序章:黒華
――今から、数年前。
とある街のマンションの一室に、一人の女の子が生まれた。
両親はその子に、〝黒華〟と名を付けた。
烏羽色の柔らかな黒髪に、陽の光を透かした陽だまりのような、大きくて温かな焦げ茶色の瞳。
少しだけ垂れた目元と、ふんわりと赤らんだ頬。笑うと、部屋の空気ごと明るくなるような娘だった。
「元気に育つんだぞ」
「幸せになってね、黒華」
ありふれた、けれど誰よりも真剣な願いを込めて。
黒華は、確かに大事に育てられていた。
――そのはずだった。
❆
その日常にひびが入ったのは、黒華が四つになった頃のことだった。
「お父さん、お母さん! 見て見てっ、すごいんだよっ!」
休日の昼下がり。リビングのテレビの前で、黒華は小さな両手を得意げに掲げてみせた。
その瞬間だった。
幼い頬に、じわりと――黒い文様が浮かび上がった。
まるで墨を流し込んだような、禍々しい紋様。
そして、開かれた黒華の手のひらから、ぼうっと炎が立ち上る。
もう片方の手からは、ちろちろと水が湧き出し、絨毯の上へと零れ落ちた。
その炎も、水も。どこか黒く濁った、紫の色を帯びていた。
「えへへっ、すごいでしょ⁉」
ぱあっと顔を輝かせて、黒華は両親を振り返った。
褒めてもらえると思っていた。頭を撫でてもらえると思っていた。
――けれど。
「…………」
父は、口を半開きにしたまま固まっていた。
母の手からマグカップが滑り落ち、床の上で甲高い音を立てて砕け散る。
それでも母は、割れた破片に目もくれなかった。
「あ、あなた……今の……」
「……見た。見たよ。……なんだ、今のは……」
二人の顔から、血の気がすっと引いていく。
当たり前だ。
手から炎と水を生み出す幼子など、どう考えても普通ではない。
「お父さん……? お母さん……?」
きょとんと首を傾げる黒華に、両親は答えなかった。
❆
それから両親は、あちこちへ相談に走った。
大きな病院で、何度も検査を受けさせた。
「うーん……血液も、脳波も、どこにも異常はありませんね。健康そのものですよ」
「で、ですが先生! あの子は本当に、手から火を……!」
「……お母さん。少し、お疲れなのではありませんか?」
次に向かったのは、街外れの古びた神社だった。
白衣を纏った宮司は、黒華をしばらく眺めたあと、困ったように笑うだけだった。
「……普通の、可愛らしいお子さんに見えますがね」
しかも、そういう時に限って。
黒華の手からは、炎も水も、何ひとつ出てくれないのだ。
「……で、出ないよぉ……」
両親の顔を見上げながら、黒華は必死に手を握ったり開いたりした。
けれど、頬に黒い文様が浮かぶことは、その日はついになかった。
結局、すべては有耶無耶のまま。
誰も助けてはくれず、答えの出ないまま、時間だけが過ぎていった。
❆
そんなある日のことだった。
夕食の支度をする母の背を眺めながら、黒華は退屈そうに床に寝転がっていた。
(……もういっかい、やってみよ)
褒めてほしかった。ただ、それだけだった。
小さな手のひらを、天井へと向ける。
ぽっ、と、黒く滲んだ火種が生まれた。
――それは、黒華の意思を、あっさりと振り切った。
膨れ上がった炎はカーテンへと燃え移り、瞬く間に部屋の壁を舐め上げていく。
「――黒華っ‼」
絶叫と共に飛び込んできたのは、母だった。
母は考えるより早く黒華の身体を抱え込み、背中から炎の中へと倒れ込んだ。
焦げた匂い。悲鳴。遠くから近付いてくるサイレンの音。
火はすぐに消し止められた。ボヤ騒ぎで済んだ、と、大人たちは口々に言っていた。
――けれど、母の背中と腕には、惨たらしい火傷が残った。
「熱い……熱いっ……! いやぁっ、熱い……!」
床の上でのた打ち回る母。
その姿を見て、黒華は震えながら手を伸ばした。
「お、お母さん……ごめんなさい……ごめんなさい……」
小さな指先が、母の腕に触れようとした――その瞬間。
「触るな‼」
弾かれた手のひらが、黒華の頬を打った。
乾いた音が、焼け爛れた部屋に響き渡る。
尻餅をついた黒華が見上げた先にあったのは――鬼の形相をした、母の顔だった。
「……あ……」
いつも笑いかけてくれた顔は、そこにはなかった。
❆
その日を境に、家の中から声が消えた。
両親は黒華を〝化け物〟と呼び、近付かなくなった。
「お父さん、あそぼ……?」
「……近付くな‼」
伸ばした手は払われ、怒鳴られ、叩かれる。
返ってくるのは、震える身体と、恐怖に見開かれた目だけ。
夜、襖の向こうから、押し殺した声が漏れ聞こえたことがあった。
「……もう、無理だ。次に火を出したら、今度こそ家ごと燃える」
「……分かってる。分かってるわよ……! あの子のこと、愛してるもの。愛してるけど……このままじゃ、みんな焼け死ぬのよ……っ」
言葉の意味は、よく分からなかった。
(……わたし、なにか、わるいことしたのかな)
まだ物心が付いて、いくらも経っていない女の子だ。
どうして両親があんな風に変わってしまったのか――分かるはずも、なかった。
❆
季節が一つ巡った、ある朝のこと。
「黒華」
久しぶりに名を呼ばれて、黒華は飛び起きた。
玄関に立っていた父は、ぎこちなく、けれど確かに微笑んでいた。
その隣では、母がリュックサックに握り飯を詰めている。
「今日はね、遠くにお出かけしようか。キャンプだ。家族みんなで、な」
「……っ! うんっ、行くっ‼」
黒華は、飛び上がって喜んだ。
(お父さんとお母さんが、もとにもどってくれた……!)
車に揺られる間、黒華はずっと歌を口遊んでいた。
窓の外を流れる景色が、街から田んぼへ、田んぼから山へと変わっていく。
やがて車は舗装の切れた細い林道を進み、鬱蒼とした森の奥で止まった。
湿った土の匂い。頭上を覆い尽くす、緑の天蓋。
「黒華。ここで、ちょっとだけ待っててね」
母がしゃがみ込み、黒華の頭に手を伸ばしかけて――途中で、そっと引っ込めた。
「すぐ戻るから。……いい子で、待っててね」
「うんっ! いい子で待ってる!」
黒華は、満面の笑みで頷いた。
だって、いい子にしていれば。
きっとまた、前みたいに笑ってくれるから。
――しかし、両親は。
二度と、戻ってはこなかった。
❆
時間だけが、静かに過ぎていく。
木漏れ日が橙色に染まり、やがてその橙も、森の底から溶けるように消えていった。
「……お父さーん……。お母さーん……」
何度呼んでも、返ってくるのは自分の声の残響だけだった。
どちらを向いても、同じような木ばかりが延々と続いている。
来た道すら、もう分からない。
「――ギャアッ」
――ビクッ‼
遠くで、獣の声が響いた。
黒華は咄嗟に近くの木へ駆け寄り、幹を背にして小さく蹲る。
父もいない。母もいない。他に、誰もいない。
「……ひっく……うぇ……ぇええん……っ」
こらえきれずに、涙が溢れ出した。
小学校にも上がっていない歳の子供が、たった一人。
こんな場所に、置き去りにされたのだ。
それでも――帰りたかった。
ずっと口もきいてくれなかった。叩かれてばかりだった。
それでも、黒華にとって頼れる相手は、あの二人しかいなかったから。
「……かえる……。おうち、かえるんだもん……っ」
涙を袖で拭い、黒華は歩き出した。
どこへ向かっているのかも分からないまま。ただ、ひたすらに。
❆
――何日、歩いただろうか。
靴は泥にまみれ、服はあちこち綻び、細い脚は擦り傷だらけになっていた。
沢の水を飲み、木の実らしきものを齧り、それでも足を止めなかった。
空腹と疲労で意識が霞み始めた頃。
――ずくん、と。
黒華の頬に、あの黒い文様が浮かび上がった。
それと同時に、幼い身体の奥底から、黒く混じった紫色の靄が――〝魔力〟が、滲み出すように漏れ始める。
「な、なに……これ……」
自分の手のひらから立ち昇る禍々しい気配に、黒華は後ずさった。
――そして、それを嗅ぎつけた者たちがいた。
ざり、と。
背後の藪が揺れる。
振り返った先。闇の中に、爛々と光る獣の目が――一つ、二つ、三つと、浮かび上がった。
犬とも猪ともつかない、歪に膨れ上がった黒い異形。
生前の本能のままに霊力と魔力を求めて彷徨う存在――〝魔物〟であった。
「……ぁ」
声が出なかった。
「いやっ……いやぁああああっ‼」
黒華は転がるように走り出した。
木の根に足を取られ、顔から地面に突っ込む。それでも起き上がり、また走る。
背後から、涎を垂らす音が迫ってくる。
やがて木立が途切れ、崖のような斜面に行き当たった。
――逃げ場は、ない。
振り返れば、黒い異形が身を低くして、今まさに飛びかかろうとしていた。
(……お母さん……)
黒華が、ぎゅっと目を閉じた――その瞬間だった。
ふわり、と。
夜風に乗って、一枚の花びらが黒華の頬を掠めた。
――紅い。燃えるように紅い、桜の花びら。
遠く、山の稜線の向こうから、それは吹雪のように舞い込んできた。
一枚、また一枚。やがて夜の森が、紅の花吹雪に染め上げられていく。
温かく、眩しく、そして、どこまでも清らかな奔流。
「――ギャ、ァ……ッ⁉」
その余波に触れた瞬間、異形たちは声にならない悲鳴を上げ、黒い霧となって霧散した。
あとに残ったのは、静寂と――黒華一人だけ。
「……きれい……」
降り注ぐ紅い花びらを、黒華はぼんやりと見上げていた。
誰かが、いる。
この花びらを放った、誰かが、あの方角に。
――だから、黒華は歩いた。
❆
森を抜け、道を辿り、匂いを追うようにして。
やがて黒華の裸足同然の足が踏んだのは、柔らかく崩れる砂の感触だった。
延岡――ヘルストピアのほど近く、長浜と呼ばれる砂浜。
「……お腹、空いた……。こっちから……なにか……」
夜明け前の海が、藍色の空を映して静かに凪いでいた。
寄せては返す波の音が、黒華の耳をゆっくりと撫でていく。
「……もう……あるけない……」
膝から力が抜け、黒華は砂の上へと崩れ落ちた。
頬に浮かんだ黒い文様が、明滅する。
その小さな身体からは、黒く混じった紫色の気配が――誰に看取られることもなく、静かに漏れ出し続けていた。
誰にも望まれず。誰にも見つけられず。
たった一人、捨てられた五歳の少女。
――彼女がこの地で、〝優しいお姉ちゃん〟と出会うまで。
あと、ほんの少し。
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