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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第02章:不死の炎
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第16話:蒼波の神器

 その一声は、波音を裂いた。


 瞬間、蒼(あお)波(ば)の黒髪が、根元から染まっていく。


 深い紺(こん)から、毛先へ向かって、鮮やかな青へ。


 夜の海の色から、真昼の浅(あさ)瀬(せ)の色へ。


 後ろ髪をまとめている、青い花飾りのシュシュが、ぽう、と淡く、青く発光した。


 そして――蒼(あお)波(ば)の周囲に、水が集まりはじめる。


 どこから湧いたのかも分からない水滴が、宙(ちゅう)に浮かび、ゆっくりと渦(うず)を巻いた。


 浜辺の篝(かがり)のような炎の明かりを受けて、その一粒一粒が、細かな星のように光る。


「……わぁ」


 すぐ傍(そば)にいた白雪姫(こゆき)は、思わず声を漏らしていた。


 こんな状況なのに。


 まだ、背後では魚人が蠢(うごめ)いているのに。


 それでも、見とれてしまうくらい――綺麗だった。


 渦が、収束する。


 水が、蒼(あお)波(ば)の右手へと吸い込まれていき。


 ――そこに、一本の木の棒が、あった。


 まっすぐな形状。


 長さは、一メートルほど。


 表面には波の文様が彫(ほ)り込まれていて、その彫り跡(あと)に、青く発光する水が、まるで琥(こ)珀(はく)のような光(こう)沢(たく)で埋め込まれている。


 上部からは短い鎖が垂れ、その先に、雫(しずく)のかたちをした透明な宝(ほう)珠(じゅ)が揺れていた。


「…………」


 蒼(あお)波(ば)は、それを見下ろしたまま動かなかった。


 ――知っている。


 知っているどころではない。


 これは。


「蒼(あお)波(ば)ちゃん? それ……なに?」


 白雪姫(こゆき)が、恐る恐る訊いた。


 蒼(あお)波(ば)は、ゆっくりと柄(え)を握り直す。


 手のひらに、妙に馴(な)染(じ)む重さだった。


 初めて持ったはずなのに、何(なん)遍(べん)も持ったことがあるような。


「……散(さ)杖(じょう)、っていうんよ」


「さ、じょう?」


「うん」


 蒼(あお)波(ば)は、宝珠を指先で軽く弾いた。


 ちり、と澄んだ音が鳴る。


「法要のときにね、洒(しゃ)水(すい)器(き)っていうのに浄(じょう)水(すい)を入れて、この杖の先を浸(ひた)すと。それで、こう――撒(ま)くと」


 言いながら、蒼(あお)波(ば)は横に一度、軽く払ってみせた。


「道場とか、そこにおる人の身とか。そういうのを清めるための法(ほう)具(ぐ)。……うちの家に、ちゃんとあるんよ。本物が」


「蒼(あお)波(ば)ちゃんの、お寺に」


「うん。那(な)智(ち)山(さん)如(にょ)意(い)輪(りん)寺(じ)に」


 そして、鎖の先で揺れる宝珠に、蒼(あお)波(ば)は目を落とす。


 ――如意輪観音が、右手に持つとされる宝珠。


 本堂の厨(ず)子(し)の奥、線(せん)香(こう)の煙の向こうで、幼い頃から毎日見上げていた、あの形。


(……ほんとに、うちのにそっくり)


 そこまで思って。


 ――ふと、別の記憶が浮かんできた。


 まだ雫(しずく)が四つだった頃。


 こっそり持ち出した散杖を二本、庭(にわ)先(さき)で振り回した。


 振り回した、というより、雫(しずく)は引きずっていた。


『ねえちゃ、まける!』


『引きずっとったら勝てんよ!』


 そして、血(けっ)相(そう)を変えた父に見つかって。


『そりゃ、遊ぶもんじゃなか‼』


 ――こんな形で、もう一度これを握るなんて。


 思わず、くすりと笑いが零(こぼ)れた。


「……なんで笑ってると?」


「ううん。……お父さんに、また怒られそうやなって思って」


「え?」


「なんでもない」


「――あっ」


 顔を上げた蒼(あお)波(ば)を見て、白雪姫(こゆき)が目を丸くする。


「蒼(あお)波(ば)ちゃん、髪! あと、目も!」


「え?」


 言われて、蒼(あお)波(ば)は視界の端に垂れた前髪を摘(つま)み上げた。


 ――青い。


 海の底から光を透かしたような、深い青。


「……ほんとだ」


 驚くよりも先に、妙に納得している自分がいた。


 それよりも。


 ――内側から、溢(あふ)れてくる。


 さっきまで、底を掻(か)き集めるようにして使っていた霊(れい)力(りょく)が、今は勝手に巡(めぐ)っている。


 指の先まで、滞(とどこお)りなく。


(……こんなに、違うと?)


 背後で、水音が跳ねた。


 海から、また新しい魚人が這い上がってくる。


 紅葉(もみじ)がかなりの数を掃(は)いてくれたはずなのに、まだ、キリがない。


「――白雪姫(こゆき)ちゃん、下がってて」


「うんっ」


 蒼(あお)波(ば)は、散杖の先を、まっすぐ正面へ向けた。


 途端。


 彼女の周囲に、拳ほどもある水の球が、ぽん、ぽん、と生まれていく。


 十。二十。


 数えているうちに、優(ゆう)に五十を超えた。


(――いけ)


 念じた。


 それだけだった。


 水滴が、一斉に奔(はし)る。


 弾丸のような速度で宙を裂き、一粒が、一体の魚人の頭を正確に穿(うが)った。


 ずぶり、と。


 濁(にご)った白眼が、断ち切られる。


 頭を貫かれた魚人たちは、声を上げる間もなく、黒紫の煙となって崩(くず)れ落ちていった。


「……すごい……!」


 白雪姫(こゆき)が、掠れた声を上げる。


 少し離れた場所で、紅葉(もみじ)が剣を薙(な)ぎながら、ちらりとこちらを見た。


「――やるわね」


 短い一言。


 けれど、紅葉(もみじ)が戦いの最中に口を利くこと自体、滅多にないことだった。


 当の蒼(あお)波(ば)は、自分の手のひらを見つめたまま、立ち尽くしていた。


(……今の、うちがやったと?)


 信じられなかった。


 五十を超える水滴を同時に生み、同時に、狙(ねら)いを違えず飛ばした。


 それなのに。


(……霊力、ほとんど減っとらん)


 さっきまで、水の球ひとつ作るのにも、必死に捻(ひね)り出していたのに。


「白雪姫(こゆき)ちゃん」


「なに?」


「うち……なんか、嘘(うそ)みたいに、霊力の制(せい)御(ぎょ)っていうか、思ったとおりに動くんよ、水が。しかも、全然疲れない」


『――ええ。制御が上がっておりますね』


 頭の中に、涼(すず)やかな声が落ちてきた。


『無駄がなくなった、と言うべきでしょうか。同じ一の霊力で、以前の三も四も動かせている』


(白櫻姫(こさき)ちゃん)


『けれど』


 声が、僅(わず)かに身を乗り出すような色を帯(お)びる。


『それでは、まだ真(しん)価(か)を発揮しているとは申せません』


(え?)


 白雪姫(こゆき)は、思わず隣(となり)を見た。


 蒼(あお)波(ば)は、きょとんとした顔でこちらを見返してくる。


 ――聞こえていない。


 そうだ。さっきは手を握っていたから、霊力が繋がっていたから、声が届いていただけで。


「蒼(あお)波(ば)ちゃん、あのね。白櫻姫(こさき)ちゃんが」


 白雪姫(こゆき)は、慌てて通訳を買って出た。


「――それだけじゃ、まだ本気じゃないって」


「本気じゃない? これで?」


「うん。えっと……」


『水の気(け)を持つ神(み)子(こ)は、己の霊力から水を産(う)む必要はないのです』


(……あっ)


『湖。川。海。――既(すで)にそこにある水を借りればよいのです。産む手間が丸ごと消えますから、消耗は格段に減ります』


「――蒼(あお)波(ば)ちゃん! 水を作らなくていいって!」


「作らなくて、いい?」


「もうそこにある水を、借りればいいって! 湖とか、川とか……」


 言いかけて、白雪姫(こゆき)は、二人の背後を指差した。


 ――夜の大(おお)海(う)原(ばら)が、黒(くろ)々(ぐろ)と広がっている。


「……海」


「うん、海!」


 蒼(あお)波(ば)の喉(のど)が、こくりと鳴った。


 ここは、海岸だ。


 使える水など、いくらでもある。


 ――むしろ、有り余っている。


「……なるほどね」


 蒼(あお)波(ば)は、口角を上げた。


 そして、散杖を海へと向ける。


「――貸してもらうよ」


 念じる。


 上がれ、と。





❆





 海が、応(こた)えた。


 どぉ、と地鳴りのような音を立てて、波打ち際の海水が、逆(さか)さまに空へと吸い上げられていく。


 その量は、水滴などという規模ではない。


 小さな滝が、天へ向かって落ちていくようだった。


 ――その瞬間だった。


 散杖の彫り跡が、眩(まぶ)しく発光する。


 鎖の先の宝珠が、澄んだ光を放つ。


 そして、宙に奔る膨大な海水から――潮(しお)騒(さい)の匂いが、塩(しお)気(け)が、藻(も)の生(なま)臭(ぐさ)ささえもが、すう、と消え失せた。


 代わりに満ちたのは、清(せい)冽(れつ)な香り。


 早朝の本堂に漂(ただよ)う、汲(く)み立ての閼(あ)伽(か)水(すい)の匂いに、よく似ていた。


「……浄水になった」


 白雪姫(こゆき)が呆然と呟(つぶや)く。


 清められた水は、形を変える。


 束(たば)になり、締まり、細く、鋭く。


 ――光の槍(やり)。


 いや、光(こう)線(せん)と呼ぶべきものが、幾(いく)条(すじ)も、幾(いく)条(すじ)も、蒼(あお)波(ば)の頭上に浮かび上がっていた。


「蒼(あお)波(ば)ちゃん、それ……」


「うん。……たぶん、こっちが、本当のうちの力やっちゃ」


 蒼(あお)波(ば)は、静かに散杖を振り下ろした。


 ――奔(ほん)流(りゅう)。


 光の線(せん)が、一斉に落ちる。


 さっきの水滴が〝弾丸〟だったなら、これは〝レーザー〟だった。


 魚人の頭を穿ち、その後ろにいた個体まで巻き込み、砂ごと抉(えぐ)って、なお勢いが止まらない。


 貫かれた傍から、黒紫の煙が上がっていく。


 しかも、だ。


(……減ってない)


 蒼(あお)波(ば)は、自分の内側に耳を澄ませて、愕(がく)然(ぜん)とした。


 さっき水滴を作ったときよりも、遙(はる)かに霊力を使っていない。


 威力は、比べものにならないほど上がっているのに。


(少ない力で、大きなことができる……こういうことか)


 ――これが。


 これが、蒼(あお)波(ば)の神(じん)器(ぎ)。


 〈蒼(そう)水(すい)天(てん)の散(さ)杖(じょう)〉。


 霊力によって水を操る技量を格段に引き上げ、そして操る水を〝清めの水〟へと変える。


 魔(ま)物(もの)に対しても、魔(ま)蝕(しょく)者(しゃ)に対しても、これ以上なく効(き)く水へと。


 ――煩(ぼん)悩(のう)を祓(はら)い、魔も祓(はら)うという、まさしく、寺に生まれた者に相(ふさ)応(わ)しい神器だった。


(……これなら)


 蒼(あお)波(ば)は、柄を握り直す。


(これなら、戦える)


 振り返り、白雪姫(こゆき)に笑いかけた。


「白雪姫(こゆき)ちゃん。霊力、分けてくれてありがとうね」


「ううん、私は別に……」


「今度は、白雪姫(こゆき)ちゃんが休んでて」


 それだけ言うと、蒼(あお)波(ば)は砂を蹴って、紅葉(もみじ)の傍(そば)へと駆けていった。


 ――ここに、神器の顕現者が、二人。


 魚人を殲(せん)滅(めつ)することも、もはや不可能ではなかった。





❆





 戦況は、一変した。


 蒼(あお)波(ば)が散杖を横に払えば、海水が砲(ほう)弾(だん)となって魚人の群れに突き刺さる。


 弧を描くように振れば、無数の水の弾丸が横一列を貫いていく。


 鎖の先の宝珠が揺れるたび、水は自在に形を変えた。


 槍にも、鞭(むち)にも、刃(やいば)にも。


「――そっち、二体行った!」


「ええ」


 紅葉(もみじ)の紅(くれない)の剣が、炎(ほのお)の尾(お)を引いて薙(な)ぐ。


 海風に煽(あお)られた炎は膨(ふく)れ上がり、二体まとめて灰にした。


 ――が。


 白雪姫(こゆき)は、その横顔から目を離せずにいた。


 紅葉(もみじ)の眉の間に、深い皺(しわ)が刻まれている。


 剣を振るう合間、彼女は時折、左手で胸元を押(お)さえるのだ。


 まるで、そこに何かが刺(さ)さっているみたいに。


(……紅葉(もみじ)ちゃん……?)


 そして、白雪姫(こゆき)は。


 ――何も、していなかった。


 立っているだけだった。


 砂の上に、ぽつんと。


(……すごい)


 水を操る、蒼(あお)波(ば)。


(……かっこいい)


 炎を纏(まと)う、紅葉(もみじ)。


 二人が動くたび、魚人の数が目に見えて減っていく。


 自分が氷柱を一本作っている間に、二人は十体を消す。


 胸の奥が、ぎゅう、と縮んだ。


(……私だけ、取り残されてる)


 喜ばしいことのはずだった。


 友達が強くなった。それは、嬉しいことのはずなのに。


(……私には、神器がない)


 その一点だけが、錘(おもり)のように足に絡みつく。


 自分にも、神器を顕現させられたら。


 そうしたら、あの二人の隣に立てるのに。


『――白雪姫(こゆき)』


 声が、静(しず)かに割って入った。


『慌てる必要は、ありません』


(……白櫻姫(こさき)ちゃん)


『蒼(あお)波(ば)様には蒼(あお)波(ば)様の、あなたにはあなたの歩(ほ)幅(はば)がございます。他人の足の速さを物(もの)差(し)にすれば、いずれ足を挫(くじ)きますよ』


 いつもの、諭(さと)すような声だった。


 優しい声だった。


 それが分かっているのに。


「……うん」


 口から出たのは、納得しているのかしていないのか、自分でもよく分からない、曖(あい)昧(まい)な返事だった。


 白櫻姫(こさき)は、それ以上何も言わなかった。





❆





 最後の一体が、黒紫の煙になって消えたのは、それから間(ま)もなくのことだった。


 波の音が、急に大きく聞こえる。


 あれほど蠢いていた海岸に、もう、動くものはいない。


「……はぁっ、はあっ……」


 蒼(あお)波(ば)が、膝に手を突いた。


 その隣で、紅葉(もみじ)もまた、肩で息をしている。


 さすがに、使いすぎたらしい。


 蒼(あお)波(ば)の手の中で、散杖が水の粒に解(ほど)けて消えた。


 青かった髪が、潮が引くように黒へ戻っていく。


 紅葉(もみじ)の背の炎の翼も、ふっ、と掻き消え、紅い瞳が、元の黒曜石の色に沈んだ。


「蒼(あお)波(ば)ちゃん!」


 白雪姫(こゆき)は、砂を蹴って駆け寄った。


 蒼(あお)波(ば)の前に立ち、両手を握って、精一杯の笑顔をつくる。


「……やったね」


「……うん。やったよ」


 返しながら、蒼(あお)波(ば)は、微(かす)かな違和感を覚えていた。


 今の――やったね――。


 嬉しそうなのに、どこか、寂しそうだった。


 乾いた砂に水が沁(し)み込んでいくみたいに、声の終わりが、細く消えていったのだ。


「白雪姫(こゆき)ちゃん、あの――」


 名を呼びかけた、その時だった。


「――っ、ぁ」


 うめき声が、聞こえた。


 紅葉(もみじ)だった。


 彼女は片手で顔を覆(おお)い、もう片方の手で、胸元を掻き毟(むし)っていた。


 その体から、黒紫の――魔(ま)力(りょく)の瘴(しょう)気(き)が、噴(ふ)き上がる。


「紅葉(もみじ)ちゃんっ⁉」


 考えるより先に、体が動いていた。


 白雪姫(こゆき)は駆け寄り、その細い肩を抱きかかえる。


「どうしたと⁉ ねえ、紅葉(もみじ)ちゃんっ!」


『――白雪姫(こゆき)‼』


 鋭い声が、頭の中で弾けた。


 これまで一度も聞いたことのない、白櫻姫(こさき)の叫び声だった。


『近付いてはいけません、離れなさい‼』


(え――)


 しかし。


「があああぁぁぁぁ‼」


 ――遅かった。


 紅葉(もみじ)が、顔を上げる。


 その瞳は、紅でも、黒でもなかった。


 どろりと濁(にご)った、紫だった。


 熱い。


 白雪姫(こゆき)は、最初にそう思った。


 次に、衝撃。


 その次に、何かが抜(ぬ)け落ちていくような、途方もない喪失感。


 視界の下の方で、蒼(あお)波(ば)が、口を大きく開けているのが見えた。


 声は、聞こえなかった。


 ――紅葉(もみじ)の、炎を纏った右腕が。


 白雪姫(こゆき)の腹部を、貫いていた。





ここまで読んでいただきありがとうございます!

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