第01話:恐怖の出会い
延岡の朝は、潮の匂いから始まる。
夜のうちに冷え切った砂が、昇り始めた陽にゆっくりと温められていく。
寄せては返す波が、白い縁取りを引いては消し、引いては消して――砂浜には、まだ誰の足跡もついていなかった。
長浜。ヘルストピアの建物を横目に、どこまでも緩やかに伸びる海岸である。
「……お父さん、あるくの、はやい」
ぱたぱたと後ろから追いかけてきたのは、古閑雫だった。
素朴なベージュの着物の上から、父の半纏を借りて羽織っている。
袖が余りすぎて、両手はすっかり布の中に隠れてしまっていた。
「おお、悪い悪い。……つい、な」
振り返ったのは、坊主頭の大柄な男――古閑公水。
那智山如意輪寺の現住職であり、雫と蒼波の父親だ。
娘の歩幅に合わせて、公水は歩調を落とす。
「そもそもお前、ついてこんでよかったっちゃが」
「……だって、お父さんだけずるい」
むうっと膨れる雫に、公水は苦笑した。
――昨夜のことだ。
蒼波が、大人の女性を一人と、雪のように白い髪の少女を一人連れて、ふらりと寺へ帰ってきた。
顔を見せに来ただけだと娘は言っていたが、あの髪と、あの目の色。そして何より、娘の纏っていた空気。
(……あれで、何もなかったっちゃ思えんわな)
港神社の方角で、何かがあった。
それも、神子である娘が出ていかねばならんような、何かが。
だから、朝のうちに見てきたのだ。
青い鳥居も、本殿も、玉砂利の一粒に至るまで、何ひとつ欠けてはいなかった。
(……よかった。あとは、八雲さんに一報入れとくだけやな)
朝の散歩がてら、というのは半分本当で、半分は口実だった。
娘の生きる世界に、親が踏み込めることなど、たかが知れている。それでも、できることはしておきたかった。
「お父さん」
「うん?」
「蒼波おねえちゃん、いつ帰ってくると?」
小さな手が、半纏の袖ごと父の指を握った。
公水はしばらく黙って、それから娘の頭に、ごつごつとした手のひらを乗せた。
「……そうやなあ。あいつは今、大事な修行の途中やから」
嘘は言っていない。だが、全部でもない。
「けど、ちゃんと帰ってくる。あいつはしっかりしちょるからな」
「……うん」
納得したのかしていないのか、雫は小さく頷いて、また海の方へ視線を戻した。
――そして。
「……あ」
その足が、ぴたりと止まる。
「お父さん。……あそこ、なにかおる」
細い指が指したのは、波打ち際から少し離れた、乾いた砂の上だった。
流木か。あるいは、打ち上げられた藻の塊か。
朝の逆光の中では、最初はそう見えた。
だが、目を細めた瞬間――公水の背中を、冷たいものが走り抜けた。
人だ。
しかも、ひどく小さい。
「――雫っ、そこを動くな‼」
「え、お父さ――」
言い終わるより早く、公水は砂を蹴っていた。
❆
うつ伏せに倒れていたのは、幼い女の子だった。
「聞こえるか‼ おい、しっかりせえ‼」
肩に手を添え、慎重に仰向けにする。
烏羽色の長い黒髪が、砂と海水を吸って束になっていた。
その隙間から覗いた顔は、血の気というものを忘れてしまったように白い。
鼻先に手をかざす。
「……息は、ある」
だが、あまりにも浅く、あまりにも速い。
小鳥が怯えて震えているような、頼りない呼吸だった。
服はあちこちが裂け、泥と垢で元の色すら分からない。
むき出しの脚は擦り傷だらけで、爪の間には土が詰まっている。唇は乾き切って、白く罅割れていた。
(迷子……いや、こりゃあ違う)
一晩や二晩で、こうはならない。
(何日だ。何日、こんな格好で歩き回っちょったんだ、この子は)
抱き起こそうとして、公水は思わず息を呑んだ。
「――冷たいっ」
汗と海水と泥を吸った衣服が、幼い体温を根こそぎ奪っていた。
指も、耳も、頬も。生きている人間のものとは思えないほど冷えきっている。
(救急車……いや、こんな砂浜まで入ってくるのに何分かかる。担いで走った方が早い)
判断は一瞬だった。
「よし。……ごめんな、揺れるぞ」
背に負い上げた身体は、羽根のように軽かった。
五つか、六つか。それにしても――軽すぎた。
――その、瞬間である。
「…………なんだ、これは」
ぞわり、と。
背中に押し当たった小さな身体の奥から、何かが染み出してきた。
公水は神子ではない。霊力を練ることも、術を放つこともできない、ただの人間だ。
毎朝護摩を焚き、経を上げてきた四十年近く。加えて、娘の片方は神子だ。
だからこそ――肌が、勝手に理解した。
これは違う。
娘たちが宿す、あの澄んだ水のような力とは、まるで違う。
冷たく、粘つき、底がない。
寂滅。
虚無。
生命という言葉を裏返して、そのまま漬け込んだような――。
(……霊力じゃ、ねえ)
背中の重みが、急に別のものに感じられた。
(これは……魔力、か……⁉)
公水は、そこから早かった。
(――病院じゃ、駄目だ)
血液を調べても、頭を輪切りにして写しても、こんなものは映りはしない。
〝異常なし〟と言われて追い返されるのが関の山だ。
それどころか、万が一この子の身に何かが起これば。
病院という場所は、あまりにも人が多すぎる。
(八雲さんだ。この子は、神子に託すしかねえ)
懐へ手を伸ばしかけて――公水は、その手を止めた。
背中越しに伝わってくるのは、魔力とやらの気配だけではない。
氷のような冷たさと、今にも消え入りそうな呼吸だ。
(……いかん。行縢までは車で小一時間。この体のまま乗せたら、着く前に逝っちまう)
連絡は、後だ。
まずは温める。命を繋ぎ止める方が先だ。
「雫‼ 走るぞ‼」
「う、うんっ‼」
砂に足を取られながら、親子は駐車場へと駆け出した。
❆
寺に着いても、少女は目を覚まさなかった。
「あなた、その子……」
玄関で出迎えた古閑葵は、夫の背中にあるものを見て、一瞬言葉を失った。
だが、狼狽していたのは本当に一瞬だった。
「しーちゃん。押し入れからタオル、ありったけ持ってきて。それから、お湯沸かして」
「は、はいっ」
「あなたは暖房。それと、蒼波が小さい頃着ちょった服、上の段に仕舞っちょるから」
「おう」
濡れた服を剥ぎ、温めの湯で絞ったタオルで、少女の身体をゆっくりと拭いていく。
砂と泥が落ちるにつれ、その下から現れたのは、痛々しいほど細い手足だった。
あばらの形が、薄い皮膚の上にくっきりと浮いている。
「……ずっと、何も食べちょらんね、この子」
葵の声が、微かに震えた。
「頬がこけて……唇も、こんなに……。可哀想に」
その傍らで、公水は携帯電話を耳に当てていた。
三度目のコールで、聞き慣れた声が返ってくる。
『――はい、八雲です。古閑さん、おはようございます。朝早くにどうなさったんですか?』
「八雲さん。悪いが、急ぎだ」
襖の向こうへ視線をやりながら、公水は声を低くした。
「今朝、長浜で女の子が倒れちょった。五つか六つくらいの、小さい子だ。……見つけた時にゃ、もう死にかけみたいな有様でな」
『……女の子?』
「今、うちで温めよる。それだけならまだ、警察やら病院やらの話なんやが」
言葉を切る。
「……担ぎ上げた時に、妙なもんを感じた」
『妙なもの、というのは』
「蒼波のとは、まるで違う。冷たくて、こう……こっちの中身まで吸われるような。生きもんの気配を、そっくり裏返したみたいな……」
自分でも、うまい言い方が見つからなかった。
「俺は神子じゃねえから、断言はできん。……けど、八雲さん」
公水は、腹の底から声を押し出した。
「あれは、魔力じゃねえのか」
――返ってきたのは、長い沈黙だった。
『…………分かりました』
やがて聞こえた声は、張り詰めていた。
『こちらで引き受けます。古閑さん、絶対に病院へは連れて行かないでください。その判断は、正しいです』
「助かる」
『すぐ迎えに――と言いたいところですが、車を出していただいた方が早いですね。行縢まで、お願いできますか』
「もちろんだ。……ああ、それと」
思い出したように、公水は付け加えた。
「港神社の方も見てきた。鳥居も本殿も無事だ。今んところ、何も残っちょらん」
『……そこまでしていただいて』
「昨日、何があったかは訊かん。訊いても分からんしな」
襖の隙間から、丸まった小さな背中が見える。
「――ただ、この子は放っちゃおけん。それだけだ」
❆
同じ頃。
行縢町、むかばき青少年自然の家。
裏手の広場に、乾いた打撃音が絶え間なく響いていた。
「――せいっ‼」
鋭く伸びた蹴りを、白雪姫は両腕を交差させて受け止める。
骨まで衝撃が抜けた。だが、飛ばされはしない。
足の裏に霊力を集め、地面を噛むようにして踏み止まる。
そのまま腕で蹴り足を外へ流し、生まれた半拍の隙へ、掌底を突き込んだ。
「――っ」
紅葉が、上体だけで逸らす。
黒髪が朝日の中で大きく弧を描き、二人は同時に飛び退いた。
しん、と静けさが戻る。
残ったのは、二人分の荒い呼吸だけだった。
「…………ちょっと待って」
最初に声を出したのは、少し離れた芝生に座り込んでいた蒼波だった。
琥珀色の瞳が、まん丸に見開かれている。
「え、待って待って? 白雪姫ちゃん、今の何?」
「え、何って……普通に受けただけだよ?」
「普通じゃないっちゃが‼ なんで紅葉ちゃんと打ち合えちょっと⁉」
思わず声が裏返っていた。
無理もない。
ほんの十日ほど前まで、白雪姫は身体強化の霊力すら安定して回せなかったのだ。
それが今、千年以上を生きてきた神子を相手に、五分近くも立っている。
「……私も、同じことを思っていたわ」
汗を袖で拭いながら、紅葉が静かに言った。
黒曜石のような瞳が、白雪姫の足元へ向けられる。
「白雪姫。あなた、足の運びが変わったわね」
「そ、そうかな……?」
「そうよ。……というより」
紅葉は少しだけ目を細めた。
「白櫻姫ちゃんにそっくり」
――どきり、とした。
「あの、半歩だけ懐に潜り込む歩き方。千年前、私は何百回と見たもの」
「あ、あはは……」
「修行、付けてもらってるんでしょう」
「……うん。やっぱり、分かっちゃうよね」
白雪姫は、照れ隠しに頬を掻いた。
毎晩、あの桜の咲き乱れる精神世界で。
文字通り、地面を転がされながら叩き込まれているのだ。
(……でも)
口に出せずにいることが、もうひとつあった。
(紅葉ちゃんの攻撃が……遅く、見える)
蹴りが来る前に、腰が捻られるのが見えてしまう。
千年を生きた神子が、弱いはずがない。
ならば答えは、ひとつしかない。
(……白櫻姫ちゃんが、速すぎるんだ)
精神世界のあの少女は、そもそも軌道が見えない。
見えたと思った瞬間には、もう草の上に転がされている。
隙がない。どこを見ても、壁しかない。
(毎晩あれに揉まれてたら、そりゃあ……ちょっとは、ね……)
『失礼な。真っ当な鍛錬でございましょう』
「わっ⁉」
突然、頭の中に涼やかな声が響いて、白雪姫は跳び上がった。
『それに、あれでもずいぶん手加減しております。ご安心なさい』
(……安心できる要素、どこにもないっちゃけど……)
「……白雪姫ちゃん。また、一人で喋っちょる」
蒼波が半目になった。
「ち、違うよ⁉ 今のは白櫻姫ちゃんが……!」
「はいはい」
からから笑って、蒼波は自分の手のひらへ視線を落とす。
その上には、直径十センチほどの水の球が、微かに震えながら浮かんでいた。
「……こっちは、こっちで大変やっちゃけどね」
ぷるん、と水球が歪み、崩れかける。
慌てて意識を集中させると、球はどうにか形を取り戻した。
神器を顕現していれば、水は素直に言うことを聞いてくれる。
だがそれは、神器に頼っているというだけの話だ。
(……紅葉ちゃんも、白櫻姫さんも。神器なしで、あれだけのことができちょった)
あの夜、海龍を前にして、自分だけが何もできずに立っていた。
あの無力感だけは、二度と味わいたくない。
「――だから、素のままで操れるようにならんと」
ぐっと眉を寄せ、蒼波は水球へ意識を沈めていく。
――そんな三人の背後で。
「……ええ。分かりました。こちらで引き受けます」
携帯電話を耳に当てた翠織が、静かにそう告げていた。
❆
通話を終えても、翠織はしばらく動かなかった。
深い緑色のドレスの裾が、行縢山から吹き下ろす風に揺れている。
「……先生?」
最初に気付いたのは、白雪姫だった。
いつも穏やかな義母の横顔に、見慣れない険しさが乗っていたからだ。
「……ごめんなさい、三人とも。少しいいかしら」
振り返った翠織のもとへ、三人が集まってくる。
「今、蒼波ちゃんのお父さんからお電話があったの」
「お父さんから?」
蒼波が目を丸くする。
「え、まさか港神社にまた何か――」
「いいえ、そっちは大丈夫。鳥居も本殿も無事で、魔物の気配も残っていないそうよ。わざわざ朝から、見に行ってくださったみたい」
「……なんや、びっくりした……」
へなへなと座り込む蒼波に、翠織は苦笑を零す。
――だが、その笑みはすぐに消えた。
「ただ……ご用件は、そっちじゃないの」
「え?」
「今朝、長浜の砂浜で。女の子が倒れているのを見つけたそうよ」
「女の子……?」
三人が、思わず顔を見合わせた。
「五歳か、六歳くらい。何日も外を歩き回っていたみたいで、身体はぼろぼろだって」
「そんな……」
白雪姫の眉が、きゅっと下がる。
その歳で、何日も。想像しようとして、うまくいかなかった。
「これから、古閑さんが車で連れて来てくださるわ。……その子は、私たちで預かることになる」
迷子か、行方不明の子供か。
――ならそれは、警察や児童相談所の仕事ではないのか。
三人の顔に浮かんだその疑問を読み取って、翠織は静かに続けた。
「……その子から、魔力を感じたそうなの」
――空気が、凍てついた。
「…………は?」
最初に声を漏らしたのは、蒼波だった。
「え、待ってください先生。魔力って……それ、その子が魔蝕者ってことですか⁉」
「いいえ。古閑さんのお話では、息もあるし、脈もある。……普通に、生きている人間の女の子よ」
「それは……おかしいわね」
低く呟いたのは紅葉だった。
腕を組んだまま、鋭く目を細めている。
「魔力を魂に宿すのは、魔物か、魔蝕者か、魔神。この三つだけよ。……少なくとも、私が生きてきた千年の間は、そうだった」
「……あの」
おずおずと、白雪姫が手を挙げた。
「私、まだ習い始めたばかりだから、間違ってたらごめんなさい。……人間が魂に持ってるのは、霊力なんだよね?」
「ええ、そうよ」
「神子の霊力は特別だけど、それでも霊力は霊力で。魔力は、魔物とか、魔蝕者とか、魔神しか持ってないって、先生に教わりました」
「ええ。確かに、そう教えたわね」
「じゃあ……人間なのに、魔力を持ってることって、あるんですか?」
真っ直ぐな問いだった。
翠織は、すぐには答えなかった。
耳元の緑のピアスが、朝の光を受けてちらりと瞬く。
「……ごめんなさい。分からないわ」
「え……」
「神子になって、組織に入って、それなりに長くなるけれど。……こんな話は、私も聞いたことがないの」
翠織は、正直にそう認めた。
「生きたまま魔力を宿すなら、悪魔と契約するか、魔術に手を出して魂を汚すか。理屈の上では、そのどちらかしかないはずよ」
「あ、悪魔と、契約……? 魔術……?」
白雪姫が目を瞬かせる。
「というか……悪魔とか魔術って、本当にあるんですね……」
「あるわよ。……見たことのある人間は、そう多くないでしょうけどね」
初耳の単語が飛び出したというのに、三人にさほどの動揺はなかった。
この一ヶ月あまりで、あまりにも多くの〝あり得ない〟を見過ぎている。
「……でも、五歳や六歳の子が、そんな契約なんて」
「ええ。あり得ない。……普通なら、ね」
言い切ってから、翠織はゆっくりと息を吐いた。
「――だから、確かめないといけないの。私たちの目で」
その横で、白雪姫はそっと胸の奥に手を当てた。
(……白櫻姫ちゃん)
『ええ。聞いておりました』
いつもの涼やかな声に、微かな緊張が混ざっている。
『わたくしもそのような例は、ついぞ耳にしたことがありません』
(……そっか)
『ですが、白雪姫』
声が、ふと和らいだ。
『そう身構えることはありません。今こちらへ運ばれてくるのは、魔物でも魔神でもない』
(うん……)
『――ただ、倒れていた小さな女の子です』
その言葉に、強張っていた肩から、すっと力が抜けた。
「……先生」
「なに?」
「その子、絶対お腹空いてると思うんです。……何か、あったかいもの、用意しておいてもいいですか」
翠織は一瞬目を瞠り、それから、柔らかく微笑んだ。
「ええ。お願いね、白雪姫ちゃん」
――ちなみに。
本日は月曜日である。
桜ケ丘小中学校には、既に〝二名、体調不良のため欠席〟との連絡が入れられていた。
昨夜のあれこれを思えば、二人を教室へ送り出す気には、翠織としてもとてもなれなかったのである。
❆
軽自動車が敷地に入ってきたのは、それから四十分ほど後だった。
「八雲さん。連れてきた」
後部座席から、公水が毛布に包まれた小さな身体を抱え上げる。
「お父さん‼」
「おう、蒼波。……元気そうやな」
娘の顔を見て、公水の表情がわずかに緩んだ。
毛布の中で眠っていたのは、確かに幼い女の子だった。
烏羽色の黒髪は、まだ湿り気を残しつつも、丁寧に梳かされている。
着ているのは、色の褪せた黄色のトレーナーと、膝丈のスカート。
「……あれ。これ」
蒼波が目を瞬かせた。
「うちが昔着ちょった服やん」
「葵が引っ張り出してきた。着てたもんが、もう……着られたもんじゃなかったからな」
その一言に、その場の全員が黙り込んだ。
白雪姫は、そっと少女の顔を覗き込む。
少し長めの前髪。ふっくらとした頬に、まだ生々しい擦り傷。
閉じた瞼の下で、長い睫毛が微かに震えていた。
(……こんなに、小さいのに)
胸の奥が、ぎゅう、と痛んだ。
「――失礼します」
翠織が、公水から少女を受け取る。
その、瞬間だった。
「――……っ」
翠織の顔から、表情が抜け落ちた。
(……何、これ)
腕から伝わってくる、などという生易しいものではない。
這い上がってくるのだ。
霊力の温もりとは真逆の、底の見えない冷えが。
あらゆる生命を漂白して、あとに残った滓のような何かが。
破魔の力を持つ神子である彼女だからこそ、嫌というほどに分かってしまう。
(……間違いない。古閑さんの仰った通りだわ)
その腕の中で眠っているのは。
――魔力を宿した、生きた人間の少女だった。
❆
少女は、白雪姫たちが寝起きしている部屋の、空いていたベッドに寝かされた。
窓から差し込む光が、白いシーツの上に四角い形を落としている。
「……起きませんね、この子」
「疲れ切っているのよ。無理もないわ」
椅子を持ち込んで、四人はただ静かに待った。
蒼波は落ち着かない様子で何度も足を組み替え、紅葉は壁に背を預けて腕を組んでいる。
翠織はベッドの脇に膝を折り、白雪姫はその斜め後ろから、じっと寝顔を見つめていた。
――どれほど経った頃だろうか。
掛け布団が、もぞりと動いた。
「……あ」
長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がる。
現れたのは、陽だまり色のような、温かい焦げ茶色の瞳だった。
「……ぁ……」
焦点の合わない目が、ぼんやりと天井を彷徨い――やがて、ゆるりと横へ滑る。
そこには、四人分の姿があった。
「――……っ‼」
瞬間。
少女の瞳が、限界まで見開かれた。
「ひっ……」
喉から漏れたのは、悲鳴にすらならない音だった。
両手両足でシーツを掻き、ずり、ずり、と後ずさる。
ベッドの奥へ、壁際へ。もう下がれないところまで下がって、それでもなお下がろうとする。
「ちょ、ちょっと待って、大丈夫やから――」
蒼波が思わず身を乗り出した、その瞬間。
ばさり、と。
少女は掛け布団を引っ掴み、自分の身体ごと包み込むように被った。
まるでそれが、世界で唯一の盾であるかのように。
「…………」
布団の端から、目から上だけが覗いている。
その瞳は、瞬きひとつしない。
四人の顔を、順に、順に、舐めるように見つめていた。
布団の膨らみが、小刻みに震えている。
――怯えている。
ただ、そこにいるというだけの自分たちに。
「……ひどい怯え方ね」
紅葉が、眉を顰めて呟いた。
「……ええ」
翠織は、ゆっくりと椅子から降り、床に膝をついた。
少女の目線より低くなるように。
できるだけ、小さく見えるように。
「……おはよう」
声を、綿のように柔らかくする。
「怖くないわ。私は八雲翠織。ここはね、山の麓にある、お泊まりできる施設なの」
「…………」
「あなたは、海の近くで倒れていたのよ。この子のお父さんが見つけてくださったの。……どこか、痛いところはない?」
「…………」
返ってきたのは、沈黙だけだった。
布団の震えが、少しだけ大きくなる。
「大丈夫。誰も、あなたに悪いことなんてしないから」
翠織は、ゆっくりと――本当に、ゆっくりと。
右手を差し出した。
「……ね?」
――その、手が。
布団の隙間から覗く少女の視界の中で、別の光景と重なった。
振り上げられた、母の手。
――触るな‼
――近付くな‼
乾いた音。頬の熱。鬼の形相。
「――いやぁっ‼」
考えるより先に、身体が動いていた。
ばちん、と。
小さな手のひらが、差し出された手を弾き飛ばす。
その音が、静まり返った部屋に響き渡った。
「――‼」
蒼波が息を呑む。
壁から、紅葉の背が離れる。
翠織は、弾かれた手を宙に浮かせたまま、動きを止めていた。
「…………ぁ」
そして――少女もまた、凍りついていた。
突き出した自分の手のひらを、信じられないものを見るような目で見つめている。
じわり、と。その瞳から、光が消えていく。
――やってしまった。
その表情には、はっきりと、そう書いてあった。
「……ぁ……ぅ……」
ぽろり、と大粒の涙が零れた。
一粒。二粒。もう、止まらない。
少女は慌てて布団の中へ潜り込み、身体を小さく丸める。
両腕で頭を庇い、膝を胸へ引き寄せて。
誰に教わったわけでもない、あまりにも完成された――防御の姿勢だった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
掠れた声が、布団の下から漏れてくる。
「わたし、いい子にするから……」
しゃくり上げる音が混ざる。
「だから……たたかないで……ぶたないで……ごめんなさい……ごめんなさい……」
――誰も、動けなかった。
蒼波は口元を押さえたまま立ち尽くし、紅葉は怪訝な表情で少女を見つめる。
翠織は、弾かれた自分の手のひらを、ただじっと見つめていた。
(……この子は)
叩かれた記憶が、身体に刻み込まれている。
差し出された手を見ただけで、反射で払ってしまうほどに。
そして払ったあとで、殴られることを覚悟してしまうほどに。
魔力がどうとか、神子がどうとか。
(……そんな話より、ずっと手前の問題だわ、これは)
「――出ましょう」
翠織は静かに立ち上がり、三人を振り返った。
「私たちがここにいるだけで、この子の負担になる。……一度、廊下へ」
「……はい」
「……ええ」
蒼波と紅葉が頷く。
「……はい」
白雪姫もまた、そう答えた。
答えて、扉へ向かいかけて――足が、止まる。
布団の膨らみは、まだ震えている。
――ごめんなさい――という声も、まだ続いている。
(……このままで、いいっちゃろか)
胸の奥が、軋むように痛かった。
知っている。あの感じを、私は知っている。
誰も来ない教室の隅。誰も待っていない通学路。
声を掛けてほしくて、でも掛けられるのが怖くて、机の木目ばかり数えていたあの時間。
あの子は今、あの布団の中で、たった一人だ。
(……一人にしちゃ、だめだ)
白雪姫は、ぎゅっと拳を握った。
❆
廊下に出て、扉が静かに閉じられる。
「……ひどいものね」
最初に口を開いたのは紅葉だった。
その声は、いつもの淡々としたものではなかった。
「あんなの、怯えているどころじゃないわ。躾なんて言葉で誤魔化せる話じゃない」
「紅葉ちゃん……」
「……ごめんなさい。少し、昔を思い出しただけよ」
紅葉は壁に背を預け、天井を仰いだ。
「といっても、私のは陰口を叩かれる程度のものだったけどね。……手を上げられたことは、なかったもの」
「……まずは、あの子の身元を調べないと」
翠織が、額に指を当てる。
「行方不明届が出ていないか、組織を通して確認するわ。それと、あの魔力のこと。……正体を、はっきりさせないと」
「でも先生。それより先に、あの子と話ができんことには……」
「そうね。……名前すら、まだ分からないもの」
大人びた会話が、朝の廊下に反響する。
――その時だった。
「……あの」
小さな声が、それを遮った。
三人の視線が、一斉に白雪姫へと集まる。
白銀の髪を窓の光に透かせた少女は、俯きかけた顔を、意を決して上げた。
「私一人で……あの子とお話ししてみても、いいですか」
しん、と廊下が静まり返る。
「……白雪姫ちゃんが?」
「うん」
「でも、危なくない? さっきの見たやろ? また叩かれるかも――」
「それくらいなら、平気だよ」
あっさりと、白雪姫は言った。
「だって、痛いのは私だけやもん。……あの子の方が、また泣いちゃうと思う。〝叩いちゃった〟って」
「――……」
「あの子、たぶん私たちのこと、まとめて〝怖い人〟って思ってる。大人も、大勢も、全部が怖いんだと思うんです」
白雪姫は、自分の胸にそっと手を当てた。
「だったら……一人ずつなら、少しはましかもしれないから」
その言葉に、蒼波は口を噤んだ。
――そして、ふと思い出す。
(……そういえば)
昨夜の、寺の玄関先。
人見知りで、知らない人が来れば必ず親の後ろに隠れる妹が。
あの雫が、初対面の白雪姫の腰に抱きついて、離れようとしなかった。
特別なことなど、何もしていなかったはずだ。
ただ膝を折って、目線を合わせて、穏やかに笑いかけただけ。
それだけで、うちの妹はころりと落ちた。
(……ああ、そっか)
蒼波の顔に、自然と笑みが浮かんだ。
「――翠織先生」
「なに?」
「白雪姫ちゃんに、任せてみましょう」
蒼波は頷き、白雪姫に任せることに決めた。
「うちの妹、めちゃくちゃ人見知りで、知らない人が来たら絶対に親の後ろに隠れるような子なんです。それが昨日、白雪姫ちゃんにはあっという間に懐いて、離れんくなって」
「そ、そんな大したことじゃ……」
「大したことなんよ。……たぶん白雪姫ちゃん、そういうの得意なんです」
慌てて手を振る白雪姫を見て、紅葉が微かに笑った。
「……私も、賛成」
「紅葉ちゃんまで……」
「あなたの心根の良さは、もう十分に知っているもの。それに、小さい子に好かれそうな顔をしているわ」
「か、顔……?」
――翠織は、しばらく黙って三人を眺めていた。
(……確かに、私が行けば同じことになる)
あの子にとって、大人の手は、振り下ろされるものだ。
どれだけ穏やかに話しかけたところで、あの記憶を上書きするには、あまりにも時間が足りない。
だが、白雪姫なら。
同じ子供で、背も低い。声も柔らかく、佇まいは雪のように静かだ。
(……そして何より)
この子の清らかさは、理屈ではなく伝わる。
千年を生きた白櫻姫が、清廉潔白と評したほどの心根なのだから。
「……分かったわ」
翠織は、柔らかく微笑んだ。
「白雪姫ちゃん。お願いできるかしら」
「……っ。はいっ」
「無理はしないでね。怖くなったら、すぐに出てきていいから。私たちは、ここで待っているわ」
「大丈夫です」
白雪姫は、真っ直ぐに翠織を見上げた。
「怖いのは、私じゃなくて……あの子だから……」
――その一言に。
翠織は、思わず言葉を失った。
(……本当に。この子は)
『――ええ。行っておいでなさい、白雪姫』
胸の奥から、背を押す声が響く。
『あなたのその真心は、千年前のわたくしすら救ったのですから』
(……え? 救った覚えは、ないっちゃけど……)
『そういうところですよ』
白雪姫は、そっと息を吸い込んだ。
朝の冷たい空気が、肺の奥までゆっくりと満ちていく。
それから、扉の取っ手に手を掛ける。
――向こう側では、まだ小さな声が――ごめんなさい――を繰り返している。
大丈夫。
怖くないよ。
(……絶対に、叩いたりなんてしないから)
かちり、と。
白雪姫は扉を開け、恐怖に震える少女だけがいるその部屋へ、たった一人で――一歩、足を踏み入れた。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
面白い・続きが気になると思っていただけたら、【ブックマーク登録】やページ下部の【評価】を押していただけると、執筆の大きな励みになります!




