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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第03章:〝魔〟を操る者
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第01話:恐怖の出会い

 延(のべ)岡(おか)の朝は、潮の匂いから始まる。


 夜のうちに冷え切った砂が、昇り始めた陽にゆっくりと温められていく。


 寄せては返す波が、白い縁取りを引いては消し、引いては消して――砂浜には、まだ誰の足跡もついていなかった。


 長(なが)浜(はま)。ヘルストピアの建物を横目に、どこまでも緩やかに伸びる海岸である。


「……お父さん、あるくの、はやい」


 ぱたぱたと後ろから追いかけてきたのは、古(こ)閑(が)雫(しずく)だった。


 素朴なベージュの着物の上から、父の半(はん)纏(てん)を借りて羽織っている。


 袖が余りすぎて、両手はすっかり布の中に隠れてしまっていた。


「おお、悪い悪い。……つい、な」


 振り返ったのは、坊主頭の大柄な男――古(こ)閑(が)公(きみ)水(みず)。


 那(な)智(ち)山(さん)如(にょ)意(い)輪(りん)寺(じ)の現住職であり、雫(しずく)と蒼(あお)波(ば)の父親だ。


 娘の歩幅に合わせて、公(きみ)水(みず)は歩調を落とす。


「そもそもお前、ついてこんでよかったっちゃが」


「……だって、お父さんだけずるい」


 むうっと膨(ふく)れる雫(しずく)に、公(きみ)水(みず)は苦笑した。


 ――昨(さく)夜(や)のことだ。


 蒼(あお)波(ば)が、大人の女性を一人と、雪のように白い髪の少女を一人連れて、ふらりと寺へ帰ってきた。


 顔を見せに来ただけだと娘は言っていたが、あの髪と、あの目の色。そして何より、娘の纏(まと)っていた空気。


(……あれで、何もなかったっちゃ思えんわな)


 港(みなと)神(じん)社(じゃ)の方角で、何かがあった。


 それも、神(み)子(こ)である娘が出ていかねばならんような、何かが。


 だから、朝のうちに見てきたのだ。


 青い鳥居も、本殿も、玉砂利の一粒に至るまで、何ひとつ欠けてはいなかった。


(……よかった。あとは、八(や)雲(くも)さんに一報入れとくだけやな)


 朝の散歩がてら、というのは半分本当で、半分は口実だった。


 娘の生きる世界に、親が踏み込めることなど、たかが知れている。それでも、できることはしておきたかった。


「お父さん」


「うん?」


「蒼(あお)波(ば)おねえちゃん、いつ帰ってくると?」


 小さな手が、半纏の袖ごと父の指を握った。


 公(きみ)水(みず)はしばらく黙って、それから娘の頭に、ごつごつとした手のひらを乗せた。


「……そうやなあ。あいつは今、大事な修行の途中やから」


 嘘は言っていない。だが、全部でもない。


「けど、ちゃんと帰ってくる。あいつはしっかりしちょるからな」


「……うん」


 納得したのかしていないのか、雫(しずく)は小さく頷(うなず)いて、また海の方へ視線を戻した。


 ――そして。


「……あ」


 その足が、ぴたりと止まる。


「お父さん。……あそこ、なにかおる」


 細い指が指したのは、波打ち際から少し離れた、乾いた砂の上だった。


 流木か。あるいは、打ち上げられた藻(も)の塊(かたまり)か。


 朝の逆光の中では、最初はそう見えた。


 だが、目を細めた瞬間――公(きみ)水(みず)の背中を、冷たいものが走り抜けた。


 人だ。

 しかも、ひどく小さい。


「――雫(しずく)っ、そこを動くな‼」


「え、お父さ――」


 言い終わるより早く、公(きみ)水(みず)は砂を蹴っていた。





❆





 うつ伏せに倒れていたのは、幼い女の子だった。


「聞こえるか‼ おい、しっかりせえ‼」


 肩に手を添え、慎重に仰向けにする。


 烏(からす)羽(ば)色(いろ)の長い黒髪が、砂と海水を吸って束(たば)になっていた。

 その隙間から覗いた顔は、血の気というものを忘れてしまったように白い。


 鼻先に手をかざす。


「……息は、ある」


 だが、あまりにも浅く、あまりにも速い。

 小鳥が怯(おび)えて震えているような、頼りない呼吸だった。


 服はあちこちが裂け、泥と垢(あか)で元の色すら分からない。

 むき出しの脚は擦り傷だらけで、爪の間には土が詰まっている。唇(くちびる)は乾き切って、白く罅(ひび)割れていた。


(迷子……いや、こりゃあ違う)


 一晩や二晩で、こうはならない。


(何日だ。何日、こんな格好で歩き回っちょったんだ、この子は)


 抱き起こそうとして、公(きみ)水(みず)は思わず息を呑んだ。


「――冷たいっ」


 汗と海水と泥を吸った衣服が、幼い体温を根こそぎ奪っていた。

 指も、耳も、頬(ほお)も。生きている人間のものとは思えないほど冷えきっている。


(救急車……いや、こんな砂浜まで入ってくるのに何分かかる。担いで走った方が早い)


 判断は一瞬だった。


「よし。……ごめんな、揺れるぞ」


 背に負い上げた身体は、羽根のように軽かった。

 五つか、六つか。それにしても――軽すぎた。


 ――その、瞬間である。


「…………なんだ、これは」


 ぞわり、と。


 背中に押し当たった小さな身体の奥から、何かが染み出してきた。


 公(きみ)水(みず)は神子ではない。霊(れい)力(りょく)を練ることも、術を放つこともできない、ただの人間だ。


 毎朝護(ご)摩(ま)を焚(た)き、経(きょう)を上げてきた四十年近く。加えて、娘の片方は神子だ。


 だからこそ――肌が、勝手に理解した。


 これは違う。

 娘たちが宿す、あの澄んだ水のような力とは、まるで違う。


 冷たく、粘つき、底(そこ)がない。

 寂(じゃく)滅(めつ)。

 虚(きょ)無(む)。

 生命という言葉を裏返して、そのまま漬け込んだような――。


(……霊力じゃ、ねえ)


 背中の重みが、急に別のものに感じられた。


(これは……魔(ま)力(りょく)、か……⁉)


 公(きみ)水(みず)は、そこから早かった。


(――病院じゃ、駄目だ)


 血液を調べても、頭を輪(わ)切(ぎ)りにして写しても、こんなものは映りはしない。


 〝異常なし〟と言われて追い返されるのが関の山だ。


 それどころか、万が一この子の身に何かが起これば。

 病院という場所は、あまりにも人が多すぎる。


(八(や)雲(くも)さんだ。この子は、神子に託(たく)すしかねえ)


 懐(ふところ)へ手を伸ばしかけて――公(きみ)水(みず)は、その手を止めた。


 背中越しに伝わってくるのは、魔力とやらの気配だけではない。

 氷のような冷たさと、今にも消え入りそうな呼吸だ。


(……いかん。行(むか)縢(ばき)までは車で小一時間。この体のまま乗せたら、着く前に逝(い)っちまう)


 連絡は、後だ。

 まずは温める。命を繋(つな)ぎ止める方が先だ。


「雫(しずく)‼ 走るぞ‼」


「う、うんっ‼」


 砂に足を取られながら、親子は駐車場へと駆け出した。





❆





 寺に着いても、少女は目を覚まさなかった。


「あなた、その子……」


 玄関で出迎えた古(こ)閑(が)葵(あおい)は、夫の背中にあるものを見て、一瞬言葉を失った。


 だが、狼(ろう)狽(ばい)していたのは本当に一瞬だった。


「しーちゃん。押し入れからタオル、ありったけ持ってきて。それから、お湯沸かして」


「は、はいっ」


「あなたは暖房。それと、蒼(あお)波(ば)が小さい頃着ちょった服、上の段に仕(し)舞(ま)っちょるから」


「おう」


 濡れた服を剥(は)ぎ、温(ぬる)めの湯で絞ったタオルで、少女の身体をゆっくりと拭いていく。


 砂と泥が落ちるにつれ、その下から現れたのは、痛々しいほど細い手足だった。

 あばらの形が、薄い皮膚の上にくっきりと浮いている。


「……ずっと、何も食べちょらんね、この子」


 葵(あおい)の声が、微(かす)かに震えた。


「頬(ほお)がこけて……唇も、こんなに……。可哀想に」


 その傍らで、公(きみ)水(みず)は携帯電話を耳に当てていた。


 三度目のコールで、聞き慣れた声が返ってくる。


『――はい、八(や)雲(くも)です。古(こ)閑(が)さん、おはようございます。朝早くにどうなさったんですか?』


「八(や)雲(くも)さん。悪いが、急ぎだ」


 襖(ふすま)の向こうへ視線をやりながら、公(きみ)水(みず)は声を低くした。


「今朝、長浜で女の子が倒れちょった。五つか六つくらいの、小さい子だ。……見つけた時にゃ、もう死にかけみたいな有様でな」


『……女の子?』


「今、うちで温めよる。それだけならまだ、警察やら病院やらの話なんやが」


 言葉を切る。


「……担ぎ上げた時に、妙なもんを感じた」


『妙なもの、というのは』


「蒼(あお)波(ば)のとは、まるで違う。冷たくて、こう……こっちの中身まで吸われるような。生きもんの気配を、そっくり裏返したみたいな……」


 自分でも、うまい言い方が見つからなかった。


「俺は神子じゃねえから、断言はできん。……けど、八(や)雲(くも)さん」


 公(きみ)水(みず)は、腹の底から声を押し出した。


「あれは、魔力じゃねえのか」


 ――返ってきたのは、長い沈黙だった。


『…………分かりました』


 やがて聞こえた声は、張り詰めていた。


『こちらで引き受けます。古(こ)閑(が)さん、絶対に病院へは連れて行かないでください。その判断は、正しいです』


「助かる」


『すぐ迎えに――と言いたいところですが、車を出していただいた方が早いですね。行縢まで、お願いできますか』


「もちろんだ。……ああ、それと」


 思い出したように、公(きみ)水(みず)は付け加えた。


「港(みなと)神(じん)社(じゃ)の方も見てきた。鳥居も本殿も無事だ。今んところ、何も残っちょらん」


『……そこまでしていただいて』


「昨日、何があったかは訊かん。訊いても分からんしな」


 襖(ふすま)の隙間から、丸まった小さな背中が見える。


「――ただ、この子は放っちゃおけん。それだけだ」





❆





 同じ頃。


 行縢町、むかばき青少年自然の家。


 裏手の広場に、乾いた打撃音が絶え間なく響いていた。


「――せいっ‼」


 鋭く伸びた蹴(け)りを、白雪姫(こゆき)は両腕を交差させて受け止める。


 骨まで衝撃が抜けた。だが、飛ばされはしない。

 足の裏に霊力を集め、地面を噛(か)むようにして踏み止まる。


 そのまま腕で蹴(け)り足を外へ流し、生まれた半(はん)拍(ぱく)の隙(すき)へ、掌(しょう)底(てい)を突き込んだ。


「――っ」


 紅葉(もみじ)が、上体だけで逸(そ)らす。


 黒髪が朝日の中で大きく弧を描き、二人は同時に飛び退(の)いた。


 しん、と静けさが戻る。

 残ったのは、二人分の荒い呼吸だけだった。


「…………ちょっと待って」


 最初に声を出したのは、少し離れた芝生に座り込んでいた蒼(あお)波(ば)だった。


 琥(こ)珀(はく)色の瞳が、まん丸に見開かれている。


「え、待って待って? 白雪姫(こゆき)ちゃん、今の何?」


「え、何って……普通に受けただけだよ?」


「普通じゃないっちゃが‼ なんで紅葉(もみじ)ちゃんと打ち合えちょっと⁉」


 思わず声が裏返っていた。


 無理もない。

 ほんの十日ほど前まで、白雪姫(こゆき)は身体強化の霊力すら安定して回せなかったのだ。


 それが今、千年以上を生きてきた神子を相手に、五分近くも立っている。


「……私も、同じことを思っていたわ」


 汗を袖(そで)で拭(ぬぐ)いながら、紅葉(もみじ)が静かに言った。


 黒曜石のような瞳が、白雪姫(こゆき)の足元へ向けられる。


「白雪姫(こゆき)。あなた、足の運びが変わったわね」


「そ、そうかな……?」


「そうよ。……というより」


 紅葉(もみじ)は少しだけ目を細めた。


「白櫻姫(こさき)ちゃんにそっくり」


 ――どきり、とした。


「あの、半歩だけ懐(ふところ)に潜り込む歩き方。千年前、私は何百回と見たもの」


「あ、あはは……」


「修行、付けてもらってるんでしょう」


「……うん。やっぱり、分かっちゃうよね」


 白雪姫(こゆき)は、照れ隠しに頬を掻(か)いた。


 毎晩、あの桜の咲き乱れる精神世界で。

 文字通り、地面を転(ころ)がされながら叩き込まれているのだ。


(……でも)


 口に出せずにいることが、もうひとつあった。


(紅葉(もみじ)ちゃんの攻撃が……遅く、見える)


 蹴(け)りが来る前に、腰が捻(ひね)られるのが見えてしまう。


 千年を生きた神子が、弱いはずがない。

 ならば答えは、ひとつしかない。


(……白櫻姫(こさき)ちゃんが、速すぎるんだ)


 精神世界のあの少女は、そもそも軌道が見えない。

 見えたと思った瞬間には、もう草の上に転がされている。


 隙がない。どこを見ても、壁しかない。


(毎晩あれに揉(も)まれてたら、そりゃあ……ちょっとは、ね……)


『失礼な。真っ当な鍛錬でございましょう』


「わっ⁉」


 突然、頭の中に涼(すず)やかな声が響いて、白雪姫(こゆき)は跳び上がった。


『それに、あれでもずいぶん手加減しております。ご安心なさい』


(……安心できる要素、どこにもないっちゃけど……)


「……白雪姫(こゆき)ちゃん。また、一人で喋っちょる」


 蒼(あお)波(ば)が半目になった。


「ち、違うよ⁉ 今のは白櫻姫(こさき)ちゃんが……!」


「はいはい」


 からから笑って、蒼(あお)波(ば)は自分の手のひらへ視線を落とす。


 その上には、直径十センチほどの水の球が、微かに震えながら浮かんでいた。


「……こっちは、こっちで大変やっちゃけどね」


 ぷるん、と水球が歪(ゆが)み、崩れかける。

 慌てて意識を集中させると、球はどうにか形を取り戻した。


 神(じん)器(ぎ)を顕(けん)現(げん)していれば、水は素直に言うことを聞いてくれる。

 だがそれは、神器に頼っているというだけの話だ。


(……紅葉(もみじ)ちゃんも、白櫻姫(こさき)さんも。神器なしで、あれだけのことができちょった)


 あの夜、海龍を前にして、自分だけが何もできずに立っていた。

 あの無力感だけは、二度と味わいたくない。


「――だから、素のままで操れるようにならんと」


 ぐっと眉を寄せ、蒼(あお)波(ば)は水球へ意識を沈めていく。


 ――そんな三人の背後で。


「……ええ。分かりました。こちらで引き受けます」


 携帯電話を耳に当てた翠(み)織(おり)が、静かにそう告げていた。





❆





 通話を終えても、翠(み)織(おり)はしばらく動かなかった。


 深い緑色のドレスの裾が、行縢山から吹き下ろす風に揺れている。


「……先生?」


 最初に気付いたのは、白雪姫(こゆき)だった。


 いつも穏(おだ)やかな義母の横顔に、見慣れない険(けわ)しさが乗っていたからだ。


「……ごめんなさい、三人とも。少しいいかしら」


 振り返った翠(み)織(おり)のもとへ、三人が集まってくる。


「今、蒼(あお)波(ば)ちゃんのお父さんからお電話があったの」


「お父さんから?」


 蒼(あお)波(ば)が目を丸くする。


「え、まさか港(みなと)神(じん)社(じゃ)にまた何か――」


「いいえ、そっちは大丈夫。鳥居も本殿も無事で、魔(ま)物(もの)の気配も残っていないそうよ。わざわざ朝から、見に行ってくださったみたい」


「……なんや、びっくりした……」


 へなへなと座り込む蒼(あお)波(ば)に、翠(み)織(おり)は苦笑を零(こぼ)す。


 ――だが、その笑みはすぐに消えた。


「ただ……ご用件は、そっちじゃないの」


「え?」


「今朝、長浜の砂浜で。女の子が倒れているのを見つけたそうよ」


「女の子……?」


 三人が、思わず顔を見合わせた。


「五歳か、六歳くらい。何日も外を歩き回っていたみたいで、身体はぼろぼろだって」


「そんな……」


 白雪姫(こゆき)の眉が、きゅっと下がる。


 その歳で、何日も。想像しようとして、うまくいかなかった。


「これから、古(こ)閑(が)さんが車で連れて来てくださるわ。……その子は、私たちで預かることになる」


 迷子か、行(ゆく)方(え)不(ふ)明(めい)の子供か。

 ――ならそれは、警察や児童相談所の仕事ではないのか。


 三人の顔に浮かんだその疑問を読み取って、翠(み)織(おり)は静かに続けた。


「……その子から、魔力を感じたそうなの」


 ――空気が、凍(い)てついた。


「…………は?」


 最初に声を漏らしたのは、蒼(あお)波(ば)だった。


「え、待ってください先生。魔力って……それ、その子が魔(ま)蝕(しょく)者(しゃ)ってことですか⁉」


「いいえ。古(こ)閑(が)さんのお話では、息もあるし、脈もある。……普通に、生きている人間の女の子よ」


「それは……おかしいわね」


 低く呟(つぶや)いたのは紅葉(もみじ)だった。


 腕を組んだまま、鋭く目を細めている。


「魔力を魂に宿すのは、魔物か、魔蝕者か、魔(ま)神(じん)。この三つだけよ。……少なくとも、私が生きてきた千年の間は、そうだった」


「……あの」


 おずおずと、白雪姫(こゆき)が手を挙げた。


「私、まだ習い始めたばかりだから、間違ってたらごめんなさい。……人間が魂(たましい)に持ってるのは、霊力なんだよね?」


「ええ、そうよ」


「神子の霊力は特別だけど、それでも霊力は霊力で。魔力は、魔物とか、魔蝕者とか、魔神しか持ってないって、先生に教わりました」


「ええ。確かに、そう教えたわね」


「じゃあ……人間なのに、魔力を持ってることって、あるんですか?」


 真(ま)っ直(す)ぐな問いだった。


 翠(み)織(おり)は、すぐには答えなかった。


 耳元の緑のピアスが、朝の光を受けてちらりと瞬(またた)く。


「……ごめんなさい。分からないわ」


「え……」


「神子になって、組織に入って、それなりに長くなるけれど。……こんな話は、私も聞いたことがないの」


 翠(み)織(おり)は、正直にそう認めた。


「生きたまま魔力を宿すなら、悪(あく)魔(ま)と契約するか、魔(ま)術(じゅつ)に手を出して魂を汚すか。理屈の上では、そのどちらかしかないはずよ」


「あ、悪魔と、契約……? 魔術……?」


 白雪姫(こゆき)が目を瞬(しばた)かせる。


「というか……悪魔とか魔術って、本当にあるんですね……」


「あるわよ。……見たことのある人間は、そう多くないでしょうけどね」


 初耳の単語が飛び出したというのに、三人にさほどの動揺はなかった。

 この一ヶ月あまりで、あまりにも多くの〝あり得ない〟を見過ぎている。


「……でも、五歳や六歳の子が、そんな契約なんて」


「ええ。あり得ない。……普通なら、ね」


 言い切ってから、翠(み)織(おり)はゆっくりと息を吐いた。


「――だから、確かめないといけないの。私たちの目で」


 その横で、白雪姫(こゆき)はそっと胸の奥に手を当てた。


(……白櫻姫(こさき)ちゃん)


『ええ。聞いておりました』


 いつもの涼やかな声に、微かな緊張が混ざっている。


『わたくしもそのような例は、ついぞ耳にしたことがありません』


(……そっか)


『ですが、白雪姫(こゆき)』


 声が、ふと和(やわ)らいだ。


『そう身構えることはありません。今こちらへ運ばれてくるのは、魔物でも魔神でもない』


(うん……)


『――ただ、倒れていた小さな女の子です』


 その言葉に、強張っていた肩から、すっと力が抜けた。


「……先生」


「なに?」


「その子、絶対お腹空いてると思うんです。……何か、あったかいもの、用意しておいてもいいですか」


 翠(み)織(おり)は一瞬目を瞠(みは)り、それから、柔(やわ)らかく微笑んだ。


「ええ。お願いね、白雪姫(こゆき)ちゃん」


 ――ちなみに。


 本日は月曜日である。


 桜(さくら)ケ(が)丘(おか)小中学校には、既に〝二名、体調不良のため欠席〟との連絡が入れられていた。


 昨夜のあれこれを思えば、二人を教室へ送り出す気には、翠(み)織(おり)としてもとてもなれなかったのである。





❆





 軽自動車が敷地に入ってきたのは、それから四十分ほど後だった。


「八(や)雲(くも)さん。連れてきた」


 後部座席から、公(きみ)水(みず)が毛布に包まれた小さな身体を抱え上げる。


「お父さん‼」


「おう、蒼(あお)波(ば)。……元気そうやな」


 娘の顔を見て、公(きみ)水(みず)の表情がわずかに緩(ゆる)んだ。


 毛布の中で眠っていたのは、確かに幼い女の子だった。


 烏羽色の黒髪は、まだ湿り気を残しつつも、丁寧に梳(と)かされている。

 着ているのは、色の褪(あ)せた黄色のトレーナーと、膝丈のスカート。


「……あれ。これ」


 蒼(あお)波(ば)が目を瞬かせた。


「うちが昔着ちょった服やん」


「葵(あおい)が引っ張り出してきた。着てたもんが、もう……着られたもんじゃなかったからな」


 その一言に、その場の全員が黙り込んだ。


 白雪姫(こゆき)は、そっと少女の顔を覗き込む。


 少し長めの前髪。ふっくらとした頬に、まだ生々しい擦り傷。

 閉じた瞼(まぶた)の下で、長い睫(まつ)毛(げ)が微かに震えていた。


(……こんなに、小さいのに)


 胸の奥が、ぎゅう、と痛んだ。


「――失礼します」


 翠(み)織(おり)が、公(きみ)水(みず)から少女を受け取る。


 その、瞬間だった。


「――……っ」


 翠(み)織(おり)の顔から、表情が抜け落ちた。


(……何、これ)


 腕から伝わってくる、などという生易しいものではない。

 這(は)い上がってくるのだ。


 霊力の温もりとは真逆の、底の見えない冷えが。

 あらゆる生命を漂(ひょう)白(はく)して、あとに残った滓(かす)のような何かが。


 破(は)魔(ま)の力を持つ神子である彼女だからこそ、嫌というほどに分かってしまう。


(……間違いない。古(こ)閑(が)さんの仰った通りだわ)


 その腕の中で眠っているのは。


 ――魔力を宿した、生きた人間の少女だった。





❆





 少女は、白雪姫(こゆき)たちが寝起きしている部屋の、空いていたベッドに寝かされた。


 窓から差し込む光が、白いシーツの上に四角い形を落としている。


「……起きませんね、この子」


「疲れ切っているのよ。無理もないわ」


 椅子を持ち込んで、四人はただ静かに待った。


 蒼(あお)波(ば)は落ち着かない様子で何度も足を組み替え、紅葉(もみじ)は壁に背を預けて腕を組んでいる。

 翠(み)織(おり)はベッドの脇に膝を折り、白雪姫(こゆき)はその斜め後ろから、じっと寝顔を見つめていた。


 ――どれほど経った頃だろうか。


 掛(か)け布(ぶ)団(とん)が、もぞりと動いた。


「……あ」


 長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がる。


 現れたのは、陽だまり色のような、温かい焦げ茶色の瞳だった。


「……ぁ……」


 焦点の合わない目が、ぼんやりと天井を彷(さ)徨(まよ)い――やがて、ゆるりと横へ滑る。


 そこには、四人分の姿があった。


「――……っ‼」


 瞬間。


 少女の瞳が、限界まで見開かれた。


「ひっ……」


 喉(のど)から漏れたのは、悲鳴にすらならない音だった。


 両手両足でシーツを掻き、ずり、ずり、と後ずさる。

 ベッドの奥へ、壁際へ。もう下がれないところまで下がって、それでもなお下がろうとする。


「ちょ、ちょっと待って、大丈夫やから――」


 蒼(あお)波(ば)が思わず身を乗り出した、その瞬間。


 ばさり、と。


 少女は掛け布団を引(ひ)っ掴(つか)み、自分の身体ごと包み込むように被(かぶ)った。

 まるでそれが、世界で唯一の盾であるかのように。


「…………」


 布団の端から、目から上だけが覗いている。


 その瞳は、瞬(まばた)きひとつしない。

 四人の顔を、順に、順に、舐(な)めるように見つめていた。


 布団の膨らみが、小刻みに震えている。


 ――怯(おび)えている。

 ただ、そこにいるというだけの自分たちに。


「……ひどい怯え方ね」


 紅葉(もみじ)が、眉を顰(ひそ)めて呟いた。


「……ええ」


 翠(み)織(おり)は、ゆっくりと椅子から降り、床に膝をついた。


 少女の目線より低くなるように。

 できるだけ、小さく見えるように。


「……おはよう」


 声を、綿(わた)のように柔らかくする。


「怖くないわ。私は八(や)雲(くも)翠(み)織(おり)。ここはね、山の麓(ふもと)にある、お泊まりできる施設なの」


「…………」


「あなたは、海の近くで倒れていたのよ。この子のお父さんが見つけてくださったの。……どこか、痛いところはない?」


「…………」


 返ってきたのは、沈黙だけだった。

 布団の震えが、少しだけ大きくなる。


「大丈夫。誰も、あなたに悪いことなんてしないから」


 翠(み)織(おり)は、ゆっくりと――本当に、ゆっくりと。


 右手を差し出した。


「……ね?」


 ――その、手が。


 布団の隙間から覗く少女の視界の中で、別の光景と重(かさ)なった。


 振り上げられた、母の手。


 ――触るな‼

 ――近付くな‼


 乾いた音。頬の熱。鬼(おに)の形相(ぎょうそう)。


「――いやぁっ‼」


 考えるより先に、身体が動いていた。


 ばちん、と。


 小さな手のひらが、差し出された手を弾(はじ)き飛ばす。

 その音が、静まり返った部屋に響き渡った。


「――‼」


 蒼(あお)波(ば)が息を呑む。

 壁から、紅葉(もみじ)の背が離れる。


 翠(み)織(おり)は、弾かれた手を宙に浮かせたまま、動きを止めていた。


「…………ぁ」


 そして――少女もまた、凍(こお)りついていた。


 突き出した自分の手のひらを、信じられないものを見るような目で見つめている。


 じわり、と。その瞳から、光が消えていく。


 ――やってしまった。


 その表情には、はっきりと、そう書いてあった。


「……ぁ……ぅ……」


 ぽろり、と大粒の涙が零れた。


 一粒。二粒。もう、止まらない。


 少女は慌てて布団の中へ潜り込み、身体を小さく丸める。


 両腕で頭を庇(かば)い、膝を胸へ引き寄せて。

 誰に教わったわけでもない、あまりにも完成された――防御の姿勢だった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 掠(かす)れた声が、布団の下から漏れてくる。


「わたし、いい子にするから……」


 しゃくり上げる音が混ざる。


「だから……たたかないで……ぶたないで……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 ――誰も、動けなかった。


 蒼(あお)波(ば)は口元を押さえたまま立ち尽くし、紅葉(もみじ)は怪(け)訝(げん)な表情で少女を見つめる。


 翠(み)織(おり)は、弾かれた自分の手のひらを、ただじっと見つめていた。


(……この子は)


 叩かれた記憶が、身体に刻み込まれている。


 差し出された手を見ただけで、反射で払ってしまうほどに。

 そして払ったあとで、殴られることを覚悟してしまうほどに。


 魔力がどうとか、神子がどうとか。


(……そんな話より、ずっと手前の問題だわ、これは)


「――出ましょう」


 翠(み)織(おり)は静かに立ち上がり、三人を振り返った。


「私たちがここにいるだけで、この子の負担になる。……一度、廊下へ」


「……はい」


「……ええ」


 蒼(あお)波(ば)と紅葉(もみじ)が頷く。


「……はい」


 白雪姫(こゆき)もまた、そう答えた。


 答えて、扉へ向かいかけて――足が、止まる。


 布団の膨らみは、まだ震えている。

 ――ごめんなさい――という声も、まだ続いている。


(……このままで、いいっちゃろか)


 胸の奥が、軋(きし)むように痛かった。


 知っている。あの感じを、私は知っている。


 誰も来ない教室の隅。誰も待っていない通学路。

 声を掛けてほしくて、でも掛けられるのが怖くて、机の木目ばかり数えていたあの時間。


 あの子は今、あの布団の中で、たった一人だ。


(……一人にしちゃ、だめだ)


 白雪姫(こゆき)は、ぎゅっと拳を握った。





❆





 廊下に出て、扉が静かに閉じられる。


「……ひどいものね」


 最初に口を開いたのは紅葉(もみじ)だった。


 その声は、いつもの淡(たん)々(たん)としたものではなかった。


「あんなの、怯えているどころじゃないわ。躾(しつけ)なんて言葉で誤魔化せる話じゃない」


「紅葉(もみじ)ちゃん……」


「……ごめんなさい。少し、昔を思い出しただけよ」


 紅葉(もみじ)は壁に背を預け、天井を仰いだ。


「といっても、私のは陰口を叩かれる程度のものだったけどね。……手を上げられたことは、なかったもの」


「……まずは、あの子の身元を調べないと」


 翠(み)織(おり)が、額(ひたい)に指を当てる。


「行方不明届が出ていないか、組織を通して確認するわ。それと、あの魔力のこと。……正体を、はっきりさせないと」


「でも先生。それより先に、あの子と話ができんことには……」


「そうね。……名前すら、まだ分からないもの」


 大人びた会話が、朝の廊下に反響する。


 ――その時だった。


「……あの」


 小さな声が、それを遮(さえぎ)った。


 三人の視線が、一斉に白雪姫(こゆき)へと集まる。


 白銀の髪を窓の光に透かせた少女は、俯(うつむ)きかけた顔を、意を決して上げた。


「私一人で……あの子とお話ししてみても、いいですか」


 しん、と廊下が静まり返る。


「……白雪姫(こゆき)ちゃんが?」


「うん」


「でも、危なくない? さっきの見たやろ? また叩(はた)かれるかも――」


「それくらいなら、平気だよ」


 あっさりと、白雪姫(こゆき)は言った。


「だって、痛いのは私だけやもん。……あの子の方が、また泣いちゃうと思う。〝叩いちゃった〟って」


「――……」


「あの子、たぶん私たちのこと、まとめて〝怖い人〟って思ってる。大人も、大勢も、全部が怖いんだと思うんです」


 白雪姫(こゆき)は、自分の胸にそっと手を当てた。


「だったら……一人ずつなら、少しはましかもしれないから」


 その言葉に、蒼(あお)波(ば)は口を噤(つぐ)んだ。


 ――そして、ふと思い出す。


(……そういえば)


 昨夜の、寺の玄関先。


 人見知りで、知らない人が来れば必ず親の後ろに隠れる妹が。

 あの雫(しずく)が、初対面の白雪姫(こゆき)の腰に抱きついて、離れようとしなかった。


 特別なことなど、何もしていなかったはずだ。


 ただ膝を折って、目線を合わせて、穏やかに笑いかけただけ。

 それだけで、うちの妹はころりと落ちた。


(……ああ、そっか)


 蒼(あお)波(ば)の顔に、自然と笑みが浮かんだ。


「――翠(み)織(おり)先生」


「なに?」


「白雪姫(こゆき)ちゃんに、任せてみましょう」


 蒼(あお)波(ば)は頷き、白雪姫(こゆき)に任せることに決めた。


「うちの妹、めちゃくちゃ人見知りで、知らない人が来たら絶対に親の後ろに隠れるような子なんです。それが昨日、白雪姫(こゆき)ちゃんにはあっという間に懐(なつ)いて、離れんくなって」


「そ、そんな大したことじゃ……」


「大したことなんよ。……たぶん白雪姫(こゆき)ちゃん、そういうの得意なんです」


 慌てて手を振る白雪姫(こゆき)を見て、紅葉(もみじ)が微(かす)かに笑った。


「……私も、賛成」


「紅葉(もみじ)ちゃんまで……」


「あなたの心根の良さは、もう十分に知っているもの。それに、小さい子に好かれそうな顔をしているわ」


「か、顔……?」


 ――翠(み)織(おり)は、しばらく黙って三人を眺めていた。


(……確かに、私が行けば同じことになる)


 あの子にとって、大人の手は、振り下ろされるものだ。

 どれだけ穏やかに話しかけたところで、あの記憶を上(うわ)書(が)きするには、あまりにも時間が足りない。


 だが、白雪姫(こゆき)なら。


 同じ子供で、背も低い。声も柔らかく、佇(たたず)まいは雪のように静かだ。


(……そして何より)


 この子の清(きよ)らかさは、理屈ではなく伝わる。

 千年を生きた白櫻姫(こさき)が、清(せい)廉(れん)潔(けっ)白(ぱく)と評したほどの心根なのだから。


「……分かったわ」


 翠(み)織(おり)は、柔らかく微笑んだ。


「白雪姫(こゆき)ちゃん。お願いできるかしら」


「……っ。はいっ」


「無理はしないでね。怖くなったら、すぐに出てきていいから。私たちは、ここで待っているわ」


「大丈夫です」


 白雪姫(こゆき)は、真(ま)っ直(す)ぐに翠(み)織(おり)を見上げた。


「怖いのは、私じゃなくて……あの子だから……」


 ――その一言に。


 翠(み)織(おり)は、思わず言葉を失った。


(……本当に。この子は)


『――ええ。行っておいでなさい、白雪姫(こゆき)』


 胸の奥から、背を押す声が響く。


『あなたのその真心は、千年前のわたくしすら救ったのですから』


(……え? 救った覚えは、ないっちゃけど……)


『そういうところですよ』


 白雪姫(こゆき)は、そっと息を吸い込んだ。


 朝の冷たい空気が、肺の奥までゆっくりと満ちていく。


 それから、扉の取っ手に手を掛ける。


 ――向こう側では、まだ小さな声が――ごめんなさい――を繰り返している。


 大丈夫。

 怖くないよ。


(……絶対に、叩いたりなんてしないから)


 かちり、と。


 白雪姫(こゆき)は扉を開け、恐怖に震える少女だけがいるその部屋へ、たった一人で――一歩、足を踏み入れた。





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