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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第02章:不死の炎
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第13話:大きな進歩

 ――白雪姫(こゆき)が次に瞼(まぶた)を開けたとき、そこは車の中ではなかった。


 薄紅の天(てん)蓋(がい)が、どこまでも広がっている。


 風が渡るたび、花弁が雪のように降りしきる。


 鼻先をくすぐる、甘い春の匂い。


 ――精(せい)神(しん)世(せ)界(かい)だ。


「…………」


 白雪姫(こゆき)は、ゆっくりと自分の両手を見下ろした。


 つい今しがたまで、自分は車の後部座席にいたはずだった。


 窓の外では春の光がフロントガラスに跳ねていて、隣には蒼(あお)波(ば)がいて、翠(み)織(おり)と紅葉(もみじ)は制服の店へ入っていって。


 それが、瞬(まばた)きひとつで、この花の下だ。


「――ごきげんよう、白雪姫(こゆき)」


 鈴を転がすような声が、桜の向こうから届いた。


 振り返れば、自分と同じ真っ白な髪の少女が、袖(そで)を揃(そろ)えて立っている。


 瞳だけが、桜の色をしていた。


「白櫻姫(こさき)さん……」


「はい」


「……あの。私、さっきまで、車の中にいたはずなんですけど」


「ええ」


 白櫻姫(こさき)は、しれっと頷(うなず)いた。


「今は、こちらにおります」


「……ですよね」


 分かってはいたのだ。


 分かってはいたのだが、確認せずにはいられなかった。


 白雪姫(こゆき)は、こわごわと尋ねる。


「……どうやって、私を眠らせたんですか?」


「あなたの魂(たましい)を、ほんの少しばかり」


 白櫻姫(こさき)は、指先で摘(つま)むような仕草をしてみせた。


「いじらせていただきました」


「…………」


 白雪姫(こゆき)の表情が、じわじわと曇(くも)っていく。


「……か、勝手にいじらないでください……」


 怒るというより、困り果てた声だった。


「申し訳ございません。ですが、こうでもしなければ、一時間という時間を無駄にするところでしたので」


「無駄って……」


 ――もっとも、これは誰にでもできる芸当ではない。


 この身体には、白雪姫(こゆき)の魂と、白櫻姫(こさき)の魂、その二つが宿っている。


 同じ器を分け合っているからこそ、彼女は内側から手を伸ばすことができるのだ。


 そう頭では理解していても、いきなり意識を刈り取られるのは、やはり心臓に悪い。


「あの、白櫻姫(こさき)さん」


 白雪姫(こゆき)は、真っ直ぐに桜色の瞳を見た。


「……どうして、そこまでして稽古を急ぐんですか?」


 深夜に一度、稽古をしたばかりだ。


 今日は買い物で、明日は日曜日で、時間ならいくらでもある。


 それなのに、たった一時間の待ち時間を、この人は惜しんだ。


 白櫻姫(こさき)の睫(まつ)毛(げ)が、わずかに伏せられる。


「――このところ」


 花弁が、二人のあいだを横切っていく。


「魔(ま)神(じん)の気配を、大きく感じるのです」


 白雪姫(こゆき)の背中が、すっと冷えた。


 あの、黒紫の靄(もや)。


 あの、人の形をした災(わざわ)い。


「……えっ」


 慌てて、目を閉じる。


 教わった通りに呼吸を沈め、意識を外へ、遠くへと拡(ひろ)げていく。


 ――春の空気。


 ――山の気(け)配(はい)。


 ――遠くに、人の営みの気配。


 それだけだ。


 黒く濁(にご)ったものは、どこにもない。


「……感じません」


 白雪姫(こゆき)は、訝(いぶか)しげに目を開けた。


 自分の感(かん)知(ち)力(りょく)は、白櫻姫(こさき)に言わせれば、今や蒼(あお)波(ば)はおろか、翠(み)織(おり)先生よりも上らしい。


 その自分が、欠(かけ)片(ら)ほども捉えられないのだ。


「ええ。感じられないでしょう」


 白櫻姫(こさき)は、静かに言った。


「これは――感知で感じ取ったものでは、ございませんから」


「……え?」


 その言葉の意味が、白雪姫(こゆき)には掴(つか)めなかった。


 感知でないのなら、どうやって。


 白櫻姫(こさき)は、しばらく黙っていた。


 いつも即座に返ってくるはずの言葉が、来ない。


 ――言いたくは、なかった。


 言えば、この子を怖がらせてしまうかもしれない。


 千年のあいだ、誰にも打ち明けずに抱(かか)えてきたものだ。


 できることなら、墓の下まで持っていきたかった。


 けれど。


 あれがこの地へ近づいているのなら、黙っているわけにはいかない。


 この子たちの身の安全に関わることだ。


 それに――いずれ、必ず知られる。


 それならば、自分の口から告げたほうが、まだいい。


 ただ。


「白雪姫(こゆき)」


 白櫻姫(こさき)は、くるりと踵(きびす)を返した。


 白い後ろ姿が、桜の下に立つ。


「――こちらを、向いたままで聞いてくださいませ」


「……えっ、あの」


「顔を、見られたくないのです」


 風が、彼女の白い髪をさらっていった。


「わたくしが何故、神界で処刑されたのか。……その話を、いたします」


 白雪姫(こゆき)は、息を呑(の)んだ。


 そのまま、こくりと頷く。


 背を向けた相手には、見えないと知りながら。


「昔――わたくしが、まだ神(み)子(こ)であった頃のことです」


 白櫻姫(こさき)の声は、驚くほど落ち着いていた。


「一体の魔神が、現れました。……下手をすれば、世を丸ごと滅(ほろ)ぼしかねぬほどの」


「……世を、丸ごと」


「ええ。都の術(じゅつ)者(しゃ)は、総(そう)出(で)で立ち向かいました」


 花弁が、静かに降っていく。


「各地から名だたる神子が集められ、戦いを挑みました。……その大半が、やられました」


 淡々とした声だった。


 淡々としているぶん、生(なま)々(なま)しかった。


「陰(おん)陽(みょう)師(じ)の方々も、共に戦ってくださいました。それでも、誰ひとりとして、あれを倒すには至りませんでした」


「――おんみょうじ? 少し前にも、紅葉(もみじ)ちゃんが言ってたような……」


 思わず、白雪姫(こゆき)は聞き返していた。


 もちろん、その名前は知っている。


 漫画やアニメで、札(ふだ)を投げたり、妖(あやかし)と戦ったりしている人たちだ。


 けれど、それが本当にいるとは思っていなかった。


「陰陽師って……本当にいるんですか?」


「おりますよ」


 背中越しに、少しだけ和(やわ)らいだ声が返ってくる。


「神子として生まれなかった者が、式(しき)盤(ばん)や護(ご)符(ふ)を用いて、神子の力を人の手で再現する――そういう存在です」


「人の手で……」


「あなたは手を翳(かざ)すだけで氷を生みますが、常人にはできません。常人が火を熾(おこ)すなら、火(ひ)打(うち)石(いし)が要るでしょう。……あれと、同じことでございます」


 なるほど、と白雪姫(こゆき)は思った。


 道具で、届かないところに手を伸ばす人たち。


「詳しい話は、また後(のち)ほど」


「……はい」


「――話を、戻します」


 白櫻姫(こさき)の肩が、わずかに上下した。


「わたくしは、命(いのち)からがら、その魔神を討ち果たしました」


 その一言に、どれほどのものが圧(お)し込められているのか。


 白雪姫(こゆき)には、想像することしかできない。


「そうして神になる資格を得て、神界へと渡りました。……ここまでは、以前お話しした通りですね」


「はい」


「けれど――」


 声が、初めて途(と)切(ぎ)れた。


「あの戦いで、わたくしは、あれから大きな傷(きず)を負いました」


 白い後ろ姿が、ほんのわずかに縮んだように見えた。


「その傷は、身に負ったものではございません。……わたくしの魂に、〝魔(ま)神(じん)の断(だん)片(ぺん)〟が刻まれたのです」


「……まじんの、だんぺん」


 聞き慣れない言葉に、白雪姫(こゆき)は小さく首を傾(かし)げた。


 その気配を、白櫻姫(こさき)は背中で感じ取ったらしい。


「魔神の力の、一部――そう思っていただければ、結構です」


「……力の、一部」


「ええ。棘(とげ)のように、わたくしの魂に刺(さ)さったまま、抜けないのです」


 ふ、と自嘲するような息が漏(も)れた。


「そして、それがいつ暴(ぼう)走(そう)するとも知れません」


 ――暴走。


 その二文字が、白雪姫(こゆき)の胸にことりと落ちる。


「……わたくしは、そのようなものを神界へ持ち込みました。神(かみ)々(がみ)の住(す)まう地に、穢(けが)れを持ち込んだのです」


 声が、静かに冷えていく。


「その罪により――処(しょ)刑(けい)されました」


「…………」


 白雪姫(こゆき)は、何も言えなかった。


 言葉が、喉のあたりでばらばらになって、形にならなかった。


「そして」


 白櫻姫(こさき)は、なお続ける。


「わたくしが魔神の気配に気づいたのは、感知力によるものではありません」


 その右手が、自分の胸元にそっと当てられた。


「胸の奥が、疼(うず)くのです。……古い傷が、雨の日に痛むように」


「……それって」


「ええ。わたくしの魂に刻まれた断片が、同じ性質のものに反応している――そういうことでございましょう」


 風が、ひときわ強く吹いた。


 薄紅の渦(うず)が、二人のあいだを駆(か)け抜けていく。


「だからこそ、急いだのです」


 その声が、少しだけ早くなった。


「あれがこの地に来る前に。……一秒でも早く、あなたを強くしなければと、そう思ってしまいました」


 言い終えて、白櫻姫(こさき)は口を噤(つぐ)んだ。


 ――言ってしまった。


 そう言わんばかりに、白い頭が、わずかに俯(うつむ)く。


 背を向けているのだから、この顔は見られていない。


 見られていないはずなのに、白櫻姫(こさき)は、怖かった。


 魂に魔神の欠片を飼(か)っている女。


 いつ暴走するとも知れない、爆(ばく)薬(やく)のような存在。


 ――そう知った白雪姫(こゆき)は、これから自分を、どんな目で見るのだろう。


 千年前、あの目を、いやというほど浴びてきた。


 背中に、沈黙が積もっていく。


 白雪姫(こゆき)は、静かにその話を聞いていた。


 驚きは、確かにあった。


 けれど、それ以上に――目が、吸い寄せられていた。


 白櫻姫(こさき)の、左(ひだり)手(て)に。


 だらりと下ろされたその手が。


 ――震(ふる)えていた。


(……怖がってる)


 白雪姫(こゆき)は、はっとした。


 この人が、怖がっている。


 けれどそれは、魔神の気配に気づいたからではないはずだ。


 だって、この人は魔神を倒した人だ。


 あの日、行(むか)縢(ばき)で、人の形をした災いを圧倒した人だ。


 そんな人が、いまさら魔神を恐れて手を震わせたりするものか。


 だとすれば。


 この震えの理由は――。


「――っ」


 気づいた瞬間、白雪姫(こゆき)の身体は勝手に動いていた。


 草を蹴って、白い背中の横へ回り込む。


 そして。


 自分の右手で、震えるその左手を、掴(つか)むように握った。


「……っ」


 白櫻姫(こさき)の肩が、びくりと跳ねる。


 白雪姫(こゆき)は、そのまま彼女の左隣に並んで立った。


 同じ景色を、同じ高さで見る位置に。


「――ありがとう」


 握った手に、少しだけ力を込める。


「話してくれて」


 白櫻姫(こさき)の桜色の瞳が、大きく見開かれた。


 ――敬語では、なかった。


 出会ってからこのかた、この子が自分に向けた言葉は、いつだって丁寧で、少し他人行儀で、師(し)に向けるそれだった。


 それが今、綺(き)麗(れい)に剥(は)がれ落ちている。


「……あなたは」


 白櫻姫(こさき)の声が、掠(かす)れた。


「わたくしが、怖くはないのですか」


 問う声は、自分でも情けなくなるほど小さかった。


 返ってきたのは、あっけらかんとした声だった。


「怖くないよ」


 振り仰いだ白雪姫(こゆき)の顔には、綻(ほころ)ぶような笑みがあった。


「魔神は、怖い」


 握った手はそのままに、白雪姫(こゆき)は続ける。


「あの黒いのが目の前に立ったとき、私、足が動かなかったもん。あれは怖いよ。……実際に会ったから、分かる」


 白櫻姫(こさき)は、何も言えずに聞いていた。


「でも」


 白い髪が、風にさらわれる。


「その力を白櫻姫(こさき)さんが持ってるからって、白櫻姫(こさき)さんのことを怖がったりはせんよ」


 きっぱりと、そう言った。


「だって」


 握った手の、指の付け根のあたり。


 まだ、かすかに震えが残っている。


「白櫻姫(こさき)さんは、私たちを助けてくれたもん」


 その震えを宥(なだ)めるように、白雪姫(こゆき)は親指をそっと動かした。


「強いところも、いっぱい見せてくれた。……それで今、こうやって弱いところも見せてくれた」


 視線を落としたまま、白雪姫(こゆき)は言う。


「そういう人のこと、優しい人って言うっちゃろ?」


「…………」


 白櫻姫(こさき)は、俯(うつむ)いた。


 ――ああ。


 この感(かん)触(しょく)を、知っている。


 千年より、なお遠い記憶が、桜の底から浮かび上がってくる。


 白櫻姫(こさき)は、優れた神子だった。


 神子としての力だけではない。


 武術も、技(ぎ)芸(げい)も、筆(ふで)も、物(もの)心(ごころ)ついた時にはすべてが人の上を行き、周囲を驚かせた。


 それゆえに、人々は彼女を讃(たた)え、崇(あが)め奉(たてまつ)った――というだけでは、なかった。


 歳の近い子どもは怖がって、近寄らなかった。


 大人たちは、表では恭(うやうや)しく彼女の強さを褒め称(たた)え、裏では決して彼女に近づこうとしなかった。


 そして。


 生まれつき白かった髪と、桜色の瞳。


 神(じん)器(ぎ)すら顕(けん)現(げん)していないというのに、異形としか言いようのないその容姿は、根(ね)も葉もない噂を、いくらでも生ませた。


 ――呪(のろ)われた子だ。


 ――魔神と人とのあいだに生まれた子だ。


 ――近づけば、祟(たた)られる。


 ただそこに在(あ)るだけで、周囲を怖がらせてしまう。


 人でありながら、人とは呼ばれない。


 その辛(つら)さを、彼女は誰よりもよく知っていた。


 だから、あの時代。


 白櫻姫(こさき)の傍(かたわ)らに、裏も表もなく立っていてくれたのは。


 ――紅葉(もみじ)、ただ一人だった。


(……そして)


 握られた左手を、白櫻姫(こさき)はそっと見下ろす。


 小さな手だった。


 自分と同じ大きさの、同じ体温の、白い手。


(あの子に続いて、わたくしを、ただの一人の人として見てくださるのが……この方なのですね)


 白櫻姫(こさき)は、ゆっくりと顔を上げた。


「……わたくしを見ても怖がらず。この容姿を気(き)味(み)が悪いとも思わず。こうして傍(そば)にいてくださるなんて」


 声が、少し、震えていた。


「――変な人ですね」


 精一杯の、憎(にく)まれ口だった。


 言われたほうは、きょとんとした顔をして。


 それから、ぱっと笑った。


「気味悪くなんてないよ!」


 繋いでいないほうの手を、ぶんぶんと振る。


「だって、目は桜色で綺麗やし。髪だって、ほら」


 自分の白い髪を一房摘(つま)んで、白櫻姫(こさき)の髪の横に並べてみせる。


 春の光の下で、二筋の白が、まったく同じ色に重なった。


「――私とおそろいだし!」


「…………」


 白櫻姫(こさき)の呼吸が、止まった。


 千年、疎(うと)まれ続けた色を。


 この子は、〝おそろい〟と言った。


「だから、ね」


 白雪姫(こゆき)は、少しだけ照れたように目を逸(そ)らして、それからもう一度、真っ直ぐに彼女を見た。


「これからも、一緒にいてほしいな。白櫻姫(こさき)さ……」


 言いかけて、口を噤(つぐ)む。


 ――ずっと、引(ひ)っかかっていたのだ。


 昨日、服屋の前で喉(のど)まで出かかって、飲み込んでしまった言葉。


 いちばん近くにいて、いちばん助けてもらっていて、同じ身体を分け合っている相手を。


 いつまで、遠い呼び方で呼ぶのだろう。


「――白櫻姫(こさき)ちゃん!」


 言い直した声が、桜の下に響いた。


「…………」


 白櫻姫(こさき)は、しばらく動かなかった。


 やがて、その口元が、綻(ほころ)ぶ。


 ――いつの間にか。


 握られた左手から、震えは消えていた。


「……ありがとう」


 千年ぶりに、彼女はそう言った。


 敬語ではない、たった一言で。





❆





 ――そして、稽古が始まった。


 やることは、今朝の深夜とまったく同じだ。


 白櫻姫(こさき)が枝から生み出した木(ぼく)刀(とう)に、霊(れい)力(りょく)を纏(まと)わせる。


 ただ、それだけ。


「……っ、行って……!」


 ぐ、と息を詰める。


 ――ばきっ!


「あーっ!」


 乾いた音とともに、また一本が真ん中から折れた。


 草の上には、すでに折れた木刀が転がっている。


 一本、二本ではない。


 数十本という単位で、白木の破片が散乱していた。


「……あの、白櫻姫(こさき)ちゃん」


 肩で息をしながら、白雪姫(こゆき)は顔を上げる。


「これ、もう一時間くらい経ってない?」


「そうですね。……少々、確かめてまいります」


 白櫻姫(こさき)は、すっと目を閉じた。


 同じ身体を分け合う彼女は、白雪姫(こゆき)が眠っていても、外の様子をある程度は窺(うかが)うことができる。


 やがて、桜色の瞳が開いた。


「紅葉(もみじ)の採(さい)寸(すん)は、すでに済んだようです」


「えっ、じゃあ」


「あなたを起こさぬまま、そのまま車を出したご様子。……今は、帰り道のようですね」


「起こしてくれてよかったのに……」


「あなたの寝顔があまりに幸せそうであったのでしょう」


 白櫻姫(こさき)は、こともなげに言った。


「蒼(あお)波(ば)が、ずいぶんと大切そうに膝を貸しておりますよ」


「ひ、膝⁉」


「――帰り着いたら、わたくしが起こします」


 話を切るように、白櫻姫(こさき)は新しい木刀を差し出した。


「それまで、続けましょう」


「……はい!」


 差し出された一本を、白雪姫(こゆき)は両手で受け取る。


 込めるのではなく、零(こぼ)すように。


 押し込むのではなく、滲(にじ)ませるように。


 自分の手のひらの縁――そこから先の、断(だん)崖(がい)のような境(さかい)目(め)に、そっと霊力を溜(た)めていく。


 落ちるな。


 こぼれるな。


 ――渡(わた)れ。


 そして。


 車が、行縢の坂道に差しかかった、ちょうどその頃。


「――あ」


 白木の刀身が、ぼう、と淡く光った。


「……っ、あ、あっ! できてる! できてる‼」


 うっすらとした、青白い膜。


 それは確かに、木刀の表面を包んでいた。


 ただし。


 その光は、ろうそくの火のように激しく揺れていた。


 濃くなったかと思えば急に薄れ、滲(にじ)んだかと思えばまた膨(ふく)れる。


 白櫻姫(こさき)が纏わせたときの、あの水面のような滑(なめ)らかさとは、似ても似つかない。


 誰の目にも、安定しているとは言えなかった。


 ――それでも。


 確かに、渡ったのだ。


「――よくやりました」


 白櫻姫(こさき)の声に、はっきりとした熱があった。


「一日と半日で、ここまで来る神子は、そう多くはありません」


「で、でも……」


 白雪姫(こゆき)は、眉(まゆ)を寄(よ)せて刀身を見つめる。


「これ、ちょっとでも集中を緩(ゆる)めたら、すぐ解けちゃう」


 言った端(はた)から、ふっと光が消えた。


「……ほら」


「よろしい。よく分かっていますね」


 白櫻姫(こさき)は、指を二本立てた。


「では、あなたの課題を二つ、差し上げましょう」


「うん」


「一つ。――安定させること」


 人差し指が、ゆっくりと折られる。


「揺れる刃は、斬れません。纏わせるだけでは、ただ光っているだけでございます」


「……はい」


「二つ。――集中せずとも、できるようになること」


 中指が、折られた。


「戦の最中に、木刀ひとつへ心を傾(かたむ)けている暇(いとま)はございません。呼(こ)吸(きゅう)のように、瞬(まばた)きのように。……それができて、ようやく〝付(ふ)与(よ)〟と呼べます」


「……分かった」


 白雪姫(こゆき)は、折れた木刀の山を振り返る。


 数十本の白木が、桜(さくら)の花弁に埋もれかけていた。


 ――たった一時間で、こんなに。


 けれど、その中の一本だけは、確かに光ったのだ。


「――そろそろ、時間でございます」


 白櫻姫(こさき)の声とともに、桜の色が薄れはじめる。


「白雪姫(こゆき)」


「ん?」


「……あなたのわたくしに対する呼び方と話し方ですが」


 薄れゆく光の中で、彼女は少しだけ視線を泳(およ)がせた。


「――悪くは、ありませんでした」


「ふふっ。じゃあ、これからもこうやって話すね」


 そして――白雪姫(こゆき)は、目を覚ました。


 視界いっぱいに、車の天井。


 側頭部に、あたたかくて柔らかい感触。


「……あ、起きた」


 真上から、琥(こ)珀(はく)色(いろ)の瞳が覗(のぞ)き込んできた。


「おはよ、白雪姫(こゆき)ちゃん。……よだれ、垂れとったよ」


「……ぅ、ぇ⁉」


 白雪姫(こゆき)が跳ね起きるのと、車がむかばき青少年自然の家の駐車場に滑り込むのは、ほとんど同時だった。





❆





 翌日。


 あのあとは結局、いつも通りの一日が過ぎていった。


 夕食を食べて、お風呂に入って、紅葉(もみじ)の新しい服をみんなで広げて騒(さわ)いで、蒼(あお)波(ば)より先に眠った。


 そして今日は、日曜日。


 ――つまり、訓練の日である。


「……いい天気やねぇ」


 行縢山の登山口を見上げながら、白雪姫(こゆき)は目を細めた。


 新緑の匂いが濃い。


 鳥の声が、幾(いく)重(え)にも重なって降ってくる。


「紅葉(もみじ)ちゃん、行けなくて残念やったね」


 隣で、蒼(あお)波(ば)がストレッチをしながら言った。


「うん。転入の手続きが、まだ残ってるって」


「翠(み)織(おり)先生も大変やねぇ、戸籍から作らないといかんっちゃろ?」


 言いながら、蒼(あお)波(ば)は木の枝を二本、地面から拾い上げた。


 どちらも、太さは親指ほど。長さは腕一本ぶん。


 その片方を、白雪姫(こゆき)に差し出す。


「で。……これ、なに?」


「あ、うん。あのね」


 枝を受け取りながら、白雪姫(こゆき)は歩き出した。


「私、寝てるあいだに精(せい)神(しん)世(せ)界(かい)で稽古してもらってるっちゃけど。今やってるのが、これに霊力を纏わせる訓練で」


「……纏わせる?」


「うん。手じゃなくて、道具のほうに、霊力を通すの」


「それ……できると?」


「昨日、やっとできた。まだ、ふらふらやけど」


 蒼(あお)波(ば)は、手の中の枝をまじまじと見つめた。


 今朝の精神世界で、白雪姫(こゆき)は白櫻姫(こさき)に尋ねていた。


 この訓練を、蒼(あお)波(ば)にも教えていいか、と。


 答えは、あっさりしたものだった。


『構いません。――むしろ、あの子にこそ必要です』


『必要?』


『水の気(け)を持つ者は、制御がすべてですから』


 その言葉を伝えると、蒼(あお)波(ば)は真剣な顔で頷いた。


 ――そういうわけで。


 今日の登山は、体力作りと、霊力の制御と、霊力付与の、一(いっ)挙(きょ)三(さん)得(とく)というわけだ。


「……あ」


 登り始めて数分、蒼(あお)波(ば)が急に足を止めた。


「どうしたん?」


「昨日、車の中で急に寝たやん。あれ」


「……あー」


「あれ、稽古やったっちゃね。……そういうこと」


 蒼(あお)波(ば)は、納得したような、釈(しゃく)然(ぜん)としないような、複雑な顔をした。


「うちは、ただ白雪姫(こゆき)ちゃんが疲れて寝たと思って……」


「ご、ごめんね?」


「……ううん。膝、貸せたし」


「え?」


「なんでもない!」


 蒼(あお)波(ば)は、ずんずんと先を歩いていった。


 最初のうちは、白雪姫(こゆき)のほうが順調だった。


 精神世界でやったのと同じ手順を辿れば、集中さえすれば、枝の表面がちゃんと青白く光る。


 ――やっぱり、そうだ。


 白櫻姫(こさき)が以前言っていた通り、精神世界での訓練は、筋力以外はきちんと現実に反映されるらしい。


 夢の中で覚えたことが、目覚めても指先に残っている。


 不思議な感覚だった。


 一方の蒼(あお)波(ば)は、昨日の白雪姫(こゆき)とまったく同じところで躓(つまず)いていた。


「……行かん」


 枝を握りしめ、眉(まゆ)を寄せる。


「手までは来てるっちゃけど、そこから先に、全然」


「うんうん、それそれ。そこが壁なんよね」


「白雪姫(こゆき)ちゃん、なんか経験者みたいな顔しとる」


「一日先輩やし」


 笑いながら、二人は登っていく。


 目的地は、前と同じ〝行縢の滝〟。


 ――本当は、頂上まで行けるのではないか、という話も出た。


 身体強化を使えば、体力そのものは足りるはずだ。


 ただ、霊力がどこまで保(も)つのかが、まるで読めない。


 白雪姫(こゆき)は、自分の霊力量が多いと紅葉(もみじ)から聞かされてはいるが、それが具体的にどれほどなのかは知らない。


 蒼(あお)波(ば)に至っては、自分の霊力量など測ったこともないという。


 そんな状態で山頂まで登って、途中で空(から)になったら洒(しゃ)落(れ)にならない。


 ――だから、滝まで。


 これは、ちょうどいい訓練だった。


 平らな道を歩きながらなら、枝一本に心を注ぎ込むこともできるだろう。


 けれど、山ではそうはいかない。


 次に足を置く場所を見なければならないし、木の根や落ちた石にも気を配らなければならない。


 斜面の傾(かたむ)きが変われば、身体の重心も変わる。


 だから、枝にかけられる集中は、いつも半分ほど。


 ――適度な集中。


 それこそが、今の二人に必要なものだった。


 そうして、二人は滝へと辿り着いた。


 白い水が、断崖を真(ま)っ逆(さか)さまに落ちていく。


 水(みず)飛(し)沫(ぶき)が風に乗って、頬をひやりと撫(な)でた。


「……はぁー」


 岩に腰を下ろして、白雪姫(こゆき)は息をつく。


「初めてここに来たときは、もうへとへとやったのにね」


「うん。今日は、意外とそこまでじゃないね」


 蒼(あお)波(ば)も、汗を拭(ぬぐ)いながら頷いた。


「自転車通学のおかげやろうか」


「毎日あの坂を上ってたら、体力も付くやろーね」


 二人はしばらく、滝の音を聞いていた。


 水飛沫の向こうに、虹(にじ)がうっすらと架かっている。


 ――そして、休憩のあと。


 再び、枝を握った。


「……あれ」


 最初に声を上げたのは、白雪姫(こゆき)のほうだった。


「なんか、さっきより感触がいい」


「うちも」


 蒼(あお)波(ば)が、じっと枝を見つめる。


「うち、なんか……来そう」


「え」


「……来た」


 ぼう、と。


 蒼(あお)波(ば)の握る枝が、淡い青に光った。


「――えええっ⁉」


 思わず、白雪姫(こゆき)は立ち上がっていた。


「はやっ! 早くない⁉ 私、一日かかったっちゃけど!」


「え、いや、うちもびっくりしてるっちゃけど……」


 実際、蒼(あお)波(ば)がこの訓練を始めてから、まだ一時間ほどしか経っていない。


 登山口から滝までの、その一時間だけだ。


(――やっぱり、蒼(あお)波(ば)ちゃんって)


 白雪姫(こゆき)は、胸の内で呟(つぶや)いた。


(白櫻姫(こさき)ちゃんが言っとった通り、才能があるっちゃね)


『――正確には、少し違います』


 頭の中に、涼やかな声が落ちてきた。


『あの子は、感覚を掴むのが、非常に速いのです』


(感覚を掴むのが速い……でも、それを才能があるってことじゃ?)


『いえ。正確に表現すると、おそらく彼女は、幼い頃から神子としての手ほどきを、多少なりとも受けてきたためでしょう。その経験が活(い)きているのです』


 その言葉に、白雪姫(こゆき)は思い当たった。


 ――翠(み)織(おり)先生は言っていた。


 蒼(あお)波(ば)は、教え子の中でいちばん歴が長いのだと。


『幼少の頃から絵を描いてきた子は、筆(ふで)をどう動かせば形になるのかを、頭ではなく手で知っているように、ね』


 理屈より先に、身体が答えを持っている。


 それが、自分と蒼(あお)波(ば)の差なのだろう。


(……いいなぁ)


『あなたにはあなたの持ち味がございます』


(え?)


『――ご覧なさい。あなたの手元を』


 言われて、白雪姫(こゆき)は自分の枝に目を落とした。


 薄い青の膜が、そこに纏(まと)わりついている。


 ――蒼(あお)波(ば)の光に驚いて、立ち上がって、大声を出して。


 そのあいだ、ずっと。


「…………あ」


 集中など、一秒たりともしていなかった。


『集中せずとも付与できる。……課題の二つ目は、これで達成でございますね』


(――え、えっ、ほんとに⁉)


『あとは、安定させるのみ。……焦らずに』


 揺らめく光を見つめながら、白雪姫(こゆき)はぎゅっと枝を握り直した。


 ――まだ、炎(ほのお)のように頼りない。


 けれど、確かに前へ進んでいる。


「白雪姫(こゆき)ちゃーん、どうしたと? にやけてるよ」


「にやけてない!」


 結局、その日の訓練はそこそこに切り上げて、二人は山を下りた。





❆





 むかばき青少年自然の家に戻ると、玄関の前に翠(み)織(おり)が立っていた。


 もう手続きから帰ってきていたらしい。


 その表情を見て、白雪姫(こゆき)の足が止まる。


 ――穏(おだ)やかではない顔だった。


「おかえりなさい、二人とも」


「……ただいま帰りました。先生、何かあったんですか?」


 蒼(あお)波(ば)が、咄(とっ)嗟(さ)に敬語になる。


 翠(み)織(おり)は、手にした端末の画面をこちらに向けないまま、静かに言った。


「――また、魔(ま)力(りょく)の異常反応が現れたそうよ」


「……っ」


 二人の顔から、血(ち)の気(け)が引いた。


 前に幼稚園の跡地で猪(いのしし)の魔(ま)物(もの)と戦ったのは、ほんの数日前のことだ。


 その傷も乾ききらないうちに、また。


「……流石に、前回発生してから早すぎる……」


 翠(み)織(おり)が、ぽつりと漏(も)らした。


 独り言のような、呟(つぶや)きだった。


 それを聞いてしまったことが、余計に胸を重くする。


 白雪姫(こゆき)の頭に、今朝の桜が浮かんだ。


 ――このところ、魔神の気配を、大きく感じるのです。


(……まさか)


「先生」


 沈黙を破ったのは、蒼(あお)波(ば)だった。


「場所は?」


 翠(み)織(おり)は、少しだけ言い淀(よど)んでから、答えた。


「――港(みなと)神(じん)社(じゃ)の、近くよ」


「え……」


 蒼(あお)波(ば)の琥珀色の瞳が、まん丸に見開かれた。


 その顔から、表情という表情が抜け落ちていく。


「……それって」


「……? 蒼(あお)波(ば)ちゃん……?」


 白雪姫(こゆき)は、隣を見た。


 友達の唇が、震えながら動く。


「――昔、うちがよく遊んだ……」





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