第18話:【紅桜】
紅葉は、振り返らなかった。
振り返れなかった、と言った方が正しいかもしれない。
背中に届いたその声は、あまりにも懐かしくて、あまりにも――遠かったから。
千年。
夢に見て、幻に聞いて、そのたびに違うと思い知らされてきた声。
それが今、確かに、すぐ後ろにある。
紅葉の頬を、一筋の涙が伝い落ちた。
砂の上に、小さな点がひとつ滲んだ。
「――バカな」
その静寂を破ったのは、海龍だった。
「バカナ、バカナ、バカナッ‼」
巨大な顎から、濁った声が噴き出す。
当然だ。
己の渾身の一撃を――地面を抉り、岩を挽き砕くはずだった一撃を、たかが花びらに、微動だにせず受け止められたのだから。
「アリエヌ‼ 我ハ魔神ノ力ヲ持ツモノゾ‼ 今ノハ全力ダ、渾身ノ一撃ダッタノダゾ‼」
叫べば叫ぶほど、それは負け惜しみにしか聞こえなかった。
「――あら」
鈴を転がすような声が、応じた。
「あの程度の礫で、いったい、どなたが死ぬというのです?」
薄紅の壁が、しゃらり、と音もなく崩れて散る。
舞い散る花びらの向こうから、白い髪の少女が歩いてくる。
夜の風に、雪よりも白いその髪が、ふわりと靡いた。
瞳は、桜色。
闇の中で、それだけが淡く発光しているように見えた。
「魔神の断片を頂戴しておきながら、それきりですか」
白櫻姫は、歩幅ひとつ乱さない。
砂を踏む足取りは、まるで御所の廊下を渡るように淑やかだった。
「……ええ、以前の魔神もそうでしたけれど」
小首を傾げ、微笑む。
「昔に比べて、ずいぶんと技量が落ちたようですね。あなた方は」
嘲笑と呼ぶには、あまりに柔らかい声音だった。
そして、それゆえに怖ろしい。
白櫻姫は、ゆっくりと歩みを進め――紅葉の傍らに、並んで立った。
千年ぶりの、再会。
だというのに、二人は顔を見合わせなかった。
視線ひとつ、交わさなかった。
白櫻姫は微笑みを崩さない。
崩さないまま、しかしその眉が、ほんのわずかに寄っている。
――どう、声をかければいいのだろう。
千年前、何も言えずに逝った。
声を出す力さえ残っていなかったあの日から、彼女はずっと、その言葉を探し続けてきた。
探し続けて、まだ見つかっていない。
紅葉もまた、俯いていた。
胸の奥から、湯のように熱いものが込み上げてくる。
嬉しい。嬉しくて、たまらないのに。
(……こんな、泥だらけの顔)
涙で汚れた顔を、この人にだけは見られたくなかった。
千年。
思えば、あまりにも長すぎる年月だった。
――そんな、二人だけの空間に。
「ミトメヌ、ミトメヌゾオオオォッ‼」
海龍の絶叫が、無粋に割り込んだ。
開かれた口の奥に、再び濃紫の光が集束していく。
水の砲撃。
紅葉の体を幾度となく砕いた、あの一撃だ。
「――煩いですね」
白櫻姫は、その場に屈んだ。
足元に転がっていた、なんの変哲もない石ころを、ひとつ拾い上げる。
指先ほどの大きさの、砂にまみれた小石だ。
それを、軽く握る。
(――え)
紅葉は、息を呑んだ。
小石が、白く輝いていた。
込められた霊力の密度が、桁違いなのだ。
石ころ一つに、この海岸の空気ごと歪むほどの力が、無造作に押し込まれている。
「――ふっ」
放たれた。
手裏剣を打つような、滑らかな半身の動作。
そして、次に起きたことを、紅葉の目は正確に追えなかった。
――迸った水の砲撃を、小石が、貫いた。
弾かれたのでも、逸らされたのでもない。
砲撃の中心を、速度を一厘も落とすことなく、真っ直ぐに突き抜けたのだ。
「グッ⁉」
海龍が、間一髪で首をひねる。
――刹那。
ガリィッ、と金切り声のような音が響いた。
虹色に輝いていた鱗の一角が、削り取られていた。
剥がれた鱗が、砂浜に落ちて転がる。
むき出しになった、青白い皮膚。
(――あの鱗を)
紅葉の喉が、引き攣った。
自分が何度斬りつけても、切り傷一つも付けられなかった、あの鱗を。
石ころ一つで。
さらに次の瞬間、その皮膚から、黒ずんだ血が噴き出した。
出血量そのものは、大したことはない。
この巨躯からすれば、蚊に刺された程度だろう。
――だが。
海龍は、悟ってしまった。
(……コイツハ)
自分の内に宿った魔神の断片が、警鐘のように叫んでいる。
喰らうな。
近づくな。
――決して、手を出してはならぬ類のものだと。
そんな海龍の心情など、露知らず。
白櫻姫は、手のひらを上へ向けていた。
「霊術――【光合成】」
夜気の中に、黄金の粒子が生まれた。
それは日だまりの匂いを纏い、紅葉の体を包み込んでいく。
「――ぁ」
温かい。
軋んでいた骨が鎮まり、擦り切れた肌が塞がっていく。
裂けたセーラー服の生地までもが、糸を織り直すように元へ戻っていった。
――ただ、遅い。
以前、あの狼の魔物と戦った時に見せた治癒とは比べものにならないほど、緩やかだ。
当然だった。
この術は、日の光を糧とする。
今は、夜だ。
「……ごめんなさい。今は、お天道様がいないから」
それでも、十分すぎた。
紅葉は、自分の腕を、指を、襟元を、呆然と見回す。
「……すごい」
思わず、声が漏れた。
「神器も出してないのに。……やっぱり、すごいよ」
白櫻姫は、答えなかった。
ただ、その桜色の瞳が、ほんの少しだけ細められた。
紅葉は、右の手のひらを開いてみる。
ぽっ、と小さな灯りが点った。
――炎だ。
枯れ果てていたはずの霊力が、熾火のように戻ってきている。
「それじゃあ、行くわよ……! 紅葉!」
その声に、紅葉はようやく顔を上げた。
「うん! 白櫻姫ちゃん!」
そうして二人は、ようやく――お互いの顔を見合わせた。
白い髪と、黒い髪。
桜色の瞳と、黒曜石の瞳。
千年の空白は、たった一度の目配せで、跡形もなく消え去った。
二人は、同時に息を吸い込む。
「「神器顕現‼」」
――第二幕の、始まりだった。
❆
光が、爆ぜた。
薄紅と、紅蓮。
二色の奔流が夜の海岸を舐め、青い鳥居の柱を照らし出す。
白櫻姫の内側に眠る、清冽なる神器――〈千年霞の羽衣〉。
紅葉の魂が紡ぎ出す、熾烈なる神器――〈不死鳥の紅剣〉。
眩い光が二人を包み込み、次の瞬間にはその姿を変貌させていた。
白櫻姫は、白を基調とした和装の上着を羽織る。
袖の裏と縁取りには、濃い桜色。肩口には、淡い花の意匠。
胸元では、桜色の組紐が上品な飾り結びを作り、下半身は漆黒の袴が凛と締められている。
紅葉は、柄に青い宝玉と金の細工、刀身は燃え盛る橙と黄金の炎を纏った剣を持つ。
さらにその背には、火で編まれた鳥の翼。
黒かった瞳は、鮮やかな紅へと変じていた。
――白桜の少女と、紅炎の少女。
その小さな背中が二つ、五十メートルを超える巨躯の前に、並び立った。
数秒の、静寂。
先に動いたのは、紅葉だった。
「はぁっ‼」
炎の翼が夜空を蹴る。
弧を描いて舞い上がり、頭上から、海龍の額めがけて剣を叩きつけた。
――ギィンッ。
やはり、刃は通らない。
鱗の表面で、ぬるりと滑って弾かれる。
「グ、小賢シイッ‼」
海龍の口が、紅葉へ向く。
濃紫の光が、膨れ上がった。
その、瞬間だった。
――ゴッ、という鈍い音が、海鳴りを掻き消した。
「ブフォオオォォッ⁉」
海龍の首が、九十度、真横へねじ曲げられた。
情けない悲鳴とともに、口吻に溜めていた魔力が明後日の方向へ霧散する。
その右頬に、白櫻姫が立っていた。
いや、正確には――白櫻姫が、宙に浮いていた。
手には、木刀。
どこからか生え出た若木が、彼女の手のひらの中で瞬時に育ち、削られ、研がれて、一振りの木刀になっていた。
その一撃を受けた右頬の鱗は、深く凹み、蜘蛛の巣状の亀裂を走らせている。
(――え? 木の棒で?)
着地しながら、紅葉は目を瞠った。
だが、驚いていたのは白櫻姫も同じだった。
ただし――理由が、まるで違う。
「あら? 手加減して差し上げたのに……」
しん、と場が凍りついた。
海龍の縦長の瞳孔が、極限まで収縮する。
――手加減。
魔神の力を得た自分が。
この身が。
赤子の遊び相手をされていたのだと、突きつけられた。
恐怖と絶望が、その巨大な相貌に貼り付いた。
紅葉は砂に降り立ち、剣を杖代わりに体を支える。
そして、はたと気づいた。
――自分には翼がある。だが、白櫻姫に飛ぶ手段はないはずだ。
どうやって、あの高さまで。
答えは、すぐに舞い降りてきた。
どこからともなく流れてきた無数の花びらが、白櫻姫の足の下で幾重にも折り重なり、階段を作っていたのだ。
彼女はそれを一段、また一段と踏み、袴の裾を翻しながら、優雅に地上へと降り立った。
「……相変わらず、出鱈目ね」
「紅葉」
軽口を遮るように、白櫻姫が名を呼ぶ。
その声は、もう戦の声だった。
「ひとつ、教えるわ。――火の気を持つ神子の真髄は――どれだけの高温を、武器や拳に込められるか――それだけよ」
「……熱を、込める」
「あなた、旧校舎の鍵を壊したとき、何を思い描いた?」
紅葉の瞼の裏に、あの夜の光景がよぎる。
金属を溶かし、飴のようにねじ曲げた、あの感覚。
「……〝溶かす〟って、思った」
「ええ。だから、あなたはそれを成した」
白櫻姫は、木刀の切っ先を海龍へ向けた。
「ただ火力を上げる。それも戦い方のひとつでしょう。けれど、火の気には〝相性〟という枷がついて回る」
言葉を継ぎながら、彼女は淡々と続ける。
「武器に炎を纏わせるなら、その武器はどんな高熱にも耐えねばならない。体に纏わせるなら、耐えるだけの霊力の護りか、防具か、術が必要になる。……そうでなければ、まず焼け落ちるのは自分の得物と、自分自身だから」
――それが、火の気の長所であり、短所。
「破壊力という一点においては、五行の中でも破格。だけど、それを御すだけの技量と、武具が求められる」
白櫻姫は紅葉を見つめ直す。
「――でも、あなたには神器の剣があるよね」
紅葉の手の中で、〈不死鳥の紅剣〉が脈を打つ。
「神器は、魂の具現。あなたの心が折れぬ限り、霊力が尽きぬ限り、決して壊れない。……たとえ、太陽の熱を宿そうとも」
そして、と。
「神器は、己の魂の在り方に応じて強くなるわ。あなたが強く在れば、剣も強くなる」
白櫻姫は、微笑んだ。
千年前、落ちこぼれと嗤われていた少女に、ただ一人だけ向けられていた、あの笑み。
「想い描いて。あの体表を燃やし、溶かし、切り裂く光景を。――あなたなら、できるわ」
紅葉は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、覚悟を宿した紅蓮の瞳を、海龍へ向ける。
「――行くわよ」
翼が、猛った。
夜空を斜めに裂いて、紅葉は再び跳び上がる。
剣に霊力を注ぐ。刀身の炎が、膨れ、唸る。
「はああぁぁっ‼」
振り下ろす。
――ギィンッ。
やはり、通らない。
「クククッ、無駄ダト言ッタハズダ‼ 貴様ニハ、永劫無理ダ‼」
海龍が、嘲る。
だが、紅葉の瞳は、もう鱗を見ていなかった。
その、奥を見ていた。
「――まだだぁあああぁぁぁッ‼」
雄叫び。
剣に、さらに霊力を叩き込む。
だが、ただ炎を撒き散らすのではない。
想い描く。
この鱗を飴のように溶かすだけの熱を。
その下の肉を裂くだけの、鋭さを。
――広げるな。絞れ。
刀身全体で燃えていた炎が、す、と細くなっていく。
刃先へ。
刃の縁、わずか数十ミリの一線へ。
そこへ、極限まで凝縮し、圧搾していく。
――炎が、白くなった。
橙でも、黄金でもない。
溶鉱炉の底のような、眩い白。
周囲の大気が陽炎に歪み、砂がガラスのように溶けて光った。
「ォ――」
海龍の嘲笑が、途中で止まる。
押し当てられた刃の下で、鱗が、ぐにゃりと形を失っていた。
虹色が、黒焦げに変わる。
そして、その中へ――刃が、沈んでいく。
(バカナ――白キ娘ノ一撃ハ、例外ダトシテモ‼)
海龍の思考が、白く灼けた。
この鱗を破る力を、他にも持つ者がいるなど。
「――断てぇッ‼」
紅葉が、渾身の力で引き斬った。
ずぶり、と。
鱗が裂けた。
その下の皮膚も、肉も、縦一文字に切り裂かれた。
「ぐああああぁぁぁッ‼」
初めて、海龍が痛みを声にした。
黒い血が、雨のように砂浜へ降り注ぐ。
紅葉は翼をたたみ、白櫻姫の傍らへと降り立った。
肩で、大きく息を吐く。
そして――笑った。
「……やっと、一矢報いた」
「素晴らしかったよ、紅葉」
白櫻姫は、心から嬉しそうに頷いた。
「あなたはあの頃から……ずっと、強くなったね」
紅葉の胸が、じん、と熱くなる。
千年、聞きたかった言葉だった。
――そして。
白櫻姫は、痛みに身悶える海龍へ向き直り、事もなげに告げた。
「では、これで訓練は終わりですね」
❆
時が、止まった。
「……え?」
声を漏らしたのは、紅葉だった。
「クン、レン……ダト……?」
海龍もまた、絶句していた。
この死闘が。
千年生きた少女が幾度も骨を砕かれ、血反吐を吐いたあの時間が。
――訓練。
「ちょ、ちょっと待って」
紅葉が、白櫻姫の袖を掴む。
「じゃあ白櫻姫ちゃん、あなた……ずっと、見てたの? 白雪姫のお腹に、私が――あんなことをしたときも?」
「ええ」
白櫻姫は、隠さなかった。
「白雪姫が腹を貫かれても、わたくしが出てこなかったのには、理由があるわ」
彼女は、海龍を真っ直ぐに見上げたまま続けた。
「魔神の断片は、波動が特殊なの。安易に一撃で宿主を屠れば、断片だけが逃れ、四方へ飛散する恐れがある。……そうなれば、二度と追えなくなるわ」
「だから……限界まで、泳がせた」
「ええ。相手の出方と、断片の挙動。その両方を見極める必要があったの」
白櫻姫の声が、ほんの少しだけ沈む。
「白雪姫の霊力量ならば、あの傷でしばらくは死に至らない。それは確信していた……けど、綱渡りであったことも事実よ。あれは――あなたを覚醒させるための、ぎりぎりの賭けだった」
「……賭け」
「魔神の断片が生んだ、この海龍の力。そして、わたくしがまだ知らない、今のあなたの神子としての力。その両方を測るために、白雪姫には、何も告げぬまま堪えさせてしまったわ。……許されぬ独断よ」
――その時。
白櫻姫の内側から、膨れっ面の声が届いた。
『本当に痛かったんだからね!』
「……ごめんなさい」
白櫻姫は、素直に頭を下げた。
『すっごく痛かったんだからね! もう、絶対だめだからね!』
「はい。もう、いたしません――白雪姫から苦言を呈されたわ」
「……え、待って? 白雪姫、どこにいるの?」
そういえば、紅葉は白雪姫の中に白櫻姫が宿ったことは知らない。
「言ってなかったね。ずっと黙っていたけど、わたくしは今、白雪姫の体の中に魂を宿している状態なの。今は入れ替わっているだけ」
「……それじゃあ、その体は……」
「ええ、白雪姫のものよ」
――ああ、白雪姫は、生きている。
お腹の傷も、完全に塞がっている。
それだけで、膝から力が抜けそうになる。
「本当は、すぐにでも助けに出たかった」
白櫻姫は、静かに言った。
「でも、ここであなたが覚醒しなければ、この先――散らばった魔神の断片との戦いを、あなたは生き抜けない。そう、判断したの」
わたくしが出てしまえば――と彼女は続ける。
「海龍の力も、あなたの力も、何一つ測れずに終わってしまうから。……それに、理由はもうひとつあるわ。むしろ、割合としては、そちらの方が大きい」
「……もうひとつ?」
「魔神の断片について」
白櫻姫は、己の胸に、そっと手を当てた。
「あの断片はね、紅葉。――あなただけではないわ。わたくしの魂にも、刻まれているの」
紅葉の呼吸が、止まった。
「……納得は、してる」
紅葉は、俯いて呟く。
「私に刻まれてたのは、当然よね。あの日、私もあの場所にいたんだから」
「ええ。そして――それは、わたくしたち二人だけだと思う?」
「……え」
「わたくしは、そうは思わない」
白櫻姫は、夜の海を眺めた。
「あの魔神は、滅びる間際に己を砕き、その欠片を撒いた。ならば、断片を宿す者は他にもいる。あるいは、あちらこちらの土地に、眠ったまま散らばっている」
――そう考える方が、自然だ。
「もしそうであれば、今後、この海龍のような相手と相対する機会は、幾度も訪れるでしょう。ですから、この個体の実力を、きちんと見極めておきたかったの」
そこまで語って、白櫻姫は、ふう、と小さく息をついた。
「――でも」
その口から出たのは、落胆の声だった。
「拍子抜けです。この程度でしたら、わざわざ見極めるまでもありませんでしたね」
――それは、あくまで彼女の物差しでの話だ。
普通の神子であれば、鱗に掠り傷ひとつ与えるだけで一生分の力を絞り尽くす。
千年を生きた紅葉ですら、幾度も殺されかけた相手なのだ。
だが、そんな事情を知る由もない者が、ここに一体。
「――舐メルナアアアアァァァッ‼」
海龍が、吠えた。
裂かれた脇腹から血を撒き散らしながら、その全身に、濃紫の水が渦を巻いて纏わりつく。
魔力の奔流が、鎧となり、槍となる。
そして、五十メートルの巨躯が――突進した。
海が割れ、砂浜が捲れ上がる。
こんなものが正面から突っ込んでくれば、常人なら即死では済まない。痕跡すら残らない。
紅葉の全身が強張る。
――だが、隣に立つ少女は、瞬きひとつしなかった。
「紅葉」
その声は、春風のように穏やかだった。
「わたくしの攻撃に、合わせて」
紅葉は、理屈を訊かなかった。
訊く必要が、なかった。
「――ええ!」
笑って、白櫻姫の手を握る。
白い指と、煤けた指が絡み合った。
千年前、二人はいつもこうして手を繋いで歩いていた。
あの頃と、寸分違わない温もりだった。
「――霊術【桜吹雪】」
白櫻姫の周囲に、幾万もの薄紅が生まれる。
「――霊術【劫火】」
紅葉の手のひらから、紅蓮の炎が噴き上がる。
白櫻姫の周囲に舞い散る、清廉なる桜の花々。
紅葉の全身から立ち上る、熾盛なる紅蓮の炎。
二つの力が、触れた。
混じり合い、溶け合い、編み直されていく。
――そして、生まれた。
炎の熱を宿し、紅蓮の色に染め上げられた、無数の桜の花びらが。
一枚一枚が灼熱に燃え、宙を舞い、螺旋を描く。
夜の海岸が、真昼のように明るくなった。
「名付けるなら……そう」
白櫻姫が、微笑む。
「――【紅桜】、ね」
繋いだ手を、二人は同時に振り抜いた。
炎の桜吹雪が、解き放たれる。
海龍の纏う巨大な水の鎧と、それは正面からぶつかった。
――|ジュゥウウウウッ‼
爆音ではなく、蒸発の音だった。
濃紫の水が、触れた端から白い蒸気へと変わり、天へ昇っていく。
立ちこめる水蒸気と紅蓮の光が交わり、夜空が一瞬にして――紅の桜色に染まった。
「グ、ガ、ガアアアアァァァッ⁉」
鎧を失った巨躯を、紅い花びらが包み込む。
削る。
燃やす。
溶かす。
鱗が剥がれ、肉が炭となり、骨は灰になる。
悲鳴は、途中で途絶えた。
五十メートルの海龍は、跡形もなく――消え失せた。
あとに残ったのは、静かな波の音と。
ゆっくりと降ってくる、紅の光の欠片だけ。
それは、夜空に咲いた花火のようだった。
青い鳥居の上に、紅の桜が舞い散っている。
紅葉は、首を反らして、その空を眺めていた。
紅剣が光の粒となって消え、背の翼が解けていく。
隣では、白櫻姫もまた、同じ空を見上げていた。
千年。
長すぎた年月の果てに、二人はまた、同じ空の下に並んでいる。
紅葉の頬を、また一筋、涙が伝った。
今度は、拭わなかった。
「……おかえり、白櫻姫ちゃん」
薄紅の花びらが、ひとひら、二人の間を漂って落ちる。
白櫻姫は、穏やかに目を細めて、応えた。
「――ただいま、紅葉」
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