第14話:近付く災い
――港神社。
「そこ、うちが小さい頃、よう遊びよった神社なんよ」
玄関前の階段に腰を下ろして、蒼波はぽつりとそう言った。
夕暮れが、行縢の山肌をゆっくりと橙に染めていく。
「うちの実家――那智山如意輪寺から、そんなに離れてないの。歩いていける距離ってわけでもないっちゃけど、子どもの足でも、自転車ならすぐで」
「……お寺の近く、なんやね」
白雪姫は、隣に腰を下ろす。
「うん」
蒼波は、両手で膝を抱えた。
「五ヶ瀬川と、北川の二つがちょうど合わさって、海に出ていくところ。そこの河口に建ってる」
「河口……」
「白雪姫ちゃん、見たことない? 青い鳥居の写真」
言われて、白雪姫は記憶をたぐった。
――ある。
テレビか、それとも学校で配られた地域の冊子か。
海を背にして、真っ青ないくつもの鳥居が、砂の上に立っている写真だ。
「あっ、あるある! 青い鳥居!」
「そうそう。延岡やと、結構有名かもね」
蒼波は、少しだけ笑った。
けれど、その笑みは、頬のあたりで止まってしまっていた。
「潮が引くと、砂浜がずーっと向こうまで出てきてね。妹と、そこで貝殻拾って……」
言葉が、そこで途切れる。
夕風が、蒼波の後ろ髪のお団子を、かすかに揺らした。
「――蒼波ちゃん」
「……ごめん。なんか、うち」
蒼波は、慌てたように顔を上げる。
「思い出話してる場合じゃないっちゃけどね」
その琥珀色の瞳が、微かに揺れていた。
――遊び場が、魔力に侵されている。
それだけでも十分に胸がざわつく話だ。
けれど、この子が本当に案じているのは、たぶん、そこではない。
(……お寺には、まだ)
白雪姫は、そこまで考えて、口をつぐんだ。
蒼波の家族は、今もあの寺にいる。
父と、母と、妹と。
――生まれ育った家の、すぐそばなのだ。
「翠織先生」
蒼波が、階段の上に立つ翠織を振り返った。
その声は、綺麗な敬語に戻っていた。
「……その、異常反応というのは、どの程度のものなんですか」
「そうね」
翠織は、端末の画面を指で撫でながら、言葉を選ぶように答える。
「濃度で言えば、こないだの幼稚園の跡地と、そう変わらないくらい。……ただ、今のところ〝溜まっているだけ〟なのよ」
「溜まっている、だけ……?」
「ええ。魔物も、魔蝕者も、まだ一体も観測されていないわ」
「――っ」
蒼波の肩から、目に見えて力が抜けた。
白雪姫も、詰めていた息をようやく吐き出す。
魔物は、魔力の濃い場所に転がった獣の骸や、彷徨う魂が、じわじわと侵されて生まれる。
つまり――魔力が溜まっているというのは、卵が置かれているのと同じことだ。
まだ、孵っていないというだけの話でしかない。
「ただ、ね」
その安堵を、翠織の声が静かに遮った。
「いつ出るかは、誰にも分からないの。……一分後かもしれないし、一か月後かもしれない」
「一分後、って……」
「そういうものよ、あれは」
翠織は端末を懐へ仕舞う。
「観測は、引き続き続けてもらうわ。何か動きがあれば、真夜中でも叩き起こしてあげるから、安心してちょうだい」
「……安心、できるんですか、それ」
「できるでしょう? 知らないうちに手遅れになっているより、ずっと」
冗談めかしてはいるが、その目は笑っていなかった。
――白雪姫は、そっと胸に手を当てる。
(……ねえ、白櫻姫ちゃん)
『はい』
(今日の朝、言ってたよね。魔神の気配を、大きく感じるって)
しばしの、沈黙があった。
『……ええ』
(それって……もしかして、その魔力異常のこと?)
『分かりません』
答えは、嘘のない、正直なものだった。
『わたくしの魂に刺さったものは、方角も、距離も教えてはくれません。ただ疼くだけの、厄介な羅針盤でございます』
(……そっか)
『ただ』
声が、わずかに硬くなる。
『――この疼きは、まだ強くなってはおりません。それだけは、確かです』
(……うん)
少しだけ、安堵した。
少しだけしか、安堵できなかった。
「白雪姫ちゃん?」
「あ、ううん。なんでもない」
白雪姫は、隣の友達の袖を、きゅっと摘んだ。
「……大丈夫だよ、蒼波ちゃん」
「……うん」
蒼波は、頷いた。
頷いては、くれた。
❆
翌日は、月曜日だった。
週の始まりというのは、それだけで気が重い。
まして、あんな話を聞いた翌朝ともなれば、なおさらだ。
それでも自転車のペダルを漕いで、二人はいつも通り、桜ケ丘小中学校の坂道を上った。
――そして、一時間目。
「じゃあ、次のところ。……蒼波さん」
「…………」
「蒼波さん?」
「……えっ? あっ、はいっ」
教室に、小さな笑いが起こった。
慌てて立ち上がった蒼波の手の中で、教科書のページが、ばさりとめくれる。
「……どこですか、先生」
「三十六ページの、四行目から」
「す、すみません」
斜め前の席で、白雪姫はそっと友達を窺っていた。
読み始めた声は、いつも通り綺麗だ。
寺育ちのせいだろうか、蒼波の音読は、抑揚がやわらかくて、聞いていて心地がいい。
――けれど。
その視線は、文字の上を滑っているだけだった。
声は文章をなぞっているのに、心はまるで別のところにある。
(……全然、ここにいないね)
二時間目も、三時間目も、同じだった。
休み時間になると、蒼波は窓際に立って、ぼんやりと東の空を眺めていた。
――東。
海の、ある方角だ。
「蒼波ちゃん、購買行こっか」
「……ん? あ、うん」
返事までに、ワンテンポ。
昼休みの焼きそばパンは、半分ほど残された。
❆
それは、帰ってからも変わらなかった。
食堂の夕食――今日は鯖の味噌煮だった――を、蒼波は、箸の先で崩しては、口に運ぶことを繰り返していた。
味わっている顔ではない。
食べているという自覚すら、あるかどうか。
部屋に戻ってからは、もっとひどかった。
宿題にも手をつけず、畳スペースの縁に座り込んで、じっと窓の外を眺めている。
月が出ていた。
その光が、蒼波の横顔を、青白く縁取っている。
――こつん。
白雪姫は、隣に立つ紅葉の肘を、そっとつついた。
紅葉が、無言で振り向く。
白雪姫は、自分の頬を親指と人差し指で摘んで、きゅ、と横に引っ張ってみせた。
そして、蒼波を指差す。
――紅葉の眉が、ほんのわずかに動いた。
彼女は、その一秒で意図を理解したらしい。
こくり、と頷く。
足音を殺して、二人は畳の上を進んだ。
白雪姫は左から。
紅葉は右から。
そして。
「――えいっ」
「――ほい」
蒼波の両頬が、同時に横へ引き伸ばされた。
「いふぁい……」
情けない声が上がった。
白雪姫は、ぱっと手を離して笑う。
「やっと、こっち見た」
「いひゃい、いひゃいって、紅葉ひゃんもっ」
「……ん」
紅葉も、指を離した。
赤くなった頬を両手で押さえながら、蒼波が恨めしそうに二人を見上げる。
「……なんね、もう」
「蒼波ちゃんが、ずーっと窓の外見とるから」
白雪姫は、そのまま蒼波の正面に座り込んだ。
紅葉も、その隣に、ぺたんと腰を下ろす。
三人で、膝を突き合わせる形になった。
「――やっぱり、気になる? 魔力異常のこと」
「…………」
蒼波は、しばらく黙っていた。
やがて、観念したように、深く息を吐く。
「……うん」
その一言に、白雪姫は静かに頷いた。
「気にしちょってもしょうがないっていうのは、分かってるんよ。うちがここでやきもきしたところで、魔力異常がなくなるわけでもないし」
膝を抱え直して、蒼波は続ける。
「先生も、観測は続けてくれるって言ってたし。……頭では、分かってるっちゃけどね」
言葉が、尻すぼみになる。
「……どうしても、気になっちゃって」
月明かりの中で、蒼波は小さく笑った。
――ああ、この顔だ。
白雪姫は思う。
いつも自分を引っ張ってくれる子が、こんなに小さく見えるのは、嫌だった。
「……ねえ、蒼波ちゃん」
「ん?」
「見に行ってみる? 港神社」
「え」
「翠織先生に頼んだら、連れてってくれるんじゃないかな。この目で見たら、少しは安心できるかもしれんし」
言ってから、白雪姫は自分で言葉を噛み潰した。
――だめだ。
今日は月曜日で、週の始まりだ。
明日も明後日も、学校がある。
週末ならまだしも、今から一時間近く車を出してもらうなんて、到底できる話ではない。
「……行縢から港神社って、車でどのくらいなんやったっけ」
「三十分は、かかると思う」
蒼波が、静かに答えた。
「往復で一時間。それを、毎日……なんて、先生に言えんよ」
「……やね」
蒼波は、また窓のほうへ視線を戻しかけて――やめた。
代わりに、無理やり口の端を持ち上げる。
「大丈夫。明日にはけろっとしてるって。ごめんね、変な空気にして」
「――なら」
それまで、一言も口を挟まなかった声が、落ちた。
二人が、同時に紅葉を見る。
黒曜石のような瞳が、真っ直ぐに蒼波を見返していた。
「私が行くわ」
「……え?」
「港神社に泊まり込んで、私が見張る」
――たっぷり三秒。
部屋の中の時間が、止まった。
「え、ええっ⁉」
「紅葉ちゃん、それ本気で言ってると⁉」
跳ね上がった二人の声にも、紅葉はまるで動じない。
それどころか、指を一本立ててみせた。
「理由は二つ。……一つ目」
ぴん、と伸びた人差し指。
「私は、まだ学校に入ってない。翠織さんの話だと、転入は五月からになるって」
「……あ」
「つまり、四月いっぱいは、私の時間は丸ごと空いてるってこと。あなたたちと違って、朝に起きて坂を上る必要もないの」
二本目の指が立つ。
「二つ目。――私は、不老不死よ」
あまりにも平然と、紅葉はそう言った。
「食べなくても死なない。眠らなくても倒れない。雨曝しでも風邪ひとつひかない。……見張りに、これ以上向いてる人間がいる?」
「……そ、それは」
「いないでしょう」
紅葉は、こともなげに言い切った。
確かに、理屈の上では筋が通っている。
千年以上、森の中や洞窟で寝起きしてきた少女だ。
一か月やそこら、神社の軒下で過ごすくらい、彼女にとっては何のこともないだろう。
――それでも。
「だめっ!」
叫んだのは、蒼波だった。
畳に手をついて、身を乗り出している。
「そんなん、絶対だめよ!」
「……どうして」
「どうしてって……っ」
蒼波は、言葉に詰まる。
それから、絞り出すように続けた。
「うちが勝手にそわそわしてるだけやのに、紅葉ちゃんが一人で、あんなとこに行くなんて」
「勝手じゃないでしょう。実際に、異常は出てるんだから」
「そういう話じゃなくて!」
声が、跳ねた。
自分でも驚いたのか、蒼波は口を噤み、それから、うつむいたまま小さく言った。
「……危ないじゃん。紅葉ちゃんが」
「――」
「うち、そんなの耐えられん」
「……私も」
白雪姫も、膝の上で拳を握った。
「紅葉ちゃんを一人で神社に行かせたら、今度は私が、蒼波ちゃんみたいになっちゃうもん」
「……あなたが?」
「うん。授業中もぼーっとして、ご飯もぼーっと食べて、窓の外ばっかり見て」
白雪姫は、真面目な顔で蒼波を指差した。
「ちょうど今の蒼波ちゃんみたいに」
「うちで例えんでよっ⁉」
「――待って」
紅葉が、二人を制した。
その表情は、怒っているわけでも、呆れているわけでもない。
ただ、純粋に。
――理解が、できていなかった。
「……意味が分からないわ」
「え?」
「私は、あなたたちより歴が長いの。千年以上、この力と付き合ってきた」
紅葉は、静かに続ける。
「神器も顕現できる。霊術もいくつか使える。……平たく言えば、私のほうが、あなたたちより強い」
「……うん」
「なのに、どうして心配するの?」
まっすぐな問いだった。
ごまかしも、謙遜も、そこには一切なかった。
「魔物の一体や二体、私なら片手で終わるわ。首を飛ばされたって、一瞬で元通り。……私を心配する理由なんて、どこにもないはずよ」
――しん、と部屋が静まる。
窓の外で、行縢の森が、ざあ、と鳴った。
その音が消えるのを待って、白雪姫は口を開いた。
「するよ」
「……え」
「心配するよ、紅葉ちゃんのことは。だって――」
言いかけた白雪姫の言葉を、隣から蒼波が引き継いだ。
「――友達やから」
「…………」
紅葉の目が、まん丸に見開かれた。
友達。
その二文字が、耳の奥で、ゆっくりと転がっていく。
――友達。
(……そう、なの?)
確かに、この二人といるのは、居心地がいい。
服を選ばれるままにされているときも、あの鶏肉料理を食べたときも、悪くはなかった。
けれど。
友達だなんて、思ったことは――。
そう考えかけて。
――ああ、違う。
紅葉は、心の中で首を振った。
違うのだ。
思ったことがないのではない。
自分は、それを何と呼ぶのかを、ただ忘れていただけなのだ。
千年前。
落ちこぼれと嗤われ、家の者にすら疎まれた自分の隣に、当たり前の顔をして座っていた白い髪の少女。
あの子といるときの、この感じ。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる、あの感じ。
――今、それと同じものを、この二人から感じている。
(……そもそも)
紅葉は、ふと思った。
なぜ自分は、あんなにも自然に――泊まり込む――などと言い出したのだろう。
誰に頼まれたわけでもない。
異常反応が出た場所は、自分にとっては縁もゆかりもない、海辺の小さな神社だ。
千年のあいだ、そんなものは腐るほど見てきたし、そのたびに黙って通り過ぎて、気まぐれに倒して……くらいのはずだった。
――答えは、すぐに出た。
簡単なことだ。
見たくなかったのだ。
目の前のこの子が、窓の外ばかり見ている姿を。
噛み殺したような笑い方をする、その顔を。
――この人のために、自分ができることを、何かしたい。
それは。
あの日、袖を掴んで泣くことしかできなかった自分には、決してなかった感情だった。
止めることも、追いかけることも、隣に立つこともできなかった、あの日の自分には。
「…………」
気がつけば。
紅葉の口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
「……あれ?」
目ざとく、白雪姫がそれを見つける。
「紅葉ちゃん、なんで笑ってると?」
「――なんでもないわ」
「ええーっ、絶対なんかあるやん!」
「なんでもない」
紅葉は、すいと視線を逸らした。
その耳が、ほんの少しだけ赤い。
白雪姫と蒼波は、顔を見合わせた。
――そして、二人して、噴き出した。
❆
結局。
紅葉が行くのは却下、かといって自分たちが通うのも無理。
答えは、一向に出なかった。
三人が向かったのは、二階の〝第一研修室〟――翠織の部屋だった。
「あら。三人揃って、どうしたの?」
扉を開けた翠織は、書類の束を片手に目を瞬かせた。
部屋の中には、コーヒーの匂いが漂っている。
「先生。……あの、変なこと聞いてもいいですか」
白雪姫が、おずおずと切り出す。
「どうぞ?」
「神子を管理してる組織って……そこって、こういうときに、お願いってできるんですか?」
「お願い、というと?」
「港神社の見張りを、してもらえないかなって」
翠織の眉が、ぴくりと動いた。
「……自分たちで行こうとして、無理だと気づいた、というところかしら」
「うっ」
「顔に書いてあるわ、蒼波ちゃん」
蒼波が、頬を押さえて狼狽える。
その様子に、翠織はふ、と口元を緩めた。
「安心なさい。叱ってるわけじゃないの」
書類を机に置いて、彼女は三人に向き直る。
「神子管理組織というのはね、要するに、この国の神子を束ねて、育てて、必要なところへ回すための組織よ。……こういう案件のためにこそ、あるところなの」
「じゃあ」
「ええ。私のほうから、掛け合ってみるわ」
「――っ、ほんとですか!」
「あなたたちは中学生で、うちの管轄の神子。他の地区に応援を頼むのは、地区担当の仕事のうちよ」
翠織は、なんでもないことのようにそう言った。
「むしろ、もっと早く言ってくれてよかったのに」
「……すみません」
「謝らないの。……ただ、これだけは覚えておいてちょうだい」
三人の顔を、ゆっくりと見渡す。
「頼るというのは、甘えることじゃないわ。使える手を全部使うっていう、立派な判断よ」
――その一言に、三人の肩から、ようやく力が抜けた。
そして、そこからは早かった。
翌日には、もう組織から人が回されていた。
港神社の周辺に、常時二名。交代で、二十四時間。
定期的な報告が、翠織のもとへ届くようになった。
「……ずいぶん早かったですね」
夕食の席で、蒼波がそう言うと、翠織は少しだけ声を潜めた。
「この前の一件があったでしょう。……あれ以来、上のほうがピリピリしているのよ」
「魔神の、ですか」
「ええ。市街地の目と鼻の先に、あれが出たんだもの。前例がないわけじゃないけれど、前例があるからこそ、怖いのよ」
だから、異例の速さで人が動いた。
――それは、有難い話だ。
同時に、背筋が冷える話でもあった。
組織が本気になるほどの何かが、この街に近づいているということなのだから。
それでも。
監視の目が入ったという事実は、確かに三人の心を軽くした。
蒼波は、また授業中に手を挙げるようになった。
夕食も、きちんと味わって食べるようになった。
夜には三人で畳スペースに集まって、宿題をしたり、紅葉に千年前の話をせがんだりした。
白雪姫は、毎晩のように精神世界で木刀を握り、蒼波と一緒に、休みの日には山を登った。
――何事もない、日々が過ぎていく。
過ぎていって、しまう。
そう、思っていた。
そして。
一週間後の、日曜日。
――港神社に、魔物の発生が確認された。
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