↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白雪の神子  作者: 日影ヱト
第02章:不死の炎
PR
33/46

第15話:港神社の戦闘

 日曜日の、夕方だった。


 行(むか)縢(ばき)の山肌が、茜(あかね)色に焼けている。


 窓を細く開けておくと、風が杉(すぎ)の匂いを運んできて、宿題に飽きた頭を少しだけ冷やしてくれた。


 むかばき青少年自然の家、三階。


 畳スペースに置かれたちゃぶ台には、数学のワークと、英語のプリントと、齧(かじ)りかけの煎(せん)餅(べい)が並んでいる。


「……ねえ、蒼(あお)波(ば)ちゃん。この、文字式の三番……」


「どれ?」


 白雪姫(こゆき)がシャーペンの先で示したところを、蒼(あお)波(ば)が覗(のぞ)き込んだ。


「あー、これね。括(かっ)弧(こ)の前がマイナスやから、中の符(ふ)号(ごう)が全部ひっくり返ると」


「……あっ」


「ね? うちも最初、そこでよう間違えよったよ」


 蒼(あお)波(ば)は得意げに笑って、煎餅の残りを口に放り込む。


 ――そのときだった。


「白雪姫(こゆき)ちゃん、蒼(あお)波(ば)ちゃんっ!」


 ドアが、勢いよく開いた。


 立っていたのは翠(み)織(おり)だった。


 いつも綺麗に整えられている深緑の裾(すそ)が、走ってきたせいで乱れている。


 息が、上がっていた。


「せ、先生……?」


「紅葉(もみじ)ちゃんは」


 挨拶も前置きもない。


 その一言だけで、部屋の空気が変わった。


「紅葉(もみじ)ちゃんは、どこ?」


 白雪姫(こゆき)と蒼(あお)波(ば)は、思わず顔を見合わせた。


「……えっと、紅葉(もみじ)ちゃんなら」


 白雪姫(こゆき)が、ぎこちなく窓の方を指差す。


「お昼過ぎに、施設の中を見て回ってくるって言って出ていきました。まだ帰ってきてなくて」


「うちらも、案内しようか? って言ったんですけど……」


 蒼(あお)波(ば)が、ちゃぶ台の上のワークに視線を落とした。


「――宿題とやらが終わってないんでしょ、一人でいいわ――って……」


「……何時間前?」


「三時間、くらい……」


 翠(み)織(おり)の眉(まゆ)が、目に見えて寄(よ)った。


 彼女は懐(ふところ)から端末を取り出しかけて――やめる。


 代わりに、目を閉じた。


 ――霊(れい)力(りょく)感(かん)知(ち)。


 空気が、ぴん、と張り詰めるのが分かった。


 白雪姫(こゆき)も、慌てて倣(なら)う。


 目を閉じ、意識を外へ拡(ひろ)げていく。


 感じるのは、階下の職員室にいる二人分の気配。


 厨房の熱。


 外の野外炊飯場。


 駐車場。


 その向こうの、原生林。


 ――炎のような、あの気配が、どこにもない。


「……いない」


 目を開けた白雪姫(こゆき)の声は、掠(かす)れていた。


「先生、紅葉(もみじ)ちゃん、施設の中にも……外の森にも、いません」


「ええ。私も、同じ」


 翠(み)織(おり)は目を開き、唇(くちびる)を噛んだ。


「――遅かったわね」


「先生」


 立ち上がったのは蒼(あお)波(ば)だった。


「何が、あったんですか」


 翠(み)織(おり)は、一度だけ目を伏(ふ)せた。


 それから、はっきりと言った。


「――港(みなと)神(じん)社(じゃ)で、魔(ま)物(もの)の発生が観測されたわ。ついさっき」


 部屋の温度が、下がった気がした。


「え……」


「嘘……」


「監視から、直接よ。鳥(とり)居(い)の向こう、海側から出てきたそうよ」


 白雪姫(こゆき)の手から、鉛筆が転がり落ちた。


 ――港(みなと)神(じん)社(じゃ)。


 蒼(あお)波(ば)が、幼い頃によく遊んでいた砂浜。


 そして。


(紅葉(もみじ)ちゃんが、いない)


 その二つが、頭の中で繋がってしまった瞬間、白雪姫(こゆき)は立ち上がっていた。


「先生っ、車、出せますか」


「もう回してあるわ」


「蒼(あお)波(ば)ちゃん!」


「うんっ」


 ――が、そこで蒼(あお)波(ば)が足を止める。


「待って。……紅葉(もみじ)ちゃんが、もし違うところにおって、先に帰ってきたら」


 行き違いになる。


 彼女は、こちらの都合など待ってはくれない。


 白雪姫(こゆき)はノートのページを一枚破(やぶ)り取ると、裏(うら)返(がえ)して、太く書きなぐった。


 ――港神社に行きました。こゆき


 それをちゃぶ台に置いて、三人は廊下を走った。


「間に合いますか」


 階段を駆け下りながら、蒼(あお)波(ば)が叫ぶ。


「三十分よ」


 翠(み)織(おり)の返事は短かった。


「――飛ばすわ。舌、噛まないでね」


 夕焼けの中へ、車が滑り出していく。


 白雪姫(こゆき)は、後部座席で膝の上の拳を握りしめた。


 三十分。


 たった三十分が、こんなにも長いとは思わなかった。





❆





 車窓を、見慣れた景色が流れていく。


 山が終わり、田んぼが始まり、やがて延(のべ)岡(おか)の街の灯(あか)りが増えていく。


 蒼(あお)波(ば)は、そのすべてをぼんやりと眺めていた。


 ――思い出していたのは、お寺のことだった。


 朝の本(ほん)堂(どう)は、いつも墨(すみ)の匂いがした。


 父が、背筋を伸ばして写経をしている。


 その隣にちょこんと座って、ただ筆の先を目で追っているだけの時間が、蒼(あお)波(ば)は好きだった。


 一画一画が、ゆっくりと紙に沈んでいく。


 その音のなさが、心地よかった。


 ――父が座禅を組んでいる横で、真似をして足を組んだこともある。


 三分と持たずに痺(しび)れて、畳の上にぱたんと倒れて。


 目を開けた父に、腹を抱えて笑われた。


 あのとき父は、笑いながらこう言ったのだ。


『蒼(あお)波(ば)は、まだ足が短かき、無理せんでよか』


 ひどい言い草だと思ったけれど、悪い気はしなかった。


 ――妹の雫(しずく)と、散(さ)杖(じょう)を持ち出したこともあった。


 法要で、浄(じょう)水(すい)を撒(ま)いて場を清めるための、細長い木の杖。


 あれを二本、こっそり持ち出して、庭(にわ)先(さき)でチャンバラごっこをした。


 雫(しずく)はまだ四つで、杖を振り回すというより引きずっていたけれど。


 結局、二人まとめて父に見つかって、こっぴどく叱られた。


『そりゃ、遊ぶもんじゃなか‼』


 あんなに怖い父の顔は、後にも先にもあれきりだった。


 ――母は、いつも台所にいた。


 鰺(あじ)の南(なん)蛮(ばん)|漬けと、里芋の煮っころがし。


「危ないよ」


 背伸びして鍋を覗こうとすると、そう言いながら、いつも一口だけ味見をさせてくれた。


 ――近くの那(な)智(ち)の滝(たき)へ、四人で行ったこともある。


 水飛沫が顔にかかって、雫(しずく)が泣きそうになって。


 その音に負けないように、母が大きな声でお経の意味を教えてくれた。


 難しい漢字の羅列にしか見えなかったものが、あのとき初めて、人の言葉になった。


 ――みんな。


 みんな、あの寺にいる。


 港神社から、車で数分の場所に。


(……お父さん。お母さん。雫(しずく))


 蒼(あお)波(ば)は、膝(ひざ)の上で両手を組んだ。


(お願い。……どうか、無事でおって)


 顔を上げる。


 窓の外は、もうすっかり日が落ちていた。


(――まだ着かないと?)


 その横顔を、白雪姫(こゆき)は黙って見ていた。


 声はかけなかった。


 かけられなかった、というのが正しい。


 ――そして、三十分後。


 車は、海の匂いのする道へと入っていった。





❆





 最初に耳に届いたのは、波(なみ)音(おと)ではなかった。


 ――爆(は)ぜるような、炸(さく)裂(れつ)音(おん)だった。


「――っ!」


 車が止まるより早く、三人は外へ飛び出した。


 目の前に、青い鳥居が立っている。


 海を背にして、いくつも、いくつも。


 そのすべてが、赤い炎に照らされて、不気味なほど鮮やかに浮かび上がっていた。


 ――そして、そこに紅葉(もみじ)がいた。


 鳥居の前。


 砂と岩と漂着物の混じった、歩きにくい海岸で。


 黒い髪を奔(はし)らせながら、一人で。


「紅葉(もみじ)ちゃんっ‼」


 叫んだ白雪姫(こゆき)の視界に、それが映った。


 ――魚(ぎょ)人(じん)。


 そうとしか言いようがなかった。


 体格は、白雪姫(こゆき)や蒼(あお)波(ば)と比べて少し大きいくらい。


 二本の足で立ち、二本の腕を持っている。


 だが、首から上が魚だった。


 濁(にご)った白眼が、瞬(まばた)きもせずにこちらを睨(にら)んでいる。


 ぱくぱくと開閉する口から、針のような歯が覗く。


 頭の両側と、二の腕から鰭(ひれ)が生え、腰の後ろからは魚の尾が垂れ下がっていた。


 全身を這う黒紫の瘴(しょう)気(き)が、寄せては返す波に混じって、じわりと砂浜を侵(おか)していく。


「……ぅ、うぇ」


 白雪姫(こゆき)は、思わず一歩下がった。


 オオカミも、イノシシも、怖かった。


 けれど、それは――大きな獣――の怖さだった。


 これは、違う。


 人の形をしているのに、人ではない。


 その一点だけで、背筋が粟(あわ)立(だ)つ。


「……気持ち悪い……」


 思わず零(こぼ)れた本音に、蒼(あお)波(ば)が引きつった顔で頷いた。


「うちも、今そう思ってた……」


 その魚人が、海から次々と這い上がってくる。


 一体。三体。五体。


 数えるのを、やめたくなる速度で。


 ――どぉん、と。


 鈍い音が響いた。


 紅葉(もみじ)の拳が、魚人の腹を捉(とら)えたのだ。


 小柄な体が宙(ちゅう)を舞い、波打ち際に叩(たた)きつけられる。


 水柱が上がった。


 ――が。


 その魚人は、何事もなかったように起き上がった。


「……嘘」


 白雪姫(こゆき)の喉(のど)が鳴る。


 あれだけの一撃を受けて、怯(ひる)みすらしていない。


 起き上がった魚人が、紅葉(もみじ)へ爪(つめ)を振るう。


 紅葉(もみじ)は、見もせずに首を傾(かし)げてそれを躱(かわ)し、そのまま回し蹴りを叩き込んだ。


 また、飛ぶ。


 また、起き上がる。


 ――埒(らち)が明かない。


 誰の目にも、それは明らかだった。


「紅葉(もみじ)ちゃんっ!」


 砂を蹴って、白雪姫(こゆき)が駆け寄る。


 蒼(あお)波(ば)も、その後を追った。


「……来たの」


 紅葉(もみじ)は振り返りもせず、ただそう言った。


「翠(み)織(おり)先生は⁉」


「私は、周りを見てくるわ」


 背後から、翠(み)織(おり)の声が飛ぶ。


 彼女はもう運転席に戻っていた。


「発生源が本当にここだけなのか、確かめてくる。……三人とも、死なないで」


「はい!」


 タイヤが砂を噛み、テールランプが遠ざかっていく。


 残されたのは、三人。


 どちらを向いても、魚人。


 自然と、三人は背中合わせになっていた。


 互いの背中の熱が、妙に心強い。


「紅葉(もみじ)ちゃん」


 白雪姫(こゆき)が、前を見たまま言った。


「なんで、一人でここにいると?」


「……分からないわ」


 返ってきたのは、歯(は)切(ぎ)れの悪い答えだった。


「昼過ぎから、ずっと胸の奥が疼(うず)いてたの。……何かが、引っ張るみたいに」


「疼く……?」


「も(・)し(・)か(・)し(・)て(・)――って、思ったのよ」


 紅葉(もみじ)は、手を胸(むな)元(もと)に当てた。


「それで、気がついたらここにいた。着いた三十分後に、こいつらが海から出てきたわ」


「――それ」


 蒼(あお)波(ば)が、右手から水の球(たま)を生みながら口を挟む。


「魔物の発生を、先に感じ取ったってこと? 霊力感知で?」


「違うわ」


 紅葉(もみじ)は、はっきりと否定した。


「感知じゃない。あれは、外を探(さぐ)る力でしょう。……これは、内側」


 波の音が、一拍挟まる。


「霊力とは別の、何か別のものが。……私の中で、勝手に反応したのよ」


 ――白雪姫(こゆき)の足が、一瞬止まりかけた。


 聞いたことがある。


 つい最近、まったく同じ言葉を。


 既視感、というのだろうか。


 いや、これは目で見たものではないから――既(き)聴(ちょう)感(かん)とでも言うべきか。


(……白櫻姫(こさき)ちゃん)


 白雪姫(こゆき)は、心の中で呼びかけた。


(今の、紅葉(もみじ)ちゃんの言ってたこと。……白櫻姫(こさき)ちゃんが言ってたのと、そっくりやない?)


 魂(たましい)に刻まれた、〝魔(ま)神(じん)の断(だん)片(ぺん)〟。


 方角も距離も教えてくれない、ただ疼くだけの羅(ら)針(しん)盤(ばん)。


 それって――紅葉(もみじ)ちゃんも、まさか。


 返事は、なかった。


 いつもならすぐに返ってくる涼(すず)やかな声が、妙に遠い。


『――白雪姫(こゆき)』


 ようやく届いた声は、静かだった。


『その話は、後になさい』


(でも)


『今は、目の前を』


 白雪姫(こゆき)は、唇を結(むす)んだ。


 その通りだ。


 考えるのは、生きて帰ってからでいい。


「――行くよ、二人とも!」


「うんっ」


「ええ」


 三人の体を、霊力の光が薄く包んだ。





❆





 手始めに、掌(しょう)底(てい)。


 精神世界で何百回も叩き込まれた型を、そのまま魚人の胸(むな)元(もと)へ打ち込む。


 どん、と音がして、魚人が吹き飛んだ。


 ――が。


「っ……痛っ⁉」


 白雪姫(こゆき)は、自分の右腕を抱えた。


 肘(ひじ)から先が、痺れている。


 霊力で強化しているはずの腕が、だ。


 猪(いのしし)の魔物を殴ったときは、こんなことにはならなかった。


(――鱗(うろこ)……?)


 夕闇の中で、魚人の体表が鈍(にぶ)く光っていた。


 黒(くろ)鉄(がね)色の、細かい鱗。


 あれが、衝撃をそっくり跳ね返してくるのだ。


 吹き飛んだ魚人は、砂の上でくるりと体勢を立て直し、また立ち上がった。


「白雪姫(こゆき)ちゃん、そっち行った!」


「うんっ!」


 殴る。飛ぶ。起き上がる。


 殴る。飛ぶ。起き上がる。


 ――十体は吹き飛ばした。


 それなのに、一体も倒せていない。


 それは蒼(あお)波(ば)も、紅葉(もみじ)も同じだった。


 ただ、三人には、明確な違いが出始めていた。


 白雪姫(こゆき)は、常に全身へ身体強化をかけっぱなしにしている。


 それでいて、息ひとつ乱れていない。


『あなたの霊力の量は、尋(じん)常(じょう)ではありませんから』


 心の中で、白櫻姫(こさき)が言う。


『垂(た)れ流していても、際限なく溢(あふ)れているようなものです。……普通は、こうはなりません』


 紅葉(もみじ)も、疲れは見えなかった。


 だが、理屈が違う。


 よく見れば、彼女の体が光っているのは、殴る瞬間と、躱す瞬間だけだ。


 それ以外の時間、紅葉(もみじ)は、ただの少女と変わらない。


 必要な一瞬にだけ、必要な部位を。


 ――節約。


 そして、蒼(あお)波(ば)は。


「……はぁっ、はぁ……っ」


 もう、肩が上下していた。


 常時強化を続ける以外の戦い方を、彼女はまだ知らない。


 持っている霊力の量も、白雪姫(こゆき)とは比べるべくもない。


 ――ならば。


 白雪姫(こゆき)は、目の前の一体を掌底で吹き飛ばすと、その空いた間(ま)に、左手を突き出した。


(凍って――!)


 手のひらの上で、空気が悲鳴を上げる。


 水気が集い、捻(ね)じれ、締まって。


 ――一本の〝氷(つ)柱(らら)〟が、生まれた。


「これなら、どうっ‼」


 放つ。


 白い軌(き)跡(せき)が空を裂き、起き上がりかけた魚人の胸を、真正面から貫いた。


 ――ずぶり、と。


 あれほど硬かった鱗が、まるで紙のように。


 魚人は声もなく膝を折り、黒紫の煙となって散った。


「……やった!」


 歓声を上げかけて、白雪姫(こゆき)はすぐに口を噤(つぐ)んだ。


 ――今の一発に、どれだけ時間がかかった?


 構えて、思い描いて、収束させて。


 その間に、魚人は三体増えていた。


(……あっ)


 背筋が、すっと冷えた。


 ――白櫻姫(こさき)ちゃんが、あんなに――疾(はや)く出せ――って言ってた理由。


 一対一なら、これでいい。


 構える時間くらい、躱しながら稼げばいい。


 でも、一対多なら。


 構えている一秒が、そのまま背中に爪を受ける一秒になる。


(……実戦的な、指導やったんやね)


『お気づきになりましたか』


 声は、少しだけ嬉(うれ)しそうだった。


『師というのは、嫌われる役目でしてね。……理由を先に言ってしまえば、身につかないのです』


(……ずるい)


『ふふ』


 ――その一部始終を、紅葉(もみじ)は横目で見ていた。


 氷柱に貫かれた鱗。


 あっけないほどの消滅。


 殴っても蹴っても起き上がる相手が、たった一撃で。


「……なるほどね」


 紅葉(もみじ)は、掴みかかってきた魚人の腕を捻り上げながら、呟(つぶや)いた。


「鱗が効(き)いてるのは、物(ぶつ)理(り)の打(だ)撃(げき)だけ。……属性には、脆(もろ)いってこと」


 彼女の右の拳に、ぼっ、と火が灯(とも)る。


 紅(あか)い炎が、手のひらを包み込んだ。


「――なら、こっちも遠慮しないわ」


 拳が、魚人の腹に沈む。


 鱗が、じゅっ、と音を立てて焼けた。


「焼き魚になりなさい」


 その一言と同時に、炎が魚人の全身を駆け上(のぼ)った。


 海風に煽(あお)られ、膨(ふく)れ上がり、燃え盛る。


 魚人はもがき、のた打ち――そして、灰すら残さずに消滅した。


「……すご……」


 白雪姫(こゆき)が思わず漏(も)らす。


 だが、紅葉(もみじ)の表情は険しいままだった。


 ――本音を言えば、使いたくはなかった。


 身体強化は、霊力をそのまま身に纏(まと)うだけでいい。


 だが、そこに属性を混ぜるとなれば、消費は跳ね上がる。


 千年も戦ってきた身だ。


 長期戦で何が一番怖いかは、嫌というほど知っている。


 ――そして、その懸念は、別のところで先に形になった。


「あっ――」


 蒼(あお)波(ば)の足が、流(りゅう)木(ぼく)に取られたのだ。


 疲れは、まず足に来る。


 膝が笑い、砂に沈み、均(なら)されていない海岸の起(き)伏(ふく)を、体が拾えなかった。


 蒼(あお)波(ば)は、無様に前のめりに倒れ込んだ。


 その頭上に、魚人の爪が振り上がる。


「蒼(あお)波(ば)ちゃんっ‼」


 ――間に合わない。


 白雪姫(こゆき)がそう思った、その瞬間には。


 魚人の胴を、紅(くれない)の炎が横に薙(な)いでいた。


「……っ」


 蒼(あお)波(ば)が、恐る恐る顔を上げる。


 目の前に、紅葉(もみじ)の背中があった。


「立てる?」


「……ご、ごめん」


「謝らなくていいわ」


 紅葉(もみじ)は返事も待たず、蒼(あお)波(ば)の腕を肩に回して担(かつ)ぎ上げた。


 そのまま砂浜を横切り、神社の石段の下段に、そっと座らせる。


「蒼(あお)波(ば)」


「……なに」


「身体強化は、常時かけてはだめよ」


 紅葉(もみじ)の声は、いつも通り淡(たん)々(たん)としていた。


「殴る瞬間。躱す瞬間。受ける瞬間。……そこにだけに通しなさい」


「そんなの……」


「難しいのは知ってる」


 言い切って、紅葉(もみじ)は背を向けた。


「でも今は、いいから休んで。霊力が戻るまで、そこにいなさい」


「紅葉(もみじ)ちゃんっ」


 伸ばした手は、届(とど)かなかった。


 ――砂浜へ戻りながら、紅葉(もみじ)は舌打ちを堪(こら)えていた。


 身体強化と、素手。


 それだけで片づくと踏んでいた。


 だが、一体一体が硬すぎる。


 そして、数が多すぎる。


 海は、いまだに魚人を吐き出し続けていた。


 このままでは、じり貧だ。


 自分は死なない。


 だが、あの二人は死ぬ。


(……仕方ない、か)


 紅葉(もみじ)は目を閉じ、静かに息を吸った。


 そして。


「――神(じん)器(ぎ)顕(けん)現(げん)!」





❆





 その一言で、海岸の空気が燃えた。


 紅色の炎が、紅葉(もみじ)の足元から立ちのぼる。


 それは渦(うず)を巻き、彼女の体を螺(ら)旋(せん)状に取り囲み――やがて、右手へと収束していった。


 炎が、形を持つ。


 柄(つか)には、青い宝玉と金の細(さい)工(く)。


 そして刀身は鋼(はがね)――そこに、橙(だいだい)と黄の炎が、そのまま剣(けん)の刀身に纏わりついている。


 同時に、彼女の背中で炎が爆(は)ぜた。


 ――翼(つばさ)。


 炎で編(あ)まれた、大きな鳥の翼が、左右へと広がっていく。


 ――〈不(ふ)死(し)鳥(ちょう)の紅(こう)剣(けん)〉。


 それが、紅葉(もみじ)の神器だった。


 黒曜石のようだった瞳が、ゆっくりと開かれる。


 その色は、燃えるような紅に変わっていた。


「…………」


 白雪姫(こゆき)は、息をするのも忘れていた。


 綺麗だ、と思った。


 こんな状況で、そんなことを思うなんてどうかしている。


 それでも、そう思ってしまった。


 石段の上の蒼(あお)波(ば)もまた、琥(こ)珀(はく)色の目を見開いたまま動けずにいる。


「――行くわよ」


 紅葉(もみじ)が、そう言った。


 次の瞬間、彼女の姿が掻(か)き消えた。


 いや、消えたのではない。


 目が、追えなかったのだ。


 紅の軌跡が一閃し、魚人が上下に分かれる。


 断面が焼けて、そのまま煙になった。


 さらに、紅葉(もみじ)は大きく一振りする。


 剣先から炎の刃が飛び、空を裂き、横一列に並んでいた魚人を、まとめて燃やし尽くした。


「……なに、あれ」


 白雪姫(こゆき)の口から、掠れた声が漏れる。


(さっきと、全然違う……。同じ紅葉(もみじ)ちゃんなの?)


『違います』


 白櫻姫(こさき)の声が、落ち着いて答えた。


『――正確には、同じでありながら、別のものです』


(どういうこと?)


『神器の顕現とは、ただ武器を出すだけの技ではありません』


 白雪姫(こゆき)が魚人の爪を躱す間にも、声は続く。


『顕現した者は、霊力の制御も、付与の技量も、軒(のき)並(な)み跳ね上がります。……言うなれば、錠(じょう)を外した状態』


(錠……)


『ええ。神(み)子(こ)というものはね、白雪姫(こゆき)。普段、己の力を半分も使っておりません』


(半分も⁉)


『当たり前のことです』


 声は、諭(さと)すようだった。


『常に全開で力を振るえば、反動もまた大きい。ご飯を食べ、眠り、人と笑うことすらままならなくなる。……ゆえに、魂が勝手に蓋(ふた)をしているのです』


(それを、外す……)


『それが、神器顕現でもあるのですよ』


 ――蹂(じゅう)躙(りん)。


 その言葉が、これほど似合う光景もなかった。


 炎の翼が海風を叩き、剣が振られるたびに、魚人の列が消えていく。


 だが。


 白雪姫(こゆき)は、見逃さなかった。


 紅葉(もみじ)の横顔に、汗が伝っている。


 そして――どこか、苦しそうだった。


 眉の間の、あの皺(しわ)。


 あれは、疲労だけの顔ではない。


(……胸が、まだ疼いてるの?)


 考える隙(すき)は、与えられなかった。


「――っ、きゃっ‼」


 背後から来た一体に、白雪姫(こゆき)は砂に叩きつけられた。


 口の中が、砂でじゃり――と鳴る。


 すぐに起き上がる。


 殴る。飛ぶ。起き上がられる。


 また、叩きつけられる。


 ――何度目かも、分からない。


 倒れない自分が、嫌(いや)になる。


 倒れないだけで、前にも進めていないのだから。





❆





 その光景を、蒼(あお)波(ば)は石段から見ていた。


 炎の翼を広げた、千年の少女。


 砂まみれになりながら、それでも立ち上がり続ける白い髪の友達。


(――うちは)


 膝の上で、拳が震える。


(うちは、なんでこんなところに座ってると?)


 霊力は、まだ戻っていない。


 立ち上がったところで、さっきの繰り返しになるだけかもしれない。


 ――それでも。


 振り返れば、そこに石段があって、その先に鳥居があって、その向こうに街がある。


 この砂浜で、貝殻を拾った。


 あの参道で、雫(しずく)と鬼ごっこをした。


 車で数分の場所に、父と母がいる。


 もし、こいつらがここを抜けたら。


 この海岸を、あの参道を、あの寺を――蹂躙されるところを想像してしまったら。


 もう、座ってなんて、いられなかった。


「……っ、よし」


 蒼(あお)波(ば)は、砂を掴んで立ち上がった。


 ――紅葉(もみじ)ちゃんの言うとおりに、やってみる。


 常に纏うんじゃない。


 必要な瞬間だけ、通す。


 迫ってきた魚人の爪。


 ――今。


 右腕にだけ、ぐっと霊力を集める。


 が、遅かった。


 爪が肩を掠め、制服の袖(そで)が裂ける。


「っ……!」


 痛い。


 でも、致命的じゃない。


(――遅い。もっと、早く)


 もう一度。


 振り下ろされる爪。


 その、一拍前に。


「――っ、はぁっ!」


 今度は、間に合った。


 強化した腕が爪を弾(はじ)き、蒼(あお)波(ば)は半歩下がって距離を取る。


(……できた)


 拍子抜けするほど、あっさりと掴めた。


 思えば、木の棒に霊力を流すことに比べれば、これは易(やさ)しい。


 あれは、繋がっていないものへ通す技術だ。


 こちらは、自分の体。


 最初から、繋がっている。


 ――霊力の減りが、明らかに違う。


 常に垂れ流していたときの、半分――いや、それ以下。


(……効率、いい……!)


 ただ。


 やってみて、初めて分かることもあった。


 強化をかけると、体が羽のように軽くなる。


 解くと、鉛(なまり)を背負わされたように重くなる。


 それが、一秒ごとに切り替わるのだ。


 ――気持ちが、悪い。


 足元が、ずっと船の上にいるみたいに頼りない。


(……慣れる、しかないっちゃろうね)


 三体目を弾き返したところで、しかし。


 ――ふっ、と。


 視界が、暗くなった。


 そもそもの霊力の残量が、あまりにも少なかったのだ。


「あ、れ……」


 膝が、砂に落ちる。


 体を支(ささ)えようとした腕にも、力が入らない。


「蒼(あお)波(ば)ちゃんっ‼」


 その悲鳴を、白雪姫(こゆき)は自分の口から聞いた。


 ――紅葉(もみじ)の方を、一(いち)瞥(べつ)する。


 炎の翼が、浜の魚人を掃(は)き続けている。


 今なら、一瞬なら、あの子に任せられる。


 白雪姫(こゆき)は砂を蹴った。


「蒼(あお)波(ば)ちゃん、大丈夫⁉ ねえっ!」


 肩を揺すっても、返事はない。


 琥珀色の瞳は開いているのに、焦点が合っていなかった。


(白櫻姫(こさき)ちゃんっ、蒼(あお)波(ば)ちゃんが――)


『分かっています』


 声は、即座だった。


『霊力が、著(いちじる)しく足りていません。……このままでは、意識を失います』


(そんな……どうしたらいいと⁉)


『――白雪姫(こゆき)』


 名を呼ぶ声に、妙な重みがあった。


『あなたが与(あた)えなさい』


(え……?)


『あなたの霊力を、蒼(あお)波(ば)様へ』


 白雪姫(こゆき)は、目を瞬(まばたた)かせた。


(そんなの、やり方なんて知らんよ⁉)


『知っていますよ』


(え)


『先日、山でやったでしょう。木の棒に、霊力を纏わせる稽(けい)古(こ)を』


 ――行縢の登山道。


 握った木の棒。


 何十本も折った、あの感触。


『同じ要(よう)領(りょう)です。手を取り、ただ流しなさい』


(……うんっ!)


 白雪姫(こゆき)は、蒼(あお)波(ば)の手を両手で包み込んだ。


 冷たい。


 氷を扱う自分より、ずっと。


 目を閉じ、意識を手のひらの先へ。


 ――通れ。


 その瞬間だった。


 蒼(あお)波(ば)の体が、淡(あわ)い光を帯(お)びる。


「――……っ、ぁ」


 蒼(あお)波(ば)の睫(まつ)毛(げ)が、震えた。


 ――流れ込んでくる。


 それは、熱くも冷たくもなかった。


 夜の海に足首まで浸けたときの、あの感じ。


 自分の中の波(なみ)と、外から来る波が、同じ周期で揺れていく。


 打ち消し合わず、重(かさ)なって、高くなっていく。


 ――同調。


 ――共鳴。


(……そっか)


 薄れかけていた意識の中で、蒼(あお)波(ば)は妙に冷静に考えていた。


(霊力付与って、そもそも――別のものに霊力を与える――ことやもんね)


 それが木の棒なら、棒が硬くなる。


 それが人なら――その人の霊力が、嵩(かさ)を増す。


 当たり前のことだった。


 ただ、誰も教えてくれなかっただけで。


『――ただし、白雪姫(こゆき)』


 声が、鋭(するど)く差し込んだ。


『これは、神子ではない人間に、決して行(おこな)ってはなりません』


(え……?)


『普通の人の魂は、霊力を容(い)れる器(うつわ)としては未熟な状態なのです。注(そそ)げば、溢(あふ)れる。……そして、壊(こわ)れます』


(こわ、れる)


『体にも、心にも、途方もない負荷がかかります。……良くて、生涯残る障害。悪ければ』


 ――白櫻姫(こさき)は、そこで一度、言葉を切った。


『死にます』


 背筋が、凍(こお)りついた。


 自分の中にある、無(む)尽(じん)蔵(ぞう)のこの力。


 それは、握りしめただけで人を殺せるものでもあるのだ。


『同じ気(け)を持たぬ者にも、控(ひか)えなさい』


(同じ、気……)


『これができるのは、あなたと蒼(あお)波(ば)様が、共に水(すい)の気を持つ神子だからです。……水と火を混ぜれば、どうなるかはお分かりでしょう』


(……うん)


 白雪姫(こゆき)は、握る手に、ほんの少しだけ力を込めた。


 ――そして、白櫻姫(こさき)の声の向きが、変わった。


『――蒼(あお)波(ば)様』


(……っ、白櫻姫(こさき)、さん……?)


 蒼(あお)波(ば)は、驚いたように顔を上げた。


 頭の中に、直接。


 あの涼やかな声が、はっきりと響いている。


『いま、あなたと白雪姫(こゆき)の霊力は繋がっております。ゆえに、こうしてお話ができるのです』


(……はい)


『では、手短に申し上げます』


 波の音が、遠のいた気がした。


『――あなたなら、神器を顕現できます』





❆





(……え)


 蒼(あお)波(ば)の声は、ほとんど音になっていなかった。


(うちが……神器を?)


『ええ』


(そ、そんな、無理です)


 思わず、首を振っていた。


(だって、出し方が分からないんです。……どうやったら出るのかも、うちの神器がどんなものなのかも)


 蒼(あお)波(ば)は、自分の空の両手を見下ろす。


(何も分からんのに、どうやって出せって言うんですか?)


『分からなくて、当然ですよ』


 返ってきたのは、責(せ)める色のない声だった。


『神子の修練には、順序がございます。これは以前にあなたが言っていましたね。まずは感知、次に制御。この二つには、確(かく)立(りつ)された稽古の法があり、教える者も大勢おります』


「……はい」


『ですが、神器顕現だけは違うのです』


 白櫻姫(こさき)は、静かに続けた。


『形も、引き出し方も、人によってまるで異なります。……ゆえに、誰にも教えられない』


 ――生まれたときから、ごく自然に出せる者がいる。


 ――ある朝、目が覚めたら、なぜか分かっていたという者がいる。


 ――そして。


『――大切なものを失ったとき。……あるいは、大切なものを見つけたとき』


 声が、ほんの少しだけ柔(やわ)らかくなる。


『――そのときに、初めて顕(あら)われる者も、おります』


 蒼(あお)波(ば)は、息を呑んだ。


『蒼(あお)波(ば)様。いま、この手を通して伝わってくるものが、何かお分かりですか』


「……ぬくもり、ですか」


『いいえ』


 白櫻姫(こさき)は、迷いなく否定した。


『それは、誰かを守りたいという、強い意志です』


 ――さっき、あなたは立ち上がろうとした。


 ――霊力など、もう底(そこ)を突(つ)いていたというのに。


 ――なぜです?


 問われるまでもなかった。


 答えは、胸の中に、ずっとあった。


 ――守りたかったからだ。


 父と母と妹が眠る、この土地を。


 貝殻を拾った、この砂浜を。


 鬼ごっこをした、あの参道を。


 そして。


 ――砂に塗(まみ)れながら、それでも立ち上がり続けている、目の前のこの子たちを。


「…………」


 蒼(あお)波(ば)は、握られた自分の手を見た。


 白い、小さな手だった。


 一年前、まだこの子が神子になる前、体育の授業で運動音痴であるような動きを見せていた少女。


 その少女の手が、いま、自分に力を分けている。


 ――ああ。


 ――そうか。


 熱いものが、喉の奥から込み上げてきた。


 それは、悔しさでも、怖さでもなかった。


 もっと、ずっと単純なものだった。


 ――そう思った瞬間。


 力が、湧(わ)いた。


 どこからともなく。


 いや、違う。


 ずっと、そこにあったのだ。


 自分の魂の、いちばん奥に。


 ただ、名前を呼ばれるのを、待っていただけで。


 ――みんなを、守りたい。


 そう、願ったから。


 蒼(あお)波(ば)は、ゆっくりと立ち上がった。


 波の音が、背中を押した。


 ――そして、口に出す。


「神器顕現――!」





ここまで読んでいただきありがとうございます!

面白い・続きが気になると思っていただけたら、【ブックマーク登録】やページ下部の【評価】を押していただけると、執筆の大きな励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。