第20話:新たなる門出
どこまでも、桜が咲いている。
風が渡るたびに淡い桜色の花びらが雪のように降り注ぎ、足元には幾重にも花の絨毯が敷き詰められていく。
昼でも夜でもない、薄明るい光に満ちた場所。
――白雪姫の、精神世界だった。
その中央に、彼女は立っていた。
白雪姫と同じ真っ白な髪。けれど瞳の色だけが違う、桜色の少女。
「白櫻姫ちゃん」
名を呼ぶと、白櫻姫はゆっくりと振り返った。
そして――何も言わずに、深く頭を下げた。
「え、え?」
「申し訳、ありませんでした」
声が、いつもより硬い。
「わたくしは、あなたに耐えていただきました。……お腹に穴が開くほどの痛みを、承知の上で」
風が吹く。花びらが二人の間を横切っていく。
「あの時、わたくしが一言〝代わります〟と申し上げていれば、あなたは痛い思いをせずに済んだのです。それをせずに、わたくしは海龍と、紅葉の力を見極めることを選びました」
下げられた頭は、上がらない。
「……身勝手な判断でした。本当に、ごめんなさい」
白雪姫は、しばらくその旋毛を見つめていた。
――怒っている、と思われているのだろうか。
でも、と白雪姫は思う。
自分の中にある感情を、いくら掻き回してみても、そこに怒りの色は見つからなかった。
「……あのね」
白雪姫は、しゃがみ込むようにして、白櫻姫の顔をのぞき込んだ。
「痛かったよ。すっごく」
「……はい」
「今まで生きてきた中で、たぶん一番痛かった。お腹の中がぜんぶ、熱いのに冷たくて、変な感じで……声も出なかった」
白櫻姫の睫毛が、震える。
「でもね」
白雪姫は、自分の胸に手を当てた。
「それよりも、痛かったの。紅葉ちゃんが苦しんでるのが、分かっちゃったから」
――あの時。
腹を貫かれた瞬間、確かに彼女は見たのだ。
自分の腕を見下ろして震えていた、紅葉の顔を。
誰よりも痛そうな顔をしていたのは、貫かれた側ではなく、貫いた側だった。
「白櫻姫ちゃんも、ずっと一人で背負ってたんでしょ。紅葉ちゃんのことも、これから起こることも、ぜんぶ」
「…………」
「私、それが一番いやなの」
白雪姫は、まっすぐに言った。
「もう誰も、一人で痛い思いなんかしなくていいように――一緒に、背負いたい」
――ふ、と。
白櫻姫の口元が、綻んだ。
自分でも気づかないうちに、笑ってしまっていた。
(……ああ、また)
この子の心の美しさに、一体自分は何度救われたのだろう。
千年の孤独も、神に断罪された屈辱も、この一言の前ではひどく小さなものに思えてしまう。
「……あなたという人は、本当に」
「な、なに?」
「いいえ」
白櫻姫は、そっと頭を上げた。
「――ですが、もう一つ。謝らなければならないことがございます」
その声で、空気が変わった。
降りしきる花びらの速度が、わずかに落ちた気がした。
「わたくしの魂に眠る――〝魔神の断片〟のことです」
❆
「少し前、あなたの学校に現れた魔神を、覚えていますか」
「……うん」
忘れられるはずがない。
あれが、白雪姫の人生をひっくり返した夜だ。
「あれも、そして今回の海龍も。おそらくは――魔神の断片に惹かれて、この地に現れたのです」
「惹かれて……?」
「同じものは、同じものを呼びます。魔力とは、そういうものなのです」
白櫻姫は、自分の胸元へ手をやった。
「事実、今回の海龍は、紅葉の内にある断片から漏れ出した魔力によって生まれました。……つまり」
言葉が、途切れる。
「千年前のわたくしが招いたことなのです。魔神を討ち果たしたのは、他ならぬわたくしですから」
深く、もう一度頭が下がる。
「その咎が巡り巡って、今、あなたたちに降りかかっている。……本当に、ごめんなさい」
しん、と静まり返る。
――そして。
「……えっと」
白雪姫は、少し困ったように首を傾げた。
「それ、謝らんといけないことなの?」
「え」
「だって白櫻姫ちゃんが千年前に魔神を倒してくれんかったら、世界、もう終わっちゃってたんでしょ?」
「……それは、そうですが」
白櫻姫の眉が、歪む。
罪悪感というものは、理屈で拭えるものではない。それは千年前も、今も変わらない。
「なら、白櫻姫ちゃんが謝ることじゃないよ」
断言だった。
「むしろ、お礼を言わんといけんくらいやん。ありがとう、って」
「……白雪姫」
「うん」
「あなたは、分かっていません」
白櫻姫の声が、わずかに掠れた。
「魔神の断片を持つわたくしの魂は、今、あなたの内にあるのです。……つまり」
桜色の瞳が、白雪姫を捉える。
「あなたは、紅葉と同じ獲物です。これから幾度でも、今夜のような目に遭う。腹を貫かれ、骨を砕かれ、血を流す……それすらも生易しいと思う所業を受けるかもしれない。……わたくしが、この身に宿ってしまったせいで」
それは、告白というより懺悔に近かった。
――だから離れろ、とでも言うつもりだったのかもしれない。
けれど。
白雪姫は、静かに一歩、前へ出た。
そして、白櫻姫の手を取った。
「あ……」
小さな手が、白櫻姫の手を包み込む。
自分と同じ大きさの、自分と同じ体温の手が。
「私にできることがあるなら、言って」
白雪姫は、笑っていた。
「私、この命、白櫻姫ちゃんに救ってもらったんだもん。それに――」
握る指に、力がこもる。
「白櫻姫ちゃんがおるから。白櫻姫ちゃんと一緒なら、私、怖くないよ」
――ああ、と。
白櫻姫は、悟ってしまった。
この子は、気を遣ってくれているのだ。
自分が罪悪感に潰れそうになっていることを見抜いて、そのために、こうして言葉を選んでいる。
(……この子が)
ふいに、脳裏へ流れ込んでくる映像があった。
同じ体に宿る者にだけ覗ける、白雪姫の記憶だ。
――小学校の、教室。
休み時間の喧騒の中、黒板に一番近い席で、一人だけ俯いている女の子。
時折そっと顔を上げ、笑い合うクラスメイトたちを、羨ましそうに眺めては、また目を伏せる。
――下校の道。
三人、四人と連れ立って歩く背中を、ずっと後ろから、たった一人で付いていく小さな影。
誰にも声をかけられず、誰にも声をかけられない。
あの引っ込み思案な少女が。
(……今は、こうして)
誰かの手を握り、誰かを励まし、笑ってみせている。
その姿が、白櫻姫にはひどく眩しく見えた。
……いや。
(本来はきっと、こちらこそが、この子の、生まれ持った気質なのでしょう)
明るくて、優しくて、真っ直ぐで、正義感が強い。
ただ、それを差し出す相手が、これまで一人もいなかっただけの話だ。
(――もしかしたら)
処刑され、行き場を失ったはずの自分の魂が、数多の人間の中からこの子を選んだのも。
その気質に、本能が惹かれたからなのかもしれない。
「……ふふ」
気づけば、白櫻姫は笑っていた。
「え、な、なに?」
「白雪姫」
握られていた手を、今度は白櫻姫の方から握り返す。
そして、ほんの少し――悪戯っぽく、目を細めた。
「言いましたね?」
「え」
「一緒に背負う、と。……では、遠慮なく背負っていただきますよ」
「……あ」
白雪姫の頬が、引き攣った。
その笑顔を、彼女はよく知っている。
訓練の日、地面を何十回も転がされた日の朝に見た顔と、まったく同じだ。
「お、お手柔らかに……お願いします……」
苦笑いする白雪姫に、白櫻姫はにっこりと微笑み返した。
❆
「まず、前提のお話をいたしましょう」
花びらの舞う中、白櫻姫は指を一本立てた。
「魔神の断片は、おそらくこの国中に散らばっております。数がいくつあるのかは……正直に申し上げて、わたくしにも分かりません」
「……この国中」
「はい。確実に在り処が分かっているのは、二つだけ」
指が、二本になる。
「わたくしの魂に刻まれた、一つ。そして――紅葉の魂に刻まれた、一つ」
白櫻姫は、少し考えるように目を伏せた。
「紅葉のものが今回暴発したのは、おそらく〝時間〟のせいです。あの子は千年以上、魔物と戦い続けてきました。その度に断片は魔力を喰らい、溜め込んでいったのでしょう」
「溜め込んで……」
白雪姫の顔から、さっと色が引いた。
「じゃ、じゃあ! 白櫻姫ちゃんの魂にあるのも、いつかは暴走しちゃうんじゃ……」
「――ええ。そうかもしれません」
あっさりと、白櫻姫は頷いた。
誤魔化す気は、まるでないらしい。
「そんな、あっさり……!」
「事実ですから。……ですが」
その桜色の瞳に、静かな炎が灯る。
「だからこそ、今のうちに探らねばなりません。この身の魔力を、制御する術を」
――魔神の断片は、消せない。
消す方法は、魂ごと滅びることだけ。
ならば残された道は一つ。飼い慣らすしかないのだ。
「じゃあ、次」
白雪姫は指を立てた。白櫻姫の真似だ。
「散らばってる断片って、どうやって見つけるの?」
「……そこが、厄介なところでして」
白櫻姫の眉が、困ったように下がる。
「方法は、二つしかありません。魔力異常が観測されるのを待つか――今回のように、断片を宿すわたくしか紅葉が、その気配を感じ取るか」
「……ん?」
白雪姫が、首を傾げた。
「あれ? でも今回のって、紅葉ちゃんの中の断片から出た魔力を、海におった魔物が吸い込んで生まれた……んじゃなかったっけ?」
だとすれば、感じ取るも何もない。
自分たちの内側から出たものが、勝手に育っただけの話になる。
「概ね、間違ってはおりません」
白櫻姫は、ゆっくりと首を横に振った。
「ですが、正確には――逆なのです」
「逆?」
「海の中にいたあの魔物は、もともと〝別の〟魔神の断片を、その身に抱えていたのです」
「……えっ」
「そして、その魔物が引き寄せられた。千年ぶんの魔力を蓄えた、紅葉という甘い果実に」
――白雪姫の背筋を、冷たいものが走った。
つまり、あの海龍は。
ただ生まれたのではなく、狙って這い出してきたということだ。
「海は、あらゆる場所と繋がっております」
白櫻姫は、遠くを見るように目を細めた。
「どこかの岸で断片を拾った海の生き物が、潮に乗って、あの海岸の近くを漂う。……そういうことは、十分に起こり得るのです」
「じゃ、じゃあ! その、魔物が持ってた断片は⁉」
「ご安心を」
白櫻姫は、悪びれもせずに言った。
「魔物ごと、跡形もなく消し飛ばしましたので。もう問題はございません」
「……あ、そう」
白雪姫は、なんとも言えない顔になった。
あの夜空を紅に染めた花吹雪を、思い出したからだ。
「――話を戻します」
白櫻姫の声が、再び硬くなった。
「これから先、魔神、あるいはそれに匹敵する魔物との戦いは、間違いなく増えます。そして、わたくしの魂を宿すあなたは、紅葉と同じだけ狙われる」
――逃げ場はない。
断片が消えない以上、この体はいつまでも、獣を呼ぶ灯りであり続ける。
「ですから、白雪姫」
白櫻姫は、はっきりと告げた。
「あなたには――強くなっていただきます」
「…………」
白雪姫は、すぐには返事ができなかった。
自分の手のひらを見下ろす。
小さくて、細くて、ついこの間まで鉛筆しか握っていなかった手だ。
「……あの、さ」
俯いたまま、白雪姫は言った。
「私、まだ神器も出せないし。……その、蒼波ちゃんはもう〝神器顕現〟できるのに、私だけ、まだ」
「白雪姫……」
「だから――」
顔を上げる。
「私の体、貸すから。白櫻姫ちゃんが戦うんじゃ、だめ?」
それは、卑怯な提案だと分かっていた。
でも、それが一番、みんなが助かる方法のような気がした。
――白櫻姫は、少しの間、黙っていた。
「……正直に申し上げれば」
やがて、静かに口を開く。
「わたくしは、それでも構いません」
「え」
「あなたを守ると誓ったのは、わたくしですから。あなたが望むなら、この先すべての戦いを、わたくしが引き受けても構わないのです――ですが」
白櫻姫は、自分の胸に手を当てた。
「わたくしの断片に、魔力が溜まればどうなるか。……お互いの魂に、そしてあなたのその体に、何が起こるのか。わたくしにも、分からないのです」
「……あ」
「紅葉の身に起きたことが、あなたの身に起きないという保証は、どこにもありません」
――紅葉の、あの姿。
黒紫の瘴気に苛まれ、自分の意思に反して友を貫いた、あの姿。
あれが、自分に。
(……そっか)
白雪姫は、ようやく理解した。
これは、白櫻姫のわがままではない。
むしろ、白櫻姫こそが、自分に貸しを作りたくないのだ。
「だから、可能な限り――あなたに戦っていただきたいのです」
「…………」
白雪姫は、大きく息を吸って、吐いた。
「……分かった。やる」
「よろしい」
白櫻姫が、嬉しそうに微笑んだ。
「では――さっそく」
次の瞬間、彼女の姿が消えた。
「え?」
――脇腹に、衝撃。
「ごぶっ⁉」
白雪姫の体が、錐揉み状に吹き飛んだ。
❆
結論から言えば、それは訓練というより、一方的な収穫作業だった。
「……っ、ぐ!」
白雪姫が腕を上げた時には、もう掌底が肩に入っている。
身を捻った時には、足を払われている。
後ろへ飛べば、飛んだ先に白櫻姫がいる。
(す、隙が――ない!)
そもそも避けられないのだ。
だから白雪姫にできることといえば、殴られ、蹴られ、吹き飛ばされ、花びらの上を転がることだけだった。
「腕で受けない。骨が折れます」
「はいっ……!」
「顎が上がっております」
「はいぃっ……!」
――何度目か分からない転倒。
顔を上げると、桜の花びらの向こうに、涼しい顔をした少女が立っている。
(……くやしい)
立ち上がる。
膝が笑っている。息が上がっている。
それでも、立ち上がる。
――そして、繰り返すうちに。
何かが、少しずつ変わり始めた。
(……あ)
白櫻姫が動く前、ほんの一瞬。
爪先が、わずかに内側を向く。
(――左!)
体が、勝手に動いた。
風を切る音が、頬のすぐ横を通り過ぎていく。
「……あら」
初めて、白櫻姫の声に色が乗った。
「避けましたね」
「――っ、はぁ、はぁ……!」
そこからは、早かった。
反復練習と同じだ。何十度と同じ動きを見せられれば、体はいやでもそれを覚えていく。
数時間の後には、白雪姫の側から拳を繰り出せる場面が、少しずつ増えてきていた。
「……ていっ!」
見よう見まねの蹴り。
当然のように捌かれ、逆に足を取られて宙を舞う。
「あぐっ!」
――それでも、大きな進歩だった。
防戦一方だった数時間前を思えば、こちらから仕掛けられるというだけで、世界が違って見える。
そして、攻防がさらに続いた頃。
――それは、起きた。
白雪姫の右足が、ふわりと内へ滑り込む。
上体を沈め、白櫻姫の懐へ。
その足の運びは、白雪姫が今まで一度も習ったことのない動きだった。
――ほんの一時間前、白櫻姫が一度だけ見せた、あの足捌きだ。
「――」
白櫻姫の目が、わずかに見開かれる。
(この子)
半身をずらし、辛うじて手のひらで逸らす。
(――一度見ただけで、わたくしの足捌きを……?)
あり得ない、とは言えなかった。
この子の霊力量は、計測不能の域にある。
ならば、その他の何かが規格外であっても、不思議はない。
――しかしそれでも。
「まだ、届きません」
白雪姫の視界が、反転した。
❆
さらに、一時間後。
白雪姫は、花びらの絨毯の上に大の字で仰向けになっていた。
「……はぁっ、はぁっ……む、むり……もう、動かん……」
髪も、頬も、花びらまみれだ。
その傍らに、白櫻姫が立っている。
――息一つ、乱していない。
「本日は、ここまでといたしましょう」
「……ほんと、に……?」
「ええ。よく耐えました」
白櫻姫は、ふわりとしゃがみ込むと、白雪姫の額に張りついた前髪を、そっと払ってやった。
「今までの手合わせの中では最も上出来でしたよ」
「……えへへ」
白雪姫は、疲れ切った顔で、それでも嬉しそうに笑った。
「あ、そうそう。次回のことですが」
「……うん?」
「次からは、霊力を武器に付与した状態での、打ち合いをいたします」
「――」
白雪姫の笑顔が、固まった。
「ま、待って、武器って」
「ご心配なく。最初は木刀から始めましょう」
「木刀‼」
ふわり、と桜の花びらが二人の上に降り注ぐ。
その向こうで、世界が少しずつ、白く溶けていった。
――朝が、来る。
❆
目が覚めたのは、午前五時を少し回った頃だった。
窓の外はまだ薄青く、山の稜線だけが、じわりと白み始めている。
体が、鉛のように重い。
(……精神世界の疲れって、体にも来るっちゃね……)
白雪姫は、うめきながら体を起こした。
隣のベッドでは、蒼波が枕を抱え込んで熟睡している。
その向こうの、ベッド。
――空だった。
布団は綺麗に整えられ、皺ひとつない。
まるで、最初から誰も寝ていなかったかのように。
「――」
白雪姫は、靴を履いて部屋を飛び出した。
冷たい廊下を走り、玄関の硝子戸を押し開ける。
朝の空気が、肺に刺さった。
施設の前庭を抜け、道路へと続く砂利道。
その先に、黒髪の少女の背中があった。
「紅葉ちゃんっ!」
背中が、止まる。
振り向きはしなかった。
「……どこ行くと?」
肩で息をしながら、白雪姫は問うた。
しばらくの沈黙のあと、紅葉は前を向いたまま答えた。
「出ていくの。ここから」
「……なんで」
「今回のこと、全部私のせいだから」
その声は、驚くほど平坦だった。
「あなたたちに迷惑をかけた。それに、魔神の断片はまだ私の中にある。……また、同じことが起こる」
朝の風が、紅葉の長い黒髪を攫っていく。
「だから、誰もいない遠くへ行く。海でも山でも、どこでもいい。私一人なら、何が起きたって困る人はいないから」
「そんな――」
「それに、ここに来た目的も、もう果たしたし」
そこで初めて、紅葉はゆっくりと振り返った。
その顔は、穏やかだった。
千年前から、ずっとそうしてきたのだという顔だった。
「ありがとう、白雪姫」
「え……」
「あなたを傷付けた、こんな私を。……〝友達〟って、言ってくれて」
言い終えると、紅葉は再び背を向けた。
そして、一歩を踏み出そうとして――
「待って!」
白雪姫の声が、朝の谷に響いた。
「せっかく、白櫻姫ちゃんに会えたのに! もう行っちゃうと⁉」
――足が、止まった。
「……一度、顔が見たかっただけよ」
背を向けたまま、紅葉は言う。
「それはもう、叶ったから」
「でも――」
「白雪姫。私はね」
その声が、ほんの少しだけ掠れた。
「不老不死なの。……あなたたちを、見送る側の人間なのよ」
白雪姫の喉が、詰まる。
「ずっとここにいたら、いつか必ず来る最期の別れが、辛くなる。だから、深く関わらない。長く居座らない。……この千年、ずっとそうしてきた」
――それは、処世術だった。
千年という時間が、一人の少女に刻み込んだ、傷の形だった。
「……それでも」
白雪姫は、拳を握った。
「私は、いやだ」
「白雪姫」
「せっかく友達になってくれた紅葉ちゃんと、もっと一緒にいたい」
「――っ……決めた、ことだから」
紅葉の声が、拒むように硬くなる。
これ以上は、無駄だ。
そう告げる背中だった。
――だから。
白雪姫は、黙って歩き出した。
足音が、紅葉のすぐ後ろで止まる。
そして。
「――じゃあ、一緒に行こうかな」
「…………は?」
紅葉が、勢いよく振り返った。
その目が、これ以上ないほど丸くなっている。
「一緒にいてくれんなら、私が一緒に行く」
「な、なに言って――」
紅葉が、珍しく狼狽した。
「蒼波たちはどうするの⁉ 学校だってあるでしょ⁉」
「事情は説明するよ」
「説明って、そんな簡単に――」
「あ、翠織先生には、置き手紙しよっかな」
「あなたね⁉」
朝の空気が、一気に騒がしくなった。
紅葉は、額に手を当てて、深く息を吐いた。
「……どうして」
絞り出すような声だった。
「どうして、そこまでするの。私はあなたを、貫いたのよ」
「……どうしてやろうね」
白雪姫は、少し首を傾げてから、指を折り始めた。
「まず、このまま見送っちゃうと、気になって夜も眠れんし」
「そんな理由で――」
「あと、私の中の白櫻姫ちゃんにも、魔神の断片が刻まれてるでしょ?」
「――」
「紅葉ちゃんの理屈だと、私も、ここから出ていかんといけないことになるっちゃけど」
――紅葉の言葉が、止まった。
「それは――」
反論しようとして、できなかった。
その通りだ、と思ってしまったから。
――ああ。
その瞬間、紅葉の脳裏に甦るものがあった。
埃の積もった、月明かりだけの旧校舎。
勝手に住み着いていた自分に、この子は言ったのだ。
――じゃあ、うちに来る? と。
それを断ると今度は――じゃあ、私も、今日はここにいようかな――と言う。
あの時と、全く同じ状況だった。
断る理由も、受ける理由も、あの時も、たぶん同じくらい曖昧だった。
(……変わってないじゃない)
「それに――」
白雪姫は、そこで少し、照れくさそうに笑った。
「私、一度は神になった白櫻姫ちゃんの魂を宿してるでしょ? ……だから、私に寿命があるのかも、よく分からんくない?」
「え」
「あったとしても、もの凄く長いかもしれん」
――朝日が、山の稜線を越えた。
白い髪が、金色に透ける。
「そしたら、紅葉ちゃんと、ずーっと一緒にいれるってことよね?」
「……っ」
「だから――」
白雪姫は、手を差し出した。
「もうちょっとだけ、一緒にいてみない?」
差し出された手が、朝の光の中で震えている。
走ってきたせいか、寒さのせいか、それとも別の何かか。
「白櫻姫ちゃんにも言ったんだ。一緒に背負いたい、って」
その笑顔は、眩しいほどだった。
「それはね、紅葉ちゃんのことも同じ。……ううん、私だけじゃないよ」
――その時だった。
「そうだよ!」
背後から、威勢のいい声が飛んできた。
二人が振り返ると、玄関の庇の下に、寝癖を跳ねさせ、まだ寝間着を着たままの蒼波ときちんと着替えを済ませた翠織が立っていた。
「あ、蒼波ちゃん」
「白雪姫ちゃんが飛び出してく音、丸聞こえやったっちゃけど」
蒼波は、ずかずかと歩いてきて、紅葉の前に仁王立ちした。
「うちも背負う」
「……蒼波」
「紅葉ちゃんの重荷も、白雪姫ちゃんの重荷も、全部。うち、これでも神器まで顕現した神子だよ?」
胸を張ってから、蒼波はふと、思い出したように付け足した。
「それに、紅葉ちゃんのセーラー服も見たいし!」
「……は?」
「せっかく仕立てに行ったっちゃよ⁉ あれ、来週には出来上がるっちゃから! 着る前に消えるとか、うち絶対許さんかんね!」
あまりに俗っぽい理由に、紅葉は思わず口を開けた。
「……ふふ」
翠織が、可笑しそうに笑いながら歩いてくる。
「紅葉ちゃん。あなたが心配しているのは、暴走した時のことでしょう?」
「……そうです」
「なら、なおのこと傍にいてもらわないと困るわ」
翠織は、穏やかに言った。
「神子管理組織は、そういうものを管理するための組織よ。行縢の山は、この国でも有数の結界。……何かあっても、ここなら手が打てる」
「……でも、それは」
「一人で野垂れ死にされる方が、よっぽど厄介なの。あなたが魔蝕者――いえ、あなたのポテンシャルなら、魔神もあり得るわね。そんな者になられちゃ困るのよ」
言い切られて、紅葉は言葉を失った。
――そして。
「……みんな……でも……私は……」
隣で、白雪姫がそっと目を閉じた。
次の瞬間。
白銀の瞳が、静かに桜色へと溶けた。
背筋が伸び、肩から力が抜ける。
朝日を受けて、白い髪が淡く光った。
「紅葉」
「――!」
千年前と同じ声が、紅葉の名を呼ぶ。
「せっかく、また会えたのですよ」
白櫻姫は、微笑んだ。
「わたくしたちと、一緒にいましょう」
――ぽたり、と。
道路の上に、しずくが落ちた。
紅葉の頬を、一筋の涙が伝っていた。
「……ずるい」
「あら」
「みんなして、ずるいわよ……!」
袖で、乱暴に目元を拭う。
そして顔を上げた紅葉は――満面の笑みを浮かべていた。
「ええ、よろしくね!」
その笑顔に、白櫻姫は目を細め、蒼波は歓声を上げ、翠織は静かに頷いた。
山の向こうから昇った朝日が、四人の影を、長く、長く、砂利道の上に伸ばしていた。
❆
同じ頃。
延岡市街から東へ。
温水プールが有名な大きな建物――ヘルストピア延岡の、すぐ近く。
長浜の海岸線に、朝日が真っ直ぐに差し込んでいた。
波が、静かに寄せては返している。
その、誰もいないはずの砂浜を。
――一人の少女が、歩いていた。
まだ、幼い。五つか六つか、そのくらいだろう。
烏羽色の長い髪は潮風に絡まり、乱れ放題。
着ているものは元の色も分からないほど汚れ、裾は裂け、素足には幾つもの擦り傷が刻まれている。
どこから歩いてきたのか。
どれだけ歩いてきたのか。
その小さな足跡だけが、延々と、砂の上に続いていた。
「……おなか、すいた」
声は、掠れていた。
ぺたり、ぺたり。
波打ち際を、あてもなく歩いていく。
「……こっちから、あのときの……」
ふと、少女が足を止めた。
俯いていた顔が、ゆっくりと持ち上がる。
その視線の先にあるのは――遙か西。
朝もやの向こうに横たわる、大きな山の影だった。
「……あっちに、いっぱい……」
ふらり、と。
少女は、そちらへ足を向けた。
――その瞬間。
彼女の小さな体から、黒混じりの紫が、陽炎のように立ち昇った。
朝日を浴びながら。
波の音だけを供に連れて。
少女は、歩き続ける。




