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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第02章:不死の炎
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第18話:【紅桜】

 紅葉(もみじ)は、振り返らなかった。


 振り返れなかった、と言った方が正しいかもしれない。


 背中に届いたその声は、あまりにも懐かしくて、あまりにも――遠かったから。


 千年。


 夢に見て、幻に聞いて、そのたびに違うと思い知らされてきた声。


 それが今、確かに、すぐ後ろにある。


 紅葉(もみじ)の頬(ほお)を、一筋の涙が伝い落ちた。


 砂の上に、小さな点がひとつ滲んだ。


「――バカな」


 その静寂を破ったのは、海龍だった。


「バカナ、バカナ、バカナッ‼」


 巨大な顎(あぎと)から、濁(にご)った声が噴(ふ)き出す。


 当然だ。


 己の渾(こん)身(しん)の一撃を――地面を抉(えぐ)り、岩を挽(ひ)き砕くはずだった一撃を、たかが花びらに、微(び)動(どう)だにせず受け止められたのだから。


「アリエヌ‼ 我ハ魔(ま)神(じん)ノ力ヲ持ツモノゾ‼ 今ノハ全力ダ、渾身ノ一撃ダッタノダゾ‼」


 叫べば叫ぶほど、それは負け惜しみにしか聞こえなかった。


「――あら」


 鈴を転がすような声が、応じた。


「あの程度の礫(つぶて)で、いったい、どなたが死ぬというのです?」


 薄紅の壁が、しゃらり、と音もなく崩れて散る。


 舞い散る花びらの向こうから、白い髪の少女が歩いてくる。


 夜の風に、雪よりも白いその髪が、ふわりと靡(なび)いた。


 瞳は、桜色。


 闇の中で、それだけが淡く発光しているように見えた。


「魔神の断片を頂戴しておきながら、それきりですか」


 白櫻姫(こさき)は、歩(ほ)幅(はば)ひとつ乱さない。


 砂を踏む足取りは、まるで御所の廊下を渡るように淑(しと)やかだった。


「……ええ、以前の魔神もそうでしたけれど」


 小首を傾(かし)げ、微(ほほ)笑(え)む。


「昔に比べて、ずいぶんと技量が落ちたようですね。あなた方は」


 嘲(ちょう)笑(しょう)と呼ぶには、あまりに柔らかい声音だった。


 そして、それゆえに怖(おそ)ろしい。


 白櫻姫(こさき)は、ゆっくりと歩みを進め――紅葉(もみじ)の傍(かたわ)らに、並んで立った。


 千年ぶりの、再会。


 だというのに、二人は顔を見合わせなかった。


 視線ひとつ、交わさなかった。


 白櫻姫(こさき)は微笑みを崩さない。


 崩さないまま、しかしその眉が、ほんのわずかに寄っている。


 ――どう、声をかければいいのだろう。


 千年前、何も言えずに逝った。


 声を出す力さえ残っていなかったあの日から、彼女はずっと、その言葉を探し続けてきた。


 探し続けて、まだ見つかっていない。


 紅葉(もみじ)もまた、俯(うつむ)いていた。


 胸の奥から、湯のように熱いものが込み上げてくる。


 嬉しい。嬉しくて、たまらないのに。


(……こんな、泥だらけの顔)


 涙で汚れた顔を、この人にだけは見られたくなかった。


 千年。




 思えば、あまりにも長すぎる年月だった。




 ――そんな、二人だけの空間に。


「ミトメヌ、ミトメヌゾオオオォッ‼」


 海龍の絶叫が、無粋に割り込んだ。


 開かれた口の奥に、再び濃紫の光が集束していく。


 水の砲(ほう)撃(げき)。


 紅葉(もみじ)の体を幾度となく砕いた、あの一撃だ。


「――煩(うるさ)いですね」


 白櫻姫(こさき)は、その場に屈(かが)んだ。


 足元に転がっていた、なんの変哲もない石ころを、ひとつ拾い上げる。


 指先ほどの大きさの、砂にまみれた小石だ。


 それを、軽く握る。


(――え)


 紅葉(もみじ)は、息を呑んだ。


 小石が、白く輝いていた。


 込められた霊(れい)力(りょく)の密度が、桁違いなのだ。


 石ころ一つに、この海岸の空気ごと歪(ゆが)むほどの力が、無造作に押し込まれている。


「――ふっ」


 放たれた。


 手裏剣を打つような、滑(なめ)らかな半身の動作。


 そして、次に起きたことを、紅葉(もみじ)の目は正確に追えなかった。


 ――迸(ほとばし)った水の砲撃を、小石が、貫(つらぬ)いた。


 弾かれたのでも、逸らされたのでもない。


 砲撃の中心を、速度を一(いち)厘(りん)も落とすことなく、真っ直ぐに突き抜けたのだ。


「グッ⁉」


 海龍が、間(かん)一(いっ)髪(ぱつ)で首をひねる。


 ――刹(せつ)那(な)。


 ガリィッ、と金(かな)切(き)り声のような音が響いた。


 虹色に輝いていた鱗(うろこ)の一角が、削(けず)り取られていた。


 剥がれた鱗が、砂浜に落ちて転(ころ)がる。


 むき出しになった、青白い皮膚。


(――あの鱗を)


 紅葉(もみじ)の喉(のど)が、引(ひ)き攣(つ)った。


 自分が何度斬りつけても、切り傷一つも付けられなかった、あの鱗を。


 石ころ一つで。


 さらに次の瞬間、その皮膚から、黒ずんだ血が噴き出した。


 出血量そのものは、大したことはない。


 この巨躯からすれば、蚊に刺された程度だろう。


 ――だが。


 海龍は、悟ってしまった。


(……コイツハ)


 自分の内に宿った魔神の断片が、警(けい)鐘(しょう)のように叫んでいる。


 喰らうな。


 近づくな。


 ――決して、手を出してはならぬ類(たぐい)のものだと。


 そんな海龍の心情など、露(つゆ)知らず。


 白櫻姫(こさき)は、手のひらを上へ向けていた。


「霊(れい)術(じゅつ)――【光(こう)合(ごう)成(せい)】」


 夜気の中に、黄(こ)金(がね)の粒子が生まれた。


 それは日だまりの匂いを纏(まと)い、紅葉(もみじ)の体を包み込んでいく。


「――ぁ」


 温かい。


 軋(きし)んでいた骨が鎮まり、擦(す)り切れた肌が塞がっていく。


 裂けたセーラー服の生地までもが、糸を織り直すように元へ戻っていった。


 ――ただ、遅い。


 以前、あの狼の魔物と戦った時に見せた治癒とは比べものにならないほど、緩(ゆる)やかだ。


 当然だった。


 この術は、日の光を糧とする。


 今は、夜だ。


「……ごめんなさい。今は、お天道様がいないから」


 それでも、十分すぎた。


 紅葉(もみじ)は、自分の腕を、指を、襟(えり)元(もと)を、呆然と見回す。


「……すごい」


 思わず、声が漏れた。


「神(じん)器(ぎ)も出してないのに。……やっぱり、すごいよ」


 白櫻姫(こさき)は、答えなかった。


 ただ、その桜色の瞳が、ほんの少しだけ細められた。


 紅葉(もみじ)は、右の手のひらを開いてみる。


 ぽっ、と小さな灯(あか)りが点(とも)った。


 ――炎だ。


 枯れ果てていたはずの霊力が、熾(おき)火(び)のように戻ってきている。


「それじゃあ、行くわよ……! 紅葉(もみじ)!」


 その声に、紅葉(もみじ)はようやく顔を上げた。


「うん! 白櫻姫(こさき)ちゃん!」


 そうして二人は、ようやく――お互いの顔を見合わせた。


 白い髪と、黒い髪。


 桜色の瞳と、黒曜石の瞳。


 千年の空白は、たった一度の目配せで、跡形もなく消え去った。


 二人は、同時に息を吸い込む。


「「神器顕(けん)現(げん)‼」」


 ――第二幕(まく)の、始まりだった。





❆





 光が、爆(は)ぜた。


 薄紅と、紅蓮。


 二色の奔(ほん)流(りゅう)が夜の海岸を舐め、青い鳥(とり)居(い)の柱を照らし出す。


 白櫻姫(こさき)の内側に眠る、清(せい)冽(れつ)なる神器――〈千(せん)年(ねん)霞(がすみ)の羽(は)衣(ごろも)〉。


 紅葉(もみじ)の魂が紡ぎ出す、熾(し)烈(れつ)なる神器――〈不(ふ)死(し)鳥(ちょう)の紅(こう)剣(けん)〉。


 眩(まばゆ)い光が二人を包み込み、次の瞬間にはその姿を変貌させていた。


 白櫻姫(こさき)は、白を基調とした和装の上着を羽織る。


 袖の裏と縁取りには、濃い桜色。肩口には、淡い花の意(い)匠(しょう)。


 胸元では、桜色の組(くみ)紐(ひも)が上品な飾(かざ)り結(むす)びを作り、下半身は漆黒の袴(はかま)が凛(りん)と締められている。


 紅葉(もみじ)は、柄(つか)に青い宝玉と金の細工、刀身は燃え盛る橙(だいだい)と黄金の炎を纏った剣を持つ。


 さらにその背には、火で編まれた鳥の翼。


 黒かった瞳は、鮮やかな紅へと変じていた。


 ――白(はく)桜(おう)の少女と、紅(こう)炎(えん)の少女。


 その小さな背中が二つ、五十メートルを超える巨躯の前に、並び立った。


 数秒の、静(せい)寂(じゃく)。


 先に動いたのは、紅葉(もみじ)だった。


「はぁっ‼」


 炎の翼が夜空を蹴(け)る。


 弧を描いて舞い上がり、頭上から、海龍の額(ひたい)めがけて剣を叩(たた)きつけた。


 ――ギィンッ。


 やはり、刃は通らない。


 鱗の表面で、ぬるりと滑って弾かれる。


「グ、小(こ)賢(ざか)シイッ‼」


 海龍の口が、紅葉(もみじ)へ向く。


 濃紫の光が、膨(ふく)れ上がった。


 その、瞬間だった。


 ――ゴッ、という鈍(にぶ)い音が、海鳴りを掻(か)き消した。


「ブフォオオォォッ⁉」


 海龍の首が、九十度、真横へねじ曲(ま)げられた。


 情けない悲鳴とともに、口(こう)吻(ふん)に溜めていた魔力が明後日の方向へ霧散する。


 その右頬に、白櫻姫(こさき)が立っていた。


 いや、正確には――白櫻姫(こさき)が、宙(ちゅう)に浮いていた。


 手には、木刀。


 どこからか生え出た若木が、彼女の手のひらの中で瞬時に育ち、削られ、研(と)がれて、一振りの木刀になっていた。


 その一撃を受けた右頬の鱗は、深く凹(へこ)み、蜘(く)蛛(も)の巣状の亀(き)裂(れつ)を走らせている。


(――え? 木の棒で?)


 着地しながら、紅葉(もみじ)は目を瞠(みは)った。


 だが、驚いていたのは白櫻姫(こさき)も同じだった。


 ただし――理由が、まるで違う。


「あら? 手加減して差し上げたのに……」


 しん、と場が凍りついた。


 海龍の縦(たて)長(なが)の瞳(どう)孔(こう)が、極限まで収縮する。


 ――手加減。


 魔神の力を得た自分が。


 この身が。


 赤(あか)子(ご)の遊び相手をされていたのだと、突きつけられた。


 恐怖と絶望が、その巨大な相貌に貼り付いた。


 紅葉(もみじ)は砂に降り立ち、剣を杖代わりに体を支える。


 そして、はたと気づいた。


 ――自分には翼がある。だが、白櫻姫(こさき)に飛ぶ手段はないはずだ。


 どうやって、あの高さまで。


 答えは、すぐに舞(ま)い降(お)りてきた。


 どこからともなく流れてきた無数の花びらが、白櫻姫(こさき)の足の下で幾重にも折り重なり、階段を作っていたのだ。


 彼女はそれを一段、また一段と踏み、袴の裾を翻(ひるがえ)しながら、優雅に地上へと降り立った。


「……相変わらず、出(で)鱈(たら)目(め)ね」


「紅葉(もみじ)」


 軽口を遮(さえぎ)るように、白櫻姫(こさき)が名を呼ぶ。


 その声は、もう戦の声だった。


「ひとつ、教えるわ。――火(か)の気(け)を持つ神(み)子(こ)の真(しん)髄(ずい)は――どれだけの高温を、武器や拳に込(こ)められるか――それだけよ」


「……熱を、込める」


「あなた、旧(きゅう)校(こう)舎(しゃ)の鍵を壊したとき、何を思い描いた?」


 紅葉(もみじ)の瞼(まぶた)の裏に、あの夜の光景がよぎる。


 金属を溶(と)かし、飴のようにねじ曲げた、あの感覚。


「……〝溶かす〟って、思った」


「ええ。だから、あなたはそれを成した」


 白櫻姫(こさき)は、木刀の切っ先を海龍へ向けた。


「ただ火力を上げる。それも戦い方のひとつでしょう。けれど、火の気には〝相性〟という枷(かせ)がついて回る」


 言葉を継ぎながら、彼女は淡々と続ける。


「武器に炎を纏わせるなら、その武器はどんな高熱にも耐えねばならない。体に纏わせるなら、耐えるだけの霊力の護(まも)りか、防具か、術が必要になる。……そうでなければ、まず焼け落ちるのは自分の得物と、自分自身だから」


 ――それが、火の気の長(ちょう)所(しょ)であり、短(たん)所(しょ)。


「破壊力という一点においては、五(ご)行(ぎょう)の中でも破(は)格(かく)。だけど、それを御(ぎょ)すだけの技量と、武(ぶ)具(ぐ)が求められる」


 白櫻姫(こさき)は紅葉(もみじ)を見つめ直す。


「――でも、あなたには神器の剣があるよね」


 紅葉(もみじ)の手の中で、〈不死鳥の紅剣〉が脈(みゃく)を打(う)つ。


「神器は、魂(たましい)の具現。あなたの心が折れぬ限り、霊力が尽きぬ限り、決して壊れない。……たとえ、太陽の熱を宿そうとも」


 そして、と。


「神器は、己(おのれ)の魂の在(あ)り方(よう)に応じて強くなるわ。あなたが強く在れば、剣も強くなる」


 白櫻姫(こさき)は、微笑んだ。


 千年前、落ちこぼれと嗤(わら)われていた少女に、ただ一人だけ向けられていた、あの笑み。


「想い描いて。あの体表を燃やし、溶かし、切り裂く光景を。――あなたなら、できるわ」


 紅葉(もみじ)は、ゆっくりと息を吐いた。


 そして、覚悟を宿した紅蓮の瞳を、海龍へ向ける。


「――行くわよ」


 翼が、猛(たけ)った。


 夜空を斜めに裂いて、紅葉(もみじ)は再び跳び上がる。


 剣に霊力を注ぐ。刀身の炎が、膨れ、唸(うな)る。


「はああぁぁっ‼」


 振り下ろす。


 ――ギィンッ。


 やはり、通らない。


「クククッ、無駄ダト言ッタハズダ‼ 貴様ニハ、永(エイ)劫(ゴウ)無理ダ‼」


 海龍が、嘲(あざけ)る。


 だが、紅葉(もみじ)の瞳(め)は、もう鱗を見ていなかった。


 その、奥を見ていた。


「――まだだぁあああぁぁぁッ‼」


 雄(お)叫(たけ)び。


 剣に、さらに霊力を叩き込む。


 だが、ただ炎を撒き散らすのではない。


 想い描く。


 この鱗を飴(あめ)のように溶かすだけの熱を。


 その下の肉を裂くだけの、鋭(するど)さを。


 ――広げるな。絞(しぼ)れ。


 刀身全体で燃えていた炎が、す、と細くなっていく。


 刃(は)先(さき)へ。


 刃(やいば)の縁(ふち)、わずか数十ミリの一線へ。


 そこへ、極限まで凝縮し、圧(あっ)搾(さく)していく。


 ――炎が、白(しろ)くなった。


 橙でも、黄金でもない。


 溶鉱炉の底のような、眩い白。


 周囲の大気が陽(かげ)炎(ろう)に歪(ゆが)み、砂がガラスのように溶けて光った。


「ォ――」


 海龍の嘲笑が、途中で止まる。


 押し当てられた刃の下で、鱗が、ぐにゃりと形を失っていた。


 虹色が、黒(くろ)焦(こ)げに変わる。


 そして、その中へ――刃が、沈んでいく。


(バカナ――白キ娘ノ一撃ハ、例外ダトシテモ‼)


 海龍の思考が、白く灼(や)けた。


 この鱗を破る力を、他にも持つ者がいるなど。


「――断(た)てぇッ‼」


 紅葉(もみじ)が、渾身の力で引き斬った。


 ずぶり、と。


 鱗が裂けた。


 その下の皮膚も、肉(にく)も、縦(たて)一文字に切り裂かれた。


「ぐああああぁぁぁッ‼」


 初めて、海龍が痛みを声にした。


 黒い血が、雨のように砂浜へ降り注ぐ。


 紅葉(もみじ)は翼をたたみ、白櫻姫(こさき)の傍らへと降り立った。


 肩で、大きく息を吐く。


 そして――笑った。


「……やっと、一(いっ)矢(し)報(むく)いた」


「素晴らしかったよ、紅葉(もみじ)」


 白櫻姫(こさき)は、心から嬉しそうに頷(うなず)いた。


「あなたはあの頃から……ずっと、強くなったね」


 紅葉(もみじ)の胸が、じん、と熱くなる。


 千年、聞きたかった言葉だった。


 ――そして。


 白櫻姫(こさき)は、痛みに身(み)悶(もだ)える海龍へ向き直り、事(こと)もなげに告げた。


「では、これで訓練は終わりですね」





❆





 時が、止まった。


「……え?」


 声を漏らしたのは、紅葉(もみじ)だった。


「クン、レン……ダト……?」


 海龍もまた、絶句していた。


 この死闘が。


 千年生きた少女が幾度も骨を砕かれ、血反吐を吐いたあの時間が。


 ――訓練。


「ちょ、ちょっと待って」


 紅葉(もみじ)が、白櫻姫(こさき)の袖を掴む。


「じゃあ白櫻姫(こさき)ちゃん、あなた……ずっと、見てたの? 白雪姫(こゆき)のお腹に、私が――あんなことをしたときも?」


「ええ」


 白櫻姫(こさき)は、隠さなかった。


「白雪姫(こゆき)が腹を貫かれても、わたくしが出てこなかったのには、理由(わけ)があるわ」


 彼女は、海龍を真(ま)っ直(す)ぐに見上げたまま続けた。


「魔神の断片は、波動が特殊なの。安易に一撃で宿(やど)主(ぬし)を屠(ほふ)れば、断片だけが逃(のが)れ、四(し)方(ほう)へ飛散する恐れがある。……そうなれば、二度と追えなくなるわ」


「だから……限界まで、泳がせた」


「ええ。相手の出方と、断片の挙動。その両方を見極める必要があったの」


 白櫻姫(こさき)の声が、ほんの少しだけ沈む。


「白雪姫(こゆき)の霊力量ならば、あの傷でしばらくは死に至らない。それは確信していた……けど、綱渡りであったことも事実よ。あれは――あなたを覚醒させるための、ぎりぎりの賭(か)けだった」


「……賭け」


「魔神の断片が生んだ、この海龍の力。そして、わたくしがまだ知らない、今のあなたの神子としての力。その両方を測るために、白雪姫(こゆき)には、何も告げぬまま堪えさせてしまったわ。……許されぬ独断よ」


 ――その時。


 白櫻姫(こさき)の内側から、膨れっ面(つら)の声が届いた。


『本当に痛かったんだからね!』


「……ごめんなさい」


 白櫻姫(こさき)は、素直に頭を下げた。


『すっごく痛かったんだからね! もう、絶対だめだからね!』


「はい。もう、いたしません――白雪姫(こゆき)から苦言を呈(てい)されたわ」


「……え、待って? 白雪姫(こゆき)、どこにいるの?」


 そういえば、紅葉(もみじ)は白雪姫(こゆき)の中に白櫻姫(こさき)が宿ったことは知らない。


「言ってなかったね。ずっと黙っていたけど、わたくしは今、白雪姫(こゆき)の体の中に魂を宿している状態なの。今は入れ替わっているだけ」


「……それじゃあ、その体は……」


「ええ、白雪姫(こゆき)のものよ」


 ――ああ、白雪姫(こゆき)は、生きている。


 お腹の傷も、完全に塞(ふさ)がっている。


 それだけで、膝から力が抜けそうになる。


「本当は、すぐにでも助けに出たかった」


 白櫻姫(こさき)は、静かに言った。


「でも、ここであなたが覚醒しなければ、この先――散らばった魔神の断片との戦いを、あなたは生き抜けない。そう、判断したの」


 わたくしが出てしまえば――と彼女は続ける。


「海龍の力も、あなたの力も、何一つ測れずに終わってしまうから。……それに、理由(わけ)はもうひとつあるわ。むしろ、割合としては、そちらの方が大きい」


「……もうひとつ?」


「魔神の断片について」


 白櫻姫(こさき)は、己(おのれ)の胸に、そっと手を当てた。


「あの断片はね、紅葉(もみじ)。――あなただけではないわ。わたくしの魂にも、刻まれているの」


 紅葉(もみじ)の呼吸が、止まった。


「……納得は、してる」


 紅葉(もみじ)は、俯(うつむ)いて呟(つぶや)く。


「私に刻まれてたのは、当然よね。あの日、私もあの場所にいたんだから」


「ええ。そして――それは、わたくしたち二人だけだと思う?」


「……え」


「わたくしは、そうは思わない」


 白櫻姫(こさき)は、夜の海を眺めた。


「あの魔神は、滅びる間際に己を砕き、その欠片を撒いた。ならば、断片を宿す者は他にもいる。あるいは、あちらこちらの土地に、眠ったまま散らばっている」


 ――そう考える方が、自然だ。


「もしそうであれば、今後、この海龍のような相手と相(あい)対(たい)する機会は、幾(いく)度(ど)も訪れるでしょう。ですから、この個体の実力を、きちんと見極めておきたかったの」


 そこまで語って、白櫻姫(こさき)は、ふう、と小さく息をついた。


「――でも」


 その口から出たのは、落(らく)胆(たん)の声だった。


「拍(ひょう)子(し)抜(ぬ)けです。この程度でしたら、わざわざ見極めるまでもありませんでしたね」


 ――それは、あくまで彼女の物(もの)差(さ)しでの話だ。


 普通の神子であれば、鱗に掠(かす)り傷ひとつ与えるだけで一生分の力を絞り尽くす。


 千年を生きた紅葉(もみじ)ですら、幾度も殺されかけた相手なのだ。


 だが、そんな事情を知る由(よし)もない者が、ここに一体。


「――舐(ナ)メルナアアアアァァァッ‼」


 海龍が、吠(ほ)えた。


 裂かれた脇腹から血を撒(ま)き散らしながら、その全身に、濃(のう)紫(し)の水が渦(うず)を巻いて纏わりつく。


 魔力の奔流が、鎧(よろい)となり、槍(やり)となる。


 そして、五十メートルの巨躯が――突進した。


 海が割れ、砂浜が捲(めく)れ上がる。


 こんなものが正面から突っ込んでくれば、常人なら即死では済まない。痕(こん)跡(せき)すら残らない。


 紅葉(もみじ)の全身が強(こわ)張(ば)る。


 ――だが、隣に立つ少女は、瞬(まばた)きひとつしなかった。


「紅葉(もみじ)」


 その声は、春風のように穏(おだ)やかだった。


「わたくしの攻撃に、合わせて」


 紅葉(もみじ)は、理屈を訊(き)かなかった。


 訊く必要が、なかった。


「――ええ!」


 笑って、白櫻姫(こさき)の手を握る。


 白い指と、煤(すす)けた指が絡み合った。


 千年前、二人はいつもこうして手を繋いで歩いていた。


 あの頃と、寸(すん)分(ぶん)違(たが)わない温(ぬく)もりだった。


「――霊術【桜(さくら)吹(ふ)雪(ぶき)】」


 白櫻姫(こさき)の周囲に、幾(いく)万(まん)もの薄紅が生(う)まれる。


「――霊術【劫(こう)火(か)】」


 紅葉(もみじ)の手のひらから、紅蓮の炎が噴き上がる。


 白櫻姫(こさき)の周囲に舞い散る、清(せい)廉(れん)なる桜の花々。


 紅葉(もみじ)の全身から立ち上る、熾(し)盛(せい)なる紅蓮の炎。


 二つの力が、触れた。


 混じり合い、溶け合い、編み直されていく。


 ――そして、生まれた。


 炎の熱を宿し、紅蓮の色に染め上げられた、無数の桜の花びらが。


 一枚一枚が灼(しゃく)熱(ねつ)に燃え、宙を舞い、螺(ら)旋(せん)を描く。


 夜の海岸が、真昼のように明るくなった。


「名付けるなら……そう」


 白櫻姫(こさき)が、微笑む。


「――【紅(べに)桜(ざくら)】、ね」


 繋いだ手を、二人は同時に振り抜いた。


 炎の桜吹雪が、解き放たれる。


 海龍の纏う巨大な水の鎧と、それは正面からぶつかった。


 ――|ジュゥウウウウッ‼


 爆(ばく)音(おん)ではなく、蒸(じょう)発(はつ)の音だった。


 濃紫の水が、触れた端(はし)から白い蒸気へと変わり、天へ昇っていく。


 立ちこめる水蒸気と紅蓮の光が交わり、夜空が一瞬にして――紅(くれない)の桜色に染まった。


「グ、ガ、ガアアアアァァァッ⁉」


 鎧を失った巨躯を、紅(あか)い花びらが包み込む。


 削る。


 燃やす。


 溶かす。


 鱗が剥がれ、肉が炭(すみ)となり、骨は灰(はい)になる。


 悲鳴は、途中で途絶えた。


 五十メートルの海龍は、跡形もなく――消え失せた。


 あとに残ったのは、静かな波の音と。


 ゆっくりと降ってくる、紅(くれない)の光の欠(か)片(けら)だけ。


 それは、夜空に咲いた花火のようだった。


 青い鳥居の上に、紅の桜が舞い散っている。


 紅葉(もみじ)は、首を反(そ)らして、その空を眺めていた。


 紅剣が光の粒となって消え、背の翼が解けていく。


 隣では、白櫻姫(こさき)もまた、同じ空を見上げていた。


 千年。


 長すぎた年月の果てに、二人はまた、同じ空の下に並んでいる。


 紅葉(もみじ)の頬を、また一筋、涙が伝った。


 今度は、拭わなかった。


「……おかえり、白櫻姫(こさき)ちゃん」


 薄紅の花びらが、ひとひら、二人の間を漂って落ちる。


 白櫻姫(こさき)は、穏やかに目を細めて、応(こた)えた。


「――ただいま、紅葉(もみじ)」





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