第19話:戦いが終わって――
蒼波と翠織が、その海岸へ戻ってきたのは――ほんの、少し前のことだった。
白雪姫の体を後部座席に横たえ、翠織は無言で車を走らせていた。
一秒でも早く。一メートルでも離れた場所へ。
助手席の蒼波は、シートベルトも締めずに何度も後ろを振り返っていた。
振り返るたびに、後方の夜空が濃紫に光る。
そのたびに、喉の奥がひりついた。
(……紅葉ちゃんが、まだ、あそこに)
そんな時だった。
後部座席から、衣ずれの音がした。
――起き上がったのだ。
腹に拳大の穴を開けられ、意識を失っていたはずの少女が。
「――停めてくださいませ」
声が、違った。
舌の運びが、間の取り方が、白雪姫のそれではなかった。
翠織がブレーキを踏む。
振り返った先で、白い髪の少女が、静かに瞼を上げていた。
――桜色の、瞳。
「白櫻姫……さん」
「戻りますよ。あの子を、迎えに」
それだけだった。
あとはもう、ただ静かに――白櫻姫は前を向いた。
だから、蒼波と翠織は、そこにいた。
海龍の渾身の一撃が、たかが花びらに受け止められる瞬間を。
石ころ一つが、鱗を削り取る瞬間を。
そして、炎の桜吹雪が、五十メートルの巨躯を跡形もなく焼き払う瞬間を。
遠く、岩場の陰から。
声も出せずに、見ていた。
「……先生」
夜空を染めた紅が、ゆっくりと消えていく。
その光を追いながら、蒼波がぽつりと言った。
「あれ、たぶん……白櫻姫さん一人でも、勝ててたよね」
「……ええ」
翠織は、否定できなかった。
いや――否定してはいけない気がした。
おそらく、ではない。
確実に。
あの少女が本気を出していれば、この戦いは、始まる前に終わっていた。
自分たちが必死に守ろうとしていたものは、最初から、誰よりも強かったのだ。
二人は、それ以上近づかなかった。
波打ち際に並ぶ、白と黒の小さな背中。
そこに割り込むのは――たぶん、野暮というものだ。
❆
「――ねえ」
最初に口を開いたのは、紅葉だった。
空を見上げたまま、隣を見ようとはしない。
「白櫻姫ちゃん。……あの日から、どこに行ってたの」
問いかけは、ずいぶん長いこと宙に浮いていた。
波が三度、寄せて返った。
「――神界よ」
白櫻姫の答えは、短かった。
「あの魔神を討ち果たしたあと、わたくしは天へ昇ったの。〝神へ昇格させる〟と――そういう声を、賜って」
「……声」
「ええ。魂に、直接ね」
紅葉の睫毛が、ふるりと震えた。
――光。
あの日、血溜まりに沈んでいた親友の体が、突然、眩い光に包まれた。
そして光は空へと昇り、跡形もなく消えた。
残されたのは、生温い赤に染まった土と、紅葉だけ。
「……そっか」
紅葉の声が、かすれた。
「そっか。あれ、そういうことだったんだ」
千年、答えを知らなかった。
「私、てっきり……」
言葉が、途中で折れる。
「――死んじゃったんだと、思ってた」
「……ええ」
白櫻姫の眉が、わずかに寄った。
「あの時、わたくしには、声を出す力すら残っていなかったの。だからあなたに、何ひとつ伝えられなかった。……不安な思いをさせてしまって、本当にごめんなさい、紅葉」
深く、頭が下がる。
千年前の少女のまま、律儀に。
「……もういいよ、そんなの」
紅葉は、鼻をすすった。
「それより。……神界って、どんなとこだったの」
白櫻姫は顔を上げ、少しだけ困ったように笑った。
「そうね。……たとえるなら、朝が終わらない場所」
「朝?」
「ええ。いつまでも、日が高いままなの。夜が来ないから、眠る必要もなくて」
彼女は、夜の海へ目を向けた。
その桜色の瞳に、月の光がゆらゆらと映っている。
「わたくしはそこで、〝天照大神〟様のお世話をしていたの。衣食のお支度をして、御髪を梳いて、庭先の花のお世話をして。……その傍らで、教えを受けていた」
「あの、天照に……?」
「あのかたの力は、陽の光を司るもの。わたくしの持つ〝植物を操る力〟と、大層相性が良かったのですって」
だから――と、白櫻姫は手のひらを空へ向ける。
ぽう、と小さな金色が灯り、すぐに消えた。
「天照様が――あの方からわたくしは、様々な力を授けて頂いたわ」
紅葉は、まじまじとその横顔を見た。
――何百年も落ちこぼれと嗤われた自分とは、住む世界が違う。
千年前からそうだった。そして、千年経っても、そうだった。
なのに。
なぜだろう。
悔しさは、ひとかけらも湧いてこなかった。
「……楽しかった?」
「ええ」
迷いのない声だった。
「とても、充実していたわ。……あなたに会えないことだけが、心残りだったけれど」
「――っ」
紅葉は、慌てて顔を背けた。
――ずるい、と思った。
この子は昔から、そういうことを、なんでもない顔で言うのだ。
「……で?」
わざと、ぶっきらぼうに訊いた。
「そんな居心地のいいとこ、なんで出てきちゃったの」
――波音が、ひとつ。
「処刑されたの」
白櫻姫は、あっさりと言った。
「わたくしの魂に、魔神の断片が残っていることが、露わになってしまって」
「……え」
「神の坐す清らかな地に、魔の欠片を持ち込んだ罪。そして――いつ暴走するとも知れぬ、危険物であること」
淡々と、まるで他人の話をするように。
「審議は、ひと晩もかからなかったわ。処刑が決まったのは、翌朝のこと」
「――ちょ、ちょっと待ってよ!」
紅葉が、勢いよく振り向いた。
「処刑って、そんな……でも、白櫻姫ちゃんも知らなかったんでしょ⁉」
叫んでから、自分の声の大きさに気づいて、唇を噛む。
それでも、抑えきれなかった。
「知らなかったわ。ええ、露ほども」
「知らなかったのに、なんで――」
白櫻姫は、自分の胸元にそっと手を当てた。
「魔神の断片は、魂そのものに刻まれるもの。……そして、魂からは、絶えず自分の霊力が溢れ出ているの。灯りの下で、蝋燭の火が見えないのと同じ」
「……自分の霊力が、隠しちゃう」
「ええ。よほど大きく膨れ上がりでもしない限り、魔力を感じ取ることは、神子にとっても難しいことなの」
――だからこそ、と白櫻姫は続けた。
「今夜のように、魔物が生まれてから駆けつける、という後手に回った戦いになる。昔も、今も」
紅葉は、思わず俯いた。
――逆に言えば。
自分の中の断片が、疼いてくれたから。
あの旧校舎で、白雪姫たちと出会えたから。
こんなにも早く、ここに駆けつけることができたのだ。
救われたのか、招いたのか。
その境目は、ひどく曖昧だった。
「……ねえ、白櫻姫ちゃん」
紅葉は、右手を胸元へ持っていった。
「私の中の――それ。まだ、あるの?」
訊かなくても、わかっていた。
それでも、確かめずにはいられなかった。
「――ええ」
白櫻姫の答えは、どこまでも正直だった。
「まだ、あなたの魂に刻まれたままよ」
紅葉の指が、襟元の布を、ぎゅ、と握り込む。
「あの海龍が吸い上げたのは、あなたの断片から滲み出した魔力だけ。器からこぼれた水を舐めただけのこと。……器そのものは、何ひとつ損なわれていないわ」
「消す方法は」
「……死ぬこと」
迷いも、慰めもなかった。
「魂ごと滅び、消滅する以外に、あれを拭い去る手立てはないの」
――ああ。
紅葉は、天を仰いだ。
だから、あの魔神は自分を選んだのか。
千年前、白櫻姫の刃に貫かれながら、断末魔の中で笑ったあの声。
――不老不死。
死なない器なら、永遠に残れる。
永遠に、巣食っていられる。
(……そういう、ことだったんだ)
握った拳が、小刻みに震えた。
「紅葉」
名を呼ばれて、顔を上げる。
「わたくしも同じよ。同じものを抱えている。……だからね」
白櫻姫は、まっすぐに紅葉を見た。
「あなたは、独りではないわ」
――ずるい。
やっぱり、この子はずるい。
「……それで」
紅葉は、ごしごしと目元を擦った。
「白櫻姫ちゃんは、どうやってその体に?」
「わかっていないの」
「え」
「本当に、何ひとつわかっていないのよ」
白櫻姫は、自分の手のひらを見下ろした。
小さくて、柔らかくて――自分のものではない、少女の手を。
「刑を受けたはずのわたくしの魂は、気がつけば、この子の内にあった。柊野白雪姫という、優しい子の内に」
そして、ふ、と表情が和らぐ。
「今はこうして、共に暮らしているの。ご飯を食べて、学校へ通って、叱られたり、笑ったりしながら」
――どうして、この子の体だったのか。
偶然か、必然か、それとも誰かの計らいか。
千年を生きた神ですら、その答えを持たない。
「……そっか」
紅葉は、そう呟いて。
――そして、顔を歪めた。
その名を聞いてしまえば、思い出さないわけには、いかなかった。
自分の右腕の感触を。
肉を裂き、骨を砕き、内臓を潰した、あの感触を。
(……私が、やった)
浸食されていた。自分ではなかった。そんなことはわかっている。
わかっていても。
この手が、あの子の腹を貫いたのだ。
「紅葉」
「……だって」
紅葉の声が、震えた。
「白雪姫は、私のこと……〝友達〟って、言ってくれたのに」
千年ぶりだった。
誰かにそう呼ばれたのは。
だから、大切にしたかった。誰よりも、守りたかった。
「そのあの子を、私は――」
「あの子は、怒っていないわ」
白櫻姫の声が、遮った。
「むしろ、ずっと心配していたの。あなたのことを」
「……そんなの」
「わかるのよ。わたくしは、あの子の内にいるのだから」
――そう。
紅葉だって、本当は知っている。
短い間だったけれど、あの子と一緒にいたのだから。
自分の腹に穴が開いてなお、掠れた声で〝紅葉ちゃん〟と呼んだ、あの子の人柄を。
(……そうだよ。あの子は、怒らない)
だからこそ、堪らなかった。
自分で自分が、どうしても許せなかった。
「紅葉」
「……なに」
「――交代するわ」
「え?」
紅葉が顔を上げた、その瞬間。
桜色が、す、と白銀に溶けた。
背筋の伸び方が変わり、肩の力が抜ける。
そして、その少女は。
――にっ、と笑った。
「紅葉ちゃんっ!」
白雪姫は、両腕を広げて飛びついた。
「わっ――ちょ、ちょっと⁉」
小さな体が、紅葉の胸に埋もれる。
力いっぱいの、遠慮のない抱擁だった。
「よかったぁ……ほんとに、よかった……!」
紅葉の襟元に顔を押しつけたまま、白雪姫は言った。
「紅葉ちゃんが無事で、本当によかった……!」
――そこには、一片の恨みもなかった。
責める言葉も、怯える素振りも、何ひとつ。
ただ、心の底からの安堵だけが、そこにあった。
「――ぁ」
紅葉の喉から、掠れた音が漏れた。
千年の間、凍りついていた何かが、音を立てて崩れていく。
「……っ、う」
大粒の涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちた。
「ごめん……ごめんね、白雪姫……!」
「もういいってば」
「ごめん、ごめん、本当に……ごめんなさい……っ」
紅葉は、抱きしめ返す腕に力を込めた。
壊さないように。二度と、傷付けないように。
それでも、離せなかった。
夜の海が、そんな二人を、ただ静かに見守っていた。
❆
「……あーもう、うち、なんかもう、いろいろ限界」
岩場の陰で、蒼波がずるずるとしゃがみ込んだ。
「泣いていいのか喜んでいいのか、叱っていいのかわからん」
「全部でいいんじゃないかしら」
翠織は、目元を指先で軽く拭って、微笑んだ。
「……とりあえず、帰りましょうか。もう、じゅうぶん」
❆
車に乗り込んで、五分と経たなかった。
「――寝ちゃった」
後部座席を振り返った蒼波が、小声で言った。
窓に頭を預けた紅葉が、規則正しい寝息を立てている。
千年生きた少女の、無防備な寝顔だった。
「……不老不死で、寝る必要はないって言ってた気がするっちゃけど……」
「必要がないのと、堪えないのとは、別のことですから」
白雪姫の口から、白櫻姫の声が返る。
「どれほど体が朽ちずとも、心と魂は、すり減るのです。……今の紅葉は、眠っているというより、昏睡に近いです」
【光合成】である程度は癒した。
服の綻びも、白雪姫の制服に開いた風穴も、糸を織り直すように塞いである。
だが、それは傷の話だ。
「失った霊力を取り戻すには、眠るのが一番なの。……蒼波様、起こさないでいただけますか」
「……はい」
蒼波は、そっと自分の上着を脱いで、紅葉の肩に掛けた。
車は、港神社の青い鳥居を後にして、夜道を走り出す。
しばらくして――ハンドルを握ったまま、翠織が言った。
「蒼波ちゃん」
「はい?」
「せっかくだから、実家に寄っていかない?」
「……え」
蒼波の肩が、びくりと跳ねた。
「ここからなら、五分もかからないでしょう。今夜はあの海岸に魔物が出たのだから――」
翠織は、前を向いたまま続ける。
「自分の目で、確かめておきたいはずよ。ご家族の顔を」
――見透かされている、と思った。
あの海龍が現れてから、蒼波の頭の片隅には、ずっとそれがあったのだ。
あの海の向こうには、自分の生まれた家がある。
父がいて、母がいて、妹がいる。
「……先生って」
「なあに?」
「……なんでもないです」
翠織は、ふふ、と小さく笑った。
やがて車は国道を逸れ、細い森の道へと入っていく。
両側から杉の枝が迫り出し、ヘッドライトの光がその幹を次々と流していった。
カーブをいくつか越えた先。
石段と山門が、闇の中にぼんやりと浮かび上がる。
――那智山如意輪寺。
蒼波の、生まれた家だった。
「――それじゃあ白雪姫ちゃん、行こう!」
勢いよくドアを開けた蒼波に、いつの間にか入れ替わっていた白雪姫はぱちぱちと瞬きをした。
「え、えっ? 私も?」
「うん!」
「い、いや、あの……」
白雪姫は、もじもじと指をこすり合わせた。
「私、部外者やし……せっかく家族水入らずなのに、邪魔しちゃ悪くない?」
「なんもよ」
蒼波は、あっさり言い切った。
「迷惑なんかじゃないし。……それに、うち、友達はちゃんと紹介したいっちゃもん」
「と、友達……」
その一言に白雪姫がわずかに怯んだ隙を、蒼波は見逃さなかった。
「はい決まりー!」
「ちょ、ちょっと、蒼波ちゃんっ⁉」
半ば強引に手を引かれ、白雪姫は車から引きずり出される。
ちなみに、紅葉は眠ったまま身じろぎひとつしなかった。
――今回は、また今度でいいだろう。
蒼波は、境内へ続く坂道を、二段飛ばしで駆け上がっていく。
白雪姫もその後を追いかけて――ふと、振り返った。
翠織が、車のドアに寄りかかったまま、動かない。
「先生は、上ってこないですか?」
「私はいいわ」
翠織は、後部座席の窓へ顎をしゃくった。
「紅葉ちゃんが起きた時に、どうしてこんな場所にいるのか、説明する人が必要でしょう?」
「……あ」
「起きた瞬間に知らない山の中だったら、あの子、また一人で背負い込んで飛び出しかねないもの」
――そこまで考えていたのか。
白雪姫は、深く頭を下げてから、坂道を駆け上がった。
上りきった先。
本堂の甍が、月明かりに黒く光っていた。
そして、玄関の前には、もう人影がある。
蒼波と――坊主頭の、体の大きな男性。
その隣に、柔らかそうな面差しの女性。
そして、蒼波より頭二つ分以上小さな、女の子。
「白雪姫ちゃーん! こっちこっち!」
蒼波が、大きく手招きをする。
――その瞬間、小さな女の子が、さっ、と姉の背中に隠れた。
「あっ」
待たせては悪い。
白雪姫は小走りで近づいて、丁寧に頭を下げた。
「こ、こんばんは!」
「あらあら」
先に声を上げたのは、母親のほうだった。
「まあ……綺麗な髪」
蒼波の母――古閑葵は、目を丸くして白雪姫を見つめた。
夜目にも白い、雪色の髪。
そして、それと同じ色をした、白銀の瞳。
「……瞳も、白かとね。綺麗かぁ」
「あ、ありがとうございます……」
「蒼波がいつもお世話になっとります」
父親――古閑公水が、坊主頭を掻きながら、太い声で言った。
「い、いえいえっ、お世話になっているのはこっちのほうで!」
白雪姫は、あわてて両手を振った。
「蒼波ちゃんには、いつも助けてもらってて、その、勉強も、訓練も、ご飯のおかずの取り分けまで……!」
「おかず⁉」
「白雪姫ちゃん、それは言わんでいいとよ‼」
古閑夫妻が、そろって吹き出した。
――そして、母親が、ふと後ろへ目をやる。
「こら、しーちゃん。あいさつは?」
「…………」
「隠れとらんで。ほら」
姉の背中で、もぞ、と何かが動いた。
そして、恐る恐る――半分だけ、顔がのぞいた。
簡素なベージュの着物を纏った、幼い少女だった。
蒼波によく似た、わずかに癖のある黒髪。
自然に波打つそれが、華奢な首筋を優しく包み込み、夜風に揺れては、表情を隠すように頬にかかる。
透き通るような白い肌には、まだあどけなさが残っていて、これから伸びていくのだという柔らかい影がある。
眉は少し困ったように下がっていて、大きく垂れた瞳は、温かみのある焦げ茶。
その素朴な装いが、かえって彼女の純真さを際立たせていた。
「この子は雫――うちの妹」
――古閑雫。
蒼波の、妹だ。
「……こ、こんばんゎ……」
消え入りそうな声だった。
言い終えるやいなや、また姉の背中に引っ込んでしまう。
「ごめんね白雪姫ちゃん、この子、恥ずかしがりで……」
蒼波が、苦笑いしながら振り返った。
「もう八つになるっちゃけど、知らん人が来ると、ずーっとこう」
「ううん、大丈夫だよ」
白雪姫は、そう言うと――膝を折って、その場にしゃがみ込んだ。
視線が、ちょうど同じ高さに。
いや、白雪姫のほうが、ほんの少しだけ低いくらいに。
「こんばんは、雫ちゃん」
白雪姫は、精一杯の笑顔を作った。
怖がらせないように。警戒させないように。
「私は白雪姫。……よろしくね」
「…………」
しばらく、何も起きなかった。
やがて、姉の袖をつかんだまま、雫がそろそろと顔を出す。
白い髪。白い睫毛。白い肌。
そして、こちらを見つめる、白銀の瞳。
「……きれぃ……」
ぽつり、と零れた。
そして――一歩。
小さな足が、姉の陰から前へ出る。
二歩。三歩。
雫は、恐る恐る、その小さな手を差し出した。
白雪姫は、その手を、そっと取った。
冷たい夜気の中で、雫の手のひらだけが、ほかほかと温かい。
「えへへ、綺麗って言ってくれて、ありがとう」
もう一度、笑いかける。
――その瞬間、雫の目から、完全に警戒の色が消えた。
ぽかん、と口を半開きにして、白雪姫の顔だけを見つめている。
(……よし)
白雪姫は、その隙に、空いた手を雫の頭へ伸ばした。
黒髪を、優しく撫でる。
「ぁ」
最初、雫は驚いたように肩を跳ねさせた。
けれど、逃げなかった。
二度、三度と手のひらが往復するうちに、その目がとろりと細まっていく。
――もう、平気だ。
白雪姫はそう判断して、よいしょ、と立ち上がった。
「――おっと⁉」
立ち上がった、のだが。
「……あの」
腰のあたりに、重みがあった。
見下ろすと、雫が両腕を回して、しっかりとしがみついている。
もう二度と離さない、という無言の主張だった。
(……か、かわいい。かわいいけど)
白雪姫は、そろりと足を動かしてみる。
ぴったりと、ついてくる。
(これじゃ、帰れんっちゃけど……!)
「――うっそ」
その光景に、蒼波がぽかんとしていた。
「雫が、初対面で……?」
「あらぁ、しーちゃんがねぇ」
母親も、目を見開いている。
「白雪姫ちゃん、小さい子の扱い、上手いっちゃね?」
「そ、そんなことは……」
言いかけて、白雪姫は少し口ごもった。
それから、腰にしがみつく小さな頭を撫でながら、静かに言った。
「……私、ちょっとの間だけ、児童養護施設にいたんです」
「あ」
蒼波が、息を呑む。
「そこには、雫ちゃんよりもっと小さい子がいっぱいいて。……先生たちが、その子たちにどう接してるか、ずっと見てたから」
目線を合わせて。急に触らない。相手が伸ばしてくる手を、必ず待つ。
あの数日で覚えたことは、そんなことばかりだ。
「見てただけです。ほんとに」
白雪姫は、照れ臭そうに笑った。
――蒼波は、それ以上何も訊かなかった。
ただ、そっと白雪姫の隣に立って、雫の頭を、姉らしくぐりぐりと撫でた。
「よかったね、雫。綺麗なお姉ちゃんに懐けて」
「……ん」
それから、しばらく雑談が続いた。
学校のこと、寺の行事のこと、この前の法要で檀家さんに土産をもらった話。
海の異変については、誰も口にしなかった。
――そういう約束だった。
その間、雫は一度も白雪姫から離れなかった。
完全に、気に入られてしまったらしい。
「――あ」
ふと、蒼波が玄関に飾られた時計に目を落とす。
もうすぐ、二十時になろうとしていた。
「やば、そろそろ帰らんと。先生も下で待っとるし」
「そうやね」
家族が無事だと、この目で確かめられた。
それだけで、じゅうぶんだった。
「……もう、行っちゃうの?」
小さな声が、白雪姫の腰のあたりから聞こえた。
見下ろすと、雫が上目遣いにこちらを見上げている。
その目が、潤んでいた。
「……うん」
白雪姫は、もう一度しゃがみ込んだ。
そして、両手で雫の小さな手を包み込む。
「でもね、雫ちゃん。また会いに来るから」
「……ほんと?」
「うん。約束」
雫は、こくん、と頷いた。
頷いたけれど、眉はやっぱり困ったように下がったままで、唇を噛んでいる。
――離れたくない、と全身で言っていた。
「……ねえ」
その様子を眺めていた蒼波が、ぽつりと零す。
「姉|ちゃんが、久しぶりに帰ってきたっちゃけどねぇ……?」
「あ、あはは……」
白雪姫は、曖昧に笑うしかなかった。
別れを告げて、坂道を下る。
途中で一度振り返ると、玄関の明かりの下、三つの人影がまだこちらへ手を振っていた。
一番小さな影が、一番大きく振っていた。
❆
車に戻ると、紅葉はまだ、ぐっすり眠っていた。
結局、その寝顔は、行縢へ着くまで一度も崩れなかった。
「――紅葉ちゃん。紅葉ちゃんってば」
「……ん」
「着いたよー。起きて。ねえ、起きてってば」
肩を揺すられて、ようやく紅葉の瞼が持ち上がる。
――さすがに、車の中で寝かせておくわけにはいかない。
それに、運ぶのは、正直、ちょっと面倒だ。
その後は、いつもの夜だった。
食堂で遅い夕食を取り、大浴場で湯に浸かる。
ただし――紅葉は、その間ずっと夢現だった。
湯船の縁に頭を預けたまま、こくり、こくりと舟を漕ぐ。
「紅葉ちゃん、沈む! 沈むって!」
蒼波が三度ほど、その体を引き上げるはめになった。
そして消灯。
布団に入るなり、紅葉の寝息は、すぐに規則正しいものへと変わっていった。
(……なんか、不思議)
隣のベッドを見ながら、白雪姫は思う。
――思えば、紅葉がベッドで眠っている姿を見たのは、これが初めてだ。
旧校舎でも、この施設に来てからも、彼女はいつも起きていた。
夜通し、窓辺に座って、ただ外を眺めていた。
千年、ずっとそうしてきたのだろう。
(……ちゃんと眠れとるなら、よかった)
蒼波のほうも、枕に頭を乗せた三十秒後には落ちていた。
さすがに、神器を顕現して、あれだけ走り回れば当然だろう。
残された白雪姫はというと――正直、あまり疲れていなかった。
さすが、と言うべきか。
それとも、ほとんど戦っていないのだから当然、と言うべきか。
(……お腹に穴を開けられて、そのまま寝て、白櫻姫ちゃんに任せてただけやもんね、私)
少し、複雑だった。
枕元の時計を見る。
――二十三時。
明日は月曜日。学校がある。
(……眠くなくても、寝らんと)
白雪姫は、そっと目を閉じた。
波の音は、もう聞こえない。
代わりに、山の木々がざわめく音が、遠く窓の外から届いていた。
瞼の裏の暗闇が、少しずつ、深く、深くなっていく。
そして――。
白雪姫は、再びあの場所へと足を踏み入れた。
――満開の桜が、果てなく咲き誇る、あの精神世界へ。
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