第17話:散りゆく紅葉
――音が、遠い。
波の音も、蒼波の声も、何もかもが水の底から聞こえてくるみたいだった。
白雪姫は、自分の腹部の真ん中を見下ろした。
そこに、紅葉の腕があった。
肘のあたりまでが、自分の体の中に、深々と埋まっている。
(……あれ)
痛みは、まだ来ていなかった。
代わりに来たのは、途方もない熱と、体の芯からごっそりと何かが抜け落ちていくような、奇妙な軽さだった。
喉の奥が、ぐ、と鳴る。
「――かはっ」
こみ上げてきたものを、白雪姫は吐き出した。
黒く見えるほど濃い血が、白い制服の胸元を汚し、砂の上に点々と散った。
「白雪姫ちゃん――白雪姫ちゃぁぁん‼」
蒼波の悲鳴が、夜の海岸を裂いた。
彼女は、握っていたはずの神器をとうに消してしまっている。
空っぽの手で、二歩、三歩と踏み出して、そして、動けなくなった。
「紅葉ちゃん――あなた、何してるの⁉」
声が、裏返っていた。
「なんで――なんで白雪姫ちゃんを‼」
叫びは、紅葉に届いていた。
届いてしまっていた。
「――違う」
紅葉の唇が、震えながら動く。
「違う……私は……」
どろりと濁った紫色の瞳が、ぐらりと揺れて、そして、自分の腕を見た。
友の腹を貫いた、自分の右腕を。
「私は……こんな、こと……っ」
その体が、瘧にかかったように震えはじめた。
千年を生き、幾百の戦場を歩いてきた少女が、今、たった一つの光景に打ちのめされていた。
次の瞬間。
「――ぎっ、ぁあああああぁぁぁ‼」
紅葉の全身から、再び黒紫の瘴気が噴き上がった。
それは煙のようであり、炎のようでもあり、そのどれとも違っていた。
ぬめる粘性を持った闇が、彼女の襟首から、指の間から、髪の間から、ぼこぼこと溢れ出してくる。
紅葉は、頭を抱えて悶えた。
――それでも。
「はな、れ……ろぉっ‼」
彼女は、自分の右腕を引き抜いた。
白雪姫の体から。
そして、たたらを踏むように後ろへ、後ろへと下がっていく。
まだ、そこに〝紅葉〟がいた。
辛うじて、いた。
「白雪姫ちゃんっ!」
支えを失った白雪姫の体が、糸の切れた人形みたいに傾ぐ。
その下へ、蒼波が滑り込んだ。
砂に膝をつき、両腕でその小さな体を抱き寄せる。
――軽い。
こんなに軽かっただろうか。
「白雪姫ちゃん、白雪姫ちゃん、聞こえる⁉ ねえっ!」
抱いた腕の下、白い制服の腹部に、風穴が開いていた。
「――あ、あぁ……!」
拳がまるごと通るほどの、大きな穴。
その縁は、赤黒く焼け爛れている。
口元から顎へと、血が幾筋も伝っていた。
白銀の瞳は、どこも見ていない。
(――どうしよう)
蒼波の頭の中を、言葉にならない何かが渦を巻いた。
(治ると? 治せると? っていうか、どうやって治療すると? 病院? こんな傷、病院に運んだって……ううん、そもそも間に合うと?)
指先が、氷のように冷たくなっていく。
(なんで。なんで紅葉ちゃんが、こんなこと――)
「――蒼波ちゃん‼」
闇の向こうから、走り寄る足音があった。
翠織だった。
周囲の見回りから戻ってきた彼女は、砂を蹴散らして駆けつけると、その光景に息を呑んだ。
「先生っ!」
蒼波は、翠織の腕にしがみついた。
「先生、どうしよう、どうしよう、白雪姫ちゃんが、白雪姫ちゃんがっ……! このままじゃ、白雪姫ちゃんが……‼」
言葉が、涙と一緒にぼろぼろと崩れていく。
「――落ち着きなさい、蒼波ちゃん」
翠織の声は、低く、静かだった。
彼女は膝をつき、白雪姫の首筋に指を当て、それから傷口を覗き込む。
その顔から、みるみる血の気が引いていった。
――だが、彼女は表情を崩さない。
「……傷口は、焼灼されているわ。炎で貫かれたから、組織がそのまま焼き固まってる。だから、出血は思ったより少ない」
「そ、それって、じゃあ大丈夫っていう――」
「いいえ」
翠織は、はっきりと首を横に振った。
「中の内臓は、ほとんど潰れていると思っていい。……こんな傷、本来なら、その場で息を引き取っていておかしくないの」
「そんな……っ」
「今この場に、治癒の術を使える神子はいない。私の霊力でも、人を癒すことはできないっ……‼」
じゃあ、と言いかけた蒼波の言葉を、翠織が引き取る。
「頼れるとすれば――彼女だけ。白櫻姫さんだけよ」
その名に、蒼波の目に一瞬だけ光が戻った。
しかし、翠織の眉根は寄ったままだ。
「けれど、こちらから声を届ける手段が、私たちにはないの。……普段なら、白雪姫ちゃんがこんな状態になれば、迷わず表に出てきてくださるはずなのに」
そこまで言って、彼女は歯を食いしばった。
(――なぜ、出てこないの)
考えられる可能性は、二つ。
出てこられないのか。
それとも――この状況を、あの方が〝危険〟と判断していないのか。
(……いいえ。今はもう一つ――)
視線を上げる。
数メートル先。
黒紫の瘴気を噴き上げながら、紅葉が獣のように身をよじっていた。
彼女も、放ってはおけない。
白雪姫をどうするかも決めなければならない。
時間だけが、砂のように指の間から零れていく。
「――っ」
翠織が、白雪姫の体を蒼波に預け、立ち上がったその瞬間だった。
紅葉が、動いた。
❆
炎を纏った腕が、真っ直ぐに翠織の胸元へ飛んでくる。
「――ッ‼」
翠織は、両腕を交差させた。
全身の霊力を、瞬間的に腕へ流し込む。身体強化。
ごう、と衝撃が来た。
砂が円形に抉れ、翠織の踵が地面を削って後退する。
「――やらせないわよっ!」
受け止めた勢いのまま、彼女は拳を突き出した。
しかし、紅葉はそれを見てから後ろへ跳び、手のひら一枚分の距離で受け流す。
着地。無駄のない動き。
――かなわない。
翠織は、内心で舌を巻いた。
戦闘の経験値が違いすぎる。こちらは十数年、向こうは千年だ。
(……でも)
彼女は、じくじくと痛む腕を見下ろした。
(今の一撃、軽すぎる)
あの膂力なら、両腕ごと叩き折れたはずだ。
それをしなかった。できなかった。
(――まだ、抗ってるのね。紅葉ちゃん)
だが、それは同時に、抗いきれていないという意味でもある。
(紅葉ちゃんは……魔蝕者に、なってしまったの?)
そう考えた途端、背骨に氷を差し込まれたような心地がした。
もしそうなら――神子として、自分がすべきことはひとつしかない。
(けれど、あの子は不老不死だと言った。……そんな存在を、殺せるの?)
その時だった。
「――もみ……じちゃ……ん」
声が、した。
掠れて、ほとんど息だけの声。
蒼波の腕の中で、白雪姫がゆっくりと顔を巡らせていた。
紅葉の方へ。
「白雪姫ちゃん⁉」
白雪姫の口の端から、また血が溢れる。
それでも彼女は、震える指先を、ほんの数センチ、紅葉の方へ動かそうとした。
届くはずのない距離を。
「……だい、じょう……ぶ……?」
――こんな時に。
自分の腹に風穴が開いていてなお、この子は。
蒼波の視界が、ぐしゃりと歪んだ。
「なんで……なんで、そんな……っ」
「……ぁ」
瘴気の中で、紅葉が目を見開いていた。
濁った紫の中に、ほんの一瞬、黒曜石の色が差した気がした。
「――信じられない」
翠織が、呻くように呟く。
(腹部を貫かれて、即死してもおかしくない傷なのよ。それなのに、指が動くなんて)
考えられる理由は、ひとつしかなかった。
霊力量。
あの子の魂に宿る、桁外れの霊力。
――霊力とは、そのまま生命力でもある。
(……いいえ、それだけじゃないわ)
翠織は、震える指先を見つめた。
(あの子を動かしているのは、たぶん――友達を想う気持ちの、強さそのものよ)
「先生」
蒼波が、白雪姫を抱いたまま顔を上げた。
「紅葉ちゃんは、いったいどうしてしまったんですか」
「…………」
「教えてください」
翠織は、逡巡の末に口を開いた。
「――あれはおそらく、魔蝕者になろうとしているのよ」
「……えっ」
「蒼波ちゃんも、学校で戦ったでしょ? 人間や神子が、魔力に魂を蝕まれて成り果てるもの。魔物より知恵があって、自我もある。その存在に――」
蒼波の顔が、白くなる。
翠織は、拳を握り込んだ。
「蒼波ちゃん。……このままなら、私たちは、あの子を倒さなければならない」
「――そんなの、できません‼」
叫んだのは、即答だった。
「うちは、紅葉ちゃんを殺せません。絶対に。……それに、それは白雪姫ちゃんだって同じです」
腕の中の白雪姫が、虚ろな目を蒼波へ向けた。
そして、ほんの少しだけ、笑った。
まるで、そのとおりだと言うように。
――ああ。
翠織は、目を伏せた。
自分だって、そうだ。
あの不器用な子を、殺したいわけがない。
転校の手続きだって、来月からの制服だって、もう用意してしまったのだから。
(……でも、それは〝人間〟としての感情)
魔を祓う神子としては、失格の考えだ。
――そう、自分を叱りつけようとした、その瞬間。
「……待って」
翠織の眉が、訝しげに寄った。
「蒼波ちゃん、あなた、紅葉ちゃんの魔力を感じられる?」
「え……はい、たぶん」
「――流れが、逆だと思わない?」
言われて、蒼波は初めて、それに気づいた。
「魔物は、動物の死体や、彷徨っている動物の魂に、外から魔力が入り込んで、汚染されて生まれるもの……。魔蝕者も同じ。人や神子の死体、あるいは死後の魂に、魔力が〝入っていく〟」
翠織は、紅葉を指差した。
「でも、あの子は逆よ。魔力が体に入っているんじゃない。――あの子の中から、魔力が出ていってる」
黒紫の奔流は、紅葉の背から立ち昇り、風に逆らうようにして、一方向へ流れていた。
三人の背後。
夜の大海原へ。
「それに、あの子はまだ生きているわ。生きたまま魔蝕者になった例なんて、私は一件も聞いたことがない」
蒼波の喉が、ごくりと鳴った。
「じゃあ……じゃあ、紅葉ちゃんは、魔蝕者じゃないってことですか⁉」
「……分からない。でも、少なくとも私の知っている〝魔蝕〟とは違う」
黒紫の帯は、港神社の青い鳥居の向こう、漆黒の海面へと吸い込まれ、静かに、深く、沈んでいく。
まるで、そこに帰る場所があるかのように。
――そして、数分が過ぎた。
「――は、ぁっ……」
紅葉の体から、瘴気がふつりと途絶えた。
最後のひと筋が海へ消えると、あれほど濃かった闇が、嘘のように綺麗さっぱり消え失せる。
彼女は膝から崩れ、砂の上に倒れ込んだ。
だが、その顔だけは、必死に持ち上げられていた。
自分の中から抜けていったものが、どこへ行ったのかを、見届けるために。
――地鳴りが、耳をつんざいた。
❆
海が、盛り上がった。
いや、割れた。
水柱が天へ向かって噴き上がり、その真ん中から、〝それ〟は現れた。
「――ぁ」
蒼波の口から、意味を成さない音が漏れる。
龍だった。
あるいは、龍によく似た、海の生き物だった。
神話に語られるリヴァイアサンとは、きっとこういうものを言うのだろう。
全長は、優に五十メートルを超えている。
胴はヘビのように細長く、それでいて胴回りは太い。
全体は青とも紫ともつかぬ色彩に染まり、鱗の一枚一枚が、街灯のない夜の海で、虹色の光を放っていた。
両腕は蝙蝠の翼のように大きく伸び、その先端は槍のように鋭く尖っている。
人気のない夜の海岸だ。誰かに目撃される心配はないだろう。
――だが、そんなことは何の慰めにもならなかった。
目の前に立つ者に、その巨躯が与えるものは、恐怖以外の何物でもない。
そして、海龍が、口吻を開いた。
「スサマジイ魔力ダ……」
地の底を這うような、濁った声が、大気を震わせる。
「我ヲ目覚メサセテクレタコトニ感謝スルゾ……不老不死ノ神子ヨ」
「……く……ぅ……!」
――紅葉は、その存在を睨め上げた。
一目で、理解した。
(……魔神)
間違いない。
この禍々しい気配を、彼女は知っている。
千年前。白櫻姫が命を賭して倒した、あの存在と、同じ匂いがする。
そして、ようやく、すべてが繋がった。
(――そうか。あの時、白櫻姫ちゃんが倒したあいつは)
死に際に、己の巨大な魔力をばらばらに砕いた。
そして、その欠片のひとつを、居合わせた自分の魂に、刻みつけていったのだ。
(この千年、ずっと胸の奥で疼いていたものは……そういうこと、だったのね)
紅葉は、ゆっくりと起き上がった。
体は重い。全身の関節が悲鳴を上げている。
――だが、それがどうした。
不老不死の体だ。どれだけ酷使したところで、壊れて困るものなど、何一つない。
彼女は砂を払い、不敵に笑った。
「何を勝ち誇ってるの」
声には、微塵の震えもなかった。
「たしかに、あなたは強いんでしょうね。でも、勘違いしないで。――あなたなんて、千年前の魔神と比べたら、大した存在じゃないわ」
それは、虚勢ではなかった。
所詮これは、紅葉の内に眠っていた〝魔神の力の一端〟が、この地に湧いた魔物へ与えられた結果、偶然生まれてしまった異物に過ぎないのだから。
「――紅葉ちゃん……」
背後で、蒼波が名を呼んだ。
紅葉は振り返り、白雪姫のもとへ歩み寄ると、砂に膝をついた。
そして、その白い頬に、そっと手のひらを添える。
自分の手が、まだ熱いことに、彼女は吐き気を覚えた。
「……ごめんなさい」
顔を、くしゃりと歪める。
「本当に……ごめんなさい、白雪姫」
白雪姫の指が、ほんのわずかに動いて、その手に触れた。
それだけで、紅葉は目の奥が熱くなるのを感じた。
彼女は立ち上がり、翠織と蒼波を真っ直ぐに見る。
「白雪姫を、お願い」
「紅葉ちゃん、あなた――」
「あれは、あなたたちが敵う相手じゃないから」
翠織の目が、鋭くなった。
「……紅葉ちゃん。あなた、あれが何か分かるの?」
「ええ」
海龍を振り仰ぎ、紅葉は淡々と告げる。
「あれは魔神よ。――正確には、海の底で眠っていた魔物が、私の中から解き放たれた〝魔神の欠片〟とも言うべき代物の魔力を取り込み、変貌して生まれたもの」
「魔神……⁉」
蒼波が絶句する。
翠織もまた、息を呑んでいた。
――魔神。
それは、翠織たちも学校で戦い、手も足も出なかったあの存在だ。
それが、今、目の前にいる。
「だから、あの魔神は私が倒す」
紅葉は、ふたりに背を向けた。
「今すぐ、ここから逃げて」
そして、声を張る。
「――神器顕現」
紅蓮の炎が渦を巻き、彼女の右手に集束して、一振りの剣となる。
背には、炎で編まれた鳥の翼。
黒曜石の瞳が、燃えるような紅へと変わった。
〈不死鳥の紅剣〉。
「はあぁぁぁっ‼」
紅葉は、砂を蹴った。
❆
「――蒼波ちゃん」
翠織の声は、掠れていた。
彼女は、数秒だけ考えた。
いや、数秒しか、考える時間がなかった。
動けるのは、自分と蒼波。そこに紅葉を加えて三人。
それで、あれに勝てるか?
――否。
三人がかりでも、掠り傷ひとつ負わせられずに終わる。
それが、この道に十数年を費やしてきた者としての、冷徹な結論だった。
「白雪姫ちゃんを連れて、逃げるわ」
「――っ、でも先生‼」
蒼波の顔が、悲痛に歪む。
「紅葉ちゃんは⁉ 置いていくんですか⁉ あんな、たった一人で……‼」
「今しかないの!」
翠織は、蒼波の肩を掴んだ。
「あの子が引きつけてくれている、今しかない。……ここで全員が死んだら、白雪姫ちゃんを救う手が、ひとつ残らず消えるのよ」
蒼波は、唇を噛んだ。
噛みすぎて、血の味がした。
――悩んだ。
悩んで、悩んで、それでも答えは、最初から決まっていた。
腕の中の重みが、それを決めていた。
「……ごめん」
絞り出した声は、嗚咽に塗れていた。
「ごめんね、紅葉ちゃん。……ごめん……っ!」
蒼波は白雪姫を背負い、走り出した。
振り返らなかった。
振り返ったら、足が止まってしまうと分かっていたから。
❆
炎の翼が、夜空を駆けた。
紅葉は剣に霊力を注ぎ込み、刀身の炎を膨れ上がらせると、海龍の眉間めがけて叩きつけた。
――甲高い音が響く。
金属を金属でぶつけたような、耳障りな音。
(――通らない⁉)
表面の膜どころか、鱗の一枚すら裂けていない。
「ゴウ」
海龍が、口を開いた。
直後、圧縮された水の奔流が、紅葉を真正面から呑み込んだ。
――轟音。
紅葉の体は、そのまま地面へと叩きつけられた。
砂が爆ぜ、砕けた岩の破片が飛び散る。
「……ぐ、ぁ」
制服はぼろぼろに裂け、左腕はあり得ない方向へ折れ曲がっていた。
額が割れたのか、生温かい血が顔を伝い、顎から滴っている。
それでも。
紅葉は、立ち上がった。
「――霊術……【再燃】」
その体が、柔らかな炎に包まれる。
折れた腕が、軋む音を立てて正しい向きへ戻り、裂けた皮膚が閉じ、流れていた血が乾いて消える。
数秒後、そこには傷ひとつない少女が立っていた。
――霊術【再燃】。
たとえ頭を吹き飛ばされようが、心臓を潰されようが、その身を再生させる、紅葉だけの術。
驚異的な再生能力。だがそこには、決定的な制約がある。
(……自分にしか、使えない)
紅葉は、砂を握りしめた。
(もし他人に使えたなら。……迷わず、白雪姫を癒してあげられたのにっ)
だから、これしかできない。
彼女は、剣を構え直した。
――勝てないことなど、とっくに理解している。
これは、勝負ではない。
不老不死という、この呪いのような体を使い倒して、あの化け物を可能な限り消耗させる。
そして、白雪姫たちを、少しでも遠くへ逃がす。
それだけが、目的だった。
「まだ……まだぁ‼」
紅葉は、跳んだ。
――そして、叩き落とされた。
「がはっ……‼」
跳んで、薙がれ、岩壁に叩きつけられた。
「くっ……まだ……まだよ……! はあぁぁぁ‼」
立ち上がり、また跳んで、水の砲撃に呑まれ、砂に叩き伏せられた。
「あ……っ……ぐっ……」
骨の折れる音。
炎が肉を編み直す、爆ぜるような音。
そのたびに走る、正気を失いかねないほどの激痛。
それらが、幾度も幾度も、夜の海岸に響き渡った。
「クク……ハハハハハ‼」
海龍が、嘲る。
「無駄ナ足掻キヲ。何度立トウガ、貴様ニ我ハ砕ケヌ」
――知っている。
そんなことは、百も承知だ。
紅葉は、縺れる足で、それでも一歩、また一歩と歩み寄る。
こちらを見ていろ。
こちらだけを見ていろ。
その視線が自分に注がれている限り、あの子たちは遠ざかっていける。
組織とやらへ応援を呼ぶ時間も、稼げる。
――剣を、振るった。
だが、もう振り抜くだけの力が、腕に残っていなかった。
刃は海龍の体表に触れただけで弾かれ、紅葉は自分の勢いに負けて体勢を崩す。
その隙を、海龍は見逃さない。
水が、迸った。
紅葉の体は木の葉のように吹き飛び、砂の上にうつ伏せに落ちた。
「…………」
立ち上がろうとする。
腕に力を込める。
――入らない。
指の先が、砂を掻いただけだった。
ふ、と手の中の熱が消える。
剣が、光の粒になって霧散していく。
背の炎の翼も、掻き消えた。
(……霊力が……もう……)
霊力が、もう底を突いている。
つまり、【再燃】も、もう使えない。
(……今やられたら、私はどうなるんだろ)
千年生きてきて、初めての疑問だった。
これまで、ここまでの苦境に立たされたことなど、ただの一度もなかったのだから。
(四肢を千切られる程度なら、霊力が戻るのを待って、術を使えばいい)
――でも。
(頭を、吹き飛ばされたら?)
答えは、どこにもなかった。
(……さすがに、死ぬのかな。私)
紅葉は、震える膝に手をつき、ふらふらと立ち上がった。
そして、ゆっくりと後ろを振り返る。
――誰も、いなかった。
青い鳥居の下にも、砂浜にも、白雪姫たちの姿はもうない。
遠くで、車のエンジン音が小さくなっていくのが聞こえた気がした。
「…………ふふ」
紅葉は、笑った。
心の底から、安堵していた。
――もう、頑張らなくていい。
「終ワリダ」
海龍が、告げた。
その巨大な顎の内側に、膨大な魔力のエネルギーが集束していく。
濃紫の光が、鱗の隙間から漏れ出し、海面を妖しく照らした。
――ああ、と紅葉は思った。
今までのは、本気ですらなかったのだ。
そして、その口から、水のエネルギーが解き放たれた。
通り道の地面が抉れていく。岩が、砂が、根こそぎ空へと巻き上げられていく。
あれを食らえば――終わりだ。
紅葉の脳裏を、この数週間の記憶が、奔った。
旧校舎の埃っぽい教室。差し出された、白い手。
施設の食堂の、騒がしい夕食。
三人で並び、二人の宿題を眺めていた、三人の暮らす部屋。
――そして、心の中で。
――翠の風が、髪を揺らす。
(翠織……先生――せっかく、学校への入学手続きまで済ませてくれたのに。……こんな形でお別れすることになって、ごめんなさい。私の両親は、どうしようもないクズだったから。……あなたみたいな人が、親だったらよかったな)
――激しい風で蒼い波が、激しく音をかき鳴らす。
(蒼波――あなたの故郷の地を、こんな形で汚してしまって、ごめん。あなたには才能があるから。神子として、白雪姫たちをよろしくね。……あなたと同じ学校、通ってみたかったな)
――波飛沫が、白い雪のように自分に当たる。
(白雪姫――傷つけて、ごめん。……あなたには、人を救う力がある。それは、神子としての力とは、もっと別のもの。人としての、素晴らしい才能だわ。……優しいあなたと、最後に友達になれて。……私は、幸せだった)
そして。
(――――白櫻姫……ちゃん)
――目の前に白い櫻が、舞ったような気がした。
(……最後に、もう一度だけ)
紅葉は、静かに目を閉じた。
(……会いたかった……)
――それは、千年ぶんの後悔の叫びだった。
❆
迫る濁流の音が、耳を圧する。
――しかし。
いつまで経っても、それは来なかった。
熱も、衝撃も、痛みもない。
代わりに、頬を掠めたのは、柔らかな、甘い香りだった。
紅葉は、ゆっくりと瞼を開ける。
――その眼前に。
桜の花びらが、あった。
一枚、二枚ではない。
幾万という薄紅の花びらが、壁のように重なり、渦を巻き、海龍の渾身の一撃を、微動だにせず受け止めていた。
水が花びらに触れ、霧となって散っていく。
夜の海岸に、桜の花びらが舞っていた。
あり得ない。
こんな海辺に、こんなにたくさんの桜が、舞うはずが――。
「待たせましたね」
「――!」
――背後から、声が聞こえた。
懐かしい声だった。
千年、ただの一日も忘れたことのない、ずっと聞きたかった声だった。
「……よく、耐え抜いたね」
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