から、翠織は静かに眺めていた。
「……ふふ」
「先生、笑ってます」
「そうね」
翠織は、湯呑みを両手で包みながら、目を細めた。
「……あんなに美味しそうに食べる子、久しぶりに見たもの」
「……ですね」
蒼波も、頬杖をついて笑っている。
紅葉だけは、何も言わずに茶を啜っていたが。
その口元が、ほんの少しだけ緩んでいたことに、誰も気付かなかった。
❆
そして、就寝の時間。
「――黒華ちゃん、こっちのベッドが空いてるからね」
「やだ」
即答だった。
「え」
「白雪姫おねえちゃんと、ねる」
黒華は、白雪姫のパジャマの裾を両手で握り締めて、一歩も動かなかった。
「え、えっと、でもね? ベッド、そんなに大きくないから……」
「やだ」
「……黒華ちゃん」
「やだっ」
――完敗である。
(うーん、一応、二人ならギリギリ寝られる……かな?)
「……あー、うん。じゃあ、一緒に寝よっか」
「‼」
ぱあ、と黒華の顔が輝いた。
その様子を、隣のベッドから蒼波が恨めしそうに見つめている。
「……ずるい」
「え?」
「な、なんでもないっ‼」
布団を頭から被る蒼波。
「子供ね」
その様子を見ていた、畳スペースに座る紅葉が、窓の外を見つめながらそう呟いた。
――やがて、消灯。
窓の外では、行縢山が夜の闇に沈んでいる。
狭いベッドの中で、黒華は白雪姫の腕をぎゅっと掴んでいた。
もう、離すまいとするように。
「……おねえちゃん」
「うん?」
「あしたも、いる?」
「――いるよ」
白雪姫は、微笑んで、その小さな身体を抱き寄せた。
「明日も、明後日も、ずっといるよ」
「…………えへ」
黒華は嬉しそうに笑って、白雪姫の胸元に顔を埋めた。
それから、数分も経たないうちに。
すう、すう、と規則正しい寝息が聞こえ始めた。
(……はやっ)
白雪姫は思わず笑ってしまう。
腕の中の重みは、驚くほど軽かった。
この軽さで、あの森を何日も歩いたのだ。
(……もう、大丈夫だよ)
白雪姫は、そっと目を閉じ、胸元で眠る黒華の頭を優しく撫で続けた。
そんな黒華は、眠りながらも、小さく微笑んでいた。
❆
――深夜。
翠織が寝泊まりしている、第一研修室の明かりだけが、まだ点いていた。
机の上には、書きかけの書類。
〝一時保護〟、〝身元不明〟――そう書かれた欄の先で、翠織のペンは何度も止まっていた。
(……どこまで書くべきか、ね)
嘘は書けない。
だが、真実をそのまま書けば、あの子の件は即座に〝案件〟になる。
指先で眉間を押さえ、翠織は深く息を吐いた。
(……私だって本音を言えば、守ってあげたいものね。頑張らないと――ん?)
――その時だった。
ヴー、ヴー、と。
机の上のスマートフォンが、夜の静寂を裂くように震え出した。
「誰かしら――……っ」
画面を見て、翠織の表情が消える。
表示されていたのは、個人名ではなかった。
――相克庭。
それは、神子管理組織の名称だった。
ワンコール。ツーコール。
三コール目で、翠織は通話ボタンを押した。
「……はい。八雲です」
「夜分遅くに失礼します、八雲さん」
耳元に聞こえてきたのは、感情の読めない、事務的な男の声だった。
「観測部からの定時報告です。……本日未明より、行縢地区において魔力反応を観測しました」
――来た。
翠織の指先が、スマートフォンを強く握り締めた。
「微弱ですが、消えません。午前には強く反応した形跡もあります」
(……午前に部屋で起きたあれか)
「魔物の発生とも波形が異なります。……昨夜の港神社の件とは、別案件と見ています」
「…………」
「行縢は、あなたの管轄です」
男の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「――何か、心当たりはありませんか」
――十中八九。
いや、考えるまでもない。
あの子だ。
(……早いわね)
保護して、まだ半日と少し。
山全体が霊気で満ちている行縢は、本来、神子の強い霊力すら覆い隠す土地だ。
その遮蔽を貫いて、五歳の子供の微かな魔力を拾い上げてくる。
(……優秀。本当に、優秀だわ)
皮肉ではなく、純粋な評価として、翠織はそう思った。
同時に――背筋が、冷えた。
脳裏に浮かんだのは、数時間前の光景。
狭いベッドで、二人寄り添って眠る白と黒の髪。
――私と、ここにいるみんなで、この子を守ります。
あの真っ直ぐな声が、耳の奥で鳴っている。
――保護者としての責任は、私が取ります。
そう言ったのは、自分だ。
「……八雲さん?」
沈黙を訝しんだ声が、スマートフォンの向こうから届く。
「聞こえていますか。――行縢で観測された魔力について。何か、知っていることは」
翠織は、静かに目を閉じた。
窓の外。月のない夜空の下に、行縢山が黒々と横たわっている。
大きく、息を吸い込んで。
そして――。
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