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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第02章:不死の炎
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第10話:魔物との戦闘 白雪姫

 白雪姫(こゆき)の爪(つま)先(さき)が、園庭の土を噛んだ。


 正面。


 五メートルの巨躯が、赤い眼を爛(らん)々(らん)と光らせている。


 ――魔(ま)物(もの)。


 猪(いのしし)だったなにか。


 その全身に絡みつく黒紫の靄(もや)が、呼吸に合わせて蠢(うごめ)いていた。


「…………」


 白雪姫(こゆき)は、細く息を吐く。


 吐いて、臍(へそ)の下あたりに熱を集める。


 ――霊(れい)力(りょく)。


 自分の魂(たましい)の底に眠っていた、冷たいのに温かい、不思議な流れ。


 それを、脚へ。腰へ。背へ。そして、右の腕へ。


(……大丈夫。夢の中で、何十回もやったっちゃから)


 精神世界で、白櫻姫(こさき)に吹き飛ばされ続けた回数を思い出す。


 あの痛みに比べれば、まだ、怖くない。


 猪が、蹄(ひづめ)を鳴らした。


 地面が、爆(は)ぜる。


 突進。


 まっすぐ。ただまっすぐに、質量が押し寄せてくる。


 風圧が、真っ白な髪を後ろへ攫(さら)っていった。


「――っ」


 白雪姫(こゆき)は、躱(かわ)さなかった。


 半歩、前へ踏み込む。


 牙が、視界を埋め尽くす。


 その、直前。


「……はぁっ‼」


 右手を開き、手のひらの付け根を――掌(しょう)底(てい)を、猪の鼻(はな)面(づら)へ叩き込んだ。


 どぉん、と。


 空気そのものが破裂したような音が、廃園に響き渡る。


 五メートルの巨体が、宙に浮いた。


 浮いて、そのまま真後ろへ吹き飛び、地面に横向きに倒れて土煙を上げる。


「……え」


 その光景を、白雪姫(こゆき)は呆(ぼう)然(ぜん)と見つめていた。


『――お見事』


 頭の奥に、涼(すず)やかな声が響く。


『まだまだ無駄が多いですね。腰の入りも、踏み込みの角度も、拳の畳み方も』


「……はい」


『ですが――十分です』


 その一言に、白雪姫(こゆき)の胸の奥が、じんわりと熱を持った。


 厳しくて、けれど、確かに温かい声だった。


『ちなみに、あの日わたくしが魔(ま)神(じん)を吹き飛ばした距離には、遠く及びませんけれど』


「そ、それは……そうかもしれませんけど……!」


 思わず口を尖らせながら、白雪姫(こゆき)は自分の右手を見下ろした。


 小さな手のひら。


 五メートルの魔物を殴り飛ばした手のひら。


 ――擦(かす)り傷ひとつ、ない。


(……私、こんなことができるようになったっちゃね)


 半年前まで、体育のドッジボールで顔面に当てられて泣いていた自分が。


 じわりと滲みかけた何かを、白雪姫(こゆき)は瞬(まばた)きで押し戻した。


 だが、黒紫の湯気を吐きながら、猪は起き上がった。




 次に試すのは、あれだ。


 ――魔(ま)蝕(しょく)者(しゃ)に向けて放った、冷気。


 白雪姫(こゆき)は左の手のひらを前に出し、そこへ霊力を注ぎ込んだ。


 途端。


 手のひらの周囲の空気が、みしり、と音を立てて軋(きし)む。


 白い息が、濁(だく)流(りゅう)のように吹き零(こぼ)れた。


 草の葉に霜が奔(はし)り、捲(めく)れた金網が、ぱきぱきと白く縁(ふち)取られていく。


 ――そして。


 背後。


 草の上に横たえられた蒼(あお)波(ば)の、黒(くろ)髪(かみ)の先まで。


 うっすらと、白い粉が降りていた。


「……っ⁉」


 白雪姫(こゆき)は、慌てて霊力を引いた。


 冷気が霧散し、あたりの温度がゆっくりと戻っていく。


 濡れた前髪を貼(は)りつかせたまま、蒼(あお)波(ば)は、まだ眠っている。


「……危なかった」


 どくどくと鳴る心臓を押さえながら、白雪姫(こゆき)は思い返した。


 そういえば、あの晩もそうだった。


 魔蝕者に向けて放ったはずのあの冷気は、狙った相手だけでなく、校舎の壁も、地面も、そこにあったすべてを白く凍らせてしまっていた。


(……これ、人がおるところじゃ、使えないかも)


 武器だと思っていたものが、急に危ないものに見えてくる。


『――ええ、そのとおりです』


 白櫻姫(こさき)の声は、責めるでも慰めるでもなく、ただ静かだった。


『あなたの冷気は、あまりに大(おお)雑(ざっ)把(ぱ)です。撒(ま)き散らしているだけ、と言い換えてもよろしいでしょう』


「……はい」


『制御を研(みが)き、狙った的(まと)にのみ当てられるようになって――ようやく及第点ですね』


「きゅうだいてん……」


 合格ではなく、及第点。


 その言葉の重さに、白雪姫(こゆき)は思わず眉(まゆ)を下げた。


 猪が、また突っ込んでくる。


 右へ跳ぶ。


 牙が空を切り、土がめくれ上がった。


(――でも、それなら私、どうしたらいいっちゃろ?)


 着地しながら、必死に頭を回す。


 自分が霊力でできることは、二つだけだ。


 体を強くすること。


 冷気を撒くこと。


 殴るには、あの巨体は大きすぎる。冷気は、蒼(あお)波(ば)がいる限り使えない。


 幸い、この魔物にできるのは突進だけらしい。だから逃げ回ることはできる。


 ――でも、それだけだ。


 このままでは、日が暮れる。


 騒音に気付いて、ここまでやってくる人もいるかもしれない。


『白雪姫(こゆき)』


 その思考を、白櫻姫(こさき)の声が断ち切った。


『――もう一つ、ございますよ』


「え?」


『氷を生(う)み、放つのです』


 跳んだ先で、白雪姫(こゆき)は思わず足を止めかけた。


「氷を……作る、ってことですか?」


『ええ』


「そんなの、やったことない……! っていうか、私……」


 言いかけて、ずっと引っかかっていた疑問が口をついて出る。


「私、翠(み)織(おり)先生からは水の気(け)やって聞きました。蒼(あお)波(ば)ちゃんと同じ、水って。……なら、冷気が出ること自体、おかしくないですか?」


 水と、氷。


 似ているようで、白雪姫(こゆき)にはどうにも筋が通らないように思えた。


 蒼(あお)波(ば)は水を生(う)み、白雪姫(こゆき)は凍らせる。同じ属性のはずなのに、やっていることがまるで違う。


 その問いに返ってきたのは、静(しず)かな――そして、どこか含みのある声だった。


『――? あなたが秘めているのは、水の気だけではありませんよ?』


「……え」


 息が、止まる。


 水だけでは、ない。


 ならば、自分の中にはいったい何が。


『その話は、いずれ』


 問い返すより早く、声は先へ進んだ。


『ですが、水の気があることもまた事実。……ならば想像なさい。水が冷え、凝(こご)り、結(むす)ぼれて氷となる、その道筋を』


「想像……」


『霊力の放出とは、願(ねが)いに形を与える業(わざ)。形を思い描けぬものは、決して顕(あら)われません』


 猪が旋回する。


 こちらへ、鼻先を向け直した。


「――じゃあ!」


 走りながら、白雪姫(こゆき)は叫ぶ。


「私も、蒼(あお)波(ば)ちゃんみたいに、水そのものを出せたりするんですか⁉」


『それは、不可能です』


「えぇ……」


 答えは、にべもなかった。


『仮にあなたが水を生(う)もうとしても――そこには必ず、あなた自身の冷気が混じります』


「冷気が……」


『あなたの霊力は、滲(にじ)むだけで周りを凍らせる。掬(すく)い上げるより先に、その手の中で凍りついてしまうでしょう』


 ――ああ、と。


 白雪姫(こゆき)は妙に納得してしまった。


 自分の霊力は、そういうものなのだ。


 触れたものを、片っ端から白く固めてしまう。


(……なら、最初から。凍らせるつもりで、やってみよう)


 突進をぎりぎりで躱(かわ)し、白雪姫(こゆき)は右の手のひらを突き出した。


 目を、瞑(つむ)る。


 思い描くのは、真冬の行(むか)縢(ばき)の水面。


 夜のあいだに、そっと張っていく薄氷。


 冷えて、澄(す)んで、動きを止めていく水。


「――固まって」


 手のひらの上の空気が、ぐにゃりと歪(ゆが)んだ。


 白い霧が渦を巻き、集まり、締まり――。


 ごとり、と。


 そこに、氷の礫(つぶて)が生まれた。


 バスケットボールほどもある、いびつな氷の塊。


「で、できた……!」


 自分でも驚きながら、白雪姫(こゆき)は両手でそれを抱え、猪へ向かって思い切り投げつけた。


 氷塊は、うなりを上げて飛ぶ。


 そして、猪の額へ。


 ――ぱきん。


 あっけない音を立てて、砕けた。


 白い破片が、雨のように園庭へ散らばる。


 猪は、ほんの一瞬だけ怯(ひる)み――そして、何事もなかったように前脚を踏み鳴らした。


「う、うそ……」


『重いだけの氷では、あの皮は貫けません』


 白櫻姫(こさき)の声に、落(らく)胆(たん)の色はない。


『二つ、直しなさい。ひとつは、硬(かた)さ。もっと密(みつ)に、もっと深(ふか)く凍らせるのです』


「もっと、硬く……」


『もうひとつは、形(かたち)。……できることならば、尖(とが)らせなさい』


 尖らせる。


 その言葉が、白雪姫(こゆき)の頭の中で、はっきりとした像を結んだ。


『今のあなたの制御力であれば可能です』


 ――信じられている。


 その事実が、怖(こわ)さよりも先に、背中を押した。


「……はいっ!」


 白雪姫(こゆき)は、両手を前に構える。


 息を吸って、止める。


 思い描くのは、氷の塊ではない。


 ――氷(つ)柱(らら)。


 軒先から下がる、あの細長い一本。


 いや、あんなに脆(もろ)くはいけない。


 もっと硬く。空気の隙間なんて一粒も残さないくらい、みっちりと。


 もっと冷たく。冷(れい)凍(とう)庫(こ)なんて目じゃないくらい、深く、深く。


 そして、先端は。


 ――なにもかもを、貫(つらぬ)けるくらいに、鋭く。


(凍って。凍って、凍って、凍って――!)


 手のひらの間(あいだ)の空気が、悲鳴のような音を立てた。


 水気が集い、光を孕(はら)み、捻(ね)じれながら収束していく。


 やがて。


 そこに、一本の氷柱が浮かんでいた。


 長さは、白雪姫(こゆき)の身の丈ほど。


 透きとおった刃(やいば)のような胴に、針(はり)のごとき穂(ほ)先(さき)。


 表面からは、白い冷気の煙が絶えず立ちのぼっている。


 ――触れれば、火(や)傷(けど)をする冷たさだ。


 猪が、咆(ほ)えた。


 地面を割って、突進が来る。


 白雪姫(こゆき)は、逃げなかった。


 白銀の瞳が、まっすぐに猪を見(み)据(す)える。


「――いけぇっ‼」


 放たれた。


 音が、遅れてやってきた。


 氷柱は、目で追えぬ速度で空を裂き――猪の額へ突き刺さり、そのまま。


 頭だけでは、済まなかった。


 首を、背を、腹を。


 巨体を、縦一直線に貫き通した。


「――――」


 猪の赤い眼から、ゆっくりと光が抜けていく。


 ずしん、と。


 地面が揺れるほどの音を立てて、五メートルの巨躯が横倒しになった。


 そして、その輪郭が綻(ほころ)び始める。


 黒紫の煙が、体の縁から静かに立ちのぼっていく。


 ――魔(ま)力(りょく)の煙。


 魔物が死んだという、ただひとつの証(あかし)。


 やがて煙は春の風に流され、園庭には、雑草と、砕けた氷の欠(か)片(けら)だけが残された。


「…………」


 白雪姫(こゆき)は、しばらく動けなかった。


 突き出したままの両手が、小さく震えている。


『――見事です』


 その声に、ようやく肩の力が抜けた。


「……ほんとですか?」


『ええ。よく辿(たど)り着きました』


 褒められた。素直に、そう思った。


 けれど。


『ですが、合格ではありませんね』


「えぇっ⁉」


『もっと疾(はや)く出せるようになりなさい。……あれほど時をかけて構えていては、相手が待ってくれるとは限りません』


 ――さっき、蒼(あお)波(ば)に言っていたことと、同じだ。


 この人は、誰に対しても本当に容(よう)赦(しゃ)がない。


「くすっ……はいっ」


 白雪姫(こゆき)はくすりと笑い、頷いた。




 それから、数分後。


「……ん……」


 草の上で、蒼(あお)波(ば)の睫(まつ)毛(げ)が震えた。


 ゆっくりと開いた琥(こ)珀(はく)色(いろ)の瞳が、茜(あかね)がかりはじめた空を映す。


「……うち……」


「あ、蒼(あお)波(ば)ちゃん! 起きた?」


 覗き込んできた白い顔に、蒼(あお)波(ば)は数度瞬きをした。


 それから、勢いよく身を起こす。


「魔物っ、あの猪は――」


 言いかけて、その言葉が途中で止まった。


 園庭には、なにもいない。


 壁の崩れた園舎と、めくれた土と、溶(と)けかけた氷の欠片があるだけ。


「……倒したよ。私が」


「……え」


 白雪姫(こゆき)が、少し照れくさそうに笑う。


「白櫻姫(こさき)さんに教えてもらって。氷を作って、それで」


「……氷」


 蒼(あお)波(ば)は、足元の欠片をひとつ拾い上げた。


 まだ、指が痛くなるほど冷たい。


 ――白雪姫(こゆき)が、たった一人で。


 自分が地面に叩きつけられて、意識を手放している、そのあいだに。


「……すごい」


 零れた言葉は、心からのものだった。


 嘘ではない。誇らしい。自分の一番大切な友達が、強くなっていくのは嬉しい。


 嬉しい、はずなのに。


 喉の奥に、小さな石が閊(つか)えたような感じがする。


「……置いていかれちゃったね、うち」


 ぽつり、と。


 言うつもりのなかった言葉が、落ちた。


「あ――ち、違う、今のは」


 慌てて口を押さえる蒼(あお)波(ば)に、白雪姫(こゆき)は何と返せばいいのか分からず、狼(ろう)狽(ばい)する。


 そのとき。


『――白雪姫(こゆき)。少しだけ、体をお借りしても?』


(え? あ、はい、どうぞ!)


 白雪姫(こゆき)は、静かに目を瞑(つむ)った。


 風が、白い髪を持ち上げる。


 ふたたび開いた瞳は――桜色だった。


「――蒼(あお)波(ば)様」


「っ、白櫻姫(こさき)さん……!」


 白櫻姫(こさき)は、膝(ひざ)を折り、座り込む蒼(あお)波(ば)と目線を合わせた。


 その所作は、どこまでも丁寧だ。


「置いていかれた、と仰(おっしゃ)いましたね」


「……っ、すみません、今のは、その」


「ひとつ、訂正をさせていただきます」


 桜色の瞳が、まっすぐに蒼(あお)波(ば)を射(い)た。


「本日、この庭で最も伸(の)びたのは――あなたです」


「……え?」


「あの短い時の中で、水の形を組み替え、刃と成した。あれは、生半可なことではありません」


 白櫻姫(こさき)は、ゆっくりと言葉を継ぐ。


「わたくしは昔、幾人もの神(み)子(こ)を見てまいりました。……その中でも、あの一戦における制御の伸(しん)長(ちょう)は、間違いなく最も疾(はや)い」


「そ、そんな……でも、白雪姫(こゆき)ちゃんは」


「あの子を物(もの)差(さ)しになさってはなりません」


 きっぱりと、白櫻姫(こさき)は言い切った。


「白雪姫(こゆき)の力の大半は、わたくしがあの子の内に宿っているという、ただそれだけの理由によるもの。……言うなれば、下(げ)駄(た)を履いているのと同じです」


「…………」


「あなたは、その下駄なしで、己(おのれ)の足だけでここまで来た。それを、卑(ひ)下(げ)なさいませんよう」


 蒼(あお)波(ば)の唇が、震える。


 そして、白櫻姫(こさき)は姿勢を正した。


 真剣な、けれどどこか誇らしげな表情で。


「――古(こ)閑(が)蒼(あお)波(ば)。わたくしが認めましょう」


「……っ」


「あなたほど速く感覚を掴む神子を、わたくしはほとんど知りません。あなたは、わたくしが携(たずさ)わってきた神子の中で――最(もっと)も才ある者です」


 風が、廃園を吹き抜けていった。


 千年を生き、魔神を討ち、神の座にまで届いた存在。


 その人が、太鼓判を押した。


 蒼(あお)波(ば)の目の奥が、じわりと熱くなる。


 ずっと、怖かったのだ。


 守りたいと思った相手が、あまりに遠くへ行ってしまうことが。


 自分は、ただ隣にいるだけの存在になってしまうのではないかということが。


「……ありがとう、ございます」


 蒼(あお)波(ば)は、深く、深く頭を下げた。


 汗と泥にまみれた顔を隠すみたいに。


「うち……もっと、強くなります」


「ええ」


 その黒髪を、白櫻姫(こさき)の手のひらが、そっと撫でた。


「――楽(たの)しみにしております」




 むかばき青少年自然の家の食堂は、夜になると妙(みょう)に広く感じる。


 高い天井に、磨き込まれた長机。


 その一角に、三人分の膳(ぜん)が並んでいた。


 鶏の唐(から)揚(あ)げ、千(せん)切(ぎ)りキャベツ、味噌汁、白いご飯。


「――でね、最後に氷の、こう、大っきい氷(つ)柱(らら)みたいなのが出て」


 箸を持ったまま、白雪姫(こゆき)は身振りを交えて話していた。


 何かあったら帰ってから教えてほしい。


 朝、そう約束したから。


「それで、猪の魔物、一発で……その、倒せたの」


「うちが寝とる間にね」


 隣で蒼(あお)波(ば)が、拗(す)ねたように唐揚げを齧(かじ)る。


「うぅ……」


 その口元は、けれど笑っていた。


 向かいの席。


 紅葉(もみじ)は、箸をつけないまま二人の話を聞いていた。


 黒曜石のような瞳が、微(かす)かに揺れる。


 そして。


「……そう」


 それだけだった。


 視線が、窓の外の暗い山へ流れていく。


「…………」


「…………」


 白雪姫(こゆき)と蒼(あお)波(ば)は、思わず顔を見合わせた。


 ――この子が求めているのは、こういう話じゃない。


 二人には、それが分かってしまう。


 紅葉(もみじ)が探しているのは、千年前に別れた、たった一人の友達。


 そしてその人は、いま、この食卓についている。


 ――白雪姫(こゆき)の、内側に。


(白櫻姫(こさき)さん……)


 心の中で呼びかけてみる。


 返事は、ない。


 眠っているのか、それとも――黙(だま)っているのか。


(……会うのが怖い、って言ってたもんね)


 言ってしまえば、この気まずさは終わる。


 けれど、それは白櫻姫(こさき)の心を置き去りにすることだ。


 板挟みのまま、白雪姫(こゆき)と蒼(あお)波(ば)は、もう一度そっと目を合わせた。


「――あら、みんな揃ってるのね」


 そこへ、翠(み)織(おり)がやってきた。


 深緑のワンピースの裾を翻(ひるがえ)し、湯呑みを片手に、紅葉(もみじ)の隣へ腰を下ろす。


 そして、なんの前置きもなく言った。


「それじゃあ、紅葉(もみじ)ちゃんも、二人と同じ学校に通う?」


 ――ぴしり、と。


 食堂の空気が固まった。


「……え」


 紅葉(もみじ)が、ようやくこちらを向く。


「明(あさ)後(っ)日(て)の土曜日にね、セーラー服の仕立てを頼みに行こうと思ってるの」


 翠(み)織(おり)は、湯呑みを傾(かたむ)けながら続けた。


「そこから一、二週間ってところかしら。編入の手続きもあるし、すぐにとはいかないけれど。……どう?」


「紅葉(もみじ)ちゃんと、一緒に学校っ⁉」


 真っ先に声を上げたのは白雪姫(こゆき)だった。


 箸を置き、身を乗り出す。


「い、いいですか? 三人で一緒に行けるって……」


「うわ、楽しそう。紅葉(もみじ)ちゃんのセーラー服、絶対似合うって」


 蒼(あお)波(ば)も、目を輝かせた。


 当の紅葉(もみじ)は、しばらく黙っていた。


 それから、静かに首を振る。


「……無理よ」


「あら、どうして?」


「私、戸(こ)籍(せき)がないですから」


 紅葉(もみじ)は、湯気の立つ味噌汁を見つめたまま言った。


「この国に、私って人間は存在していない……。そんな子を、学校が受け入れるとお思いで?」


 千年のあいだ、幾度も突きつけられてきたのだろう。


 その声には、諦(あきら)めというより、事実を読み上げるような平坦さがあった。


「そうね。当然、受け入れないわ」


 翠(み)織(おり)は、あっさりと肯定した。


「保護者も必要だし、必要な手続きだって山ほどある。……役所も、学校も、そういうものだもの」


「……なら」


「だから、私がやるの」


 紅葉(もみじ)の黒い瞳が、まん丸に見開かれた。


「え」


「保護者は、私。手続きは、この週末に回ってしまいましょう」


 翠(み)織(おり)は湯呑みを置き、指を一本立てて微笑む。


「これでも私、神子管理組織の延(のべ)岡(おか)地区の担当者よ? こういう〝存在しないはずの子〟を表(おもて)の世界に馴(な)染(じ)ませるのも、仕事のうちなの」


 ――白雪姫(こゆき)のときも、そうだった。


 両親を失い、行き場をなくした少女を、この人は事もなげに引き取ってみせたのだ。


「ついでに、白雪姫(こゆき)ちゃんと蒼(あお)波(ば)ちゃんの身の回りのものも買い揃えましょうか。二人とも、そろそろ替えの服が足りないでしょう」


「あっ、それ助かります……!」


「うちも、靴(くつ)下(した)が全滅でした……」


「……んぇ⁉ じゃあ今穴開いた靴下履いてるの⁉」


 白雪姫(こゆき)が目を見開いて訊ねる。


「い、いや! 今履いてるのは大丈夫なやつ!」


 蒼(あお)波(ば)は大きな身振りでそう否定した。


 紅葉(もみじ)は、まだ翠(み)織(おり)を見つめたままだった。


 千年。


 誰も、そんなことを言い出さなかった。


 森で、洞(どう)窟(くつ)で、無人の校舎で。


 いないものとして、生きてきた。


 それが――明後日には、制服を誂(あつら)えているという。


「……なんで、そこまでしてくれるのですか」


 紅葉(もみじ)の声は、少しだけ、かすれていた。


「あら」


 翠(み)織(おり)は、目(め)尻(じり)を柔らかく下げた。


「うちの子が二人、紅葉(もみじ)ちゃんと一緒に学校に行きたいって顔をしてるんだもの。……それだけじゃ、理由として足りないかしら」


「――っ」


 紅葉(もみじ)は、俯(うつむ)いた。


 長い黒髪が、その表情を隠す。


 やがて、ほんの小さく。


「……足りて……ます」


 そう、呟(つぶや)いた。


「よかった。じゃあ、決まりね」


 反対する理由なんて、どこにもなかった。


 白雪姫(こゆき)と蒼(あお)波(ば)は顔を見合わせて笑い、紅葉(もみじ)は照れ隠しのように、ようやく箸を取る。


 窓の外では、行縢の山が、藍(あい)色の夜に静かに沈んでいた。


 ――週末が、すぐそこまで来ている。





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