第13話:大きな進歩
――白雪姫が次に瞼を開けたとき、そこは車の中ではなかった。
薄紅の天蓋が、どこまでも広がっている。
風が渡るたび、花弁が雪のように降りしきる。
鼻先をくすぐる、甘い春の匂い。
――精神世界だ。
「…………」
白雪姫は、ゆっくりと自分の両手を見下ろした。
つい今しがたまで、自分は車の後部座席にいたはずだった。
窓の外では春の光がフロントガラスに跳ねていて、隣には蒼波がいて、翠織と紅葉は制服の店へ入っていって。
それが、瞬きひとつで、この花の下だ。
「――ごきげんよう、白雪姫」
鈴を転がすような声が、桜の向こうから届いた。
振り返れば、自分と同じ真っ白な髪の少女が、袖を揃えて立っている。
瞳だけが、桜の色をしていた。
「白櫻姫さん……」
「はい」
「……あの。私、さっきまで、車の中にいたはずなんですけど」
「ええ」
白櫻姫は、しれっと頷いた。
「今は、こちらにおります」
「……ですよね」
分かってはいたのだ。
分かってはいたのだが、確認せずにはいられなかった。
白雪姫は、こわごわと尋ねる。
「……どうやって、私を眠らせたんですか?」
「あなたの魂を、ほんの少しばかり」
白櫻姫は、指先で摘むような仕草をしてみせた。
「いじらせていただきました」
「…………」
白雪姫の表情が、じわじわと曇っていく。
「……か、勝手にいじらないでください……」
怒るというより、困り果てた声だった。
「申し訳ございません。ですが、こうでもしなければ、一時間という時間を無駄にするところでしたので」
「無駄って……」
――もっとも、これは誰にでもできる芸当ではない。
この身体には、白雪姫の魂と、白櫻姫の魂、その二つが宿っている。
同じ器を分け合っているからこそ、彼女は内側から手を伸ばすことができるのだ。
そう頭では理解していても、いきなり意識を刈り取られるのは、やはり心臓に悪い。
「あの、白櫻姫さん」
白雪姫は、真っ直ぐに桜色の瞳を見た。
「……どうして、そこまでして稽古を急ぐんですか?」
深夜に一度、稽古をしたばかりだ。
今日は買い物で、明日は日曜日で、時間ならいくらでもある。
それなのに、たった一時間の待ち時間を、この人は惜しんだ。
白櫻姫の睫毛が、わずかに伏せられる。
「――このところ」
花弁が、二人のあいだを横切っていく。
「魔神の気配を、大きく感じるのです」
白雪姫の背中が、すっと冷えた。
あの、黒紫の靄。
あの、人の形をした災い。
「……えっ」
慌てて、目を閉じる。
教わった通りに呼吸を沈め、意識を外へ、遠くへと拡げていく。
――春の空気。
――山の気配。
――遠くに、人の営みの気配。
それだけだ。
黒く濁ったものは、どこにもない。
「……感じません」
白雪姫は、訝しげに目を開けた。
自分の感知力は、白櫻姫に言わせれば、今や蒼波はおろか、翠織先生よりも上らしい。
その自分が、欠片ほども捉えられないのだ。
「ええ。感じられないでしょう」
白櫻姫は、静かに言った。
「これは――感知で感じ取ったものでは、ございませんから」
「……え?」
その言葉の意味が、白雪姫には掴めなかった。
感知でないのなら、どうやって。
白櫻姫は、しばらく黙っていた。
いつも即座に返ってくるはずの言葉が、来ない。
――言いたくは、なかった。
言えば、この子を怖がらせてしまうかもしれない。
千年のあいだ、誰にも打ち明けずに抱えてきたものだ。
できることなら、墓の下まで持っていきたかった。
けれど。
あれがこの地へ近づいているのなら、黙っているわけにはいかない。
この子たちの身の安全に関わることだ。
それに――いずれ、必ず知られる。
それならば、自分の口から告げたほうが、まだいい。
ただ。
「白雪姫」
白櫻姫は、くるりと踵を返した。
白い後ろ姿が、桜の下に立つ。
「――こちらを、向いたままで聞いてくださいませ」
「……えっ、あの」
「顔を、見られたくないのです」
風が、彼女の白い髪をさらっていった。
「わたくしが何故、神界で処刑されたのか。……その話を、いたします」
白雪姫は、息を呑んだ。
そのまま、こくりと頷く。
背を向けた相手には、見えないと知りながら。
「昔――わたくしが、まだ神子であった頃のことです」
白櫻姫の声は、驚くほど落ち着いていた。
「一体の魔神が、現れました。……下手をすれば、世を丸ごと滅ぼしかねぬほどの」
「……世を、丸ごと」
「ええ。都の術者は、総出で立ち向かいました」
花弁が、静かに降っていく。
「各地から名だたる神子が集められ、戦いを挑みました。……その大半が、やられました」
淡々とした声だった。
淡々としているぶん、生々しかった。
「陰陽師の方々も、共に戦ってくださいました。それでも、誰ひとりとして、あれを倒すには至りませんでした」
「――おんみょうじ? 少し前にも、紅葉ちゃんが言ってたような……」
思わず、白雪姫は聞き返していた。
もちろん、その名前は知っている。
漫画やアニメで、札を投げたり、妖と戦ったりしている人たちだ。
けれど、それが本当にいるとは思っていなかった。
「陰陽師って……本当にいるんですか?」
「おりますよ」
背中越しに、少しだけ和らいだ声が返ってくる。
「神子として生まれなかった者が、式盤や護符を用いて、神子の力を人の手で再現する――そういう存在です」
「人の手で……」
「あなたは手を翳すだけで氷を生みますが、常人にはできません。常人が火を熾すなら、火打石が要るでしょう。……あれと、同じことでございます」
なるほど、と白雪姫は思った。
道具で、届かないところに手を伸ばす人たち。
「詳しい話は、また後ほど」
「……はい」
「――話を、戻します」
白櫻姫の肩が、わずかに上下した。
「わたくしは、命からがら、その魔神を討ち果たしました」
その一言に、どれほどのものが圧し込められているのか。
白雪姫には、想像することしかできない。
「そうして神になる資格を得て、神界へと渡りました。……ここまでは、以前お話しした通りですね」
「はい」
「けれど――」
声が、初めて途切れた。
「あの戦いで、わたくしは、あれから大きな傷を負いました」
白い後ろ姿が、ほんのわずかに縮んだように見えた。
「その傷は、身に負ったものではございません。……わたくしの魂に、〝魔神の断片〟が刻まれたのです」
「……まじんの、だんぺん」
聞き慣れない言葉に、白雪姫は小さく首を傾げた。
その気配を、白櫻姫は背中で感じ取ったらしい。
「魔神の力の、一部――そう思っていただければ、結構です」
「……力の、一部」
「ええ。棘のように、わたくしの魂に刺さったまま、抜けないのです」
ふ、と自嘲するような息が漏れた。
「そして、それがいつ暴走するとも知れません」
――暴走。
その二文字が、白雪姫の胸にことりと落ちる。
「……わたくしは、そのようなものを神界へ持ち込みました。神々の住まう地に、穢れを持ち込んだのです」
声が、静かに冷えていく。
「その罪により――処刑されました」
「…………」
白雪姫は、何も言えなかった。
言葉が、喉のあたりでばらばらになって、形にならなかった。
「そして」
白櫻姫は、なお続ける。
「わたくしが魔神の気配に気づいたのは、感知力によるものではありません」
その右手が、自分の胸元にそっと当てられた。
「胸の奥が、疼くのです。……古い傷が、雨の日に痛むように」
「……それって」
「ええ。わたくしの魂に刻まれた断片が、同じ性質のものに反応している――そういうことでございましょう」
風が、ひときわ強く吹いた。
薄紅の渦が、二人のあいだを駆け抜けていく。
「だからこそ、急いだのです」
その声が、少しだけ早くなった。
「あれがこの地に来る前に。……一秒でも早く、あなたを強くしなければと、そう思ってしまいました」
言い終えて、白櫻姫は口を噤んだ。
――言ってしまった。
そう言わんばかりに、白い頭が、わずかに俯く。
背を向けているのだから、この顔は見られていない。
見られていないはずなのに、白櫻姫は、怖かった。
魂に魔神の欠片を飼っている女。
いつ暴走するとも知れない、爆薬のような存在。
――そう知った白雪姫は、これから自分を、どんな目で見るのだろう。
千年前、あの目を、いやというほど浴びてきた。
背中に、沈黙が積もっていく。
白雪姫は、静かにその話を聞いていた。
驚きは、確かにあった。
けれど、それ以上に――目が、吸い寄せられていた。
白櫻姫の、左手に。
だらりと下ろされたその手が。
――震えていた。
(……怖がってる)
白雪姫は、はっとした。
この人が、怖がっている。
けれどそれは、魔神の気配に気づいたからではないはずだ。
だって、この人は魔神を倒した人だ。
あの日、行縢で、人の形をした災いを圧倒した人だ。
そんな人が、いまさら魔神を恐れて手を震わせたりするものか。
だとすれば。
この震えの理由は――。
「――っ」
気づいた瞬間、白雪姫の身体は勝手に動いていた。
草を蹴って、白い背中の横へ回り込む。
そして。
自分の右手で、震えるその左手を、掴むように握った。
「……っ」
白櫻姫の肩が、びくりと跳ねる。
白雪姫は、そのまま彼女の左隣に並んで立った。
同じ景色を、同じ高さで見る位置に。
「――ありがとう」
握った手に、少しだけ力を込める。
「話してくれて」
白櫻姫の桜色の瞳が、大きく見開かれた。
――敬語では、なかった。
出会ってからこのかた、この子が自分に向けた言葉は、いつだって丁寧で、少し他人行儀で、師に向けるそれだった。
それが今、綺麗に剥がれ落ちている。
「……あなたは」
白櫻姫の声が、掠れた。
「わたくしが、怖くはないのですか」
問う声は、自分でも情けなくなるほど小さかった。
返ってきたのは、あっけらかんとした声だった。
「怖くないよ」
振り仰いだ白雪姫の顔には、綻ぶような笑みがあった。
「魔神は、怖い」
握った手はそのままに、白雪姫は続ける。
「あの黒いのが目の前に立ったとき、私、足が動かなかったもん。あれは怖いよ。……実際に会ったから、分かる」
白櫻姫は、何も言えずに聞いていた。
「でも」
白い髪が、風にさらわれる。
「その力を白櫻姫さんが持ってるからって、白櫻姫さんのことを怖がったりはせんよ」
きっぱりと、そう言った。
「だって」
握った手の、指の付け根のあたり。
まだ、かすかに震えが残っている。
「白櫻姫さんは、私たちを助けてくれたもん」
その震えを宥めるように、白雪姫は親指をそっと動かした。
「強いところも、いっぱい見せてくれた。……それで今、こうやって弱いところも見せてくれた」
視線を落としたまま、白雪姫は言う。
「そういう人のこと、優しい人って言うっちゃろ?」
「…………」
白櫻姫は、俯いた。
――ああ。
この感触を、知っている。
千年より、なお遠い記憶が、桜の底から浮かび上がってくる。
白櫻姫は、優れた神子だった。
神子としての力だけではない。
武術も、技芸も、筆も、物心ついた時にはすべてが人の上を行き、周囲を驚かせた。
それゆえに、人々は彼女を讃え、崇め奉った――というだけでは、なかった。
歳の近い子どもは怖がって、近寄らなかった。
大人たちは、表では恭しく彼女の強さを褒め称え、裏では決して彼女に近づこうとしなかった。
そして。
生まれつき白かった髪と、桜色の瞳。
神器すら顕現していないというのに、異形としか言いようのないその容姿は、根も葉もない噂を、いくらでも生ませた。
――呪われた子だ。
――魔神と人とのあいだに生まれた子だ。
――近づけば、祟られる。
ただそこに在るだけで、周囲を怖がらせてしまう。
人でありながら、人とは呼ばれない。
その辛さを、彼女は誰よりもよく知っていた。
だから、あの時代。
白櫻姫の傍らに、裏も表もなく立っていてくれたのは。
――紅葉、ただ一人だった。
(……そして)
握られた左手を、白櫻姫はそっと見下ろす。
小さな手だった。
自分と同じ大きさの、同じ体温の、白い手。
(あの子に続いて、わたくしを、ただの一人の人として見てくださるのが……この方なのですね)
白櫻姫は、ゆっくりと顔を上げた。
「……わたくしを見ても怖がらず。この容姿を気味が悪いとも思わず。こうして傍にいてくださるなんて」
声が、少し、震えていた。
「――変な人ですね」
精一杯の、憎まれ口だった。
言われたほうは、きょとんとした顔をして。
それから、ぱっと笑った。
「気味悪くなんてないよ!」
繋いでいないほうの手を、ぶんぶんと振る。
「だって、目は桜色で綺麗やし。髪だって、ほら」
自分の白い髪を一房摘んで、白櫻姫の髪の横に並べてみせる。
春の光の下で、二筋の白が、まったく同じ色に重なった。
「――私とおそろいだし!」
「…………」
白櫻姫の呼吸が、止まった。
千年、疎まれ続けた色を。
この子は、〝おそろい〟と言った。
「だから、ね」
白雪姫は、少しだけ照れたように目を逸らして、それからもう一度、真っ直ぐに彼女を見た。
「これからも、一緒にいてほしいな。白櫻姫さ……」
言いかけて、口を噤む。
――ずっと、引っかかっていたのだ。
昨日、服屋の前で喉まで出かかって、飲み込んでしまった言葉。
いちばん近くにいて、いちばん助けてもらっていて、同じ身体を分け合っている相手を。
いつまで、遠い呼び方で呼ぶのだろう。
「――白櫻姫ちゃん!」
言い直した声が、桜の下に響いた。
「…………」
白櫻姫は、しばらく動かなかった。
やがて、その口元が、綻ぶ。
――いつの間にか。
握られた左手から、震えは消えていた。
「……ありがとう」
千年ぶりに、彼女はそう言った。
敬語ではない、たった一言で。
❆
――そして、稽古が始まった。
やることは、今朝の深夜とまったく同じだ。
白櫻姫が枝から生み出した木刀に、霊力を纏わせる。
ただ、それだけ。
「……っ、行って……!」
ぐ、と息を詰める。
――ばきっ!
「あーっ!」
乾いた音とともに、また一本が真ん中から折れた。
草の上には、すでに折れた木刀が転がっている。
一本、二本ではない。
数十本という単位で、白木の破片が散乱していた。
「……あの、白櫻姫ちゃん」
肩で息をしながら、白雪姫は顔を上げる。
「これ、もう一時間くらい経ってない?」
「そうですね。……少々、確かめてまいります」
白櫻姫は、すっと目を閉じた。
同じ身体を分け合う彼女は、白雪姫が眠っていても、外の様子をある程度は窺うことができる。
やがて、桜色の瞳が開いた。
「紅葉の採寸は、すでに済んだようです」
「えっ、じゃあ」
「あなたを起こさぬまま、そのまま車を出したご様子。……今は、帰り道のようですね」
「起こしてくれてよかったのに……」
「あなたの寝顔があまりに幸せそうであったのでしょう」
白櫻姫は、こともなげに言った。
「蒼波が、ずいぶんと大切そうに膝を貸しておりますよ」
「ひ、膝⁉」
「――帰り着いたら、わたくしが起こします」
話を切るように、白櫻姫は新しい木刀を差し出した。
「それまで、続けましょう」
「……はい!」
差し出された一本を、白雪姫は両手で受け取る。
込めるのではなく、零すように。
押し込むのではなく、滲ませるように。
自分の手のひらの縁――そこから先の、断崖のような境目に、そっと霊力を溜めていく。
落ちるな。
こぼれるな。
――渡れ。
そして。
車が、行縢の坂道に差しかかった、ちょうどその頃。
「――あ」
白木の刀身が、ぼう、と淡く光った。
「……っ、あ、あっ! できてる! できてる‼」
うっすらとした、青白い膜。
それは確かに、木刀の表面を包んでいた。
ただし。
その光は、ろうそくの火のように激しく揺れていた。
濃くなったかと思えば急に薄れ、滲んだかと思えばまた膨れる。
白櫻姫が纏わせたときの、あの水面のような滑らかさとは、似ても似つかない。
誰の目にも、安定しているとは言えなかった。
――それでも。
確かに、渡ったのだ。
「――よくやりました」
白櫻姫の声に、はっきりとした熱があった。
「一日と半日で、ここまで来る神子は、そう多くはありません」
「で、でも……」
白雪姫は、眉を寄せて刀身を見つめる。
「これ、ちょっとでも集中を緩めたら、すぐ解けちゃう」
言った端から、ふっと光が消えた。
「……ほら」
「よろしい。よく分かっていますね」
白櫻姫は、指を二本立てた。
「では、あなたの課題を二つ、差し上げましょう」
「うん」
「一つ。――安定させること」
人差し指が、ゆっくりと折られる。
「揺れる刃は、斬れません。纏わせるだけでは、ただ光っているだけでございます」
「……はい」
「二つ。――集中せずとも、できるようになること」
中指が、折られた。
「戦の最中に、木刀ひとつへ心を傾けている暇はございません。呼吸のように、瞬きのように。……それができて、ようやく〝付与〟と呼べます」
「……分かった」
白雪姫は、折れた木刀の山を振り返る。
数十本の白木が、桜の花弁に埋もれかけていた。
――たった一時間で、こんなに。
けれど、その中の一本だけは、確かに光ったのだ。
「――そろそろ、時間でございます」
白櫻姫の声とともに、桜の色が薄れはじめる。
「白雪姫」
「ん?」
「……あなたのわたくしに対する呼び方と話し方ですが」
薄れゆく光の中で、彼女は少しだけ視線を泳がせた。
「――悪くは、ありませんでした」
「ふふっ。じゃあ、これからもこうやって話すね」
そして――白雪姫は、目を覚ました。
視界いっぱいに、車の天井。
側頭部に、あたたかくて柔らかい感触。
「……あ、起きた」
真上から、琥珀色の瞳が覗き込んできた。
「おはよ、白雪姫ちゃん。……よだれ、垂れとったよ」
「……ぅ、ぇ⁉」
白雪姫が跳ね起きるのと、車がむかばき青少年自然の家の駐車場に滑り込むのは、ほとんど同時だった。
❆
翌日。
あのあとは結局、いつも通りの一日が過ぎていった。
夕食を食べて、お風呂に入って、紅葉の新しい服をみんなで広げて騒いで、蒼波より先に眠った。
そして今日は、日曜日。
――つまり、訓練の日である。
「……いい天気やねぇ」
行縢山の登山口を見上げながら、白雪姫は目を細めた。
新緑の匂いが濃い。
鳥の声が、幾重にも重なって降ってくる。
「紅葉ちゃん、行けなくて残念やったね」
隣で、蒼波がストレッチをしながら言った。
「うん。転入の手続きが、まだ残ってるって」
「翠織先生も大変やねぇ、戸籍から作らないといかんっちゃろ?」
言いながら、蒼波は木の枝を二本、地面から拾い上げた。
どちらも、太さは親指ほど。長さは腕一本ぶん。
その片方を、白雪姫に差し出す。
「で。……これ、なに?」
「あ、うん。あのね」
枝を受け取りながら、白雪姫は歩き出した。
「私、寝てるあいだに精神世界で稽古してもらってるっちゃけど。今やってるのが、これに霊力を纏わせる訓練で」
「……纏わせる?」
「うん。手じゃなくて、道具のほうに、霊力を通すの」
「それ……できると?」
「昨日、やっとできた。まだ、ふらふらやけど」
蒼波は、手の中の枝をまじまじと見つめた。
今朝の精神世界で、白雪姫は白櫻姫に尋ねていた。
この訓練を、蒼波にも教えていいか、と。
答えは、あっさりしたものだった。
『構いません。――むしろ、あの子にこそ必要です』
『必要?』
『水の気を持つ者は、制御がすべてですから』
その言葉を伝えると、蒼波は真剣な顔で頷いた。
――そういうわけで。
今日の登山は、体力作りと、霊力の制御と、霊力付与の、一挙三得というわけだ。
「……あ」
登り始めて数分、蒼波が急に足を止めた。
「どうしたん?」
「昨日、車の中で急に寝たやん。あれ」
「……あー」
「あれ、稽古やったっちゃね。……そういうこと」
蒼波は、納得したような、釈然としないような、複雑な顔をした。
「うちは、ただ白雪姫ちゃんが疲れて寝たと思って……」
「ご、ごめんね?」
「……ううん。膝、貸せたし」
「え?」
「なんでもない!」
蒼波は、ずんずんと先を歩いていった。
最初のうちは、白雪姫のほうが順調だった。
精神世界でやったのと同じ手順を辿れば、集中さえすれば、枝の表面がちゃんと青白く光る。
――やっぱり、そうだ。
白櫻姫が以前言っていた通り、精神世界での訓練は、筋力以外はきちんと現実に反映されるらしい。
夢の中で覚えたことが、目覚めても指先に残っている。
不思議な感覚だった。
一方の蒼波は、昨日の白雪姫とまったく同じところで躓いていた。
「……行かん」
枝を握りしめ、眉を寄せる。
「手までは来てるっちゃけど、そこから先に、全然」
「うんうん、それそれ。そこが壁なんよね」
「白雪姫ちゃん、なんか経験者みたいな顔しとる」
「一日先輩やし」
笑いながら、二人は登っていく。
目的地は、前と同じ〝行縢の滝〟。
――本当は、頂上まで行けるのではないか、という話も出た。
身体強化を使えば、体力そのものは足りるはずだ。
ただ、霊力がどこまで保つのかが、まるで読めない。
白雪姫は、自分の霊力量が多いと紅葉から聞かされてはいるが、それが具体的にどれほどなのかは知らない。
蒼波に至っては、自分の霊力量など測ったこともないという。
そんな状態で山頂まで登って、途中で空になったら洒落にならない。
――だから、滝まで。
これは、ちょうどいい訓練だった。
平らな道を歩きながらなら、枝一本に心を注ぎ込むこともできるだろう。
けれど、山ではそうはいかない。
次に足を置く場所を見なければならないし、木の根や落ちた石にも気を配らなければならない。
斜面の傾きが変われば、身体の重心も変わる。
だから、枝にかけられる集中は、いつも半分ほど。
――適度な集中。
それこそが、今の二人に必要なものだった。
そうして、二人は滝へと辿り着いた。
白い水が、断崖を真っ逆さまに落ちていく。
水飛沫が風に乗って、頬をひやりと撫でた。
「……はぁー」
岩に腰を下ろして、白雪姫は息をつく。
「初めてここに来たときは、もうへとへとやったのにね」
「うん。今日は、意外とそこまでじゃないね」
蒼波も、汗を拭いながら頷いた。
「自転車通学のおかげやろうか」
「毎日あの坂を上ってたら、体力も付くやろーね」
二人はしばらく、滝の音を聞いていた。
水飛沫の向こうに、虹がうっすらと架かっている。
――そして、休憩のあと。
再び、枝を握った。
「……あれ」
最初に声を上げたのは、白雪姫のほうだった。
「なんか、さっきより感触がいい」
「うちも」
蒼波が、じっと枝を見つめる。
「うち、なんか……来そう」
「え」
「……来た」
ぼう、と。
蒼波の握る枝が、淡い青に光った。
「――えええっ⁉」
思わず、白雪姫は立ち上がっていた。
「はやっ! 早くない⁉ 私、一日かかったっちゃけど!」
「え、いや、うちもびっくりしてるっちゃけど……」
実際、蒼波がこの訓練を始めてから、まだ一時間ほどしか経っていない。
登山口から滝までの、その一時間だけだ。
(――やっぱり、蒼波ちゃんって)
白雪姫は、胸の内で呟いた。
(白櫻姫ちゃんが言っとった通り、才能があるっちゃね)
『――正確には、少し違います』
頭の中に、涼やかな声が落ちてきた。
『あの子は、感覚を掴むのが、非常に速いのです』
(感覚を掴むのが速い……でも、それを才能があるってことじゃ?)
『いえ。正確に表現すると、おそらく彼女は、幼い頃から神子としての手ほどきを、多少なりとも受けてきたためでしょう。その経験が活きているのです』
その言葉に、白雪姫は思い当たった。
――翠織先生は言っていた。
蒼波は、教え子の中でいちばん歴が長いのだと。
『幼少の頃から絵を描いてきた子は、筆をどう動かせば形になるのかを、頭ではなく手で知っているように、ね』
理屈より先に、身体が答えを持っている。
それが、自分と蒼波の差なのだろう。
(……いいなぁ)
『あなたにはあなたの持ち味がございます』
(え?)
『――ご覧なさい。あなたの手元を』
言われて、白雪姫は自分の枝に目を落とした。
薄い青の膜が、そこに纏わりついている。
――蒼波の光に驚いて、立ち上がって、大声を出して。
そのあいだ、ずっと。
「…………あ」
集中など、一秒たりともしていなかった。
『集中せずとも付与できる。……課題の二つ目は、これで達成でございますね』
(――え、えっ、ほんとに⁉)
『あとは、安定させるのみ。……焦らずに』
揺らめく光を見つめながら、白雪姫はぎゅっと枝を握り直した。
――まだ、炎のように頼りない。
けれど、確かに前へ進んでいる。
「白雪姫ちゃーん、どうしたと? にやけてるよ」
「にやけてない!」
結局、その日の訓練はそこそこに切り上げて、二人は山を下りた。
❆
むかばき青少年自然の家に戻ると、玄関の前に翠織が立っていた。
もう手続きから帰ってきていたらしい。
その表情を見て、白雪姫の足が止まる。
――穏やかではない顔だった。
「おかえりなさい、二人とも」
「……ただいま帰りました。先生、何かあったんですか?」
蒼波が、咄嗟に敬語になる。
翠織は、手にした端末の画面をこちらに向けないまま、静かに言った。
「――また、魔力の異常反応が現れたそうよ」
「……っ」
二人の顔から、血の気が引いた。
前に幼稚園の跡地で猪の魔物と戦ったのは、ほんの数日前のことだ。
その傷も乾ききらないうちに、また。
「……流石に、前回発生してから早すぎる……」
翠織が、ぽつりと漏らした。
独り言のような、呟きだった。
それを聞いてしまったことが、余計に胸を重くする。
白雪姫の頭に、今朝の桜が浮かんだ。
――このところ、魔神の気配を、大きく感じるのです。
(……まさか)
「先生」
沈黙を破ったのは、蒼波だった。
「場所は?」
翠織は、少しだけ言い淀んでから、答えた。
「――港神社の、近くよ」
「え……」
蒼波の琥珀色の瞳が、まん丸に見開かれた。
その顔から、表情という表情が抜け落ちていく。
「……それって」
「……? 蒼波ちゃん……?」
白雪姫は、隣を見た。
友達の唇が、震えながら動く。
「――昔、うちがよく遊んだ……」
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