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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第02章:不死の炎
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第12話:週末の買い物

 ――瞼(まぶた)を開けると、そこは満開の桜の下だった。


 薄紅の天(てん)蓋(がい)が、どこまでも続いている。


 風が渡るたびに、花弁が雪のように降りしきる。


 現実の時刻でいえば、土曜日の午前一時。


 布団に入ってから、ほんの数十分ほどしか経っていないはずだ。


 それなのに、白雪姫(こゆき)の意識はもう、この場所に立っていた。


「――ごきげんよう、白雪姫(こゆき)」


 鈴を転がすような声が、花の向こうから届く。


 振り返れば、自分と同じ真っ白な髪の少女が、袖(そで)を揃(そろ)えて微(ほほ)笑(え)んでいた。


 瞳だけが、桜の色をしている。


「白櫻姫(こさき)さん。……ええと、今日も、ですか?」


「ええ。今日も、です」


 白櫻姫(こさき)は、すっと片手を上げた。


 その指先に応えるように、頭上の枝が生き物のようにしなり、捻(ね)じれ、光を孕(はら)みながら形を変えていく。


 ――ことん。


 彼女の手の中に落ちてきたのは、二本の木(ぼく)刀(とう)だった。


 節ひとつない、白木の刀身。


 柄まで含めて、まるで何十年も使い込まれた道具のように整っている。


「わ……」


 白雪姫(こゆき)は、思わず声を漏らした。


 植物の生命力を自在に操るという、白櫻姫(こさき)の力。


 枯れかけた草を一瞬で咲かせるところは何度も見てきたけれど、こうして〝道具〟にしてしまうところを見るのは初めてだった。


「本日の稽古は、これでございます」


 差し出された一本を、白雪姫(こゆき)は両手で受け取る。


 ずしり、と手のひらに重みが乗った。


「これに霊(れい)力(りょく)を纏(まと)わせて、打ち合っていただきます」


「……霊力を、纏わせる」


「ええ」


 白雪姫(こゆき)は、自分の手の中の木刀を見下ろした。


(……それだけ?)


 正直に言えば、拍子抜けした。


 これまでの稽古といえば、白櫻姫(こさき)に十メートル単位で吹き飛ばされたり、桜の花弁の雨から逃げ回ったりと、およそ〝稽古〟という言葉から想像できないものばかりだったのだ。


 それに比べれば、棒に力を通すだけなんて。


「では、どうぞ」


 その心を見透かしたように、白櫻姫(こさき)は静かに言った。


「まずは一度、纏わせてごらんなさい」


「……はい」


 白雪姫(こゆき)は木刀を正面に構え、目を閉じた。


 臍(へそ)の下あたりに、冷たく澄んだ流れを集める。


 ――要領は、身体強化と同じはずだ。


 腹から、胸へ。


 胸から、肩へ。


 肩から、腕へ。


 腕から、手首へ。


 手首から、手のひらへ――。


「……あれ?」


 そこで、流れが止まった。


 手のひらの縁。


 柄を握っている、その指の先。


 そこから先へ、霊力が一歩も進んでいかない。


 まるで、断(だん)崖(がい)の縁で足を止めた馬のように。


「……っ、行って……!」


 もう一度、押し込む。


 押し込むほどに、自分の指が熱を持つだけだった。


 木刀は、ただの木の棒として、そこにある。


「――難しいでしょう?」


「……はい」


 白雪姫(こゆき)は、素直に頷いた。


 白櫻姫(こさき)は、自分の木刀の刀身をそっと撫(な)でる。


「自分の身体というものは、指の先まで、髪の一本に至るまで、すべてが繋(つな)がっております。ゆえに、感覚のままに霊力を通すことができる」


「……はい」


「けれど、この木刀は違います」


 とん、と刀身の峰(みね)を、自分の手のひらに当ててみせる。


「触れてはいても、繋がってはおりません。あなたの霊力にとって、これは〝他人〟なのでございます」


「……他人」


「そう。特殊な道具なしで、他人の身体に、あなたの血を流し込めますか?」


 ぞくりとする言い方だった。


 けれど、腑(ふ)に落ちる言い方でもあった。


 自分の霊力は、自分の器の中でしか動けない。


 その外にあるものへ渡していくというのは、器と器のあいだに橋を架けるようなことなのだ。


「ちなみに」


 と、白櫻姫(こさき)はごく軽い調子で続けた。


「これを極(きわ)めれば、この木刀で岩をも斬れるようになります」


「……えっ」


 思わず、白雪姫(こゆき)は自分の手の中を見た。


 白木の棒。


 振り回せば痣(あざ)くらいはできるだろうけれど、岩。


「い、岩って……いやいや、流石にそれは――」


「信じられませんか」


「だ、だって……」


 白櫻姫(こさき)は、ふ、と目を細めた。


 こういう顔をするとき、この人は大抵、こちらの逃げ道を先に塞いでいる。


「では、白雪姫(こゆき)。行(むか)縢(ばき)で、オオカミの魔(ま)物(もの)が二つに裂けたのを覚えておいでですか」


「……っ」


 ――覚えて、いる。


 ぼんやりとだが、確かに。


 黒紫の靄(もや)を纏(まと)った獣が、ほとんど音もなく、真っ二つになった光景。


 あのとき自分の身体を動かしていたのは、目の前のこの人だった。


「あれは、わたくしの霊力が為したことでございます。……岩を斬ることと、大した違いはございません」


「…………」


 白雪姫(こゆき)は、ぐっと言葉に詰まった。


 眉(まゆ)唾(つば)だと思っていたものが、急に現実の輪郭を持ちはじめる。


 この人は、そういう次元にいるのだ。


「もっとも」


 白櫻姫(こさき)は、木刀の切っ先を軽く下げた。


「あなたが武器を手に取る日が来るかどうかは、わたくしにも分かりません」


「……じゃあ、なんで」


「これは、制(せい)御(ぎょ)を磨くための稽古だからでございます」


 風が吹き、二人のあいだを花弁が横切っていく。


「一昨日、あなたは猪(いのしし)の魔物と戦いましたね。そこで見えた課題を、覚えていらっしゃいますか」


「……冷気を、狙ったところにだけ当てられるようになること」


「よくできました」


 こくり、と白櫻姫(こさき)は頷く。


「あなたの冷気は、撒(ま)き散らすばかりです。あれでは、隣に仲間がいる限り、あなたは何もできません」


 昼下がりの園庭を思い出す。


 草の上で眠る蒼(あお)波(ば)の黒髪に、うっすらと降りていた白い粉。


 あれを思い出すと、今でも背筋が冷える。


「……はい」


「そしてもうひとつ。あの氷の一撃を、もっと疾(はや)く放てるようになること」


「……はい」


「そのどちらも、突き詰めれば同じところに行き着きます」


 白櫻姫(こさき)は、自分の木刀をすっと持ち上げた。


 刀身の周りの空気が、ゆらりと歪(ゆが)む。


 次の瞬間には、白木の刀身が淡い光の膜に包まれていた。


 薄く、静かで、ぴたりと張りついた光。


 ――ああ、と白雪姫(こゆき)は思った。


 あの膜のなめらかさは、間違いなく〝制御〟そのものだ。


「霊力を、思うままに置き、思うままに留める。……この稽古は、そのために最も適しております」


「……分かりました」


 白雪姫(こゆき)は、木刀を握り直した。


「やります。……やらせてください」


「結構」


 ――そうして、稽古が始まった。


 まずは、纏わせるところから。


 白雪姫(こゆき)は目を閉じ、呼吸を整え、手のひらの先へ意識を伸ばす。


 行って。


 通って。


 ――お願いだから、行って。


 けれど霊力は、指の付け根で足踏みするばかりだった。


(……もう少し、強く込めたら)


 浅はかだったと気づいたのは、その直後だ。


 ぐ、と力を込めた瞬間。


 ――ばきっ!


「あっ!」


 乾いた音を立てて、柄が真ん中から折れた。


 白木の破片が、ぱらぱらと草の上に落ちる。


「…………」


 白雪姫(こゆき)は、折れた柄を握ったまま固まった。


 やってしまった、という顔で、そろそろと白櫻姫(こさき)を見上げる。


「ご、ごめんなさい……!」


「構いません」


 白櫻姫(こさき)は片手を上げた。


 枝がしなり、光が走り、また新しい木刀がその手に落ちてくる。


 あまりの早さに、白雪姫(こゆき)のほうが目を丸くした。


「霊力を強く込めても、身体強化が強まるだけです。……握力で潰(つぶ)しては、木刀がいくつあっても足りませんよ」


「……はい……」


 二本目を受け取り、今度は力を抜いて構える。


 込めるのではなく、零(こぼ)すように。


 注ぐのではなく、滲(にじ)ませるように。


 ――だめだ。


 やっぱり、指の先で止まる。


(……これは、想像以上に難しすぎる)


 白雪姫(こゆき)は、心の中で呻(うめ)いた。


 しかも、この人はこれを極めた上で、魔物を斬るところまで行ったのだ。


 他人がやっているのを見て、〝自分にもできそう〟と思ったのに、まったくできない。


 この感覚には覚えがある。


 鉄棒の逆上がりも、リコーダーの高い〝シ〟も、そうだった。


 できる人は、あまりにも当たり前の顔をしてやってしまう。


 その裏側にある才能と、積み上げてきた時間の厚みを、こういう瞬間に否(いや)応(おう)なく思い知らされるのだ。


(……白櫻姫(こさき)さんって、ほんとうに、すごい人やっちゃね)


 三本目が折れ、四本目が折れ、五本目でようやく壊さずに済むようになって。


 それでも、光の膜はとうとう一度も生まれなかった。


「――そろそろ、時間でございます」


 白櫻姫(こさき)の声に、白雪姫(こゆき)は肩で息をしながら顔を上げた。


 桜の色が、うっすらと薄くなりはじめている。


 目覚めが近いという、この世界の合図だ。


「……結局、一回も」


「一日でできるようなものであれば、誰も苦労はいたしません」


 白櫻姫(こさき)は、折れた木刀を土(つち)に還(かえ)しながら言った。


「普通の神(み)子(こ)であっても、これは一日では至れません。……また明日から、励みましょう」


「……うん」


 白雪姫(こゆき)は、こくりと頷いた。


 それから、ふと思い出したように顔を上げる。


「あ、そうだ。あのね、白櫻姫(こさき)さん」


「はい?」


「今日、みんなで買い物に行くんです」


 薄れていく桜を見上げながら、白雪姫(こゆき)は続けた。


「紅葉(もみじ)ちゃんの制服を頼みに行くのがいちばんの用事なんですけど、たぶん、服も買うと思うんですよ。私と蒼(あお)波(ば)ちゃんの分も」


「はあ」


「だから、白櫻姫(こさき)さんも気に入ったのがあったら、言ってくださいね」


 白櫻姫(こさき)の返事が、そこで止まった。


 桜色の瞳が、二度、三度と瞬(まばた)く。


「……何故、わたくしに?」


 本気で不思議そうな声だった。


 だから白雪姫(こゆき)のほうも、本気で不思議そうな顔になった。


「え、だって」


 自分の胸に、ぽん、と手を当てる。


「今のこの身体って、私だけのじゃないでしょ? 白櫻姫(こさき)さんのでもあるんですから」


「…………」


「だから、白櫻姫(こさき)さんが着たいと思う服があったら、着たほうがいいと思うんです。……逆に、なんでそんなこと聞くんですか?」


 消えかけの花弁が、二人のあいだをゆっくりと落ちていく。


 白櫻姫(こさき)は、しばらく何も言わなかった。


 千年を生きて、神の座にまで届いた少女が、ただ目を丸くして立っている。


 やがて――その口元が、ほろりと綻(ほころ)んだ。


「……承知いたしました」


 深く、丁寧な一礼。


「気に入ったものがございましたら、遠慮なく申し上げるといたしましょう」


「はい!」


 その返事を最後に、桜が光に溶(と)けていく。


 ――そして、白雪姫(こゆき)は目を覚ました。





❆





 午前十時過ぎ。


 延(のべ)岡(おか)の空は、気持ちがいいほど晴れていた。


 翠(み)織(おり)の車が停まったのは、巨(きょ)大(だい)な駐車場の一角だった。


 ――イオン延岡店。


 衣料品も、日用品も、食品も、文具も。


 この街で生活に必要なものを一度に揃えるなら、ここが一番早い。


「はい、降りて降りて。紅葉(もみじ)ちゃん、シートベルト外せた?」


「……ええ。この金(かな)具(ぐ)、慣れないだけよ」


 助手席から降りた紅葉(もみじ)が、袖を整えながらそう言った。


 千年を生きた少女は、車という乗り物にはまだ思うところがあるらしい。


 そして、自動ドアをくぐった瞬間。


 白雪姫(こゆき)は、ぴたりと足を止めた。


 ――視線。


 右から。左から。前から。


 すれ違う人が、ほんの一瞬こちらを見て、すぐに目を逸らす。


 その〝一瞬〟が、あちこちで同時に起きる。


(……やっぱり、多いっちゃね)


 仕方がないことだとは思う。


 白い髪は、この世に少ないわけではない。


 けれど、年を重ねて傷(いた)んだ白髪でもなく、若い人が染めた白でもなく。


 中学一年生の背丈で、癖も傷みもない、絹(きぬ)のような白。


 そのうえ、瞳まで白いのだ。


 傍から見れば、人形が歩いているようなものだろう。


「……白雪姫(こゆき)ちゃん」


 隣に並んだ蒼(あお)波(ば)が、そっと声を落とした。


「やっぱり、帽子被ったほうがよかったんじゃない? 車に置いてきちゃったけど、取ってこよっか?」


 優しい提案だった。


 だからこそ、白雪姫(こゆき)は首を横に振った。


「……ううん。大丈夫」


「でも」


「私、これからもずっとこの髪と目で生きていくでしょ?」


 自分の白い髪を、指先で軽く摘(つま)んでみせる。


「やったら、人の目にも慣れておかないと。……いつまでも隠してたら、たぶん、ずっと怖いままやから」


 前向きな答えだった。


 ――ただし。


 その顔は、見事なまでに床のタイルを見ていた。


 完全に俯(うつむ)いている。


 どこからどう見ても、まったく慣れていない。


「……ふふ」


 思わず蒼(あお)波(ば)は笑いそうになって、慌てて口を噤(つぐ)んだ。


 言ってしまうのは、簡単だ。


 けれど、この子が自分で決めて、自分で踏み出そうとしていることに、余計な口を挟みたくはなかった。


 蒼(あお)波(ば)は、後ろを歩く翠(み)織(おり)とちらりと目を合わせる。


 深緑のワンピースの女性は、目尻を柔らかく下げて微笑んだ。


 ――それでいいのよ、と言うように。





❆





 エスカレーターを上がって、二階へ。


 二階には、普段着からスーツ、ランドセル、旅行鞄、財布に、冠婚葬祭用の礼服やアクセサリまでが並んでいる。


 その奥にはゲームセンターや本屋もあって、賑(にぎ)やかな電子音が遠くから流れてきていた。


 もっとも、服売り場のあたりは人もまばらだ。


「……はぁ」


 白雪姫(こゆき)は、ようやく息をついた。


 通りかかる店員の視線はどうしても感じるけれど、一階やゲームセンターのあの人混みに比べれば、ずっとましだ。


「よし、紅葉(もみじ)ちゃん!」


 と、蒼(あお)波(ば)が両手を打ち鳴らした。


「行こっ、紅葉(もみじ)ちゃんの服選ぶよ!」


「……私の?」


「うん、紅葉(もみじ)ちゃんの!」


 白雪姫(こゆき)もぱっと表情を明るくして、紅葉(もみじ)の手を取る。


「だって紅葉(もみじ)ちゃん、自分じゃどれがいいとか分からんでしょ?」


「……失礼ね。千年生きてるのよ、私」


「じゃあ、紅葉(もみじ)ちゃんの服のサイズで何?」


「…………」


 完璧な沈黙だった。


「――ほら!」


「……好きにしなさい」


 両側から手を引かれて、紅葉(もみじ)はずるずると陳列棚の海へ連れ去られていく。


 その後ろ姿を、翠(み)織(おり)は微笑みながら見送った。


 そこからは、嵐(あらし)のようなものだった。


「紅葉(もみじ)ちゃん、これ! 絶対似合う!」


「うーん、うちはこっちのほうがいいと思うっちゃけど。ほら、髪が黒いから、明るい色のほうが映えるやろ?」


「じゃあこれとこれ、両方合わせてみようよ」


 肩に当てられ、胸元に当てられ、くるりと回され。


 紅葉(もみじ)は、ほとんどされるがままだった。


「……あなたたち、私を着せ替え人形か何かだと思ってる?」


 口ではそう言うものの。


 その耳の先が、ほんのりと赤い。


 千年のあいだ、誰も彼女の服を選んではくれなかったのだから、無理もなかった。


 ――満(まん)更(ざら)でもない、という顔だった。


 ひととおり選び終えた頃、少し離れたところから声がかかった。


「紅葉(もみじ)ちゃん、ちょっといいかしら。学用品も見ておきましょう」


 翠(み)織(おり)だ。


 シャープペンシルに消しゴム、ノート。


 編入するとなれば、そういうものも一式必要になる。


「はい。……行ってくるわ」


 紅葉(もみじ)が離れていくのを見送って、白雪姫(こゆき)はふと足を止めた。


 ――ちょうどいい。


(白櫻姫(こさき)さん、聞こえてます?)


『はい、こちらに』


(今から、私の服を選ぶんですけど)


 ハンガーの列に手をかけながら、心の中で呼びかける。


(気に入ったのがあったら、言ってくださいね)


『……はっ、はい』


 妙な間があった。


『あの、白雪姫(こゆき)』


(はい?)


『……〝えらぶ〟、と申しますと』


(え?)


『わたくしの時代には、その、衣を〝選ぶ〟という習わしが、あまり……』


 しどろもどろだった。


 あの白櫻姫(こさき)が、である。


 考えてみれば当たり前だ。


 千年前の少女に、既製服がずらりと並んだ陳列棚の意味など分かるはずがない。


 どんな服があって、どれが自分に似合うのかなんて、判断材料が丸ごと存在しないのだ。


(大丈夫です、習わしって言うほど大したことじゃないですよ。私が片っ端から手に取っていくんで)


 白雪姫(こゆき)は、くすりと笑った。


(それで、これがいいって思ったのがあったら、言ってくれるだけでいいですよ)


『……し、承知いたしました』


 そうして、品(ひん)評(ぴょう)会が始まった。


 白いブラウス。


『それは、よろしいかと。清(きよ)らかで、目に障(さわ)りません』


 淡い水色のワンピース。


『……ええ。水(みず)の色は、あなたに合いましょう』


 順調だった。


 思いのほか、感覚は近い。


 ――そう思っていた矢先。


 派手なオレンジ色に、大きな星柄がびっしり並んだトレーナー。


『――それです』


(え)


『それが、よろしい』


(えっ、これですか⁉)


『はい。その、光の粒のようなものが、たいへん心を惹きます』


(星ですよ、これ、星)


『星!』


 なぜか感動されてしまった。


 かと思えば、次にピンと来たのは、シンプルな灰色のカーディガンで。


 その次は、なぜか袖(そで)が異様に長いだけの黒い上着だった。


 センスがいいと思うものと、それ選ぶ⁉ というものが、まるで交互に出てくる。


「……ふ、ふふっ」


 とうとう、白雪姫(こゆき)は声を出して笑ってしまった。


 両手にハンガーを抱えたまま、肩を震わせる。


 少し離れた場所から、蒼(あお)波(ば)が不思議そうにその様子を見ていた。


 ――ああ、たぶん白櫻姫(こさき)さんと話しとるんやね。


 そう察して、温かく見守ることにしたらしい。


『な……っ』


 頭の中の声が、明らかに狼(ろう)狽(ばい)した。


『そ、そんなに笑わなくても、よいではありませんか!』


(ご、ごめんなさっ……ふふっ、だって)


『わたくしとて、必死に選んでいるのです!』


 顔を真っ赤にして怒っている姿が、ありありと浮かんだ。


 いつも涼やかで、いつも一歩先を見ていて、決して動じない人。


 その人が、星柄のトレーナーに心を奪われて、拗(す)ねている。


(……なんか)


 笑いをおさめながら、白雪姫(こゆき)は思った。


(すごく、近くなった気がする)


 同じ身体に住んでいるのに、この人はいつも、どこか遠かった。


 千年の向こう側にいて、神様の世界を見てきて、自分などとても届かない場所にいる人だと思っていた。


 ――でも。


 服を選べなくて焦ったり、笑われて怒ったりもするのだ。


 ハンガーを掛け直しながら、白雪姫(こゆき)はふと、あることに気づいた。


(……私、白櫻姫(こさき)〝さん〟って呼んどるっちゃね)


 ずっと、そう呼んできた。


 初対面のときからそうだったし、白櫻姫(こさき)は自分にとって師匠にあたる人だから、それでいいのだと思っていた。


 けれど。


 いちばん近くにいて、いちばん助けてもらっていて、同じ身体を分け合っている相手。


(このままで、いいっちゃろうか)


 喉のあたりまで、何かが出かかった。


「――白雪姫(こゆき)ちゃん!」


 その声に、思考が中断される。


 振り返れば、少し離れた通路で蒼(あお)波(ば)と紅葉(もみじ)が手を振っていた。


「あ、うん、今行く!」


 白雪姫(こゆき)は選んだ服をかごに入れ、小走りに二人のもとへ向かう。


 結局、その〝呼び方〟のことは、胸の奥に置いたままになった。





❆





 レジには、翠(み)織(おり)がすでに立っていた。


「服は決まった? じゃあ、お会計にしましょうか」


「あっ、はい」


 三人分となると、量はかなりのものだ。


 かごは二つでは足りず、店員が台車を持ってくる始末だった。


 白雪姫(こゆき)が、ちらりとレジの表示を見る。


 ――九万、いくら。


 十万円に、届きそうな数字だった。


「せ、翠(み)織(おり)先生、あの……」


「はい、これでお願いします」


 翠(み)織(おり)は、何ということもない顔でカードを差し出した。


 まるで、自販機でお茶を買うような手つきだった。


「…………」


 白雪姫(こゆき)は、口を閉じた。


 ――そういえば、この人は。


 行き場のなかった自分を、書類ひとつで引き取ってしまった人だ。


 それだけのことをやってのけるのだから、これくらいは何でもないのだろう。


(……頭が上がらんね、ほんと)


 袋を受け取ろうとしたら、「重いから持たなくていいのよ」と全部持っていかれてしまった。


 余計に、頭が上がらなくなった。





❆





 昼になり、四人が車で向かったのは、駅にほど近い一軒の店だった。


 ――〝元祖チキン南蛮 直ちゃん〟。


「ここね、うちも一回だけ来たことある」


 席に着きながら、蒼(あお)波(ば)が小声で言った。


「チキン南蛮って、そもそもこの延岡が発祥やっちゃが」


「そうなの?」


「うん。ここが、その〝元祖〟」


 四人が頼んだのは、当然〝チキン南蛮定食〟だ。


 やがて運ばれてきた皿を見て、白雪姫(こゆき)は目を瞬(まばた)かせた。


「……あれ?」


 黄金色の衣(ころも)をまとった鶏肉が、皿にどんと盛られている。


 けれど、その上に、あの白いものがない。


「タルタルソース、かかってない……?」


「元祖はそうなの」


 翠(み)織(おり)が、箸を割りながら微笑む。


「タルタルは、あとから宮崎市の別のお店で生まれたものなのよ……さ、冷めないうちに」


「……いただきます」


 一口。


 ――さくり、と衣が鳴った。


「……っ、おいしい……!」


 甘酢が、じゅわりと染みている。


 酸味があって、けれど尖っていない。


 鶏肉は驚くほど柔らかく、噛むと肉の汁と甘酢がいっしょに広がる。


 タルタルがないぶん、味がまっすぐだった。


 そしてこれが、白いご飯と、どうしようもなく合う。


「あー……これはご飯が進むね」


「うん、進む。すごく進む」


 白雪姫(こゆき)は、ほとんど夢中で箸を動かしていた。


 その顔があまりに幸せそうなので、蒼(あお)波(ば)が思わず吹き出す。


「白雪姫(こゆき)ちゃん、顔!」


「え、な、なんで?」


「めちゃくちゃにやけとる」


「……だ、だって」


 白い髪を耳にかけながら、白雪姫(こゆき)は照れたように笑った。


「私、チキン南蛮、一番好きなんよ」


 ――そう。


 何を隠そう、これは彼女の大好物なのだ。


 病院のベッドで目を覚ましたあの日、真っ先に食べたいと思ったのも、これだった。


「……なるほどね」


 と、紅葉(もみじ)がぽつりと言った。


 彼女もまた、静かに箸を進めている。


「紅葉(もみじ)ちゃんは、どう?」


「……美味しいわ」


 黒曜石のような瞳が、皿の上に落ちる。


「私、食べなくても生きていけるのよ。お腹も減らないし、衰(おとろ)えもしない」


「うん」


「でも、食べられないわけじゃないから。……何度か、そこらのお店で食べたことはあったの」


 紅葉(もみじ)は、鶏肉をもう一切れ口に運んだ。


 そして、少しだけ目を細(ほそ)める。


「――全然、違うのね。これ」


 その一言に、白雪姫(こゆき)の胸がじんわりと温かくなった。


「翠(み)織(おり)先生は、どうですか?」


「そうねぇ」


 翠(み)織(おり)は、口元を押さえて考える仕草をした。


「タルタルがないと、なんだか物足りない気がしていたのだけれど。……これはこれで、絶品ね」


「うちも! なんか変な感じっちゃけど、めちゃくちゃ美味しい」


 普通のチキン南蛮しか知らなかった四人にとって、それは不思議な体験だった。


 知っているはずの料理の、知らなかった顔。


 ――皿は、あっという間に空になった。





❆





 店を出て、車で数分。


 昼食にあの店を選んだのには、もうひとつ理由があった。


 最後の目的地が、すぐ近くにあるのだ。


 ――〝カクマツヤ〟。


 学校の制服を仕立ててもらえる店である。


「じゃあ、行ってくるわね」


 翠(み)織(おり)が運転席のドアを開けながら振り返った。


「採寸と手続きで、一時間くらいかかると思うの。二人は、車で待っていてくれる?」


「はーい」


「……行ってくる」


 紅葉(もみじ)が、少しだけ落ち着かない様子でドアを閉めた。


 制服を誂(あつら)える、というのは、彼女にとって初めてのことだろう。


 二人の背中が店の中へ消えていくのを、後部座席から見送る。


「……なんか、いいね」


 蒼(あお)波(ば)が、しみじみと言った。


「紅葉(もみじ)ちゃんのセーラー服姿、絶対見たいもんね」


「うん。私も」


 窓の外では、春の日差しがフロントガラスに反射している。


 車内は、ほどよく暖かかった。


 ――そのときだった。


『白雪姫(こゆき)』


(はい?)


『一時間ほど空くのでしょう。……ならば、稽古の続きをいたしましょう』


(えっ、今から――)


 最後まで、言えなかった。


 まるで足を掬(すく)われるように、瞼が重くなる。


「……あ、れ……」


「白雪姫(こゆき)ちゃん?」


 声が、遠い。


 視界が、白く溶(と)けていく。


 白雪姫(こゆき)の身体が、ゆっくりと横へ傾いだ。


 こつん。


 白い頭が、蒼(あお)波(ば)の肩に、預けられる。


「――ぇっ⁉」


 蒼(あお)波(ば)は、思いきり息を呑んだ。


 首筋のすぐそばに、雪みたいな髪。


 鼻先に、ふわりと甘い匂い。


 その顔が、あまりにも近い。


「え、え、ちょ、白雪姫(こゆき)ちゃん、なに、いいにお、じゃなくて、どうし――」


 琥(こ)珀(はく)色(いろ)の瞳を泳(およ)がせながら、真っ赤になって固まって。


 ――すぅ。


 すぐ隣から、静かな寝息が聞こえた。


「……寝てる」


 拍子抜けした声が、車内にぽつりと落ちる。


 その寝顔を、蒼(あお)波(ば)はまじまじと見つめた。


 まつげが白い。


 少しだけ、口が開いている。


 昨日まで魔物と戦っていた子と、同じ顔だとは思えない。


「……もう。ほんと、急なんやから」


 蒼(あお)波(ば)は、そっと息を吐いた。


 それから、自分の両手を白い頭の下へ差し入れる。


 起こさないように。


 ゆっくり、ゆっくりと。


 ――こてん。


 その頭を、自分の膝(ひざ)の上へと下ろした。


「…………」


 膝の上に、あたたかい重み。


 窓から差し込む春の光が、白い髪をきらきらと輝(ひか)らせている。


「……こんな顔してるくせに、また一人で強くなろうとしてるっちゃろ」


 蒼(あお)波(ば)は、その髪をひと房、指先で梳(す)いた。


「……ずるいったら」


 呟いた声は、誰にも届かない。


 窓の外では、制服を仕立てる店の暖簾が、春の風に静かに揺れていた。





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