第16話:蒼波の神器
その一声は、波音を裂いた。
瞬間、蒼波の黒髪が、根元から染まっていく。
深い紺から、毛先へ向かって、鮮やかな青へ。
夜の海の色から、真昼の浅瀬の色へ。
後ろ髪をまとめている、青い花飾りのシュシュが、ぽう、と淡く、青く発光した。
そして――蒼波の周囲に、水が集まりはじめる。
どこから湧いたのかも分からない水滴が、宙に浮かび、ゆっくりと渦を巻いた。
浜辺の篝のような炎の明かりを受けて、その一粒一粒が、細かな星のように光る。
「……わぁ」
すぐ傍にいた白雪姫は、思わず声を漏らしていた。
こんな状況なのに。
まだ、背後では魚人が蠢いているのに。
それでも、見とれてしまうくらい――綺麗だった。
渦が、収束する。
水が、蒼波の右手へと吸い込まれていき。
――そこに、一本の木の棒が、あった。
まっすぐな形状。
長さは、一メートルほど。
表面には波の文様が彫り込まれていて、その彫り跡に、青く発光する水が、まるで琥珀のような光沢で埋め込まれている。
上部からは短い鎖が垂れ、その先に、雫のかたちをした透明な宝珠が揺れていた。
「…………」
蒼波は、それを見下ろしたまま動かなかった。
――知っている。
知っているどころではない。
これは。
「蒼波ちゃん? それ……なに?」
白雪姫が、恐る恐る訊いた。
蒼波は、ゆっくりと柄を握り直す。
手のひらに、妙に馴染む重さだった。
初めて持ったはずなのに、何遍も持ったことがあるような。
「……散杖、っていうんよ」
「さ、じょう?」
「うん」
蒼波は、宝珠を指先で軽く弾いた。
ちり、と澄んだ音が鳴る。
「法要のときにね、洒水器っていうのに浄水を入れて、この杖の先を浸すと。それで、こう――撒くと」
言いながら、蒼波は横に一度、軽く払ってみせた。
「道場とか、そこにおる人の身とか。そういうのを清めるための法具。……うちの家に、ちゃんとあるんよ。本物が」
「蒼波ちゃんの、お寺に」
「うん。那智山如意輪寺に」
そして、鎖の先で揺れる宝珠に、蒼波は目を落とす。
――如意輪観音が、右手に持つとされる宝珠。
本堂の厨子の奥、線香の煙の向こうで、幼い頃から毎日見上げていた、あの形。
(……ほんとに、うちのにそっくり)
そこまで思って。
――ふと、別の記憶が浮かんできた。
まだ雫が四つだった頃。
こっそり持ち出した散杖を二本、庭先で振り回した。
振り回した、というより、雫は引きずっていた。
『ねえちゃ、まける!』
『引きずっとったら勝てんよ!』
そして、血相を変えた父に見つかって。
『そりゃ、遊ぶもんじゃなか‼』
――こんな形で、もう一度これを握るなんて。
思わず、くすりと笑いが零れた。
「……なんで笑ってると?」
「ううん。……お父さんに、また怒られそうやなって思って」
「え?」
「なんでもない」
「――あっ」
顔を上げた蒼波を見て、白雪姫が目を丸くする。
「蒼波ちゃん、髪! あと、目も!」
「え?」
言われて、蒼波は視界の端に垂れた前髪を摘み上げた。
――青い。
海の底から光を透かしたような、深い青。
「……ほんとだ」
驚くよりも先に、妙に納得している自分がいた。
それよりも。
――内側から、溢れてくる。
さっきまで、底を掻き集めるようにして使っていた霊力が、今は勝手に巡っている。
指の先まで、滞りなく。
(……こんなに、違うと?)
背後で、水音が跳ねた。
海から、また新しい魚人が這い上がってくる。
紅葉がかなりの数を掃いてくれたはずなのに、まだ、キリがない。
「――白雪姫ちゃん、下がってて」
「うんっ」
蒼波は、散杖の先を、まっすぐ正面へ向けた。
途端。
彼女の周囲に、拳ほどもある水の球が、ぽん、ぽん、と生まれていく。
十。二十。
数えているうちに、優に五十を超えた。
(――いけ)
念じた。
それだけだった。
水滴が、一斉に奔る。
弾丸のような速度で宙を裂き、一粒が、一体の魚人の頭を正確に穿った。
ずぶり、と。
濁った白眼が、断ち切られる。
頭を貫かれた魚人たちは、声を上げる間もなく、黒紫の煙となって崩れ落ちていった。
「……すごい……!」
白雪姫が、掠れた声を上げる。
少し離れた場所で、紅葉が剣を薙ぎながら、ちらりとこちらを見た。
「――やるわね」
短い一言。
けれど、紅葉が戦いの最中に口を利くこと自体、滅多にないことだった。
当の蒼波は、自分の手のひらを見つめたまま、立ち尽くしていた。
(……今の、うちがやったと?)
信じられなかった。
五十を超える水滴を同時に生み、同時に、狙いを違えず飛ばした。
それなのに。
(……霊力、ほとんど減っとらん)
さっきまで、水の球ひとつ作るのにも、必死に捻り出していたのに。
「白雪姫ちゃん」
「なに?」
「うち……なんか、嘘みたいに、霊力の制御っていうか、思ったとおりに動くんよ、水が。しかも、全然疲れない」
『――ええ。制御が上がっておりますね』
頭の中に、涼やかな声が落ちてきた。
『無駄がなくなった、と言うべきでしょうか。同じ一の霊力で、以前の三も四も動かせている』
(白櫻姫ちゃん)
『けれど』
声が、僅かに身を乗り出すような色を帯びる。
『それでは、まだ真価を発揮しているとは申せません』
(え?)
白雪姫は、思わず隣を見た。
蒼波は、きょとんとした顔でこちらを見返してくる。
――聞こえていない。
そうだ。さっきは手を握っていたから、霊力が繋がっていたから、声が届いていただけで。
「蒼波ちゃん、あのね。白櫻姫ちゃんが」
白雪姫は、慌てて通訳を買って出た。
「――それだけじゃ、まだ本気じゃないって」
「本気じゃない? これで?」
「うん。えっと……」
『水の気を持つ神子は、己の霊力から水を産む必要はないのです』
(……あっ)
『湖。川。海。――既にそこにある水を借りればよいのです。産む手間が丸ごと消えますから、消耗は格段に減ります』
「――蒼波ちゃん! 水を作らなくていいって!」
「作らなくて、いい?」
「もうそこにある水を、借りればいいって! 湖とか、川とか……」
言いかけて、白雪姫は、二人の背後を指差した。
――夜の大海原が、黒々と広がっている。
「……海」
「うん、海!」
蒼波の喉が、こくりと鳴った。
ここは、海岸だ。
使える水など、いくらでもある。
――むしろ、有り余っている。
「……なるほどね」
蒼波は、口角を上げた。
そして、散杖を海へと向ける。
「――貸してもらうよ」
念じる。
上がれ、と。
❆
海が、応えた。
どぉ、と地鳴りのような音を立てて、波打ち際の海水が、逆さまに空へと吸い上げられていく。
その量は、水滴などという規模ではない。
小さな滝が、天へ向かって落ちていくようだった。
――その瞬間だった。
散杖の彫り跡が、眩しく発光する。
鎖の先の宝珠が、澄んだ光を放つ。
そして、宙に奔る膨大な海水から――潮騒の匂いが、塩気が、藻の生臭ささえもが、すう、と消え失せた。
代わりに満ちたのは、清冽な香り。
早朝の本堂に漂う、汲み立ての閼伽水の匂いに、よく似ていた。
「……浄水になった」
白雪姫が呆然と呟く。
清められた水は、形を変える。
束になり、締まり、細く、鋭く。
――光の槍。
いや、光線と呼ぶべきものが、幾条も、幾条も、蒼波の頭上に浮かび上がっていた。
「蒼波ちゃん、それ……」
「うん。……たぶん、こっちが、本当のうちの力やっちゃ」
蒼波は、静かに散杖を振り下ろした。
――奔流。
光の線が、一斉に落ちる。
さっきの水滴が〝弾丸〟だったなら、これは〝レーザー〟だった。
魚人の頭を穿ち、その後ろにいた個体まで巻き込み、砂ごと抉って、なお勢いが止まらない。
貫かれた傍から、黒紫の煙が上がっていく。
しかも、だ。
(……減ってない)
蒼波は、自分の内側に耳を澄ませて、愕然とした。
さっき水滴を作ったときよりも、遙かに霊力を使っていない。
威力は、比べものにならないほど上がっているのに。
(少ない力で、大きなことができる……こういうことか)
――これが。
これが、蒼波の神器。
〈蒼水天の散杖〉。
霊力によって水を操る技量を格段に引き上げ、そして操る水を〝清めの水〟へと変える。
魔物に対しても、魔蝕者に対しても、これ以上なく効く水へと。
――煩悩を祓い、魔も祓うという、まさしく、寺に生まれた者に相応しい神器だった。
(……これなら)
蒼波は、柄を握り直す。
(これなら、戦える)
振り返り、白雪姫に笑いかけた。
「白雪姫ちゃん。霊力、分けてくれてありがとうね」
「ううん、私は別に……」
「今度は、白雪姫ちゃんが休んでて」
それだけ言うと、蒼波は砂を蹴って、紅葉の傍へと駆けていった。
――ここに、神器の顕現者が、二人。
魚人を殲滅することも、もはや不可能ではなかった。
❆
戦況は、一変した。
蒼波が散杖を横に払えば、海水が砲弾となって魚人の群れに突き刺さる。
弧を描くように振れば、無数の水の弾丸が横一列を貫いていく。
鎖の先の宝珠が揺れるたび、水は自在に形を変えた。
槍にも、鞭にも、刃にも。
「――そっち、二体行った!」
「ええ」
紅葉の紅の剣が、炎の尾を引いて薙ぐ。
海風に煽られた炎は膨れ上がり、二体まとめて灰にした。
――が。
白雪姫は、その横顔から目を離せずにいた。
紅葉の眉の間に、深い皺が刻まれている。
剣を振るう合間、彼女は時折、左手で胸元を押さえるのだ。
まるで、そこに何かが刺さっているみたいに。
(……紅葉ちゃん……?)
そして、白雪姫は。
――何も、していなかった。
立っているだけだった。
砂の上に、ぽつんと。
(……すごい)
水を操る、蒼波。
(……かっこいい)
炎を纏う、紅葉。
二人が動くたび、魚人の数が目に見えて減っていく。
自分が氷柱を一本作っている間に、二人は十体を消す。
胸の奥が、ぎゅう、と縮んだ。
(……私だけ、取り残されてる)
喜ばしいことのはずだった。
友達が強くなった。それは、嬉しいことのはずなのに。
(……私には、神器がない)
その一点だけが、錘のように足に絡みつく。
自分にも、神器を顕現させられたら。
そうしたら、あの二人の隣に立てるのに。
『――白雪姫』
声が、静かに割って入った。
『慌てる必要は、ありません』
(……白櫻姫ちゃん)
『蒼波様には蒼波様の、あなたにはあなたの歩幅がございます。他人の足の速さを物差にすれば、いずれ足を挫きますよ』
いつもの、諭すような声だった。
優しい声だった。
それが分かっているのに。
「……うん」
口から出たのは、納得しているのかしていないのか、自分でもよく分からない、曖昧な返事だった。
白櫻姫は、それ以上何も言わなかった。
❆
最後の一体が、黒紫の煙になって消えたのは、それから間もなくのことだった。
波の音が、急に大きく聞こえる。
あれほど蠢いていた海岸に、もう、動くものはいない。
「……はぁっ、はあっ……」
蒼波が、膝に手を突いた。
その隣で、紅葉もまた、肩で息をしている。
さすがに、使いすぎたらしい。
蒼波の手の中で、散杖が水の粒に解けて消えた。
青かった髪が、潮が引くように黒へ戻っていく。
紅葉の背の炎の翼も、ふっ、と掻き消え、紅い瞳が、元の黒曜石の色に沈んだ。
「蒼波ちゃん!」
白雪姫は、砂を蹴って駆け寄った。
蒼波の前に立ち、両手を握って、精一杯の笑顔をつくる。
「……やったね」
「……うん。やったよ」
返しながら、蒼波は、微かな違和感を覚えていた。
今の――やったね――。
嬉しそうなのに、どこか、寂しそうだった。
乾いた砂に水が沁み込んでいくみたいに、声の終わりが、細く消えていったのだ。
「白雪姫ちゃん、あの――」
名を呼びかけた、その時だった。
「――っ、ぁ」
うめき声が、聞こえた。
紅葉だった。
彼女は片手で顔を覆い、もう片方の手で、胸元を掻き毟っていた。
その体から、黒紫の――魔力の瘴気が、噴き上がる。
「紅葉ちゃんっ⁉」
考えるより先に、体が動いていた。
白雪姫は駆け寄り、その細い肩を抱きかかえる。
「どうしたと⁉ ねえ、紅葉ちゃんっ!」
『――白雪姫‼』
鋭い声が、頭の中で弾けた。
これまで一度も聞いたことのない、白櫻姫の叫び声だった。
『近付いてはいけません、離れなさい‼』
(え――)
しかし。
「があああぁぁぁぁ‼」
――遅かった。
紅葉が、顔を上げる。
その瞳は、紅でも、黒でもなかった。
どろりと濁った、紫だった。
熱い。
白雪姫は、最初にそう思った。
次に、衝撃。
その次に、何かが抜け落ちていくような、途方もない喪失感。
視界の下の方で、蒼波が、口を大きく開けているのが見えた。
声は、聞こえなかった。
――紅葉の、炎を纏った右腕が。
白雪姫の腹部を、貫いていた。
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