第15話:港神社の戦闘
日曜日の、夕方だった。
行縢の山肌が、茜色に焼けている。
窓を細く開けておくと、風が杉の匂いを運んできて、宿題に飽きた頭を少しだけ冷やしてくれた。
むかばき青少年自然の家、三階。
畳スペースに置かれたちゃぶ台には、数学のワークと、英語のプリントと、齧りかけの煎餅が並んでいる。
「……ねえ、蒼波ちゃん。この、文字式の三番……」
「どれ?」
白雪姫がシャーペンの先で示したところを、蒼波が覗き込んだ。
「あー、これね。括弧の前がマイナスやから、中の符号が全部ひっくり返ると」
「……あっ」
「ね? うちも最初、そこでよう間違えよったよ」
蒼波は得意げに笑って、煎餅の残りを口に放り込む。
――そのときだった。
「白雪姫ちゃん、蒼波ちゃんっ!」
ドアが、勢いよく開いた。
立っていたのは翠織だった。
いつも綺麗に整えられている深緑の裾が、走ってきたせいで乱れている。
息が、上がっていた。
「せ、先生……?」
「紅葉ちゃんは」
挨拶も前置きもない。
その一言だけで、部屋の空気が変わった。
「紅葉ちゃんは、どこ?」
白雪姫と蒼波は、思わず顔を見合わせた。
「……えっと、紅葉ちゃんなら」
白雪姫が、ぎこちなく窓の方を指差す。
「お昼過ぎに、施設の中を見て回ってくるって言って出ていきました。まだ帰ってきてなくて」
「うちらも、案内しようか? って言ったんですけど……」
蒼波が、ちゃぶ台の上のワークに視線を落とした。
「――宿題とやらが終わってないんでしょ、一人でいいわ――って……」
「……何時間前?」
「三時間、くらい……」
翠織の眉が、目に見えて寄った。
彼女は懐から端末を取り出しかけて――やめる。
代わりに、目を閉じた。
――霊力感知。
空気が、ぴん、と張り詰めるのが分かった。
白雪姫も、慌てて倣う。
目を閉じ、意識を外へ拡げていく。
感じるのは、階下の職員室にいる二人分の気配。
厨房の熱。
外の野外炊飯場。
駐車場。
その向こうの、原生林。
――炎のような、あの気配が、どこにもない。
「……いない」
目を開けた白雪姫の声は、掠れていた。
「先生、紅葉ちゃん、施設の中にも……外の森にも、いません」
「ええ。私も、同じ」
翠織は目を開き、唇を噛んだ。
「――遅かったわね」
「先生」
立ち上がったのは蒼波だった。
「何が、あったんですか」
翠織は、一度だけ目を伏せた。
それから、はっきりと言った。
「――港神社で、魔物の発生が観測されたわ。ついさっき」
部屋の温度が、下がった気がした。
「え……」
「嘘……」
「監視から、直接よ。鳥居の向こう、海側から出てきたそうよ」
白雪姫の手から、鉛筆が転がり落ちた。
――港神社。
蒼波が、幼い頃によく遊んでいた砂浜。
そして。
(紅葉ちゃんが、いない)
その二つが、頭の中で繋がってしまった瞬間、白雪姫は立ち上がっていた。
「先生っ、車、出せますか」
「もう回してあるわ」
「蒼波ちゃん!」
「うんっ」
――が、そこで蒼波が足を止める。
「待って。……紅葉ちゃんが、もし違うところにおって、先に帰ってきたら」
行き違いになる。
彼女は、こちらの都合など待ってはくれない。
白雪姫はノートのページを一枚破り取ると、裏返して、太く書きなぐった。
――港神社に行きました。こゆき
それをちゃぶ台に置いて、三人は廊下を走った。
「間に合いますか」
階段を駆け下りながら、蒼波が叫ぶ。
「三十分よ」
翠織の返事は短かった。
「――飛ばすわ。舌、噛まないでね」
夕焼けの中へ、車が滑り出していく。
白雪姫は、後部座席で膝の上の拳を握りしめた。
三十分。
たった三十分が、こんなにも長いとは思わなかった。
❆
車窓を、見慣れた景色が流れていく。
山が終わり、田んぼが始まり、やがて延岡の街の灯りが増えていく。
蒼波は、そのすべてをぼんやりと眺めていた。
――思い出していたのは、お寺のことだった。
朝の本堂は、いつも墨の匂いがした。
父が、背筋を伸ばして写経をしている。
その隣にちょこんと座って、ただ筆の先を目で追っているだけの時間が、蒼波は好きだった。
一画一画が、ゆっくりと紙に沈んでいく。
その音のなさが、心地よかった。
――父が座禅を組んでいる横で、真似をして足を組んだこともある。
三分と持たずに痺れて、畳の上にぱたんと倒れて。
目を開けた父に、腹を抱えて笑われた。
あのとき父は、笑いながらこう言ったのだ。
『蒼波は、まだ足が短かき、無理せんでよか』
ひどい言い草だと思ったけれど、悪い気はしなかった。
――妹の雫と、散杖を持ち出したこともあった。
法要で、浄水を撒いて場を清めるための、細長い木の杖。
あれを二本、こっそり持ち出して、庭先でチャンバラごっこをした。
雫はまだ四つで、杖を振り回すというより引きずっていたけれど。
結局、二人まとめて父に見つかって、こっぴどく叱られた。
『そりゃ、遊ぶもんじゃなか‼』
あんなに怖い父の顔は、後にも先にもあれきりだった。
――母は、いつも台所にいた。
鰺の南蛮|漬けと、里芋の煮っころがし。
「危ないよ」
背伸びして鍋を覗こうとすると、そう言いながら、いつも一口だけ味見をさせてくれた。
――近くの那智の滝へ、四人で行ったこともある。
水飛沫が顔にかかって、雫が泣きそうになって。
その音に負けないように、母が大きな声でお経の意味を教えてくれた。
難しい漢字の羅列にしか見えなかったものが、あのとき初めて、人の言葉になった。
――みんな。
みんな、あの寺にいる。
港神社から、車で数分の場所に。
(……お父さん。お母さん。雫)
蒼波は、膝の上で両手を組んだ。
(お願い。……どうか、無事でおって)
顔を上げる。
窓の外は、もうすっかり日が落ちていた。
(――まだ着かないと?)
その横顔を、白雪姫は黙って見ていた。
声はかけなかった。
かけられなかった、というのが正しい。
――そして、三十分後。
車は、海の匂いのする道へと入っていった。
❆
最初に耳に届いたのは、波音ではなかった。
――爆ぜるような、炸裂音だった。
「――っ!」
車が止まるより早く、三人は外へ飛び出した。
目の前に、青い鳥居が立っている。
海を背にして、いくつも、いくつも。
そのすべてが、赤い炎に照らされて、不気味なほど鮮やかに浮かび上がっていた。
――そして、そこに紅葉がいた。
鳥居の前。
砂と岩と漂着物の混じった、歩きにくい海岸で。
黒い髪を奔らせながら、一人で。
「紅葉ちゃんっ‼」
叫んだ白雪姫の視界に、それが映った。
――魚人。
そうとしか言いようがなかった。
体格は、白雪姫や蒼波と比べて少し大きいくらい。
二本の足で立ち、二本の腕を持っている。
だが、首から上が魚だった。
濁った白眼が、瞬きもせずにこちらを睨んでいる。
ぱくぱくと開閉する口から、針のような歯が覗く。
頭の両側と、二の腕から鰭が生え、腰の後ろからは魚の尾が垂れ下がっていた。
全身を這う黒紫の瘴気が、寄せては返す波に混じって、じわりと砂浜を侵していく。
「……ぅ、うぇ」
白雪姫は、思わず一歩下がった。
オオカミも、イノシシも、怖かった。
けれど、それは――大きな獣――の怖さだった。
これは、違う。
人の形をしているのに、人ではない。
その一点だけで、背筋が粟立つ。
「……気持ち悪い……」
思わず零れた本音に、蒼波が引きつった顔で頷いた。
「うちも、今そう思ってた……」
その魚人が、海から次々と這い上がってくる。
一体。三体。五体。
数えるのを、やめたくなる速度で。
――どぉん、と。
鈍い音が響いた。
紅葉の拳が、魚人の腹を捉えたのだ。
小柄な体が宙を舞い、波打ち際に叩きつけられる。
水柱が上がった。
――が。
その魚人は、何事もなかったように起き上がった。
「……嘘」
白雪姫の喉が鳴る。
あれだけの一撃を受けて、怯みすらしていない。
起き上がった魚人が、紅葉へ爪を振るう。
紅葉は、見もせずに首を傾げてそれを躱し、そのまま回し蹴りを叩き込んだ。
また、飛ぶ。
また、起き上がる。
――埒が明かない。
誰の目にも、それは明らかだった。
「紅葉ちゃんっ!」
砂を蹴って、白雪姫が駆け寄る。
蒼波も、その後を追った。
「……来たの」
紅葉は振り返りもせず、ただそう言った。
「翠織先生は⁉」
「私は、周りを見てくるわ」
背後から、翠織の声が飛ぶ。
彼女はもう運転席に戻っていた。
「発生源が本当にここだけなのか、確かめてくる。……三人とも、死なないで」
「はい!」
タイヤが砂を噛み、テールランプが遠ざかっていく。
残されたのは、三人。
どちらを向いても、魚人。
自然と、三人は背中合わせになっていた。
互いの背中の熱が、妙に心強い。
「紅葉ちゃん」
白雪姫が、前を見たまま言った。
「なんで、一人でここにいると?」
「……分からないわ」
返ってきたのは、歯切れの悪い答えだった。
「昼過ぎから、ずっと胸の奥が疼いてたの。……何かが、引っ張るみたいに」
「疼く……?」
「もしかして――って、思ったのよ」
紅葉は、手を胸元に当てた。
「それで、気がついたらここにいた。着いた三十分後に、こいつらが海から出てきたわ」
「――それ」
蒼波が、右手から水の球を生みながら口を挟む。
「魔物の発生を、先に感じ取ったってこと? 霊力感知で?」
「違うわ」
紅葉は、はっきりと否定した。
「感知じゃない。あれは、外を探る力でしょう。……これは、内側」
波の音が、一拍挟まる。
「霊力とは別の、何か別のものが。……私の中で、勝手に反応したのよ」
――白雪姫の足が、一瞬止まりかけた。
聞いたことがある。
つい最近、まったく同じ言葉を。
既視感、というのだろうか。
いや、これは目で見たものではないから――既聴感とでも言うべきか。
(……白櫻姫ちゃん)
白雪姫は、心の中で呼びかけた。
(今の、紅葉ちゃんの言ってたこと。……白櫻姫ちゃんが言ってたのと、そっくりやない?)
魂に刻まれた、〝魔神の断片〟。
方角も距離も教えてくれない、ただ疼くだけの羅針盤。
それって――紅葉ちゃんも、まさか。
返事は、なかった。
いつもならすぐに返ってくる涼やかな声が、妙に遠い。
『――白雪姫』
ようやく届いた声は、静かだった。
『その話は、後になさい』
(でも)
『今は、目の前を』
白雪姫は、唇を結んだ。
その通りだ。
考えるのは、生きて帰ってからでいい。
「――行くよ、二人とも!」
「うんっ」
「ええ」
三人の体を、霊力の光が薄く包んだ。
❆
手始めに、掌底。
精神世界で何百回も叩き込まれた型を、そのまま魚人の胸元へ打ち込む。
どん、と音がして、魚人が吹き飛んだ。
――が。
「っ……痛っ⁉」
白雪姫は、自分の右腕を抱えた。
肘から先が、痺れている。
霊力で強化しているはずの腕が、だ。
猪の魔物を殴ったときは、こんなことにはならなかった。
(――鱗……?)
夕闇の中で、魚人の体表が鈍く光っていた。
黒鉄色の、細かい鱗。
あれが、衝撃をそっくり跳ね返してくるのだ。
吹き飛んだ魚人は、砂の上でくるりと体勢を立て直し、また立ち上がった。
「白雪姫ちゃん、そっち行った!」
「うんっ!」
殴る。飛ぶ。起き上がる。
殴る。飛ぶ。起き上がる。
――十体は吹き飛ばした。
それなのに、一体も倒せていない。
それは蒼波も、紅葉も同じだった。
ただ、三人には、明確な違いが出始めていた。
白雪姫は、常に全身へ身体強化をかけっぱなしにしている。
それでいて、息ひとつ乱れていない。
『あなたの霊力の量は、尋常ではありませんから』
心の中で、白櫻姫が言う。
『垂れ流していても、際限なく溢れているようなものです。……普通は、こうはなりません』
紅葉も、疲れは見えなかった。
だが、理屈が違う。
よく見れば、彼女の体が光っているのは、殴る瞬間と、躱す瞬間だけだ。
それ以外の時間、紅葉は、ただの少女と変わらない。
必要な一瞬にだけ、必要な部位を。
――節約。
そして、蒼波は。
「……はぁっ、はぁ……っ」
もう、肩が上下していた。
常時強化を続ける以外の戦い方を、彼女はまだ知らない。
持っている霊力の量も、白雪姫とは比べるべくもない。
――ならば。
白雪姫は、目の前の一体を掌底で吹き飛ばすと、その空いた間に、左手を突き出した。
(凍って――!)
手のひらの上で、空気が悲鳴を上げる。
水気が集い、捻じれ、締まって。
――一本の〝氷柱〟が、生まれた。
「これなら、どうっ‼」
放つ。
白い軌跡が空を裂き、起き上がりかけた魚人の胸を、真正面から貫いた。
――ずぶり、と。
あれほど硬かった鱗が、まるで紙のように。
魚人は声もなく膝を折り、黒紫の煙となって散った。
「……やった!」
歓声を上げかけて、白雪姫はすぐに口を噤んだ。
――今の一発に、どれだけ時間がかかった?
構えて、思い描いて、収束させて。
その間に、魚人は三体増えていた。
(……あっ)
背筋が、すっと冷えた。
――白櫻姫ちゃんが、あんなに――疾く出せ――って言ってた理由。
一対一なら、これでいい。
構える時間くらい、躱しながら稼げばいい。
でも、一対多なら。
構えている一秒が、そのまま背中に爪を受ける一秒になる。
(……実戦的な、指導やったんやね)
『お気づきになりましたか』
声は、少しだけ嬉しそうだった。
『師というのは、嫌われる役目でしてね。……理由を先に言ってしまえば、身につかないのです』
(……ずるい)
『ふふ』
――その一部始終を、紅葉は横目で見ていた。
氷柱に貫かれた鱗。
あっけないほどの消滅。
殴っても蹴っても起き上がる相手が、たった一撃で。
「……なるほどね」
紅葉は、掴みかかってきた魚人の腕を捻り上げながら、呟いた。
「鱗が効いてるのは、物理の打撃だけ。……属性には、脆いってこと」
彼女の右の拳に、ぼっ、と火が灯る。
紅い炎が、手のひらを包み込んだ。
「――なら、こっちも遠慮しないわ」
拳が、魚人の腹に沈む。
鱗が、じゅっ、と音を立てて焼けた。
「焼き魚になりなさい」
その一言と同時に、炎が魚人の全身を駆け上った。
海風に煽られ、膨れ上がり、燃え盛る。
魚人はもがき、のた打ち――そして、灰すら残さずに消滅した。
「……すご……」
白雪姫が思わず漏らす。
だが、紅葉の表情は険しいままだった。
――本音を言えば、使いたくはなかった。
身体強化は、霊力をそのまま身に纏うだけでいい。
だが、そこに属性を混ぜるとなれば、消費は跳ね上がる。
千年も戦ってきた身だ。
長期戦で何が一番怖いかは、嫌というほど知っている。
――そして、その懸念は、別のところで先に形になった。
「あっ――」
蒼波の足が、流木に取られたのだ。
疲れは、まず足に来る。
膝が笑い、砂に沈み、均されていない海岸の起伏を、体が拾えなかった。
蒼波は、無様に前のめりに倒れ込んだ。
その頭上に、魚人の爪が振り上がる。
「蒼波ちゃんっ‼」
――間に合わない。
白雪姫がそう思った、その瞬間には。
魚人の胴を、紅の炎が横に薙いでいた。
「……っ」
蒼波が、恐る恐る顔を上げる。
目の前に、紅葉の背中があった。
「立てる?」
「……ご、ごめん」
「謝らなくていいわ」
紅葉は返事も待たず、蒼波の腕を肩に回して担ぎ上げた。
そのまま砂浜を横切り、神社の石段の下段に、そっと座らせる。
「蒼波」
「……なに」
「身体強化は、常時かけてはだめよ」
紅葉の声は、いつも通り淡々としていた。
「殴る瞬間。躱す瞬間。受ける瞬間。……そこにだけに通しなさい」
「そんなの……」
「難しいのは知ってる」
言い切って、紅葉は背を向けた。
「でも今は、いいから休んで。霊力が戻るまで、そこにいなさい」
「紅葉ちゃんっ」
伸ばした手は、届かなかった。
――砂浜へ戻りながら、紅葉は舌打ちを堪えていた。
身体強化と、素手。
それだけで片づくと踏んでいた。
だが、一体一体が硬すぎる。
そして、数が多すぎる。
海は、いまだに魚人を吐き出し続けていた。
このままでは、じり貧だ。
自分は死なない。
だが、あの二人は死ぬ。
(……仕方ない、か)
紅葉は目を閉じ、静かに息を吸った。
そして。
「――神器顕現!」
❆
その一言で、海岸の空気が燃えた。
紅色の炎が、紅葉の足元から立ちのぼる。
それは渦を巻き、彼女の体を螺旋状に取り囲み――やがて、右手へと収束していった。
炎が、形を持つ。
柄には、青い宝玉と金の細工。
そして刀身は鋼――そこに、橙と黄の炎が、そのまま剣の刀身に纏わりついている。
同時に、彼女の背中で炎が爆ぜた。
――翼。
炎で編まれた、大きな鳥の翼が、左右へと広がっていく。
――〈不死鳥の紅剣〉。
それが、紅葉の神器だった。
黒曜石のようだった瞳が、ゆっくりと開かれる。
その色は、燃えるような紅に変わっていた。
「…………」
白雪姫は、息をするのも忘れていた。
綺麗だ、と思った。
こんな状況で、そんなことを思うなんてどうかしている。
それでも、そう思ってしまった。
石段の上の蒼波もまた、琥珀色の目を見開いたまま動けずにいる。
「――行くわよ」
紅葉が、そう言った。
次の瞬間、彼女の姿が掻き消えた。
いや、消えたのではない。
目が、追えなかったのだ。
紅の軌跡が一閃し、魚人が上下に分かれる。
断面が焼けて、そのまま煙になった。
さらに、紅葉は大きく一振りする。
剣先から炎の刃が飛び、空を裂き、横一列に並んでいた魚人を、まとめて燃やし尽くした。
「……なに、あれ」
白雪姫の口から、掠れた声が漏れる。
(さっきと、全然違う……。同じ紅葉ちゃんなの?)
『違います』
白櫻姫の声が、落ち着いて答えた。
『――正確には、同じでありながら、別のものです』
(どういうこと?)
『神器の顕現とは、ただ武器を出すだけの技ではありません』
白雪姫が魚人の爪を躱す間にも、声は続く。
『顕現した者は、霊力の制御も、付与の技量も、軒並み跳ね上がります。……言うなれば、錠を外した状態』
(錠……)
『ええ。神子というものはね、白雪姫。普段、己の力を半分も使っておりません』
(半分も⁉)
『当たり前のことです』
声は、諭すようだった。
『常に全開で力を振るえば、反動もまた大きい。ご飯を食べ、眠り、人と笑うことすらままならなくなる。……ゆえに、魂が勝手に蓋をしているのです』
(それを、外す……)
『それが、神器顕現でもあるのですよ』
――蹂躙。
その言葉が、これほど似合う光景もなかった。
炎の翼が海風を叩き、剣が振られるたびに、魚人の列が消えていく。
だが。
白雪姫は、見逃さなかった。
紅葉の横顔に、汗が伝っている。
そして――どこか、苦しそうだった。
眉の間の、あの皺。
あれは、疲労だけの顔ではない。
(……胸が、まだ疼いてるの?)
考える隙は、与えられなかった。
「――っ、きゃっ‼」
背後から来た一体に、白雪姫は砂に叩きつけられた。
口の中が、砂でじゃり――と鳴る。
すぐに起き上がる。
殴る。飛ぶ。起き上がられる。
また、叩きつけられる。
――何度目かも、分からない。
倒れない自分が、嫌になる。
倒れないだけで、前にも進めていないのだから。
❆
その光景を、蒼波は石段から見ていた。
炎の翼を広げた、千年の少女。
砂まみれになりながら、それでも立ち上がり続ける白い髪の友達。
(――うちは)
膝の上で、拳が震える。
(うちは、なんでこんなところに座ってると?)
霊力は、まだ戻っていない。
立ち上がったところで、さっきの繰り返しになるだけかもしれない。
――それでも。
振り返れば、そこに石段があって、その先に鳥居があって、その向こうに街がある。
この砂浜で、貝殻を拾った。
あの参道で、雫と鬼ごっこをした。
車で数分の場所に、父と母がいる。
もし、こいつらがここを抜けたら。
この海岸を、あの参道を、あの寺を――蹂躙されるところを想像してしまったら。
もう、座ってなんて、いられなかった。
「……っ、よし」
蒼波は、砂を掴んで立ち上がった。
――紅葉ちゃんの言うとおりに、やってみる。
常に纏うんじゃない。
必要な瞬間だけ、通す。
迫ってきた魚人の爪。
――今。
右腕にだけ、ぐっと霊力を集める。
が、遅かった。
爪が肩を掠め、制服の袖が裂ける。
「っ……!」
痛い。
でも、致命的じゃない。
(――遅い。もっと、早く)
もう一度。
振り下ろされる爪。
その、一拍前に。
「――っ、はぁっ!」
今度は、間に合った。
強化した腕が爪を弾き、蒼波は半歩下がって距離を取る。
(……できた)
拍子抜けするほど、あっさりと掴めた。
思えば、木の棒に霊力を流すことに比べれば、これは易しい。
あれは、繋がっていないものへ通す技術だ。
こちらは、自分の体。
最初から、繋がっている。
――霊力の減りが、明らかに違う。
常に垂れ流していたときの、半分――いや、それ以下。
(……効率、いい……!)
ただ。
やってみて、初めて分かることもあった。
強化をかけると、体が羽のように軽くなる。
解くと、鉛を背負わされたように重くなる。
それが、一秒ごとに切り替わるのだ。
――気持ちが、悪い。
足元が、ずっと船の上にいるみたいに頼りない。
(……慣れる、しかないっちゃろうね)
三体目を弾き返したところで、しかし。
――ふっ、と。
視界が、暗くなった。
そもそもの霊力の残量が、あまりにも少なかったのだ。
「あ、れ……」
膝が、砂に落ちる。
体を支えようとした腕にも、力が入らない。
「蒼波ちゃんっ‼」
その悲鳴を、白雪姫は自分の口から聞いた。
――紅葉の方を、一瞥する。
炎の翼が、浜の魚人を掃き続けている。
今なら、一瞬なら、あの子に任せられる。
白雪姫は砂を蹴った。
「蒼波ちゃん、大丈夫⁉ ねえっ!」
肩を揺すっても、返事はない。
琥珀色の瞳は開いているのに、焦点が合っていなかった。
(白櫻姫ちゃんっ、蒼波ちゃんが――)
『分かっています』
声は、即座だった。
『霊力が、著しく足りていません。……このままでは、意識を失います』
(そんな……どうしたらいいと⁉)
『――白雪姫』
名を呼ぶ声に、妙な重みがあった。
『あなたが与えなさい』
(え……?)
『あなたの霊力を、蒼波様へ』
白雪姫は、目を瞬かせた。
(そんなの、やり方なんて知らんよ⁉)
『知っていますよ』
(え)
『先日、山でやったでしょう。木の棒に、霊力を纏わせる稽古を』
――行縢の登山道。
握った木の棒。
何十本も折った、あの感触。
『同じ要領です。手を取り、ただ流しなさい』
(……うんっ!)
白雪姫は、蒼波の手を両手で包み込んだ。
冷たい。
氷を扱う自分より、ずっと。
目を閉じ、意識を手のひらの先へ。
――通れ。
その瞬間だった。
蒼波の体が、淡い光を帯びる。
「――……っ、ぁ」
蒼波の睫毛が、震えた。
――流れ込んでくる。
それは、熱くも冷たくもなかった。
夜の海に足首まで浸けたときの、あの感じ。
自分の中の波と、外から来る波が、同じ周期で揺れていく。
打ち消し合わず、重なって、高くなっていく。
――同調。
――共鳴。
(……そっか)
薄れかけていた意識の中で、蒼波は妙に冷静に考えていた。
(霊力付与って、そもそも――別のものに霊力を与える――ことやもんね)
それが木の棒なら、棒が硬くなる。
それが人なら――その人の霊力が、嵩を増す。
当たり前のことだった。
ただ、誰も教えてくれなかっただけで。
『――ただし、白雪姫』
声が、鋭く差し込んだ。
『これは、神子ではない人間に、決して行ってはなりません』
(え……?)
『普通の人の魂は、霊力を容れる器としては未熟な状態なのです。注げば、溢れる。……そして、壊れます』
(こわ、れる)
『体にも、心にも、途方もない負荷がかかります。……良くて、生涯残る障害。悪ければ』
――白櫻姫は、そこで一度、言葉を切った。
『死にます』
背筋が、凍りついた。
自分の中にある、無尽蔵のこの力。
それは、握りしめただけで人を殺せるものでもあるのだ。
『同じ気を持たぬ者にも、控えなさい』
(同じ、気……)
『これができるのは、あなたと蒼波様が、共に水の気を持つ神子だからです。……水と火を混ぜれば、どうなるかはお分かりでしょう』
(……うん)
白雪姫は、握る手に、ほんの少しだけ力を込めた。
――そして、白櫻姫の声の向きが、変わった。
『――蒼波様』
(……っ、白櫻姫、さん……?)
蒼波は、驚いたように顔を上げた。
頭の中に、直接。
あの涼やかな声が、はっきりと響いている。
『いま、あなたと白雪姫の霊力は繋がっております。ゆえに、こうしてお話ができるのです』
(……はい)
『では、手短に申し上げます』
波の音が、遠のいた気がした。
『――あなたなら、神器を顕現できます』
❆
(……え)
蒼波の声は、ほとんど音になっていなかった。
(うちが……神器を?)
『ええ』
(そ、そんな、無理です)
思わず、首を振っていた。
(だって、出し方が分からないんです。……どうやったら出るのかも、うちの神器がどんなものなのかも)
蒼波は、自分の空の両手を見下ろす。
(何も分からんのに、どうやって出せって言うんですか?)
『分からなくて、当然ですよ』
返ってきたのは、責める色のない声だった。
『神子の修練には、順序がございます。これは以前にあなたが言っていましたね。まずは感知、次に制御。この二つには、確立された稽古の法があり、教える者も大勢おります』
「……はい」
『ですが、神器顕現だけは違うのです』
白櫻姫は、静かに続けた。
『形も、引き出し方も、人によってまるで異なります。……ゆえに、誰にも教えられない』
――生まれたときから、ごく自然に出せる者がいる。
――ある朝、目が覚めたら、なぜか分かっていたという者がいる。
――そして。
『――大切なものを失ったとき。……あるいは、大切なものを見つけたとき』
声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
『――そのときに、初めて顕われる者も、おります』
蒼波は、息を呑んだ。
『蒼波様。いま、この手を通して伝わってくるものが、何かお分かりですか』
「……ぬくもり、ですか」
『いいえ』
白櫻姫は、迷いなく否定した。
『それは、誰かを守りたいという、強い意志です』
――さっき、あなたは立ち上がろうとした。
――霊力など、もう底を突いていたというのに。
――なぜです?
問われるまでもなかった。
答えは、胸の中に、ずっとあった。
――守りたかったからだ。
父と母と妹が眠る、この土地を。
貝殻を拾った、この砂浜を。
鬼ごっこをした、あの参道を。
そして。
――砂に塗れながら、それでも立ち上がり続けている、目の前のこの子たちを。
「…………」
蒼波は、握られた自分の手を見た。
白い、小さな手だった。
一年前、まだこの子が神子になる前、体育の授業で運動音痴であるような動きを見せていた少女。
その少女の手が、いま、自分に力を分けている。
――ああ。
――そうか。
熱いものが、喉の奥から込み上げてきた。
それは、悔しさでも、怖さでもなかった。
もっと、ずっと単純なものだった。
――そう思った瞬間。
力が、湧いた。
どこからともなく。
いや、違う。
ずっと、そこにあったのだ。
自分の魂の、いちばん奥に。
ただ、名前を呼ばれるのを、待っていただけで。
――みんなを、守りたい。
そう、願ったから。
蒼波は、ゆっくりと立ち上がった。
波の音が、背中を押した。
――そして、口に出す。
「神器顕現――!」
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