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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第02章:不死の炎
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第20話:新たなる門出

 どこまでも、桜が咲いている。


 風が渡るたびに淡い桜色の花びらが雪のように降り注ぎ、足元には幾重にも花の絨(じゅう)毯(たん)が敷き詰められていく。


 昼でも夜でもない、薄(うす)明(あか)るい光に満ちた場所。


 ――白雪姫(こゆき)の、精神世界だった。


 その中央に、彼女は立っていた。


 白雪姫(こゆき)と同じ真っ白な髪。けれど瞳の色だけが違う、桜色の少女。


「白櫻姫(こさき)ちゃん」


 名を呼ぶと、白櫻姫(こさき)はゆっくりと振り返った。


 そして――何も言わずに、深く頭を下げた。


「え、え?」


「申し訳、ありませんでした」


 声が、いつもより硬い。


「わたくしは、あなたに耐えていただきました。……お腹に穴が開くほどの痛みを、承知の上で」


 風が吹く。花びらが二人の間を横切っていく。


「あの時、わたくしが一言〝代わります〟と申し上げていれば、あなたは痛い思いをせずに済んだのです。それをせずに、わたくしは海龍と、紅葉(もみじ)の力を見極めることを選びました」


 下げられた頭は、上がらない。


「……身勝手な判断でした。本当に、ごめんなさい」


 白雪姫(こゆき)は、しばらくその旋(つむ)毛(じ)を見つめていた。


 ――怒っている、と思われているのだろうか。


 でも、と白雪姫(こゆき)は思う。


 自分の中にある感情を、いくら掻(か)き回してみても、そこに怒りの色は見つからなかった。


「……あのね」


 白雪姫(こゆき)は、しゃがみ込むようにして、白櫻姫(こさき)の顔をのぞき込んだ。


「痛かったよ。すっごく」


「……はい」


「今まで生きてきた中で、たぶん一番痛かった。お腹の中がぜんぶ、熱いのに冷たくて、変な感じで……声も出なかった」


 白櫻姫(こさき)の睫(まつ)毛(げ)が、震える。


「でもね」


 白雪姫(こゆき)は、自分の胸に手を当てた。


「それよりも、痛かったの。紅葉(もみじ)ちゃんが苦しんでるのが、分かっちゃったから」


 ――あの時。


 腹を貫(つらぬ)かれた瞬間、確かに彼女は見たのだ。


 自分の腕を見(み)下(お)ろして震えていた、紅葉(もみじ)の顔を。


 誰よりも痛そうな顔をしていたのは、貫かれた側ではなく、貫いた側だった。


「白櫻姫(こさき)ちゃんも、ずっと一人で背負ってたんでしょ。紅葉(もみじ)ちゃんのことも、これから起こることも、ぜんぶ」


「…………」


「私、それが一番いやなの」


 白雪姫(こゆき)は、まっすぐに言った。


「もう誰も、一人で痛い思いなんかしなくていいように――一緒に、背負いたい」


 ――ふ、と。


 白櫻姫(こさき)の口元が、綻(ほころ)んだ。


 自分でも気づかないうちに、笑ってしまっていた。


(……ああ、また)


 この子の心の美しさに、一体自分は何度救われたのだろう。


 千年の孤独も、神に断罪された屈辱も、この一言の前ではひどく小さなものに思えてしまう。


「……あなたという人は、本当に」


「な、なに?」


「いいえ」


 白櫻姫(こさき)は、そっと頭を上げた。


「――ですが、もう一つ。謝らなければならないことがございます」


 その声で、空気が変わった。


 降りしきる花びらの速度が、わずかに落ちた気がした。


「わたくしの魂(たましい)に眠る――〝魔(ま)神(じん)の断片〟のことです」





❆





「少し前、あなたの学校に現れた魔神を、覚えていますか」


「……うん」


 忘れられるはずがない。


 あれが、白雪姫(こゆき)の人生をひっくり返した夜だ。


「あれも、そして今回の海龍も。おそらくは――魔神の断片に惹(ひ)かれて、この地に現れたのです」


「惹かれて……?」


「同じものは、同じものを呼びます。魔(ま)力(りょく)とは、そういうものなのです」


 白櫻姫(こさき)は、自分の胸元へ手をやった。


「事実、今回の海龍は、紅葉(もみじ)の内にある断片から漏(も)れ出した魔力によって生まれました。……つまり」


 言葉が、途切れる。


「千年前のわたくしが招いたことなのです。魔神を討ち果たしたのは、他ならぬわたくしですから」


 深く、もう一度頭が下がる。


「その咎(とが)が巡り巡って、今、あなたたちに降りかかっている。……本当に、ごめんなさい」


 しん、と静まり返る。


 ――そして。


「……えっと」


 白雪姫(こゆき)は、少し困ったように首を傾(かし)げた。


「それ、謝らんといけないことなの?」


「え」


「だって白櫻姫(こさき)ちゃんが千年前に魔神を倒してくれんかったら、世界、もう終わっちゃってたんでしょ?」


「……それは、そうですが」


 白櫻姫(こさき)の眉が、歪(ゆが)む。


 罪悪感というものは、理屈で拭えるものではない。それは千年前も、今も変わらない。


「なら、白櫻姫(こさき)ちゃんが謝ることじゃないよ」


 断言だった。


「むしろ、お礼を言わんといけんくらいやん。ありがとう、って」


「……白雪姫(こゆき)」


「うん」


「あなたは、分かっていません」


 白櫻姫(こさき)の声が、わずかに掠(かす)れた。


「魔神の断片を持つわたくしの魂は、今、あなたの内にあるのです。……つまり」


 桜色の瞳が、白雪姫(こゆき)を捉(とら)える。


「あなたは、紅葉(もみじ)と同じ獲物です。これから幾度でも、今夜のような目に遭(あ)う。腹を貫かれ、骨を砕かれ、血を流す……それすらも生(なま)易(やさ)しいと思う所業を受けるかもしれない。……わたくしが、この身に宿(やど)ってしまったせいで」


 それは、告白というより懺(ざん)悔(げ)に近かった。


 ――だから離れろ、とでも言うつもりだったのかもしれない。


 けれど。


 白雪姫(こゆき)は、静かに一歩、前へ出た。


 そして、白櫻姫(こさき)の手を取った。


「あ……」


 小さな手が、白櫻姫(こさき)の手を包み込む。


 自分と同じ大きさの、自分と同じ体温の手が。


「私にできることがあるなら、言って」


 白雪姫(こゆき)は、笑っていた。


「私、この命、白櫻姫(こさき)ちゃんに救ってもらったんだもん。それに――」


 握る指に、力がこもる。


「白櫻姫(こさき)ちゃんがおるから。白櫻姫(こさき)ちゃんと一緒なら、私、怖くないよ」


 ――ああ、と。


 白櫻姫(こさき)は、悟(さと)ってしまった。


 この子は、気を遣ってくれているのだ。


 自分が罪悪感に潰れそうになっていることを見抜いて、そのために、こうして言葉を選んでいる。


(……この子が)


 ふいに、脳裏へ流れ込んでくる映像があった。


 同じ体に宿る者にだけ覗ける、白雪姫(こゆき)の記憶だ。


 ――小学校の、教室。


 休み時間の喧(けん)騒(そう)の中、黒板に一番近い席で、一人だけ俯(うつむ)いている女の子。


 時折そっと顔を上げ、笑い合うクラスメイトたちを、羨(うらや)ましそうに眺めては、また目を伏せる。


 ――下校の道。


 三人、四人と連れ立って歩く背中を、ずっと後ろから、たった一人で付いていく小さな影。


 誰にも声をかけられず、誰にも声をかけられない。


 あの引っ込み思案な少女が。


(……今は、こうして)


 誰かの手を握り、誰かを励まし、笑ってみせている。


 その姿が、白櫻姫(こさき)にはひどく眩(まぶ)しく見えた。


 ……いや。


(本来はきっと、こちらこそが、この子の、生まれ持った気質なのでしょう)


 明るくて、優しくて、真(ま)っ直(す)ぐで、正(せい)義(ぎ)感(かん)が強い。


 ただ、それを差し出す相手が、これまで一人もいなかっただけの話だ。


(――もしかしたら)


 処刑され、行き場を失ったはずの自分の魂が、数(あま)多(た)の人間の中からこの子を選んだのも。


 その気質に、本能が惹かれたからなのかもしれない。


「……ふふ」


 気づけば、白櫻姫(こさき)は笑っていた。


「え、な、なに?」


「白雪姫(こゆき)」


 握られていた手を、今度は白櫻姫(こさき)の方から握り返す。


 そして、ほんの少し――悪(いた)戯(ずら)っぽく、目を細めた。


「言いましたね?」


「え」


「一緒に背負う、と。……では、遠慮なく背負っていただきますよ」


「……あ」


 白雪姫(こゆき)の頬が、引(ひ)き攣(つ)った。


 その笑顔を、彼女はよく知っている。


 訓練の日、地面を何十回も転がされた日の朝に見た顔と、まったく同じだ。


「お、お手柔らかに……お願いします……」


 苦笑いする白雪姫(こゆき)に、白櫻姫(こさき)はにっこりと微(ほほ)笑(え)み返した。





❆





「まず、前提のお話をいたしましょう」


 花びらの舞う中、白櫻姫(こさき)は指を一本立てた。


「魔神の断片は、おそらくこの国中に散らばっております。数がいくつあるのかは……正直に申し上げて、わたくしにも分かりません」


「……この国中」


「はい。確実に在(あ)り処(か)が分かっているのは、二つだけ」


 指が、二本になる。


「わたくしの魂に刻まれた、一つ。そして――紅葉(もみじ)の魂に刻まれた、一つ」


 白櫻姫(こさき)は、少し考えるように目を伏せた。


「紅葉(もみじ)のものが今回暴発したのは、おそらく〝時間〟のせいです。あの子は千年以上、魔(ま)物(もの)と戦い続けてきました。その度に断片は魔力を喰(く)らい、溜(た)め込んでいったのでしょう」


「溜め込んで……」


 白雪姫(こゆき)の顔から、さっと色が引いた。


「じゃ、じゃあ! 白櫻姫(こさき)ちゃんの魂にあるのも、いつかは暴走しちゃうんじゃ……」


「――ええ。そうかもしれません」


 あっさりと、白櫻姫(こさき)は頷(うなず)いた。


 誤魔化す気は、まるでないらしい。


「そんな、あっさり……!」


「事実ですから。……ですが」


 その桜色の瞳に、静かな炎が灯(とも)る。


「だからこそ、今のうちに探らねばなりません。この身の魔力を、制(せい)御(ぎょ)する術(すべ)を」


 ――魔神の断片は、消せない。


 消す方法は、魂ごと滅びることだけ。


 ならば残された道は一つ。飼い慣らすしかないのだ。


「じゃあ、次」


 白雪姫(こゆき)は指を立てた。白櫻姫(こさき)の真似だ。


「散らばってる断片って、どうやって見つけるの?」


「……そこが、厄介なところでして」


 白櫻姫(こさき)の眉が、困ったように下がる。


「方法は、二つしかありません。魔力異常が観測されるのを待つか――今回のように、断片を宿すわたくしか紅葉(もみじ)が、その気配を感じ取るか」


「……ん?」


 白雪姫(こゆき)が、首を傾げた。


「あれ? でも今回のって、紅葉(もみじ)ちゃんの中の断片から出た魔力を、海におった魔物が吸い込んで生まれた……んじゃなかったっけ?」


 だとすれば、感じ取るも何もない。


 自分たちの内側から出たものが、勝手に育っただけの話になる。


「概ね、間違ってはおりません」


 白櫻姫(こさき)は、ゆっくりと首を横に振った。


「ですが、正確には――逆なのです」


「逆?」


「海の中にいたあの魔物は、もともと〝別の〟魔神の断片を、その身に抱(かか)えていたのです」


「……えっ」


「そして、その魔物が引き寄せられた。千年ぶんの魔力を蓄(たくわ)えた、紅葉(もみじ)という甘い果実に」


 ――白雪姫(こゆき)の背筋を、冷たいものが走った。


 つまり、あの海龍は。


 ただ生まれたのではなく、狙って這(は)い出してきたということだ。


「海は、あらゆる場所と繋がっております」


 白櫻姫(こさき)は、遠くを見るように目を細めた。


「どこかの岸で断片を拾った海の生き物が、潮に乗って、あの海岸の近くを漂う。……そういうことは、十分に起こり得るのです」


「じゃ、じゃあ! その、魔物が持ってた断片は⁉」


「ご安心を」


 白櫻姫(こさき)は、悪(わる)びれもせずに言った。


「魔物ごと、跡形もなく消し飛ばしましたので。もう問題はございません」


「……あ、そう」


 白雪姫(こゆき)は、なんとも言えない顔になった。


 あの夜空を紅(くれない)に染めた花吹雪を、思い出したからだ。


「――話を戻します」


 白櫻姫(こさき)の声が、再び硬くなった。


「これから先、魔神、あるいはそれに匹敵する魔物との戦いは、間違いなく増えます。そして、わたくしの魂を宿すあなたは、紅葉(もみじ)と同じだけ狙われる」


 ――逃げ場はない。


 断片が消えない以上、この体はいつまでも、獣(けもの)を呼ぶ灯(あか)りであり続ける。


「ですから、白雪姫(こゆき)」


 白櫻姫(こさき)は、はっきりと告げた。


「あなたには――強くなっていただきます」


「…………」


 白雪姫(こゆき)は、すぐには返事ができなかった。


 自分の手のひらを見下ろす。


 小さくて、細くて、ついこの間まで鉛筆しか握っていなかった手だ。


「……あの、さ」


 俯いたまま、白雪姫(こゆき)は言った。


「私、まだ神(じん)器(ぎ)も出せないし。……その、蒼(あお)波(ば)ちゃんはもう〝神(じん)器(ぎ)顕(けん)現(げん)〟できるのに、私だけ、まだ」


「白雪姫(こゆき)……」


「だから――」


 顔を上げる。


「私の体、貸すから。白櫻姫(こさき)ちゃんが戦うんじゃ、だめ?」


 それは、卑(ひ)怯(きょう)な提案だと分かっていた。


 でも、それが一番、みんなが助かる方法のような気がした。


 ――白櫻姫(こさき)は、少しの間、黙っていた。


「……正直に申し上げれば」


 やがて、静かに口を開く。


「わたくしは、それでも構いません」


「え」


「あなたを守ると誓ったのは、わたくしですから。あなたが望むなら、この先すべての戦いを、わたくしが引き受けても構わないのです――ですが」


 白櫻姫(こさき)は、自分の胸に手を当てた。


「わたくしの断片に、魔力が溜まればどうなるか。……お互いの魂に、そしてあなたのその体に、何が起こるのか。わたくしにも、分からないのです」


「……あ」


「紅葉(もみじ)の身に起きたことが、あなたの身に起きないという保証は、どこにもありません」


 ――紅葉(もみじ)の、あの姿。


 黒紫の瘴(しょう)気(き)に苛(さいな)まれ、自分の意思に反して友を貫いた、あの姿。


 あれが、自分に。


(……そっか)


 白雪姫(こゆき)は、ようやく理解した。


 これは、白櫻姫(こさき)のわがままではない。


 むしろ、白櫻姫(こさき)こそが、自分に貸(か)しを作りたくないのだ。


「だから、可能な限り――あなたに戦っていただきたいのです」


「…………」


 白雪姫(こゆき)は、大きく息を吸って、吐いた。


「……分かった。やる」


「よろしい」


 白櫻姫(こさき)が、嬉しそうに微笑んだ。


「では――さっそく」


 次の瞬間、彼女の姿が消えた。


「え?」


 ――脇(わき)腹(ばら)に、衝撃。


「ごぶっ⁉」


 白雪姫(こゆき)の体が、錐(き)揉(も)み状に吹き飛んだ。





❆





 結論から言えば、それは訓練というより、一方的な収穫作業だった。


「……っ、ぐ!」


 白雪姫(こゆき)が腕を上げた時には、もう掌(しょう)底(てい)が肩に入っている。


 身を捻(ひね)った時には、足を払われている。


 後ろへ飛べば、飛んだ先に白櫻姫(こさき)がいる。


(す、隙(すき)が――ない!)


 そもそも避けられないのだ。


 だから白雪姫(こゆき)にできることといえば、殴られ、蹴られ、吹き飛ばされ、花びらの上を転がることだけだった。


「腕で受けない。骨が折れます」


「はいっ……!」


「顎(あご)が上がっております」


「はいぃっ……!」


 ――何度目か分からない転倒。


 顔を上げると、桜の花びらの向こうに、涼しい顔をした少女が立っている。


(……くやしい)


 立ち上がる。


 膝が笑っている。息が上がっている。


 それでも、立ち上がる。


 ――そして、繰り返すうちに。


 何かが、少しずつ変わり始めた。


(……あ)


 白櫻姫(こさき)が動く前、ほんの一瞬。


 爪(つま)先(さき)が、わずかに内側を向く。


(――左!)


 体が、勝手に動いた。


 風を切る音が、頬のすぐ横を通り過ぎていく。


「……あら」


 初めて、白櫻姫(こさき)の声に色が乗った。


「避けましたね」


「――っ、はぁ、はぁ……!」


 そこからは、早かった。


 反復練習と同じだ。何十度と同じ動きを見せられれば、体はいやでもそれを覚えていく。


 数時間の後には、白雪姫(こゆき)の側から拳を繰(く)り出せる場面が、少しずつ増えてきていた。


「……ていっ!」


 見よう見まねの蹴(け)り。


 当然のように捌(さば)かれ、逆に足を取られて宙(ちゅう)を舞う。


「あぐっ!」


 ――それでも、大きな進歩だった。


 防戦一方だった数時間前を思えば、こちらから仕掛けられるというだけで、世界が違って見える。


 そして、攻防がさらに続いた頃。


 ――それは、起きた。


 白雪姫(こゆき)の右足が、ふわりと内へ滑(すべ)り込む。


 上体を沈め、白櫻姫(こさき)の懐(ふところ)へ。


 その足の運びは、白雪姫(こゆき)が今まで一度も習ったことのない動きだった。


 ――ほんの一時間前、白櫻姫(こさき)が一度だけ見せた、あの足捌きだ。


「――」


 白櫻姫(こさき)の目が、わずかに見開かれる。


(この子)


 半身をずらし、辛(かろ)うじて手のひらで逸(そ)らす。


(――一度見ただけで、わたくしの足捌きを……?)


 あり得ない、とは言えなかった。


 この子の霊力量は、計測不能の域にある。


 ならば、その他の何かが規格外であっても、不思議はない。


 ――しかしそれでも。


「まだ、届きません」


 白雪姫(こゆき)の視界が、反転した。





❆





 さらに、一時間後。


 白雪姫(こゆき)は、花びらの絨毯の上に大の字で仰(あお)向(む)けになっていた。


「……はぁっ、はぁっ……む、むり……もう、動かん……」


 髪も、頬も、花びらまみれだ。


 その傍(かたわ)らに、白櫻姫(こさき)が立っている。


 ――息一つ、乱していない。


「本日は、ここまでといたしましょう」


「……ほんと、に……?」


「ええ。よく耐えました」


 白櫻姫(こさき)は、ふわりとしゃがみ込むと、白雪姫(こゆき)の額(ひたい)に張りついた前髪を、そっと払(はら)ってやった。


「今までの手合わせの中では最も上出来でしたよ」


「……えへへ」


 白雪姫(こゆき)は、疲れ切った顔で、それでも嬉しそうに笑った。


「あ、そうそう。次回のことですが」


「……うん?」


「次からは、霊力を武器に付与した状態での、打ち合いをいたします」


「――」


 白雪姫(こゆき)の笑顔が、固(かた)まった。


「ま、待って、武器って」


「ご心配なく。最初は木刀から始めましょう」


「木刀‼」


 ふわり、と桜の花びらが二人の上に降り注ぐ。


 その向こうで、世界が少しずつ、白く溶(と)けていった。


 ――朝が、来る。





❆





 目が覚めたのは、午前五時を少し回った頃だった。


 窓の外はまだ薄(うす)青(あお)く、山の稜(りょう)線(せん)だけが、じわりと白(しら)み始めている。


 体が、鉛のように重い。


(……精神世界の疲れって、体にも来るっちゃね……)


 白雪姫(こゆき)は、うめきながら体を起こした。


 隣のベッドでは、蒼(あお)波(ば)が枕を抱え込んで熟睡している。


 その向こうの、ベッド。


 ――空だった。


 布団は綺麗に整えられ、皺(しわ)ひとつない。


 まるで、最初から誰も寝ていなかったかのように。


「――」


 白雪姫(こゆき)は、靴を履いて部屋を飛び出した。


 冷たい廊(ろう)下(か)を走り、玄関の硝(ガラ)子(ス)戸(ど)を押し開ける。


 朝の空気が、肺に刺(さ)さった。


 施設の前庭を抜け、道路へと続く砂(じゃ)利(り)道(みち)。


 その先に、黒髪の少女の背中があった。


「紅葉(もみじ)ちゃんっ!」


 背中が、止まる。


 振り向きはしなかった。


「……どこ行くと?」


 肩で息をしながら、白雪姫(こゆき)は問うた。


 しばらくの沈黙のあと、紅葉(もみじ)は前を向いたまま答えた。


「出ていくの。ここから」


「……なんで」


「今回のこと、全部私のせいだから」


 その声は、驚くほど平坦だった。


「あなたたちに迷惑をかけた。それに、魔神の断片はまだ私の中にある。……また、同じことが起こる」


 朝の風が、紅葉(もみじ)の長い黒髪を攫(さら)っていく。


「だから、誰もいない遠くへ行く。海でも山でも、どこでもいい。私一人なら、何が起きたって困る人はいないから」


「そんな――」


「それに、ここに来た目的も、もう果たしたし」


 そこで初めて、紅葉(もみじ)はゆっくりと振り返った。


 その顔は、穏(おだ)やかだった。


 千年前から、ずっとそうしてきたのだという顔だった。


「ありがとう、白雪姫(こゆき)」


「え……」


「あなたを傷付けた、こんな私を。……〝友達〟って、言ってくれて」


 言い終えると、紅葉(もみじ)は再び背を向けた。


 そして、一歩を踏み出そうとして――


「待って!」


 白雪姫(こゆき)の声が、朝の谷に響いた。


「せっかく、白櫻姫(こさき)ちゃんに会えたのに! もう行っちゃうと⁉」


 ――足が、止まった。


「……一度、顔が見たかっただけよ」


 背を向けたまま、紅葉(もみじ)は言う。


「それはもう、叶ったから」


「でも――」


「白雪姫(こゆき)。私はね」


 その声が、ほんの少しだけ掠(かす)れた。


「不(ふ)老(ろう)不(ふ)死(し)なの。……あなたたちを、見送る側の人間なのよ」


 白雪姫(こゆき)の喉(のど)が、詰(つ)まる。


「ずっとここにいたら、いつか必ず来る最期の別れが、辛(つら)くなる。だから、深く関わらない。長く居座らない。……この千年、ずっとそうしてきた」


 ――それは、処(しょ)世(せい)術(じゅつ)だった。


 千年という時間が、一人の少女に刻み込んだ、傷の形だった。


「……それでも」


 白雪姫(こゆき)は、拳を握った。


「私は、いやだ」


「白雪姫(こゆき)」


「せっかく友達になってくれた紅葉(もみじ)ちゃんと、もっと一緒にいたい」


「――っ……決めた、ことだから」


 紅葉(もみじ)の声が、拒(こば)むように硬くなる。


 これ以上は、無駄だ。


 そう告げる背中だった。


 ――だから。


 白雪姫(こゆき)は、黙って歩き出した。


 足音が、紅葉(もみじ)のすぐ後ろで止まる。


 そして。


「――じゃあ、一緒に行こうかな」


「…………は?」


 紅葉(もみじ)が、勢(いきお)いよく振り返った。


 その目が、これ以上ないほど丸くなっている。


「一緒にいてくれんなら、私が一緒に行く」


「な、なに言って――」


 紅葉(もみじ)が、珍しく狼(ろう)狽(ばい)した。


「蒼(あお)波(ば)たちはどうするの⁉ 学校だってあるでしょ⁉」


「事情は説明するよ」


「説明って、そんな簡単に――」


「あ、翠(み)織(おり)先生には、置き手紙しよっかな」


「あなたね⁉」


 朝の空気が、一気に騒がしくなった。


 紅葉(もみじ)は、額に手を当てて、深く息を吐いた。


「……どうして」


 絞り出すような声だった。


「どうして、そこまでするの。私はあなたを、貫いたのよ」


「……どうしてやろうね」


 白雪姫(こゆき)は、少し首を傾げてから、指を折り始めた。


「まず、このまま見送っちゃうと、気になって夜も眠れんし」


「そんな理由で――」


「あと、私の中の白櫻姫(こさき)ちゃんにも、魔神の断片が刻まれてるでしょ?」


「――」


「紅葉(もみじ)ちゃんの理屈だと、私も、ここから出ていかんといけないことになるっちゃけど」


 ――紅葉(もみじ)の言葉が、止(と)まった。


「それは――」


 反論しようとして、できなかった。


 その通りだ、と思ってしまったから。


 ――ああ。


 その瞬間、紅葉(もみじ)の脳裏に甦(よみがえ)るものがあった。


 埃(ほこり)の積もった、月明かりだけの旧校舎。


 勝手に住み着いていた自分に、この子は言ったのだ。


 ――じゃあ、うちに来る? と。


 それを断ると今度は――じゃあ、私も、今日はここにいようかな――と言う。


 あの時と、全く同じ状況だった。


 断る理由も、受ける理由も、あの時も、たぶん同じくらい曖(あい)昧(まい)だった。


(……変わってないじゃない)


「それに――」


 白雪姫(こゆき)は、そこで少し、照れくさそうに笑った。


「私、一度は神になった白櫻姫(こさき)ちゃんの魂を宿してるでしょ? ……だから、私に寿命があるのかも、よく分からんくない?」


「え」


「あったとしても、もの凄く長いかもしれん」


 ――朝日が、山の稜線を越(こ)えた。


 白い髪が、金色に透ける。


「そしたら、紅葉(もみじ)ちゃんと、ずーっと一緒にいれるってことよね?」


「……っ」


「だから――」


 白雪姫(こゆき)は、手を差し出した。


「もうちょっとだけ、一緒にいてみない?」


 差し出された手が、朝の光の中で震えている。


 走ってきたせいか、寒さのせいか、それとも別の何かか。


「白櫻姫(こさき)ちゃんにも言ったんだ。一緒に背負いたい、って」


 その笑顔は、眩しいほどだった。


「それはね、紅葉(もみじ)ちゃんのことも同じ。……ううん、私だけじゃないよ」


 ――その時だった。


「そうだよ!」


 背後から、威勢のいい声が飛んできた。


 二人が振り返ると、玄関の庇(ひさし)の下に、寝癖を跳ねさせ、まだ寝間着を着たままの蒼(あお)波(ば)ときちんと着替えを済ませた翠(み)織(おり)が立っていた。


「あ、蒼(あお)波(ば)ちゃん」


「白雪姫(こゆき)ちゃんが飛び出してく音、丸聞こえやったっちゃけど」


 蒼(あお)波(ば)は、ずかずかと歩いてきて、紅葉(もみじ)の前に仁王立ちした。


「うちも背負う」


「……蒼(あお)波(ば)」


「紅葉(もみじ)ちゃんの重荷も、白雪姫(こゆき)ちゃんの重荷も、全部。うち、これでも神器まで顕現した神子だよ?」


 胸を張ってから、蒼(あお)波(ば)はふと、思い出したように付け足した。


「それに、紅葉(もみじ)ちゃんのセーラー服も見たいし!」


「……は?」


「せっかく仕立てに行ったっちゃよ⁉ あれ、来週には出来上がるっちゃから! 着る前に消えるとか、うち絶対許さんかんね!」


 あまりに俗(ぞく)っぽい理由に、紅葉(もみじ)は思わず口を開けた。


「……ふふ」


 翠(み)織(おり)が、可(お)笑(か)しそうに笑いながら歩いてくる。


「紅葉(もみじ)ちゃん。あなたが心配しているのは、暴走した時のことでしょう?」


「……そうです」


「なら、なおのこと傍(そば)にいてもらわないと困るわ」


 翠(み)織(おり)は、穏やかに言った。


「神子管理組織は、そういうものを管理するための組織よ。行(むか)縢(ばき)の山は、この国でも有数の結界。……何かあっても、ここなら手が打てる」


「……でも、それは」


「一人で野垂れ死にされる方が、よっぽど厄介なの。あなたが魔(ま)蝕(しょく)者(しゃ)――いえ、あなたのポテンシャルなら、魔(ま)神(じん)もあり得るわね。そんな者になられちゃ困るのよ」


 言い切られて、紅葉(もみじ)は言葉を失った。


 ――そして。


「……みんな……でも……私は……」


 隣で、白雪姫(こゆき)がそっと目を閉じた。


 次の瞬間。


 白銀の瞳が、静かに桜色へと溶けた。


 背筋が伸び、肩から力が抜ける。


 朝日を受けて、白い髪が淡(あわ)く光った。


「紅葉(もみじ)」


「――!」


 千年前と同じ声が、紅葉(もみじ)の名を呼ぶ。


「せっかく、また会えたのですよ」


 白櫻姫(こさき)は、微笑んだ。


「わたくしたちと、一緒にいましょう」


 ――ぽたり、と。


 道路の上に、しずくが落ちた。


 紅葉(もみじ)の頬を、一筋の涙が伝っていた。


「……ずるい」


「あら」


「みんなして、ずるいわよ……!」


 袖(そで)で、乱暴に目元を拭う。


 そして顔を上げた紅葉(もみじ)は――満面の笑みを浮かべていた。


「ええ、よろしくね!」


 その笑顔に、白櫻姫(こさき)は目を細め、蒼(あお)波(ば)は歓声を上げ、翠(み)織(おり)は静かに頷いた。


 山の向こうから昇った朝日が、四人の影を、長く、長く、砂利道の上に伸ばしていた。





❆





 同じ頃。


 延(のべ)岡(おか)市街から東へ。


 温水プールが有名な大きな建物――ヘルストピア延岡の、すぐ近く。


 長(なが)浜(はま)の海岸線に、朝日が真っ直ぐに差し込んでいた。


 波が、静かに寄せては返している。


 その、誰もいないはずの砂浜を。


 ――一人の少女が、歩いていた。


 まだ、幼い。五つか六つか、そのくらいだろう。


 烏(からす)羽(ば)色(いろ)の長い髪は潮(しお)風(かぜ)に絡まり、乱れ放題。


 着ているものは元の色も分からないほど汚れ、裾(すそ)は裂け、素(す)足(あし)には幾つもの擦(す)り傷が刻まれている。


 どこから歩いてきたのか。


 どれだけ歩いてきたのか。


 その小さな足跡だけが、延(えん)々(えん)と、砂の上に続いていた。


「……おなか、すいた」


 声は、掠れていた。


 ぺたり、ぺたり。


 波打ち際を、あてもなく歩いていく。


「……こっちから、あのときの……」


 ふと、少女が足を止めた。


 俯いていた顔が、ゆっくりと持ち上がる。


 その視線の先にあるのは――遙か西。


 朝もやの向こうに横たわる、大きな山の影だった。


「……あっちに、いっぱい……」


 ふらり、と。


 少女は、そちらへ足を向けた。


 ――その瞬間。


 彼女の小さな体から、黒混じりの紫が、陽(かげ)炎(ろう)のように立ち昇った。


 朝日を浴(あ)びながら。


 波の音だけを供に連れて。


 少女は、歩き続ける。





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