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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第02章:不死の炎
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第19話:戦いが終わって――

 蒼(あお)波(ば)と翠(み)織(おり)が、その海岸へ戻ってきたのは――ほんの、少し前のことだった。


 白雪姫(こゆき)の体を後部座席に横たえ、翠(み)織(おり)は無言で車を走らせていた。


 一秒でも早く。一メートルでも離れた場所へ。


 助手席の蒼(あお)波(ば)は、シートベルトも締めずに何度も後ろを振り返っていた。


 振り返るたびに、後方の夜空が濃紫に光る。


 そのたびに、喉(のど)の奥がひりついた。


(……紅葉(もみじ)ちゃんが、まだ、あそこに)


 そんな時だった。


 後部座席から、衣ずれの音がした。


 ――起き上がったのだ。


 腹に拳大の穴を開けられ、意識を失っていたはずの少女が。


「――停めてくださいませ」


 声が、違った。


 舌の運びが、間(ま)の取り方が、白雪姫(こゆき)のそれではなかった。


 翠(み)織(おり)がブレーキを踏む。


 振り返った先で、白い髪の少女が、静かに瞼(まぶた)を上げていた。


 ――桜色の、瞳。


「白櫻姫(こさき)……さん」


「戻りますよ。あの子を、迎えに」


 それだけだった。


 あとはもう、ただ静かに――白櫻姫(こさき)は前を向いた。


 だから、蒼(あお)波(ば)と翠(み)織(おり)は、そこにいた。


 海龍の渾(こん)身(しん)の一撃が、たかが花びらに受け止められる瞬間を。


 石ころ一つが、鱗(うろこ)を削(けず)り取る瞬間を。


 そして、炎の桜吹雪が、五十メートルの巨躯を跡形もなく焼き払う瞬間を。


 遠く、岩場の陰から。


 声も出せずに、見ていた。


「……先生」


 夜空を染めた紅(くれない)が、ゆっくりと消えていく。


 その光を追いながら、蒼(あお)波(ば)がぽつりと言った。


「あれ、たぶん……白櫻姫(こさき)さん一人でも、勝ててたよね」


「……ええ」


 翠(み)織(おり)は、否定できなかった。


 いや――否定してはいけない気がした。


 おそらく、ではない。


 確実に。


 あの少女が本気を出していれば、この戦いは、始まる前に終わっていた。


 自分たちが必死に守ろうとしていたものは、最初から、誰よりも強かったのだ。


 二人は、それ以上近づかなかった。


 波打ち際に並ぶ、白と黒の小さな背中。


 そこに割り込むのは――たぶん、野(や)暮(ぼ)というものだ。





❆





「――ねえ」


 最初に口を開いたのは、紅葉(もみじ)だった。


 空を見上げたまま、隣を見ようとはしない。


「白櫻姫(こさき)ちゃん。……あの日から、どこに行ってたの」


 問いかけは、ずいぶん長いこと宙(ちゅう)に浮いていた。


 波が三度、寄せて返った。


「――神(しん)界(かい)よ」


 白櫻姫(こさき)の答えは、短かった。


「あの魔(ま)神(じん)を討ち果たしたあと、わたくしは天へ昇(のぼ)ったの。〝神へ昇(しょう)格(かく)させる〟と――そういう声を、賜(たまわ)って」


「……声」


「ええ。魂(たましい)に、直接ね」


 紅葉(もみじ)の睫(まつ)毛(げ)が、ふるりと震えた。


 ――光。


 あの日、血(ち)溜(だ)まりに沈んでいた親友の体が、突然、眩(まばゆ)い光に包まれた。


 そして光は空へと昇り、跡形もなく消えた。


 残されたのは、生(なま)温(ぬる)い赤に染まった土と、紅葉(もみじ)だけ。


「……そっか」


 紅葉(もみじ)の声が、かすれた。


「そっか。あれ、そういうことだったんだ」


 千年、答えを知らなかった。


「私、てっきり……」


 言葉が、途中で折れる。


「――死んじゃったんだと、思ってた」


「……ええ」


 白櫻姫(こさき)の眉が、わずかに寄った。


「あの時、わたくしには、声を出す力すら残っていなかったの。だからあなたに、何ひとつ伝えられなかった。……不安な思いをさせてしまって、本当にごめんなさい、紅葉(もみじ)」


 深く、頭が下がる。


 千年前の少女のまま、律儀に。


「……もういいよ、そんなの」


 紅葉(もみじ)は、鼻をすすった。


「それより。……神界って、どんなとこだったの」


 白櫻姫(こさき)は顔を上げ、少しだけ困ったように笑った。


「そうね。……たとえるなら、朝が終わらない場所」


「朝?」


「ええ。いつまでも、日が高いままなの。夜が来ないから、眠る必要もなくて」


 彼女は、夜の海へ目を向けた。


 その桜色の瞳に、月の光がゆらゆらと映っている。


「わたくしはそこで、〝天(アマ)照(テラス)大(オオ)神(カミ)〟様のお世話をしていたの。衣(い)食(しょく)のお支度をして、御(み)髪(ぐし)を梳(す)いて、庭(にわ)先(さき)の花のお世話をして。……その傍(かたわ)らで、教えを受けていた」


「あの、天(アマ)照(テラス)に……?」


「あのかたの力は、陽(ひ)の光を司(つかさど)るもの。わたくしの持つ〝植物を操る力〟と、大層相(あい)性(しょう)が良かったのですって」


 だから――と、白櫻姫(こさき)は手のひらを空へ向ける。


 ぽう、と小さな金色が灯(とも)り、すぐに消えた。


「天(アマ)照(テラス)様が――あの方からわたくしは、様々な力を授けて頂いたわ」


 紅葉(もみじ)は、まじまじとその横顔を見た。


 ――何百年も落ちこぼれと嗤(わら)われた自分とは、住む世界が違う。


 千年前からそうだった。そして、千年経っても、そうだった。


 なのに。


 なぜだろう。


 悔しさは、ひとかけらも湧いてこなかった。


「……楽しかった?」


「ええ」


 迷いのない声だった。


「とても、充実していたわ。……あなたに会えないことだけが、心残りだったけれど」


「――っ」


 紅葉(もみじ)は、慌てて顔を背(そむ)けた。


 ――ずるい、と思った。


 この子は昔から、そういうことを、なんでもない顔で言うのだ。


「……で?」


 わざと、ぶっきらぼうに訊(き)いた。


「そんな居(い)心(ごこ)地(ち)のいいとこ、なんで出てきちゃったの」


 ――波音が、ひとつ。


「処刑されたの」


 白櫻姫(こさき)は、あっさりと言った。


「わたくしの魂に、魔神の断片が残っていることが、露(あら)わになってしまって」


「……え」


「神(かみ)の坐(ざ)す清(きよ)らかな地に、魔の欠片を持ち込んだ罪。そして――いつ暴走するとも知れぬ、危険物であること」


 淡々と、まるで他人の話をするように。


「審議は、ひと晩もかからなかったわ。処刑が決まったのは、翌(よく)朝(ちょう)のこと」


「――ちょ、ちょっと待ってよ!」


 紅葉(もみじ)が、勢いよく振り向いた。


「処刑って、そんな……でも、白櫻姫(こさき)ちゃんも知らなかったんでしょ⁉」


 叫んでから、自分の声の大きさに気づいて、唇(くちびる)を噛む。


 それでも、抑えきれなかった。


「知らなかったわ。ええ、露(つゆ)ほども」


「知らなかったのに、なんで――」


 白櫻姫(こさき)は、自分の胸元にそっと手を当てた。


「魔神の断片は、魂そのものに刻まれるもの。……そして、魂からは、絶えず自分の霊(れい)力(りょく)が溢(あふ)れ出ているの。灯(あか)りの下で、蝋(ろう)燭(そく)の火が見えないのと同じ」


「……自分の霊力が、隠しちゃう」


「ええ。よほど大きく膨(ふく)れ上がりでもしない限り、魔(ま)力(りょく)を感じ取ることは、神(み)子(こ)にとっても難しいことなの」


 ――だからこそ、と白櫻姫(こさき)は続けた。


「今夜のように、魔(ま)物(もの)が生まれてから駆けつける、という後(ご)手(て)に回った戦いになる。昔も、今も」


 紅葉(もみじ)は、思わず俯(うつむ)いた。


 ――逆に言えば。


 自分の中の断片が、疼(うず)いてくれたから。


 あの旧校舎で、白雪姫(こゆき)たちと出会えたから。


 こんなにも早く、ここに駆けつけることができたのだ。


 救われたのか、招いたのか。


 その境目は、ひどく曖(あい)昧(まい)だった。


「……ねえ、白櫻姫(こさき)ちゃん」


 紅葉(もみじ)は、右手を胸元へ持っていった。


「私の中の――それ。まだ、あるの?」


 訊かなくても、わかっていた。


 それでも、確かめずにはいられなかった。


「――ええ」


 白櫻姫(こさき)の答えは、どこまでも正直だった。


「まだ、あなたの魂に刻まれたままよ」


 紅葉(もみじ)の指が、襟(えり)元(もと)の布を、ぎゅ、と握り込む。


「あの海龍が吸い上げたのは、あなたの断片から滲(にじ)み出した魔力だけ。器(うつわ)からこぼれた水を舐めただけのこと。……器そのものは、何ひとつ損なわれていないわ」


「消す方法は」


「……死ぬこと」


 迷いも、慰(なぐさ)めもなかった。


「魂ごと滅び、消滅する以外に、あれを拭い去る手立てはないの」


 ――ああ。


 紅葉(もみじ)は、天を仰いだ。


 だから、あの魔神は自分を選んだのか。


 千年前、白櫻姫(こさき)の刃に貫(つらぬ)かれながら、断(だん)末(まつ)魔(ま)の中で笑ったあの声。


 ――不(ふ)老(ろう)不(ふ)死(し)。


 死なない器なら、永遠に残れる。


 永遠に、巣(す)食(く)っていられる。


(……そういう、ことだったんだ)


 握った拳が、小刻みに震えた。


「紅葉(もみじ)」


 名を呼ばれて、顔を上げる。


「わたくしも同じよ。同じものを抱えている。……だからね」


 白櫻姫(こさき)は、まっすぐに紅葉(もみじ)を見た。


「あなたは、独りではないわ」


 ――ずるい。


 やっぱり、この子はずるい。


「……それで」


 紅葉(もみじ)は、ごしごしと目元を擦(こす)った。


「白櫻姫(こさき)ちゃんは、どうやってその体に?」


「わかっていないの」


「え」


「本当に、何ひとつわかっていないのよ」


 白櫻姫(こさき)は、自分の手のひらを見下ろした。


 小さくて、柔(やわ)らかくて――自分のものではない、少女の手を。


「刑を受けたはずのわたくしの魂は、気がつけば、この子の内にあった。柊(ふき)野(の)白雪姫(こゆき)という、優しい子の内に」


 そして、ふ、と表情が和(やわ)らぐ。


「今はこうして、共に暮らしているの。ご飯を食べて、学校へ通って、叱(しか)られたり、笑ったりしながら」


 ――どうして、この子の体だったのか。


 偶然か、必然か、それとも誰かの計(はか)らいか。


 千年を生きた神ですら、その答えを持たない。


「……そっか」


 紅葉(もみじ)は、そう呟(つぶや)いて。


 ――そして、顔を歪(ゆが)めた。


 その名を聞いてしまえば、思い出さないわけには、いかなかった。


 自分の右腕の感触を。


 肉を裂き、骨を砕き、内臓を潰した、あの感触を。


(……私が、やった)


 浸(しん)食(しょく)されていた。自分ではなかった。そんなことはわかっている。


 わかっていても。


 この手が、あの子の腹を貫いたのだ。


「紅葉(もみじ)」


「……だって」


 紅葉(もみじ)の声が、震えた。


「白雪姫(こゆき)は、私のこと……〝友達〟って、言ってくれたのに」


 千年ぶりだった。


 誰かにそう呼ばれたのは。


 だから、大切にしたかった。誰よりも、守りたかった。


「そのあの子を、私は――」


「あの子は、怒っていないわ」


 白櫻姫(こさき)の声が、遮(さえぎ)った。


「むしろ、ずっと心配していたの。あなたのことを」


「……そんなの」


「わかるのよ。わたくしは、あの子の内にいるのだから」


 ――そう。


 紅葉(もみじ)だって、本当は知っている。


 短い間だったけれど、あの子と一緒にいたのだから。


 自分の腹に穴が開いてなお、掠(かす)れた声で〝紅葉(もみじ)ちゃん〟と呼んだ、あの子の人(ひと)柄(がら)を。


(……そうだよ。あの子は、怒らない)


 だからこそ、堪(たま)らなかった。


 自分で自分が、どうしても許せなかった。


「紅葉(もみじ)」


「……なに」


「――交代するわ」


「え?」


 紅葉(もみじ)が顔を上げた、その瞬間。


 桜色が、す、と白(はく)銀(ぎん)に溶(と)けた。


 背筋の伸び方が変わり、肩の力が抜ける。


 そして、その少女は。


 ――にっ、と笑った。


「紅葉(もみじ)ちゃんっ!」


 白雪姫(こゆき)は、両腕を広げて飛びついた。


「わっ――ちょ、ちょっと⁉」


 小さな体が、紅葉(もみじ)の胸に埋(う)もれる。


 力いっぱいの、遠慮のない抱擁だった。


「よかったぁ……ほんとに、よかった……!」


 紅葉(もみじ)の襟元に顔を押しつけたまま、白雪姫(こゆき)は言った。


「紅葉(もみじ)ちゃんが無事で、本当によかった……!」


 ――そこには、一(いっ)片(ぺん)の恨(うら)みもなかった。


 責(せ)める言葉も、怯(おび)える素(そ)振(ぶ)りも、何ひとつ。


 ただ、心の底からの安(あん)堵(ど)だけが、そこにあった。


「――ぁ」


 紅葉(もみじ)の喉から、掠れた音が漏れた。


 千年の間、凍(こお)りついていた何かが、音を立てて崩れていく。


「……っ、う」


 大粒の涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちた。


「ごめん……ごめんね、白雪姫(こゆき)……!」


「もういいってば」


「ごめん、ごめん、本当に……ごめんなさい……っ」


 紅葉(もみじ)は、抱きしめ返す腕に力を込めた。


 壊(こわ)さないように。二度と、傷(きず)付けないように。


 それでも、離せなかった。


 夜の海が、そんな二人を、ただ静かに見(み)守(まも)っていた。





❆





「……あーもう、うち、なんかもう、いろいろ限界」


 岩場の陰で、蒼(あお)波(ば)がずるずるとしゃがみ込んだ。


「泣いていいのか喜んでいいのか、叱(しか)っていいのかわからん」


「全部でいいんじゃないかしら」


 翠(み)織(おり)は、目元を指先で軽く拭って、微(ほほ)笑(え)んだ。


「……とりあえず、帰りましょうか。もう、じゅうぶん」





❆





 車に乗り込んで、五分と経たなかった。


「――寝ちゃった」


 後部座席を振り返った蒼(あお)波(ば)が、小声で言った。


 窓に頭を預(あず)けた紅葉(もみじ)が、規(き)則(そく)正しい寝息を立てている。


 千年生きた少女の、無防備な寝顔だった。


「……不老不死で、寝る必要はないって言ってた気がするっちゃけど……」


「必要がないのと、堪(こた)えないのとは、別のことですから」


 白雪姫(こゆき)の口から、白櫻姫(こさき)の声が返る。


「どれほど体が朽ちずとも、心と魂は、すり減るのです。……今の紅葉(もみじ)は、眠っているというより、昏(こん)睡(すい)に近いです」


 【光合成】である程度は癒した。


 服の綻(ほころ)びも、白雪姫(こゆき)の制服に開いた風穴も、糸を織り直すように塞(ふさ)いである。


 だが、それは傷の話だ。


「失った霊力を取り戻すには、眠るのが一番なの。……蒼(あお)波(ば)様、起こさないでいただけますか」


「……はい」


 蒼(あお)波(ば)は、そっと自分の上着を脱いで、紅葉(もみじ)の肩に掛けた。


 車は、港(みなと)神(じん)社(じゃ)の青い鳥(とり)居(い)を後にして、夜道を走り出す。


 しばらくして――ハンドルを握ったまま、翠(み)織(おり)が言った。


「蒼(あお)波(ば)ちゃん」


「はい?」


「せっかくだから、実家に寄っていかない?」


「……え」


 蒼(あお)波(ば)の肩が、びくりと跳(は)ねた。


「ここからなら、五分もかからないでしょう。今夜はあの海岸に魔物が出たのだから――」


 翠(み)織(おり)は、前を向いたまま続ける。


「自分の目で、確かめておきたいはずよ。ご家族の顔を」


 ――見透かされている、と思った。


 あの海龍が現れてから、蒼(あお)波(ば)の頭の片隅には、ずっとそれがあったのだ。


 あの海の向こうには、自分の生まれた家がある。


 父がいて、母がいて、妹がいる。


「……先生って」


「なあに?」


「……なんでもないです」


 翠(み)織(おり)は、ふふ、と小さく笑った。


 やがて車は国道を逸(そ)れ、細い森の道へと入っていく。


 両側から杉の枝が迫(せ)り出し、ヘッドライトの光がその幹を次々と流していった。


 カーブをいくつか越えた先。


 石段と山(さん)門(もん)が、闇の中にぼんやりと浮かび上がる。


 ――那(な)智(ち)山(さん)如(にょ)意(い)輪(りん)寺(じ)。


 蒼(あお)波(ば)の、生まれた家だった。


「――それじゃあ白雪姫(こゆき)ちゃん、行こう!」


 勢いよくドアを開けた蒼(あお)波(ば)に、いつの間にか入れ替わっていた白雪姫(こゆき)はぱちぱちと瞬(まばた)きをした。


「え、えっ? 私も?」


「うん!」


「い、いや、あの……」


 白雪姫(こゆき)は、もじもじと指をこすり合わせた。


「私、部(ぶ)外(がい)者(しゃ)やし……せっかく家族水入らずなのに、邪魔しちゃ悪くない?」


「なんもよ」


 蒼(あお)波(ば)は、あっさり言い切った。


「迷惑なんかじゃないし。……それに、うち、友達はちゃんと紹(しょう)介(かい)したいっちゃもん」


「と、友達……」


 その一言に白雪姫(こゆき)がわずかに怯(ひる)んだ隙(すき)を、蒼(あお)波(ば)は見逃さなかった。


「はい決まりー!」


「ちょ、ちょっと、蒼(あお)波(ば)ちゃんっ⁉」


 半ば強引に手を引かれ、白雪姫(こゆき)は車から引きずり出される。


 ちなみに、紅葉(もみじ)は眠ったまま身じろぎひとつしなかった。


 ――今回は、また今度でいいだろう。


 蒼(あお)波(ば)は、境(けい)内(だい)へ続く坂道を、二段飛ばしで駆け上がっていく。


 白雪姫(こゆき)もその後を追いかけて――ふと、振り返った。


 翠(み)織(おり)が、車のドアに寄(よ)りかかったまま、動かない。


「先生は、上(のぼ)ってこないですか?」


「私はいいわ」


 翠(み)織(おり)は、後部座席の窓へ顎(あご)をしゃくった。


「紅葉(もみじ)ちゃんが起きた時に、どうしてこんな場所にいるのか、説明する人が必要でしょう?」


「……あ」


「起きた瞬間に知らない山の中だったら、あの子、また一人で背負い込んで飛び出しかねないもの」


 ――そこまで考えていたのか。


 白雪姫(こゆき)は、深く頭を下げてから、坂道を駆け上がった。


 上りきった先。


 本(ほん)堂(どう)の甍(いらか)が、月明かりに黒く光っていた。


 そして、玄関の前には、もう人影がある。


 蒼(あお)波(ば)と――坊主頭の、体の大きな男性。


 その隣に、柔らかそうな面(おも)差(ざ)しの女性。


 そして、蒼(あお)波(ば)より頭二つ分以上小さな、女の子。


「白雪姫(こゆき)ちゃーん! こっちこっち!」


 蒼(あお)波(ば)が、大きく手招きをする。


 ――その瞬間、小さな女の子が、さっ、と姉の背中に隠れた。


「あっ」


 待たせては悪い。


 白雪姫(こゆき)は小走りで近づいて、丁寧に頭を下げた。


「こ、こんばんは!」


「あらあら」


 先に声を上げたのは、母親のほうだった。


「まあ……綺麗な髪」


 蒼(あお)波(ば)の母――古(こ)閑(が)葵(あおい)は、目を丸(まる)くして白雪姫(こゆき)を見つめた。


 夜目にも白い、雪(ゆき)色(いろ)の髪。


 そして、それと同じ色をした、白(しろ)銀(がね)の瞳。


「……瞳も、白かとね。綺(き)麗(れい)かぁ」


「あ、ありがとうございます……」


「蒼(あお)波(ば)がいつもお世話になっとります」


 父親――古(こ)閑(が)公(きみ)水(みず)が、坊主頭を掻(か)きながら、太い声で言った。


「い、いえいえっ、お世話になっているのはこっちのほうで!」


 白雪姫(こゆき)は、あわてて両手を振った。


「蒼(あお)波(ば)ちゃんには、いつも助けてもらってて、その、勉強も、訓練も、ご飯のおかずの取り分けまで……!」


「おかず⁉」


「白雪姫(こゆき)ちゃん、それは言わんでいいとよ‼」


 古(こ)閑(が)夫(ふ)妻(さい)が、そろって吹(ふ)き出した。


 ――そして、母親が、ふと後ろへ目をやる。


「こら、しーちゃん。あいさつは?」


「…………」


「隠れとらんで。ほら」


 姉の背中で、もぞ、と何かが動いた。


 そして、恐る恐る――半分だけ、顔がのぞいた。


 簡素なベージュの着物を纏(まと)った、幼い少女だった。


 蒼(あお)波(ば)によく似た、わずかに癖のある黒髪。


 自然に波打つそれが、華(きゃ)奢(しゃ)な首筋を優しく包み込み、夜風に揺れては、表情を隠すように頬にかかる。


 透き通るような白い肌には、まだあどけなさが残っていて、これから伸びていくのだという柔らかい影がある。


 眉は少し困ったように下がっていて、大きく垂れた瞳は、温かみのある焦げ茶。


 その素朴な装(よそお)いが、かえって彼女の純真さを際立たせていた。


「この子は雫(しずく)――うちの妹」


 ――古(こ)閑(が)雫(しずく)。


 蒼(あお)波(ば)の、妹だ。


「……こ、こんばんゎ……」


 消え入りそうな声だった。


 言い終えるやいなや、また姉の背中に引っ込んでしまう。


「ごめんね白雪姫(こゆき)ちゃん、この子、恥ずかしがりで……」


 蒼(あお)波(ば)が、苦笑いしながら振り返った。


「もう八つになるっちゃけど、知らん人が来ると、ずーっとこう」


「ううん、大丈夫だよ」


 白雪姫(こゆき)は、そう言うと――膝(ひざ)を折って、その場にしゃがみ込んだ。


 視線が、ちょうど同じ高さに。


 いや、白雪姫(こゆき)のほうが、ほんの少しだけ低いくらいに。


「こんばんは、雫(しずく)ちゃん」


 白雪姫(こゆき)は、精一杯の笑顔を作った。


 怖がらせないように。警戒させないように。


「私は白雪姫(こゆき)。……よろしくね」


「…………」


 しばらく、何も起きなかった。


 やがて、姉の袖(そで)をつかんだまま、雫(しずく)がそろそろと顔を出す。


 白い髪。白い睫毛。白い肌。


 そして、こちらを見つめる、白銀の瞳。


「……きれぃ……」


 ぽつり、と零(こぼ)れた。


 そして――一歩。


 小さな足が、姉の陰から前へ出る。


 二歩。三歩。


 雫(しずく)は、恐る恐る、その小さな手を差し出した。


 白雪姫(こゆき)は、その手を、そっと取った。


 冷たい夜気の中で、雫(しずく)の手のひらだけが、ほかほかと温かい。


「えへへ、綺麗って言ってくれて、ありがとう」


 もう一度、笑いかける。


 ――その瞬間、雫(しずく)の目から、完全に警戒の色が消えた。


 ぽかん、と口を半開きにして、白雪姫(こゆき)の顔だけを見つめている。


(……よし)


 白雪姫(こゆき)は、その隙に、空いた手を雫(しずく)の頭へ伸ばした。


 黒髪を、優しく撫(な)でる。


「ぁ」


 最初、雫(しずく)は驚いたように肩を跳ねさせた。


 けれど、逃げなかった。


 二度、三度と手のひらが往復するうちに、その目がとろりと細まっていく。


 ――もう、平気だ。


 白雪姫(こゆき)はそう判断して、よいしょ、と立ち上がった。


「――おっと⁉」


 立ち上がった、のだが。


「……あの」


 腰のあたりに、重(おも)みがあった。


 見下ろすと、雫(しずく)が両腕を回して、しっかりとしがみついている。


 もう二度と離さない、という無言の主張だった。


(……か、かわいい。かわいいけど)


 白雪姫(こゆき)は、そろりと足を動かしてみる。


 ぴったりと、ついてくる。


(これじゃ、帰れんっちゃけど……!)


「――うっそ」


 その光景に、蒼(あお)波(ば)がぽかんとしていた。


「雫(しずく)が、初対面で……?」


「あらぁ、しーちゃんがねぇ」


 母親も、目を見開いている。


「白雪姫(こゆき)ちゃん、小さい子の扱い、上手いっちゃね?」


「そ、そんなことは……」


 言いかけて、白雪姫(こゆき)は少し口ごもった。


 それから、腰にしがみつく小さな頭を撫でながら、静かに言った。


「……私、ちょっとの間だけ、児童養護施設にいたんです」


「あ」


 蒼(あお)波(ば)が、息を呑む。


「そこには、雫(しずく)ちゃんよりもっと小さい子がいっぱいいて。……先生たちが、その子たちにどう接してるか、ずっと見てたから」


 目線を合わせて。急に触らない。相手が伸ばしてくる手を、必ず待つ。


 あの数日で覚えたことは、そんなことばかりだ。


「見てただけです。ほんとに」


 白雪姫(こゆき)は、照れ臭そうに笑った。


 ――蒼(あお)波(ば)は、それ以上何も訊かなかった。


 ただ、そっと白雪姫(こゆき)の隣に立って、雫(しずく)の頭を、姉(あね)らしくぐりぐりと撫でた。


「よかったね、雫(しずく)。綺麗なお姉ちゃんに懐(なつ)けて」


「……ん」


 それから、しばらく雑談が続いた。


 学校のこと、寺の行事のこと、この前の法要で檀(だん)家(か)さんに土産をもらった話。


 海の異変については、誰も口にしなかった。


 ――そういう約束だった。


 その間、雫(しずく)は一度も白雪姫(こゆき)から離れなかった。


 完全に、気に入られてしまったらしい。


「――あ」


 ふと、蒼(あお)波(ば)が玄関に飾られた時計に目を落とす。


 もうすぐ、二十時になろうとしていた。


「やば、そろそろ帰らんと。先生も下で待っとるし」


「そうやね」


 家族が無事だと、この目で確かめられた。


 それだけで、じゅうぶんだった。


「……もう、行っちゃうの?」


 小さな声が、白雪姫(こゆき)の腰のあたりから聞こえた。


 見下ろすと、雫(しずく)が上(うわ)目(め)遣(づか)いにこちらを見上げている。


 その目が、潤(うる)んでいた。


「……うん」


 白雪姫(こゆき)は、もう一度しゃがみ込んだ。


 そして、両手で雫(しずく)の小さな手を包み込む。


「でもね、雫(しずく)ちゃん。また会いに来るから」


「……ほんと?」


「うん。約束」


 雫(しずく)は、こくん、と頷(うなず)いた。


 頷いたけれど、眉はやっぱり困ったように下がったままで、唇を噛んでいる。


 ――離れたくない、と全身で言っていた。


「……ねえ」


 その様子を眺めていた蒼(あお)波(ば)が、ぽつりと零(こぼ)す。


「姉(ねえ)|ちゃんが、久しぶりに帰ってきたっちゃけどねぇ……?」


「あ、あはは……」


 白雪姫(こゆき)は、曖(あい)昧(まい)に笑うしかなかった。


 別れを告げて、坂道を下る。


 途中で一度振り返ると、玄関の明かりの下、三つの人影がまだこちらへ手を振っていた。


 一番小さな影が、一番大きく振っていた。





❆





 車に戻ると、紅葉(もみじ)はまだ、ぐっすり眠っていた。


 結局、その寝顔は、行(むか)縢(ばき)へ着くまで一度も崩れなかった。


「――紅葉(もみじ)ちゃん。紅葉(もみじ)ちゃんってば」


「……ん」


「着いたよー。起きて。ねえ、起きてってば」


 肩を揺すられて、ようやく紅葉(もみじ)の瞼が持ち上がる。


 ――さすがに、車の中で寝かせておくわけにはいかない。


 それに、運ぶのは、正直、ちょっと面倒だ。


 その後は、いつもの夜だった。


 食堂で遅い夕食を取り、大浴場で湯に浸かる。


 ただし――紅葉(もみじ)は、その間ずっと夢(ゆめ)現(うつつ)だった。


 湯船の縁(ふち)に頭(あたま)を預けたまま、こくり、こくりと舟(ふね)を漕(こ)ぐ。


「紅葉(もみじ)ちゃん、沈む! 沈むって!」


 蒼(あお)波(ば)が三度ほど、その体を引き上げるはめになった。


 そして消灯。


 布団に入るなり、紅葉(もみじ)の寝息は、すぐに規則正しいものへと変わっていった。


(……なんか、不思議)


 隣のベッドを見ながら、白雪姫(こゆき)は思う。


 ――思えば、紅葉(もみじ)がベッドで眠っている姿を見たのは、これが初めてだ。


 旧校舎でも、この施設に来てからも、彼女はいつも起きていた。


 夜通し、窓辺に座って、ただ外を眺めていた。


 千年、ずっとそうしてきたのだろう。


(……ちゃんと眠れとるなら、よかった)


 蒼(あお)波(ば)のほうも、枕(まくら)に頭を乗せた三十秒後には落ちていた。


 さすがに、神(じん)器(ぎ)を顕(けん)現(げん)して、あれだけ走り回れば当然だろう。


 残された白雪姫(こゆき)はというと――正直、あまり疲れていなかった。


 さすが、と言うべきか。


 それとも、ほとんど戦っていないのだから当然、と言うべきか。


(……お腹に穴を開けられて、そのまま寝て、白櫻姫(こさき)ちゃんに任せてただけやもんね、私)


 少し、複雑だった。


 枕元の時計を見る。


 ――二十三時。


 明日は月曜日。学校がある。


(……眠くなくても、寝らんと)


 白雪姫(こゆき)は、そっと目を閉じた。


 波の音は、もう聞こえない。


 代わりに、山の木々がざわめく音が、遠く窓の外から届いていた。


 瞼の裏の暗闇が、少しずつ、深く、深くなっていく。


 そして――。


 白雪姫(こゆき)は、再びあの場所へと足を踏み入れた。


 ――満開の桜が、果てなく咲き誇る、あの精神世界へ。





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