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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第03章:〝魔〟を操る者
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序章:黒華

 ――今から、数年前。


 とある街のマンションの一室に、一人の女の子が生まれた。


 両親はその子に、〝黒(くろ)華(か)〟と名を付けた。


 烏(からす)羽(ば)色(いろ)の柔らかな黒髪に、陽の光を透かした陽だまりのような、大きくて温かな焦げ茶色の瞳。

 少しだけ垂れた目元と、ふんわりと赤らんだ頬。笑うと、部屋の空気ごと明るくなるような娘だった。


「元気に育つんだぞ」


「幸せになってね、黒(くろ)華(か)」


 ありふれた、けれど誰よりも真剣な願いを込めて。

 黒(くろ)華(か)は、確かに大事に育てられていた。


 ――そのはずだった。





❆





 その日常にひびが入ったのは、黒(くろ)華(か)が四つになった頃のことだった。


「お父さん、お母さん! 見て見てっ、すごいんだよっ!」


 休日の昼下がり。リビングのテレビの前で、黒(くろ)華(か)は小さな両手を得意げに掲げてみせた。


 その瞬間だった。


 幼い頬に、じわりと――黒い文様が浮かび上がった。

 まるで墨を流し込んだような、禍(まが)々(まが)しい紋様。


 そして、開かれた黒(くろ)華(か)の手のひらから、ぼうっと炎が立ち上る。

 もう片方の手からは、ちろちろと水が湧き出し、絨(じゅう)毯(たん)の上へと零れ落ちた。


 その炎も、水も。どこか黒く濁(にご)った、紫の色を帯びていた。


「えへへっ、すごいでしょ⁉」


 ぱあっと顔を輝かせて、黒(くろ)華(か)は両親を振り返った。


 褒めてもらえると思っていた。頭を撫でてもらえると思っていた。


 ――けれど。


「…………」


 父は、口を半開きにしたまま固まっていた。


 母の手からマグカップが滑り落ち、床の上で甲高い音を立てて砕け散る。

 それでも母は、割れた破(は)片(へん)に目もくれなかった。


「あ、あなた……今の……」


「……見た。見たよ。……なんだ、今のは……」


 二人の顔から、血の気がすっと引いていく。


 当たり前だ。

 手から炎と水を生み出す幼子など、どう考えても普通ではない。


「お父さん……? お母さん……?」


 きょとんと首を傾げる黒(くろ)華(か)に、両親は答えなかった。





❆





 それから両親は、あちこちへ相談に走った。


 大きな病院で、何度も検査を受けさせた。


「うーん……血液も、脳波も、どこにも異常はありませんね。健康そのものですよ」


「で、ですが先生! あの子は本当に、手から火を……!」


「……お母さん。少し、お疲れなのではありませんか?」


 次に向かったのは、街外れの古びた神社だった。


 白衣を纏った宮(ぐう)司(じ)は、黒(くろ)華(か)をしばらく眺めたあと、困ったように笑うだけだった。


「……普通の、可愛らしいお子さんに見えますがね」


 しかも、そういう時に限って。

 黒(くろ)華(か)の手からは、炎も水も、何ひとつ出てくれないのだ。


「……で、出ないよぉ……」


 両親の顔を見上げながら、黒(くろ)華(か)は必死に手を握ったり開いたりした。

 けれど、頬に黒い文様が浮かぶことは、その日はついになかった。


 結局、すべては有(う)耶(や)無(む)耶(や)のまま。

 誰も助けてはくれず、答えの出ないまま、時間だけが過ぎていった。





❆





 そんなある日のことだった。


 夕食の支度をする母の背を眺めながら、黒(くろ)華(か)は退屈そうに床に寝転がっていた。


(……もういっかい、やってみよ)


 褒めてほしかった。ただ、それだけだった。


 小さな手のひらを、天井へと向ける。

 ぽっ、と、黒く滲(にじ)んだ火種が生まれた。


 ――それは、黒(くろ)華(か)の意思を、あっさりと振り切った。


 膨れ上がった炎はカーテンへと燃え移り、瞬(またた)く間に部屋の壁を舐め上げていく。


「――黒(くろ)華(か)っ‼」


 絶叫と共に飛び込んできたのは、母だった。


 母は考えるより早く黒(くろ)華(か)の身体を抱え込み、背中から炎の中へと倒れ込んだ。


 焦げた匂い。悲鳴。遠くから近付いてくるサイレンの音。


 火はすぐに消し止められた。ボヤ騒ぎで済んだ、と、大人たちは口々に言っていた。


 ――けれど、母の背中と腕には、惨(むご)たらしい火傷が残った。


「熱い……熱いっ……! いやぁっ、熱い……!」


 床の上でのた打(う)ち回る母。

 その姿を見て、黒(くろ)華(か)は震えながら手を伸ばした。


「お、お母さん……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 小さな指先が、母の腕に触れようとした――その瞬間。


「触るな‼」


 弾(はじ)かれた手のひらが、黒(くろ)華(か)の頬を打った。


 乾いた音が、焼け爛(ただ)れた部屋に響き渡る。


 尻餅をついた黒(くろ)華(か)が見上げた先にあったのは――鬼(おに)の形相(ぎょうそう)をした、母の顔だった。


「……あ……」


 いつも笑いかけてくれた顔は、そこにはなかった。





❆





 その日を境に、家の中から声が消えた。


 両親は黒(くろ)華(か)を〝化け物〟と呼び、近付かなくなった。


「お父さん、あそぼ……?」


「……近付くな‼」


 伸ばした手は払われ、怒鳴られ、叩(はた)かれる。

 返ってくるのは、震える身体と、恐怖に見開かれた目だけ。


 夜、襖(ふすま)の向こうから、押し殺した声が漏れ聞こえたことがあった。


「……もう、無理だ。次に火を出したら、今度こそ家ごと燃える」


「……分かってる。分かってるわよ……! あの子のこと、愛してるもの。愛してるけど……このままじゃ、みんな焼け死ぬのよ……っ」


 言葉の意味は、よく分からなかった。


(……わたし、なにか、わるいことしたのかな)


 まだ物心が付いて、いくらも経っていない女の子だ。

 どうして両親があんな風に変わってしまったのか――分かるはずも、なかった。





❆





 季節が一つ巡った、ある朝のこと。


「黒(くろ)華(か)」


 久しぶりに名を呼ばれて、黒(くろ)華(か)は飛び起きた。


 玄関に立っていた父は、ぎこちなく、けれど確かに微笑んでいた。

 その隣では、母がリュックサックに握(にぎ)り飯を詰めている。


「今日はね、遠くにお出かけしようか。キャンプだ。家族みんなで、な」


「……っ! うんっ、行くっ‼」


 黒(くろ)華(か)は、飛び上がって喜んだ。


(お父さんとお母さんが、もとにもどってくれた……!)


 車に揺られる間、黒(くろ)華(か)はずっと歌を口(くち)遊(ずさ)んでいた。

 窓の外を流れる景色が、街から田んぼへ、田んぼから山へと変わっていく。


 やがて車は舗装の切れた細い林道を進み、鬱蒼とした森の奥で止まった。


 湿った土の匂い。頭上を覆い尽くす、緑の天(てん)蓋(がい)。


「黒(くろ)華(か)。ここで、ちょっとだけ待っててね」


 母がしゃがみ込み、黒(くろ)華(か)の頭に手を伸ばしかけて――途中で、そっと引っ込めた。


「すぐ戻るから。……いい子で、待っててね」


「うんっ! いい子で待ってる!」


 黒(くろ)華(か)は、満面の笑みで頷いた。


 だって、いい子にしていれば。

 きっとまた、前みたいに笑ってくれるから。


 ――しかし、両親は。


 二度と、戻ってはこなかった。





❆





 時間だけが、静かに過ぎていく。


 木漏れ日が橙(だいだい)色に染まり、やがてその橙も、森の底から溶けるように消えていった。


「……お父さーん……。お母さーん……」


 何度呼んでも、返ってくるのは自分の声の残(ざん)響(きょう)だけだった。


 どちらを向いても、同じような木ばかりが延々と続いている。

 来た道すら、もう分からない。


「――ギャアッ」


 ――ビクッ‼


 遠くで、獣の声が響いた。


 黒(くろ)華(か)は咄(とっ)嗟(さ)に近くの木へ駆け寄り、幹を背にして小さく蹲(うずくま)る。


 父もいない。母もいない。他に、誰もいない。


「……ひっく……うぇ……ぇええん……っ」


 こらえきれずに、涙が溢れ出した。


 小学校にも上がっていない歳の子供が、たった一人。

 こんな場所に、置き去りにされたのだ。


 それでも――帰りたかった。


 ずっと口もきいてくれなかった。叩(たた)かれてばかりだった。

 それでも、黒(くろ)華(か)にとって頼れる相手は、あの二人しかいなかったから。


「……かえる……。おうち、かえるんだもん……っ」


 涙を袖(そで)で拭(ぬぐ)い、黒(くろ)華(か)は歩き出した。


 どこへ向かっているのかも分からないまま。ただ、ひたすらに。





❆





 ――何日、歩いただろうか。


 靴は泥にまみれ、服はあちこち綻(ほころ)び、細い脚は擦り傷だらけになっていた。

 沢の水を飲み、木の実らしきものを齧(かじ)り、それでも足を止めなかった。


 空腹と疲労で意識が霞み始めた頃。


 ――ずくん、と。


 黒(くろ)華(か)の頬に、あの黒い文様が浮かび上がった。


 それと同時に、幼い身体の奥(おく)底(そこ)から、黒く混じった紫色の靄(もや)が――〝魔(ま)力(りょく)〟が、滲(にじ)み出すように漏れ始める。


「な、なに……これ……」


 自分の手のひらから立ち昇る禍(まが)々(まが)しい気配に、黒(くろ)華(か)は後ずさった。


 ――そして、それを嗅(か)ぎつけた者たちがいた。


 ざり、と。

 背後の藪(やぶ)が揺れる。


 振り返った先。闇の中に、爛(らん)々(らん)と光る獣の目が――一つ、二つ、三つと、浮(う)かび上がった。


 犬とも猪ともつかない、歪(いびつ)に膨れ上がった黒い異形。

 生前の本能のままに霊力と魔力を求めて彷(さ)徨(まよ)う存在――〝魔物(まもの)〟であった。


「……ぁ」


 声が出なかった。


「いやっ……いやぁああああっ‼」


 黒(くろ)華(か)は転がるように走り出した。


 木の根に足を取られ、顔から地面に突っ込む。それでも起き上がり、また走る。

 背後から、涎(よだれ)を垂らす音が迫ってくる。


 やがて木立が途切れ、崖のような斜面に行き当たった。


 ――逃げ場は、ない。


 振り返れば、黒い異形が身を低くして、今まさに飛びかかろうとしていた。


(……お母さん……)


 黒(くろ)華(か)が、ぎゅっと目を閉じた――その瞬間だった。


 ふわり、と。


 夜風に乗って、一枚の花びらが黒(くろ)華(か)の頬を掠(かす)めた。


 ――紅い。燃えるように紅い、桜の花びら。


 遠く、山の稜(りょう)線(せん)の向こうから、それは吹雪のように舞い込んできた。

 一枚、また一枚。やがて夜の森が、紅(くれない)の花吹雪に染め上げられていく。


 温かく、眩(まぶ)しく、そして、どこまでも清らかな奔(ほん)流(りゅう)。


「――ギャ、ァ……ッ⁉」


 その余(よ)波(は)に触れた瞬間、異形たちは声にならない悲鳴を上げ、黒い霧となって霧(む)散(さん)した。


 あとに残ったのは、静(せい)寂(じゃく)と――黒(くろ)華(か)一人だけ。


「……きれい……」


 降り注ぐ紅い花びらを、黒(くろ)華(か)はぼんやりと見上げていた。


 誰かが、いる。

 この花びらを放った、誰かが、あの方角に。


 ――だから、黒(くろ)華(か)は歩いた。





❆





 森を抜け、道を辿(たど)り、匂いを追うようにして。


 やがて黒(くろ)華(か)の裸足(はだし)同然の足が踏んだのは、柔(やわ)らかく崩れる砂の感触だった。


 延(のべ)岡(おか)――ヘルストピアのほど近く、長浜と呼ばれる砂浜。


「……お腹、空いた……。こっちから……なにか……」


 夜明け前の海が、藍(あい)色(いろ)の空を映して静かに凪(な)いでいた。

 寄せては返す波の音が、黒(くろ)華(か)の耳をゆっくりと撫でていく。


「……もう……あるけない……」


 膝から力が抜け、黒(くろ)華(か)は砂の上へと崩れ落ちた。


 頬に浮かんだ黒い文様が、明滅する。

 その小さな身体からは、黒く混じった紫色の気配が――誰(だれ)に看(み)取(と)られることもなく、静かに漏れ出し続けていた。


 誰にも望まれず。誰にも見つけられず。

 たった一人、捨(す)てられた五歳の少女。


 ――彼女がこの地で、〝優しいお姉ちゃん〟と出会うまで。


 あと、ほんの少し。





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