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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第03章:〝魔〟を操る者
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第02話:耐えて、捨てられて、手に入れたもの――

 扉が閉まる音は、思っていたよりもずっと小さかった。


 かちり、と。ただ、それだけ。


 窓から差し込む朝の光が、床の上に四角い形を落としている。

 空気は先ほどと何ひとつ変わっていないはずなのに、白雪姫(こゆき)の肺には、やけに重たく感じられた。


 部屋の奥。壁際のベッドの上に、白い掛け布団の膨らみがひとつ。


「……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 その中から、途切れ途切れの声が、まだ漏れ続けていた。


 白雪姫(こゆき)は、足音を立てないように一歩を踏み出す。


 ぎしり、と床板が鳴った。


「――ッ‼」


 布団の膨らみが、跳ねるように縮こまる。


「……っ、ごめんね」


 思わず、その場で足を止めた。


(……そっか。音も、だめなんだ)


 胸の奥が、じくりと痛む。


 この子にとっては、近付いてくる足音そのものが、もう〝恐怖〟なのだ。


 白雪姫(こゆき)は、ゆっくりと膝を折った。


 そのまま、四つん這いになる一歩手前のような格好で、じりじりと床を進んでいく。


 立って歩けば、それだけで大きく見える。

 だったら――小さくなればいい。


 ベッドの脇まで辿り着くと、白雪姫(こゆき)はぺたんと床に座り込み、両膝をついた。


 ベッドの上で蹲(うずくま)る子の目線よりも、ずっと低い位置。

 顔を上げれば、自然と、下から見上げる形になる。


「……こんにちは」


 できるだけ、柔らかく。


 布団の端が、ほんのわずかに動いた。


 隙間から、目から上だけが覗く。

 陽だまりを透かしたような、温かな焦げ茶色の瞳。


 その瞳が、怯えたまま――白雪姫(こゆき)を捉えた。


 白雪姫(こゆき)は、動かなかった。


 近付きもしない。

 覗き込みもしない。


 ただ、そこに座ったまま。


 そして、右手を、そっと差し出した。


 ――翠(み)織(おり)のように、相手に向かって伸ばすのではなく。


 ベッドの縁の、シーツの上に。

 手のひらを上に向けて、ことん、と置いた。


 届く距離ではない。

 その子が、手を伸ばさなければ、決して触れられない距離。


「大丈夫だよ」


 白雪姫(こゆき)は、笑った。


「お布団、取ったりしないから」


 ――その声に。


 布団の中の子の視線が、ゆっくりと持ち上がった。


 手のひらから、腕へ。腕から、肩へ。

 そして、顔へ。


 そこで、初めて。


 二人の視線が、真(ま)っ直(す)ぐに重なり合った。


「……ぁ」


 小さな唇から、掠(かす)れた声が漏れる。


 雪のように真っ白な、長い髪。

 同じく白銀に煌(きら)めく、大きな瞳。


 ――人間の色では、なかった。


 こんな人間は、絵本の中にしかいない。


 なのに。


 その顔立ちは、あまりにも幼(おさな)くて、柔らかくて。

 少し赤らんだ頬も、綻(ほころ)んだ口元も、怖いところなど、どこにも見つからなかった。


(……このおねえちゃん、へん、なの……?)


 布団の中で、その子は思う。


(わたしと……おなじ……?)


 ――〝化(ば)け物(もの)〟。


 そう呼ばれたのは、自分だった。

 普通じゃないから。人と違うから。


 なのに、目の前の少女は。


 誰よりも普通じゃない色をして、そこで――笑っているのだ。


 強(こわ)張(ば)っていた肩から、ほんの少しだけ、力が抜けた。


 その子の視線が、再び、ベッドの上に置かれた白い手のひらへと戻る。


 そして。


 布団の隙間から、小さな右手が、おそるおそる、伸びてきた。


「――ゆっくりで大丈夫だよ」


 白雪姫(こゆき)は、動かない。


「拒んだりなんて、しないから」


 その言葉に背を押されるように。


 小さな手は、震えながら、少しずつ距離を詰めて――。


 ぺたり、と。


 白雪姫(こゆき)の手のひらの上に、触れた。


 ――温かい。


 その子は、目を瞠(みは)った。


 雪みたいな髪をしているのに。

 氷みたいな瞳をしているのに。


 その手のひらは、春の日だまりのように、じんわりと温かかった。


 白雪姫(こゆき)は、そっとその手を握り返す。


 ――その、瞬間だった。


 ぞくり、と。


 繋いだ手の内側で、何かが膨(ふく)れ上がった。





❆





「――えっ」


 ぼうっ、と。


 二人の手のひらの隙間から、黒く濁った紫色の炎が噴き上がった。


 安心と緊張が入り混じった、ほんの一瞬の揺らぎ。

 それが、幼い身体の奥に蟠(わだかま)っていた魔(ま)力(りょく)の栓を、いとも簡単に抜いてしまったのだ。


 炎は瞬(またた)く間に、白雪姫(こゆき)の右手を包み込む。


「――っ、あ」


 じゅっ、と。


 肉の焼ける、嫌(いや)な音がした。


「い、いやぁっ‼」


 悲鳴を上げたのは、白雪姫(こゆき)ではなかった。


「はなして……っ、はなしてぇっ‼」


 布団を跳(は)ね除(の)けて、その子は必死に腕を引き抜こうとする。


 顔は、まっ青(さお)だった。

 幼い頬に、じわりと黒い文様が浮かび上がっている。


「わたし、ばけものだからっ‼ やけどしちゃう‼ おかあさんみたいに、やけどしちゃうからぁっ‼」


 ――灼(や)けた背中。床の上でのた打ち回る母。


 ――触(さわ)るな‼


 あの日の光景が、目の前の白い手に重なって爆(は)ぜる。


 だから、離して。

 お願いだから、離して。


 わたしに触ったら、みんな、こうなっちゃうから――。


「――大丈夫」


 引き千切らんばかりに暴れる腕を。


 白雪姫(こゆき)は、逆に、ぎゅっと強く握り返した。


「……えっ」


 その子の動きが、止まる。


 燃え上がる炎の向こう。


 白い髪の少女は、眉ひとつ動かしていなかった。


「私もね――」


 白雪姫(こゆき)は、笑ったまま言った。


「――少しだけ、化け物みたいなものだから」


 ――ふっ、と。


 部屋の温度が、下がった。


 繋がれた手の周りで、宙に漂(ただよ)う埃(ほこり)が白く凍(い)てつき、きらきらと舞い始める。


 窓ガラスに、みるみるうちに霜(しも)の花が咲いていった。


 まだ霊(れい)術(じゅつ)と呼べるほどの形にはならない、ただの、ありったけの冷気。


 それが、二人の手のひらを芯から包み込んでいく。


「……っ」


 黒紫の炎が、怯(ひる)むように縮み。


 やがて、しゅう、と白い靄(もや)に変わって――掻(か)き消えた。


 あとに残ったのは。


 繋がれたままの、二つの手だけだった。


「…………」


 その子は、呆(ほう)然(ぜん)とそれを見つめていた。


 消えている。


 あの、誰にも止められなかった炎が。

 お母さんの背中を焼いた、あの炎が。


 この、お姉ちゃんの手の中で、あっさりと。


「……けせ、るの……?」


 声が、震えていた。


「うん」


「……こわく、ないの……?」


「怖くないよ」


 白雪姫(こゆき)は、握った手を、ゆるく揺らしてみせた。


「だって、私の方が、たぶん冷たいもん」


 ――その瞬間。


 幼い胸の中で、何かが、音を立てて崩れた。


 ずっと、ひとりだと思っていた。


 この世界で、こんな変なものを持っているのは、自分だけなのだと思っていた。


 だから捨てられたのだと。仕方がないのだと。


 ――なのに。


(……いた……)


 わたしと、おなじ人が。


 わたしを、怖がらない人が。


 ここに、いた。





❆





 もう大丈夫だろう。


 そう判断した白雪姫(こゆき)は、手を繋いだまま、ゆっくりとベッドの端に腰を下ろした。


 少しだけ軋(きし)む、木材でできた施(し)設(せつ)のベッド。


「おいで」


 空いた左手で、隣をぽんぽん、と叩く。


「…………」


 その子は、少しだけ迷った。


 それから、掛け布団を引きずったまま、おずおずと膝で進み――ちょこん、と白雪姫(こゆき)の隣に座った。


 肩が触れ合う距離。


 その子は、ぎゅっと白雪姫(こゆき)の手を握り直した。


(……小さい)


 白雪姫(こゆき)の胸が、また少しだけ痛む。


 握り返す力が、あまりにも弱い。

 なのに、決して離そうとしない。


「ねえ」


 できるだけ、世間話のように。


「お名前、教えてもらってもいい?」


「…………」


 しばしの、沈黙。


 やがて、消え入りそうな声が返ってきた。


「……黒花……黒華」


「くろばな、くろかちゃん」


「……うん」


「じゃあ、黒(くろ)華(か)ちゃんだ」


 白雪姫(こゆき)がそう呼んだ瞬間、黒(くろ)華(か)の肩が、びくりと跳ねた。


 ――名前で、呼ばれた。


 もう、ずいぶん長いこと呼ばれていなかった。

 〝化け物〟でも、〝お前〟でもなく。


「……うんっ」


 黒(くろ)華(か)は、こくこくと頷いた。


「黒(くろ)華(か)ちゃんは、いくつ?」


「……ごさい」


 小さな左手が、ぴん、と五本の指を立てて掲(かか)げられる。


「わあ、五歳かあ。もうお姉さんだね」


「……おねえさん?」


「うん。だって、ちゃんとお名前も言えるし、指も五本出せたもん」


「……えへ」


 ほんの一瞬。


 黒(くろ)華(か)の口元が、ゆるりと綻んだ。


 それを見て、白雪姫(こゆき)の胸に、じんわりと温かいものが広がる。


(……よかった。ちゃんと、笑えるんだ)


「ねえ、黒(くろ)華(か)ちゃん。おうちは、どこ?」


「……おうち」


「うん。どんなところにあったか、覚えてる?」


「…………」


 黒(くろ)華(か)は、しばらく俯(うつむ)いて考え込んでいたが。


「……わかんない」


 ふるふる、と首を横に振った。


「おっきいおうち……だったとおもう。おおきい、しかくいの。……でも、どこかは、わかんない」


「そっか」


 無理もない、と白雪姫(こゆき)は思う。


 まだ小学校にも上がっていない子だ。

 自分の家の住所を諳(そら)んじられる方が、よほど珍しい。


(……お父さんとお母さんのことは……)


 訊いてみようとして、白雪姫(こゆき)の言葉が、喉(のど)の奥で引っ掛かった。


 ――たたかないで。ぶたないで。


 さっき、この子が布団の中で繰り返していた言葉。

 差し出された翠(み)織(おり)の手を、反射で弾いたあの動き。


(……訊いちゃ、だめだ。今は、まだ)


 そう思って、口を噤(つぐ)んだ、その時だった。


「……あのね」


 ぽつり、と。


 黒(くろ)華(か)の方から、声がした。


「おかあさん、やけどしちゃったの」


「…………」


「わたしのてから、ぼうって、おひさまみたいなのが出て。……おうちが、もえちゃって」


 小さな手が、白雪姫(こゆき)の手を、ぎゅう、と握り締める。


「おかあさん、わたしのこと、かばってくれたの。……それで、せなかがね、まっかっかになっちゃって」


「……うん」


「あついあついって、ずっと、ないてた」


 白雪姫(こゆき)は、ただ相(あい)槌(づち)を打つ。


 言葉を挟むことが、恐ろしかった。


「……そしたらね」


 黒(くろ)華(か)の声が、少しだけ小さくなる。


「おかあさん、こわいかおしたの」


 ――こわいかお。


 たった五文字。


 その五文字に詰め込まれたものの重さに、白雪姫(こゆき)は息が詰まりそうになった。


「それから、あそんでくれなくなって。ごはんも、ひとりでたべるようになって。……おとうさんも、ちかづくなって」


「…………」


「でもね、でもねっ」


 黒(くろ)華(か)が、ぱっと顔を上げた。


 その瞳が、縋(すが)るように白雪姫(こゆき)を見る。


「このまえ、ひさしぶりにおはなししてくれたのっ。キャンプいこうって。かぞくみんなでって、おとうさんが、わらってくれたのっ」


「……うん」


「だから、わたし、いいこにしてたの。まっててねって、いわれたから。ずっと、まってたのっ」


 ――ずっと。


 その言葉を口にした瞬間。


 黒(くろ)華(か)の声から、勢いが抜けた。


「……でも、こなかった」


 掛け布団を握る手に、力が入る。


「くらくなって。……ずっと、まってたのに。こなかったの」


「…………」


「だから、あるいてかえろうとしたの。でもね、こわいどうぶつが出てきて」


「……こわい、動物?」


「うん。まっくろで、おっきくて。よだれがいっぱいでてて」


 ――魔(ま)物(もの)だ。


 白雪姫(こゆき)の背筋を、冷たいものが走り抜けた。


「たべられちゃうっておもったの。そしたらね」


 その時。


 初めて、黒(くろ)華(か)の顔に、綺麗な笑みが浮かんだ。


「あかいおはなが、いっぱい、ぶわぁーって、とんできて」


 小さな両手を広げて、懸命に再現してみせる。


「それで、ドカンってして。……こわいどうぶつ、いなくなっちゃった」


「――……っ」


 白雪姫(こゆき)は、息を呑(の)んだ。


 赤い花。


 ――紅(あか)い、桜の花びら。


(……まさか)


 考えるより先に、身体が動いていた。


 繋いだ手を通して、意識を研(と)ぎ澄(す)ませる。


 白櫻姫(こさき)や翠(み)織(おり)に叩き込まれた、神(み)子(こ)にとっての基本――霊(れい)力(りょく)感(かん)知(ち)。


(――黒(くろ)華(か)ちゃんの、魂(たましい)の、外側……服……髪……肌……)


 途端。


 肌から、粟(あわ)立(だ)つほどの情報が流れ込んできた。


 ――焼けつくような、苛(か)烈(れつ)な火(か)の気(け)。


(……紅葉(もみじ)ちゃんだ)


 間違いない。あの不(ふ)死(し)鳥(ちょう)の炎の残り香(が)。


 ――そして、それに寄り添うような、温かく眩(まぶ)しい、命そのものの気(け)配(はい)。


(これは、白櫻姫(こさき)ちゃんの……)


 白櫻姫(こさき)の霊力。


 二つが混じり合い、溶け合った残(ざん)滓(し)が、この子の服と髪に、うっすらと纏(まと)わりついている。


 そして、その奥に。


 粘つくような、巨大で異様な――魔力の名(な)残(ごり)。


(……この魔力……あの、海(かい)龍(りゅう)の……⁉)


『――ええ。間違いないでしょうね』


 胸の奥から、涼(すず)やかな声が響いた。


『あの夜、わたくしと紅葉(もみじ)が海岸で放った一撃。その余(よ)波(は)です』


(……じゃあ、この子……)


『ええ。この子が森を彷(さ)徨(まよ)っていたのは、ほんの数日前――昨(さく)夜(や)か、その前夜。……つい、先(せん)刻(こく)の出来事ということになりますね』


 白雪姫(こゆき)は、隣に座る小さな身体を見た。


 あの日、自分たちが海岸で戦っていた、まさにその時。


 この子は、山の向(む)こうの森の中で、たった一人で魔物に追われていたのだ。


 ――そして、あの時の戦いで放たれた一撃で、助かった。


(こんなに小さい子が……一人で……っ)


 誰にも気付かれないまま。

 誰にも、名前を呼ばれないまま。


「……それからは?」


「……おぼえてない」


 黒(くろ)華(か)は、こてん、と首を傾(かし)げた。


「あるいてたら、うみがあって。……そしたら、ねむくなっちゃって。おきたら、ここだったの」


「……そっか」


 白雪姫(こゆき)は、繋いだ手に、そっと力を込めた。


(……お父さんとお母さんは、たぶん)


 考えたくは、なかった。


 けれど、黒(くろ)華(か)の話を順に並べれば、答えは一つしかない。


 炎を出した。母親が火(や)傷(けど)を負った。怖がられた。

 そして――待っててね――と言われて、森に置いていかれた。


(……捨てられた……ってことだよね。この子)


 拳を握り締めたくなる衝(しょう)動(どう)を、白雪姫(こゆき)は必死に堪(こら)えた。


 繋いだ手が震えたら、この子はきっと、自分のせいだと思ってしまう。


(……落ち着け。落ち着くっちゃ、私)


 深く、息を吸う。


 ――だが、冷静になった思考は、今度は別のものを差し出してきた。


 この子は、魔力を持っている。


 人間なのに。生きているのに。


(……人間で、魔力を持ってるのって……)


 脳(のう)裏(り)に、翠(み)織(おり)の言葉が甦(よみがえ)る。


 ――魔(ま)蝕(しょく)者(しゃ)。


 人間、あるいは神子が、魔力に魂を汚(けが)された存在。


(……ちがう。ちがうよね)


 白雪姫(こゆき)は、隣を見た。


 学校に現れた、あの魔蝕者。


 言葉にならない呻(うめ)きを上げ、爛(ただ)れた腕を振り回し、ただ霊力や魔力を求めるだけの成(な)れの果(は)て。


 ――比べるまでもない。


 この子は笑う。怯える。名前を名乗る。


 お母さんに火傷をさせたことを、五歳の頭で、ずっと背負い続けている。


(……こんなに、優しいのに)


 それでも。


 白雪姫(こゆき)の中で、あの日聞いた声が、消えてくれない。


 紅葉(もみじ)が暴走した、あの夜。

 自分に言い聞かせるように、翠(み)織(おり)はこう言った。


「魔蝕者になってしまった者は――神子として、倒さなければならないの」


 ――だとすれば。


 この子は、自分たちにとっては。


 ――敵(てき)。


「――っ‼」


 白雪姫(こゆき)は、勢いよく首を横に振った。


 白い髪が、朝日の中で大きく跳ねる。


「……おねえちゃん?」


 黒(くろ)華(か)が、きょとんと見上げてくる。


「……ううん。なんでもない」


(……ちがう。そんなの、絶対にちがう)


 魔力を持っているから。化け物だから。

 そんな理由で、この子は一度、世界から切り捨てられたのだ。


 両親に。

 たった一人の、味方のはずだった人たちに。


(……それを、私までやるの?)


 冗談じゃない。


 自分は、そんなことのために、あの日生き残ったわけじゃない。


『……白雪姫(こゆき)』


(……大丈夫だよ、白櫻姫(こさき)ちゃん)


 胸の奥に、白雪姫(こゆき)は静かに答えた。


(もう、決めたから)


『――くすっ。聞くまでもありませんでしたね』


 涼やかな声には、微(かす)かな笑いが混じっていた。


『あなたは、そういう人です』


(……でも、白櫻姫(こさき)ちゃんはいいの……?)


『わたくしは、自分の信じることをするのみです。それに、この体に宿った時から誓っていました。あなたの決めた道なら、わたくしはそれを信じると』


(……ふふっ、ありがとう。白櫻姫(こさき)ちゃん)


 白雪姫(こゆき)は、そっと息を吐いた。


 それから、繋いでいた手を、ゆっくりと解(ほど)いて――。


「……え?」


 不安げに揺れた黒(くろ)華(か)の身体を、両腕で、そっと包み込んだ。


「……っ⁉」


 警戒させないように、ゆっくりと。

 痛くないように、力は込めず。


 左手で、小さな背中を撫(な)でる。

 右手で、烏(からす)羽(ば)色(いろ)の頭を、梳(す)くように撫でる。


「怖かったね」


「……ぁ」


「ずっと、ひとりで。……いっぱい、歩いたね」


「…………」


「痛かったね。お腹も、空いたよね。……いっぱい、我慢したね」


 その一つ一つが、黒(くろ)華(か)の中の、固く凍(こお)りついていた何かに、爪(つめ)を立てていく。


「――だけど、もう大丈夫だよ」


 白雪姫(こゆき)は、耳元で囁(ささや)いた。


「私と、ここにいるみんなが、黒(くろ)華(か)ちゃんのこと、守ってあげるから」


 ――守ってあげる。


 その言葉が、黒(くろ)華(か)の中に落ちた瞬間。


 ぽろり、と。


 大きな瞳から、雫(しずく)が零(こぼ)れ落ちた。


「……ぅ」


 一粒。二粒。


 止まらない。


「……ぁ、ぁあ……」


 喉の奥から、言葉にならない声が押し出されてくる。


 黒(くろ)華(か)は、白雪姫(こゆき)の服に顔を埋(うず)めた。


「うぁ……ぁああ……っ、うぁああああんっ‼」


 ――堰(せき)が、切れた。


 ずっと我慢していたもの。

 ずっと呑み込んできたもの。


 叩かれても、怒鳴られても、置き去りにされても。


 ――いい子にしていれば、また笑ってくれるはずだから。


 そう信じて、必死に蓋をしてきた一年分の哀(かな)しみが。


 今、白雪姫(こゆき)の胸の中で、一度に溢(あふ)れ出していた。


「こわかったぁ……っ、こわかったよぉっ‼」


「……うん」


「わたし、いいこにしてたのにっ‼ まっててっていうから、まってたのにぃっ‼」


「……うん。うん」


「なんで……なんでっ、むかえにきてくれないのぉっ⁉」


 ――答えは、白雪姫(こゆき)にも出せなかった。


 だから、代わりに。


 白雪姫(こゆき)は、腕に少しだけ、力(ちから)を込めた。


 ぎゅう、と。


 この子が、二度と落ちていかないように。


「……うん。ここにいるよ」


 白い髪が、黒(くろ)華(か)の黒い髪に零れかかる。


「私は、どこにも行かないから」


 窓の外では、行(むか)縢(ばき)の山が、朝の光を浴(あ)びて静かに佇(たたず)んでいた。


 部屋の中には、しばらくの間。


 小さな嗚(お)咽(えつ)だけが、途切れることなく響き続けていた。





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