第10話:魔物との戦闘 白雪姫
白雪姫の爪先が、園庭の土を噛んだ。
正面。
五メートルの巨躯が、赤い眼を爛々と光らせている。
――魔物。
猪だったなにか。
その全身に絡みつく黒紫の靄が、呼吸に合わせて蠢いていた。
「…………」
白雪姫は、細く息を吐く。
吐いて、臍の下あたりに熱を集める。
――霊力。
自分の魂の底に眠っていた、冷たいのに温かい、不思議な流れ。
それを、脚へ。腰へ。背へ。そして、右の腕へ。
(……大丈夫。夢の中で、何十回もやったっちゃから)
精神世界で、白櫻姫に吹き飛ばされ続けた回数を思い出す。
あの痛みに比べれば、まだ、怖くない。
猪が、蹄を鳴らした。
地面が、爆ぜる。
突進。
まっすぐ。ただまっすぐに、質量が押し寄せてくる。
風圧が、真っ白な髪を後ろへ攫っていった。
「――っ」
白雪姫は、躱さなかった。
半歩、前へ踏み込む。
牙が、視界を埋め尽くす。
その、直前。
「……はぁっ‼」
右手を開き、手のひらの付け根を――掌底を、猪の鼻面へ叩き込んだ。
どぉん、と。
空気そのものが破裂したような音が、廃園に響き渡る。
五メートルの巨体が、宙に浮いた。
浮いて、そのまま真後ろへ吹き飛び、地面に横向きに倒れて土煙を上げる。
「……え」
その光景を、白雪姫は呆然と見つめていた。
『――お見事』
頭の奥に、涼やかな声が響く。
『まだまだ無駄が多いですね。腰の入りも、踏み込みの角度も、拳の畳み方も』
「……はい」
『ですが――十分です』
その一言に、白雪姫の胸の奥が、じんわりと熱を持った。
厳しくて、けれど、確かに温かい声だった。
『ちなみに、あの日わたくしが魔神を吹き飛ばした距離には、遠く及びませんけれど』
「そ、それは……そうかもしれませんけど……!」
思わず口を尖らせながら、白雪姫は自分の右手を見下ろした。
小さな手のひら。
五メートルの魔物を殴り飛ばした手のひら。
――擦り傷ひとつ、ない。
(……私、こんなことができるようになったっちゃね)
半年前まで、体育のドッジボールで顔面に当てられて泣いていた自分が。
じわりと滲みかけた何かを、白雪姫は瞬きで押し戻した。
だが、黒紫の湯気を吐きながら、猪は起き上がった。
次に試すのは、あれだ。
――魔蝕者に向けて放った、冷気。
白雪姫は左の手のひらを前に出し、そこへ霊力を注ぎ込んだ。
途端。
手のひらの周囲の空気が、みしり、と音を立てて軋む。
白い息が、濁流のように吹き零れた。
草の葉に霜が奔り、捲れた金網が、ぱきぱきと白く縁取られていく。
――そして。
背後。
草の上に横たえられた蒼波の、黒髪の先まで。
うっすらと、白い粉が降りていた。
「……っ⁉」
白雪姫は、慌てて霊力を引いた。
冷気が霧散し、あたりの温度がゆっくりと戻っていく。
濡れた前髪を貼りつかせたまま、蒼波は、まだ眠っている。
「……危なかった」
どくどくと鳴る心臓を押さえながら、白雪姫は思い返した。
そういえば、あの晩もそうだった。
魔蝕者に向けて放ったはずのあの冷気は、狙った相手だけでなく、校舎の壁も、地面も、そこにあったすべてを白く凍らせてしまっていた。
(……これ、人がおるところじゃ、使えないかも)
武器だと思っていたものが、急に危ないものに見えてくる。
『――ええ、そのとおりです』
白櫻姫の声は、責めるでも慰めるでもなく、ただ静かだった。
『あなたの冷気は、あまりに大雑把です。撒き散らしているだけ、と言い換えてもよろしいでしょう』
「……はい」
『制御を研き、狙った的にのみ当てられるようになって――ようやく及第点ですね』
「きゅうだいてん……」
合格ではなく、及第点。
その言葉の重さに、白雪姫は思わず眉を下げた。
猪が、また突っ込んでくる。
右へ跳ぶ。
牙が空を切り、土がめくれ上がった。
(――でも、それなら私、どうしたらいいっちゃろ?)
着地しながら、必死に頭を回す。
自分が霊力でできることは、二つだけだ。
体を強くすること。
冷気を撒くこと。
殴るには、あの巨体は大きすぎる。冷気は、蒼波がいる限り使えない。
幸い、この魔物にできるのは突進だけらしい。だから逃げ回ることはできる。
――でも、それだけだ。
このままでは、日が暮れる。
騒音に気付いて、ここまでやってくる人もいるかもしれない。
『白雪姫』
その思考を、白櫻姫の声が断ち切った。
『――もう一つ、ございますよ』
「え?」
『氷を生み、放つのです』
跳んだ先で、白雪姫は思わず足を止めかけた。
「氷を……作る、ってことですか?」
『ええ』
「そんなの、やったことない……! っていうか、私……」
言いかけて、ずっと引っかかっていた疑問が口をついて出る。
「私、翠織先生からは水の気やって聞きました。蒼波ちゃんと同じ、水って。……なら、冷気が出ること自体、おかしくないですか?」
水と、氷。
似ているようで、白雪姫にはどうにも筋が通らないように思えた。
蒼波は水を生み、白雪姫は凍らせる。同じ属性のはずなのに、やっていることがまるで違う。
その問いに返ってきたのは、静かな――そして、どこか含みのある声だった。
『――? あなたが秘めているのは、水の気だけではありませんよ?』
「……え」
息が、止まる。
水だけでは、ない。
ならば、自分の中にはいったい何が。
『その話は、いずれ』
問い返すより早く、声は先へ進んだ。
『ですが、水の気があることもまた事実。……ならば想像なさい。水が冷え、凝り、結ぼれて氷となる、その道筋を』
「想像……」
『霊力の放出とは、願いに形を与える業。形を思い描けぬものは、決して顕われません』
猪が旋回する。
こちらへ、鼻先を向け直した。
「――じゃあ!」
走りながら、白雪姫は叫ぶ。
「私も、蒼波ちゃんみたいに、水そのものを出せたりするんですか⁉」
『それは、不可能です』
「えぇ……」
答えは、にべもなかった。
『仮にあなたが水を生もうとしても――そこには必ず、あなた自身の冷気が混じります』
「冷気が……」
『あなたの霊力は、滲むだけで周りを凍らせる。掬い上げるより先に、その手の中で凍りついてしまうでしょう』
――ああ、と。
白雪姫は妙に納得してしまった。
自分の霊力は、そういうものなのだ。
触れたものを、片っ端から白く固めてしまう。
(……なら、最初から。凍らせるつもりで、やってみよう)
突進をぎりぎりで躱し、白雪姫は右の手のひらを突き出した。
目を、瞑る。
思い描くのは、真冬の行縢の水面。
夜のあいだに、そっと張っていく薄氷。
冷えて、澄んで、動きを止めていく水。
「――固まって」
手のひらの上の空気が、ぐにゃりと歪んだ。
白い霧が渦を巻き、集まり、締まり――。
ごとり、と。
そこに、氷の礫が生まれた。
バスケットボールほどもある、いびつな氷の塊。
「で、できた……!」
自分でも驚きながら、白雪姫は両手でそれを抱え、猪へ向かって思い切り投げつけた。
氷塊は、うなりを上げて飛ぶ。
そして、猪の額へ。
――ぱきん。
あっけない音を立てて、砕けた。
白い破片が、雨のように園庭へ散らばる。
猪は、ほんの一瞬だけ怯み――そして、何事もなかったように前脚を踏み鳴らした。
「う、うそ……」
『重いだけの氷では、あの皮は貫けません』
白櫻姫の声に、落胆の色はない。
『二つ、直しなさい。ひとつは、硬さ。もっと密に、もっと深く凍らせるのです』
「もっと、硬く……」
『もうひとつは、形。……できることならば、尖らせなさい』
尖らせる。
その言葉が、白雪姫の頭の中で、はっきりとした像を結んだ。
『今のあなたの制御力であれば可能です』
――信じられている。
その事実が、怖さよりも先に、背中を押した。
「……はいっ!」
白雪姫は、両手を前に構える。
息を吸って、止める。
思い描くのは、氷の塊ではない。
――氷柱。
軒先から下がる、あの細長い一本。
いや、あんなに脆くはいけない。
もっと硬く。空気の隙間なんて一粒も残さないくらい、みっちりと。
もっと冷たく。冷凍庫なんて目じゃないくらい、深く、深く。
そして、先端は。
――なにもかもを、貫けるくらいに、鋭く。
(凍って。凍って、凍って、凍って――!)
手のひらの間の空気が、悲鳴のような音を立てた。
水気が集い、光を孕み、捻じれながら収束していく。
やがて。
そこに、一本の氷柱が浮かんでいた。
長さは、白雪姫の身の丈ほど。
透きとおった刃のような胴に、針のごとき穂先。
表面からは、白い冷気の煙が絶えず立ちのぼっている。
――触れれば、火傷をする冷たさだ。
猪が、咆えた。
地面を割って、突進が来る。
白雪姫は、逃げなかった。
白銀の瞳が、まっすぐに猪を見据える。
「――いけぇっ‼」
放たれた。
音が、遅れてやってきた。
氷柱は、目で追えぬ速度で空を裂き――猪の額へ突き刺さり、そのまま。
頭だけでは、済まなかった。
首を、背を、腹を。
巨体を、縦一直線に貫き通した。
「――――」
猪の赤い眼から、ゆっくりと光が抜けていく。
ずしん、と。
地面が揺れるほどの音を立てて、五メートルの巨躯が横倒しになった。
そして、その輪郭が綻び始める。
黒紫の煙が、体の縁から静かに立ちのぼっていく。
――魔力の煙。
魔物が死んだという、ただひとつの証。
やがて煙は春の風に流され、園庭には、雑草と、砕けた氷の欠片だけが残された。
「…………」
白雪姫は、しばらく動けなかった。
突き出したままの両手が、小さく震えている。
『――見事です』
その声に、ようやく肩の力が抜けた。
「……ほんとですか?」
『ええ。よく辿り着きました』
褒められた。素直に、そう思った。
けれど。
『ですが、合格ではありませんね』
「えぇっ⁉」
『もっと疾く出せるようになりなさい。……あれほど時をかけて構えていては、相手が待ってくれるとは限りません』
――さっき、蒼波に言っていたことと、同じだ。
この人は、誰に対しても本当に容赦がない。
「くすっ……はいっ」
白雪姫はくすりと笑い、頷いた。
それから、数分後。
「……ん……」
草の上で、蒼波の睫毛が震えた。
ゆっくりと開いた琥珀色の瞳が、茜がかりはじめた空を映す。
「……うち……」
「あ、蒼波ちゃん! 起きた?」
覗き込んできた白い顔に、蒼波は数度瞬きをした。
それから、勢いよく身を起こす。
「魔物っ、あの猪は――」
言いかけて、その言葉が途中で止まった。
園庭には、なにもいない。
壁の崩れた園舎と、めくれた土と、溶けかけた氷の欠片があるだけ。
「……倒したよ。私が」
「……え」
白雪姫が、少し照れくさそうに笑う。
「白櫻姫さんに教えてもらって。氷を作って、それで」
「……氷」
蒼波は、足元の欠片をひとつ拾い上げた。
まだ、指が痛くなるほど冷たい。
――白雪姫が、たった一人で。
自分が地面に叩きつけられて、意識を手放している、そのあいだに。
「……すごい」
零れた言葉は、心からのものだった。
嘘ではない。誇らしい。自分の一番大切な友達が、強くなっていくのは嬉しい。
嬉しい、はずなのに。
喉の奥に、小さな石が閊えたような感じがする。
「……置いていかれちゃったね、うち」
ぽつり、と。
言うつもりのなかった言葉が、落ちた。
「あ――ち、違う、今のは」
慌てて口を押さえる蒼波に、白雪姫は何と返せばいいのか分からず、狼狽する。
そのとき。
『――白雪姫。少しだけ、体をお借りしても?』
(え? あ、はい、どうぞ!)
白雪姫は、静かに目を瞑った。
風が、白い髪を持ち上げる。
ふたたび開いた瞳は――桜色だった。
「――蒼波様」
「っ、白櫻姫さん……!」
白櫻姫は、膝を折り、座り込む蒼波と目線を合わせた。
その所作は、どこまでも丁寧だ。
「置いていかれた、と仰いましたね」
「……っ、すみません、今のは、その」
「ひとつ、訂正をさせていただきます」
桜色の瞳が、まっすぐに蒼波を射た。
「本日、この庭で最も伸びたのは――あなたです」
「……え?」
「あの短い時の中で、水の形を組み替え、刃と成した。あれは、生半可なことではありません」
白櫻姫は、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「わたくしは昔、幾人もの神子を見てまいりました。……その中でも、あの一戦における制御の伸長は、間違いなく最も疾い」
「そ、そんな……でも、白雪姫ちゃんは」
「あの子を物差しになさってはなりません」
きっぱりと、白櫻姫は言い切った。
「白雪姫の力の大半は、わたくしがあの子の内に宿っているという、ただそれだけの理由によるもの。……言うなれば、下駄を履いているのと同じです」
「…………」
「あなたは、その下駄なしで、己の足だけでここまで来た。それを、卑下なさいませんよう」
蒼波の唇が、震える。
そして、白櫻姫は姿勢を正した。
真剣な、けれどどこか誇らしげな表情で。
「――古閑蒼波。わたくしが認めましょう」
「……っ」
「あなたほど速く感覚を掴む神子を、わたくしはほとんど知りません。あなたは、わたくしが携わってきた神子の中で――最も才ある者です」
風が、廃園を吹き抜けていった。
千年を生き、魔神を討ち、神の座にまで届いた存在。
その人が、太鼓判を押した。
蒼波の目の奥が、じわりと熱くなる。
ずっと、怖かったのだ。
守りたいと思った相手が、あまりに遠くへ行ってしまうことが。
自分は、ただ隣にいるだけの存在になってしまうのではないかということが。
「……ありがとう、ございます」
蒼波は、深く、深く頭を下げた。
汗と泥にまみれた顔を隠すみたいに。
「うち……もっと、強くなります」
「ええ」
その黒髪を、白櫻姫の手のひらが、そっと撫でた。
「――楽しみにしております」
むかばき青少年自然の家の食堂は、夜になると妙に広く感じる。
高い天井に、磨き込まれた長机。
その一角に、三人分の膳が並んでいた。
鶏の唐揚げ、千切りキャベツ、味噌汁、白いご飯。
「――でね、最後に氷の、こう、大っきい氷柱みたいなのが出て」
箸を持ったまま、白雪姫は身振りを交えて話していた。
何かあったら帰ってから教えてほしい。
朝、そう約束したから。
「それで、猪の魔物、一発で……その、倒せたの」
「うちが寝とる間にね」
隣で蒼波が、拗ねたように唐揚げを齧る。
「うぅ……」
その口元は、けれど笑っていた。
向かいの席。
紅葉は、箸をつけないまま二人の話を聞いていた。
黒曜石のような瞳が、微かに揺れる。
そして。
「……そう」
それだけだった。
視線が、窓の外の暗い山へ流れていく。
「…………」
「…………」
白雪姫と蒼波は、思わず顔を見合わせた。
――この子が求めているのは、こういう話じゃない。
二人には、それが分かってしまう。
紅葉が探しているのは、千年前に別れた、たった一人の友達。
そしてその人は、いま、この食卓についている。
――白雪姫の、内側に。
(白櫻姫さん……)
心の中で呼びかけてみる。
返事は、ない。
眠っているのか、それとも――黙っているのか。
(……会うのが怖い、って言ってたもんね)
言ってしまえば、この気まずさは終わる。
けれど、それは白櫻姫の心を置き去りにすることだ。
板挟みのまま、白雪姫と蒼波は、もう一度そっと目を合わせた。
「――あら、みんな揃ってるのね」
そこへ、翠織がやってきた。
深緑のワンピースの裾を翻し、湯呑みを片手に、紅葉の隣へ腰を下ろす。
そして、なんの前置きもなく言った。
「それじゃあ、紅葉ちゃんも、二人と同じ学校に通う?」
――ぴしり、と。
食堂の空気が固まった。
「……え」
紅葉が、ようやくこちらを向く。
「明後日の土曜日にね、セーラー服の仕立てを頼みに行こうと思ってるの」
翠織は、湯呑みを傾けながら続けた。
「そこから一、二週間ってところかしら。編入の手続きもあるし、すぐにとはいかないけれど。……どう?」
「紅葉ちゃんと、一緒に学校っ⁉」
真っ先に声を上げたのは白雪姫だった。
箸を置き、身を乗り出す。
「い、いいですか? 三人で一緒に行けるって……」
「うわ、楽しそう。紅葉ちゃんのセーラー服、絶対似合うって」
蒼波も、目を輝かせた。
当の紅葉は、しばらく黙っていた。
それから、静かに首を振る。
「……無理よ」
「あら、どうして?」
「私、戸籍がないですから」
紅葉は、湯気の立つ味噌汁を見つめたまま言った。
「この国に、私って人間は存在していない……。そんな子を、学校が受け入れるとお思いで?」
千年のあいだ、幾度も突きつけられてきたのだろう。
その声には、諦めというより、事実を読み上げるような平坦さがあった。
「そうね。当然、受け入れないわ」
翠織は、あっさりと肯定した。
「保護者も必要だし、必要な手続きだって山ほどある。……役所も、学校も、そういうものだもの」
「……なら」
「だから、私がやるの」
紅葉の黒い瞳が、まん丸に見開かれた。
「え」
「保護者は、私。手続きは、この週末に回ってしまいましょう」
翠織は湯呑みを置き、指を一本立てて微笑む。
「これでも私、神子管理組織の延岡地区の担当者よ? こういう〝存在しないはずの子〟を表の世界に馴染ませるのも、仕事のうちなの」
――白雪姫のときも、そうだった。
両親を失い、行き場をなくした少女を、この人は事もなげに引き取ってみせたのだ。
「ついでに、白雪姫ちゃんと蒼波ちゃんの身の回りのものも買い揃えましょうか。二人とも、そろそろ替えの服が足りないでしょう」
「あっ、それ助かります……!」
「うちも、靴下が全滅でした……」
「……んぇ⁉ じゃあ今穴開いた靴下履いてるの⁉」
白雪姫が目を見開いて訊ねる。
「い、いや! 今履いてるのは大丈夫なやつ!」
蒼波は大きな身振りでそう否定した。
紅葉は、まだ翠織を見つめたままだった。
千年。
誰も、そんなことを言い出さなかった。
森で、洞窟で、無人の校舎で。
いないものとして、生きてきた。
それが――明後日には、制服を誂えているという。
「……なんで、そこまでしてくれるのですか」
紅葉の声は、少しだけ、かすれていた。
「あら」
翠織は、目尻を柔らかく下げた。
「うちの子が二人、紅葉ちゃんと一緒に学校に行きたいって顔をしてるんだもの。……それだけじゃ、理由として足りないかしら」
「――っ」
紅葉は、俯いた。
長い黒髪が、その表情を隠す。
やがて、ほんの小さく。
「……足りて……ます」
そう、呟いた。
「よかった。じゃあ、決まりね」
反対する理由なんて、どこにもなかった。
白雪姫と蒼波は顔を見合わせて笑い、紅葉は照れ隠しのように、ようやく箸を取る。
窓の外では、行縢の山が、藍色の夜に静かに沈んでいた。
――週末が、すぐそこまで来ている。
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