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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第02章:不死の炎
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第09話:魔物との戦闘 蒼波

 放課後の空は、まだ十分に明るかった。


 だというのに、その一角だけは、光の届き方がどこかおかしい。


 桜(さくら)ケ(が)丘(おか)小中学校の敷地を抜け、緩やかな坂を少しだけ下ったところ。


 ――廃園となった、桜ケ丘幼稚園。


 膝の高さまで伸びた雑草が、風もないのにさわさわと鳴っている。


 園庭を囲う金網は所々が捲(めく)れ上がり、倉庫はあちこち錆(さび)が目立っている。


 玄関の引き戸は片方が外れて斜めに傾(かし)ぎ、割れた窓ガラスの向こうには、色の抜けた画用紙が数枚、床に散らばっているのが見える。


 誰かの描いた絵だ。もう、何が描かれていたのかも分からない。


「……ほんとに、来ちゃったね」


 古(こ)閑(が)蒼(あお)波(ば)は、鞄の紐(ひも)を握りしめたまま呟いた。


 その隣で、柊(ふき)野(の)白雪姫(こゆき)がこくりと頷(うなず)く。


「うん。……来ちゃった」


 真っ白な髪が、夕方に近づきはじめた風にふわりと攫(さら)われる。





 ――昼休み、あの丘の上で白櫻姫(こさき)が告げたこと。


 教室に戻る直前、白雪姫(こゆき)の意識は静かに表へ引き戻された。


 そして五時間目、六時間目と、黒板の文字を写す手を動かしながら、頭の中ではずっと会話が続いていたのだ。


『――というわけでございます。放課後、あの園庭へ』


(え、えぇっ……⁉ ま、待って、白櫻姫(こさき)さん、いつの間にそんな約束を……!)


『あなたと入れ替わっている間に。……申し訳ございません、事後承諾となってしまいましたね』


(ううん、それはいいんですけど……)


 ノートの端に、意味のない丸をひとつ書いた。


(……蒼(あお)波(ば)ちゃん、大丈夫かな)


『大丈夫にするための稽(けい)古(こ)でございます』


 その声は、優しくて――そして、少しも揺らいでいなかった。


「……うん」


 だから白雪姫(こゆき)は心の中でそう返したのだ。





「――白雪姫(こゆき)ちゃん」


 蒼(あお)波(ば)の声で、意識が現在へ戻ってくる。


「……ねえ。うちの気のせいやなくて、これ」


 蒼(あお)波(ば)は、園庭の中央あたりへ琥(こ)珀(はく)色(いろ)の視線を向けた。


 喉が、こくりと動く。


「昼休みより、ずっと濃くなってる」


「うん。……私も、授業中からずっと感じてた」


 白雪姫(こゆき)は、胸のあたりにそっと手を当てる。


 ――魔(ま)力(りょく)。


 肌をなぞる、ぬるい水のような不快感。霊(れい)力(りょく)とは似ても似つかない、澱(よど)んだ気配。


 昼休みに丘の上から感じ取ったときは、膿(うみ)のような、と白櫻姫(こさき)は表現していた。


 今はもう、膿ではない。


 ――腫(は)れ上がって、破れる直前だ。


「……うそやろ」


 蒼(あお)波(ば)が、掠(かす)れた声を漏らした。


「うち、今やっと分かったっちゃけど。……白雪姫(こゆき)ちゃん、これを昼休みの時点で?」


「え、うん」


「白櫻姫(こさき)さんは、丘の上から?」


「……たぶん」


「…………」


 蒼(あお)波(ば)は、思わず白雪姫(こゆき)の横顔を見上げた。


 自分だって、小さい頃から翠(み)織(おり)に鍛えられてきたつもりだ。感知は、少なくとも同年代の神(み)子(こ)より得意なはずだった。


 なのに――こんなに膨れ上がってから、ようやく気付いた。


(……ほんと、化(ば)け物(もの)やわ、この二人)


 悔しさと、それを上回る安心感が、同時に胸に落ちてくる。


「蒼(あお)波(ば)ちゃん、あのね」


 白雪姫(こゆき)は、鞄を金網の脇にそっと置いた。


「そろそろ、代わるね」


「……うん。お願い」


 白雪姫(こゆき)は、静かに目を瞑(つむ)る。


 ――白櫻姫(こさき)さん。


『はい。……失礼いたします』


 睫(まつ)毛(げ)が、ゆっくりと持ち上がった。


 現れたのは、白銀ではない。


 春の光を溶かし込んだような、鮮やかな桜色。


「――お待たせいたしました」


 白櫻姫(こさき)は、セーラー服の襟(えり)を指先で整えると、廃園を見据えた。


「間もなく参ります。周りに気付かれる前に、手早く終わらせましょう」


 その言葉が、終わるか終わらないか。


 ――ずぐん、と。


 園庭の地面が、内側から膨れ上がった。


「っ……⁉」


 黒紫の霧が噴き上がり、雑草がまとめて枯れ落ちる。


 霧は渦を巻き、捻(ね)じれ、収束し――やがて、輪(りん)郭(かく)を持った。


 太い四肢。低く沈んだ肩。地面を抉(えぐ)るような、二本の白い牙(きば)。


 ――猪(いのしし)だ。


 ただし、体長は五メートル。


 剛毛の一本一本に禍々しい魔力が絡みつき、蠢(うごめ)いている。


「――魔(ま)物(もの)……!」


 蒼(あお)波(ば)の背筋を、氷の指がなぞった。


 行(むか)縢(ばき)で白雪姫(こゆき)を襲ったというオオカミ型の魔物の話は、聞かされている。


 だが、聞くのと見るのとでは、まるで違った。


 ――魔(ま)蝕(しょく)者(しゃ)とも、魔(ま)神(じん)とも違う。


 あれらには、まだ〝意思〟があった。憎(ぞう)悪(お)でも、嘲(ちょう)笑(しょう)でも、こちらを人間として見る目があった。


 この猪には、それがない。


 あるのはただ、飢(う)えだ。


(……魂(たましい)が、喰(く)われてる……)


 翠(み)織(おり)の言葉が、耳の奥で蘇(よみがえ)る。


 ――魔物ってね、彷(さ)徨(まよ)っている動物の魂が、魔力に浸食されて生まれるのよ。


 だから、あれはもう、猪ではないのだ。


 猪だった、なにか。


「蒼(あお)波(ば)様」


 凛とした声が、蒼(あお)波(ば)の膝の震えを止めた。


「怖いのは結構。震えるのも結構。……ですが、足だけは止めてはなりません」


「――っ、はいっ!」


 その瞬間、猪の目に赤い光が灯った。


 地面が爆(は)ぜる。


「来ますよ」


 突進。


 五メートルの質量が、まっすぐに二人へ突っ込んでくる。


 蒼(あお)波(ば)は反射的に脚へ霊力を巡らせ、横へ跳んだ。


 風圧が、頬を打つ。


 着地の直後、白櫻姫(こさき)の声が飛んだ。


「蒼(あお)波(ば)様。あの晩、魔蝕者へ向けて霊力を放ちましたね」


「はっ、はいっ!」


「同じことを、あれに」


 言うだけ言って、白櫻姫(こさき)は動かない。


 腕を組み、園庭の隅(すみ)に立ったままだ。


(……手伝ってくれる気、ゼロやんね⁉)


 文句を飲み込んで、蒼(あお)波(ば)は駆けた。


 猪は突進の勢いを殺しきれず、園舎の壁に肩からぶつかり、ぐるりとこちらへ向き直ろうとしている。


 ――今。


 右の手のひらを突き出し、そこへ霊力を注ぎ込む。


 掌の内側が熱を持ち、やがて冷(ひ)んやりとした感触へ変わっていく。


 ――生まれる。水が、生まれる。


 猪が、再び蹄(ひづめ)を鳴らした。


 まっすぐに、蒼(あお)波(ば)を見ている。


 突っ込んでくる。


「――行けぇっ!」


 叫びと同時に、掌が弾けた。


 太い水柱が迸(ほとばし)る。


 それは高圧洗浄機の水流のように、あるいはバケツの水を叩きつけたように、猪の横っ面へ真正面から直撃した。


 どぉん、と鈍い音。


 五メートルの巨体が、横倒しになる。


「やった……!」


 蒼(あお)波(ば)の頬が、思わず緩んだ。


 効いた。届いた。自分の力が、あの巨体を吹き飛ばした。


「――いいえ」


 白櫻姫(こさき)の声は、氷のように冷静だった。


「あれでは、倒せておりません」


「え」


 言葉の意味を確かめる暇もなかった。


 泥にまみれた猪が、ぶるりと身を震わせて起き上がる。


 傷ひとつ、ない。


「そんな……⁉」


「蒼(あお)波(ば)様。少し、お話をいたしましょう」


「い、今ですか⁉」


「今でございます」


 白櫻姫(こさき)は、猪から視線を外さないまま続けた。


「あなたの力は、水。……ですが今のあなたがしているのは、己の霊力を水へ変え、そのまま浴(あ)びせているだけ。それ以上でも、以下でもございません」


「……っ」


 図星だった。


 蒼(あお)波(ば)は、水を〝出す〟ことしか知らない。


「よろしいですか。水というものは――変(へん)幻(げん)自(じ)在(ざい)なのです」


 白櫻姫(こさき)は、右手を静かに掲げた。


「器(うつわ)に注げば器の形に。細い隙(すき)間(ま)に通せば、細くなる。……そして水は、同じ量でも、束(たば)ねて細くするほど勢いを増します。滝(たき)より、樋(とい)を落ちる水の方が痛いでしょう?」


「……あ」


「さらに極めれば、水は鉄すら断ちます」


「て、鉄を⁉」


「ええ。あなたの霊力の制(せい)御(ぎょ)が上がれば――いずれ、できましょう」


 猪が、地面を蹴った。


「――話は後でっ!」


 蒼(あお)波(ば)は横っ飛びに躱(かわ)す。


 背中すれすれを、牙が通り過ぎていった。


「それに、もうひとつ」


 声は、追いかけてくる。


「今のあなたの水は、只(ただ)の水。清めの力も、断つ力も宿っておりません。……これは、水の気(け)を持つ者の宿(しゅく)命(めい)のようなもの。わたくしが生きていた世でも、同じでございました」


「宿命……」


「ゆえに、水の気の者には、神(じん)器(ぎ)が要るのです」


 その一言に、蒼(あお)波(ば)の足が半歩止まりかけた。


「神器は、水を操る技量そのものを引き上げます。あるいは、水に別の意味を与える。……水の神子が真に花開くのは、神器の顕(けん)現(げん)を果たしてから」


「……でも、うち、まだ神器なんて」


「ですから、今は形と勢いを操りなさい」


 白櫻姫(こさき)の声が、ぴしりと空気を打った。


「多く出そうとしてはなりません。少なく、鋭(するど)く。……小さな水で、大きな威力を。それを、思い描くのです」


「少なく、鋭く……!」


 言われた通りに、蒼(あお)波(ば)は手のひらへ意識を集めた。


 水を、細く。もっと細く。もっと――。


「――っ、あぐ⁉」


 できない。


 思い描いた形は、掌を離れた瞬間にほどけ、ただの水しぶきになって地面へ落ちた。


 しかも、そんな余裕はどこにもない。


 右から牙。跳ぶ。着地。左から体当たり。転(ころ)がる。息が上がる。


 制御に意識を割けば、足が遅れる。


 足に意識を戻せば、水が崩れる。


(――両方なんて、無理っ……!)


 その思考の隙間に、猪が滑り込んだ。


「あっ――」


 視界が、ぐるりと回った。


 衝撃。


 浮遊感。


 そして、背中から地面へ叩きつけられる、鈍く重たい音。


「かはっ……!」


 肺の空気が、全部押し出された。


 園庭の砂が、口の中でざらりと鳴る。


 ――白櫻姫(こさき)は、動かなかった。


 倒れた蒼(あお)波(ば)を静かに見下ろしている。


(……身体強化は、切らしておりませんね)


 桜色の瞳が、蒼(あお)波(ば)の全身をなぞる。


(ならば、あの程度で立てぬはずがない。……ここで手を出せば、この子は〝助けられる側〟のまま終わってしまう)


 果たして。


「……っ、う……」


 砂を握りしめて、蒼(あお)波(ば)の腕が動いた。


 膝が立つ。背が伸びる。


 ぼたぼたと落ちる汗も、切れた唇の血も、拭わないまま。


 ――もう一度、掌に霊力を込めた。


「……まだ、終わっとらんし」


 その横顔を見て、白櫻姫(こさき)の目元が、ほんのわずかに和(やわ)らいだ。


「――蒼(あお)波(ば)様。ひとつ、助言を」


「はい……!」


「同時にやろうとするから、どちらも崩れるのです」


 白櫻姫(こさき)は、指を一本立てた。


「まず、足止めを。……動きを封じてから練りなさい」


 ――あ。


 蒼(あお)波(ば)の中で、何かが噛み合った。


 そうだ。


 最初から、全部を一度にやろうとしていた。


「――っ、うちの、馬鹿……!」


 猪が、四度目の突進に入る。


 蒼(あお)波(ば)は逃げなかった。


 掌を、真正面へ突き出す。


 込めるのは、細さでも鋭さでもない。ただの、ありったけの水。


「――どいてっ!」


 太い奔流が炸(さく)裂(れつ)した。


 真正面から食らった猪は、蹄を滑らせ、そのまま横腹から園庭へ叩きつけられる。


 起き上がるまで、数秒。


 ――その数秒が、蒼(あお)波(ば)のすべてだった。


 目を瞑る。


 周りの音が、遠のいていく。


(水は、器の形になる)


 掌の上に、水がふるりと生まれる。


(勢いは――細くするほど、増す)


 球が、ゆがむ。伸びる。薄くなる。


(滝じゃない。樋でもない。もっと、もっと細く――)


 水が、平たくなっていく。


(――刃(やいば)に!)


 猪が、起き上がった。


 赤い眼が、蒼(あお)波(ば)だけを見ている。


 地面を割って、突っ込んでくる。


 だが。


 そのときにはもう、蒼(あお)波(ば)の手のひらの上には――


 薄く、細く、研(と)ぎ澄(す)まされた、一枚の水があった。


「いけぇっ‼」


 放たれた。


 それは、もはや〝水を当てる〟技ではなかった。


 空気を裂く、甲(かん)高(だか)い音。


 水の刃は猪の額(ひたい)へ吸い込まれ――岩のように硬い皮膚を、真(ま)っ直(す)ぐに切り裂いた。


「――⁉」


 鮮血が噴き上がる。


 猪の咆(ほう)哮(こう)が、廃園の窓ガラスを震わせた。


「や……った……?」


 だが、白櫻姫(こさき)の表情は変わらない。


「――浅い」


 その通りだった。


 皮を裂き、肉を裂き、しかし、その奥までは届いていない。


 そして、猪は。


 ――怒っていた。


 全身の剛毛が逆立ち、体内の魔力という魔力が、蹄の先まで駆け巡る。


 黒紫の湯気が、傷口から立ち上った。


 今までとは、圧が違う。


「……っ」


 蒼(あお)波(ば)は、立てなかった。


 膝が、笑っている。


 あの一撃に、霊力も、意識も、注ぎ込みすぎた。


 視界が白く霞(かす)み、猪の輪郭が二重に滲(にじ)む。


(……あ、れ)


 足が、動かん。


(うち、ここで――)


 突進が、来る。


 ――ふわり、と。


 体が、浮いた。


「え……?」


 気付いたときには、風景が流れていた。


 自分の背中と膝の裏に、細い腕が回されている。


 真っ白な髪が、頬をくすぐった。


「無茶をなさりましたね。もう少し制御の訓練が必要そうです」


 桜色の瞳が、すぐそばにあった。


 猪は、蒼(あお)波(ば)がいた場所を突き抜けて、園庭の反対側へ。


 そして白櫻姫(こさき)は、その背後へ、音もなく降り立っていた。


「今の制御――もう少し、疾(はや)くできるようになりなさい」


「……はい」


 蒼(あお)波(ば)は、俯(うつむ)いた。


 悔しい。悔しくて、堪(たま)らない。


 けれど、白櫻姫(こさき)はその項(うなじ)を見下ろして、静かに続けた。


「――ですが、お疲れ様でございました」


「え……」


「よく堪えました。少し、お休みなさい」


 草の上へ、そっと下ろされる。


 髪を撫でていった手のひらは、驚くほど温かかった。


 蒼(あお)波(ば)の琥珀色の瞳が、緩やかに閉じていく。


「白櫻姫(こさき)……さん……」


「ええ。ここからは――」


 白櫻姫(こさき)は立ち上がり、猪へ向き直った。


 そして、微(ほほ)笑(え)む。


「――白雪姫(こゆき)に、戦っていただきます」


 風が、廃園を吹き抜けた。


 白い髪が舞い上がり――そして、静かに落ちる。


 伏せられた睫毛が、ゆっくりと持ち上がった。


 現れた瞳は、桜色ではない。


 ――雪の匂いがする、透きとおった白銀。


「…………」


 白雪姫(こゆき)は、まず蒼(あお)波(ば)を見た。


 泥だらけの制服。切れた唇。それでも、穏(おだ)やかな寝顔。


 次に、自分の両手を見た。


 小さくて、細くて、力なんてなさそうな手のひら。


(……蒼(あお)波(ば)ちゃんが、あんなに頑張ったっちゃもん)


 ぎゅ、と握る。


『白雪姫(こゆき)』


 頭の中に、涼(すず)やかな声が響いた。


『相手は魔物一体。……あなたなら、できます』


「……はい」


 白雪姫(こゆき)は、猪へ向き直った。


 五メートルの巨躯。血に濡れた額。ぎらつく赤い眼。


 昨日までの自分なら、脚(あし)が動かなくなっていただろう。


 でも、今は。


 ――白雪姫(こゆき)は、静かに構えを取った。


 夢の中で、何十回も吹き飛ばされて覚えた、あの構えを。


「……行くよ」


 猪が、嘶(いなな)いた。


 ――第二回戦が、始まる。





ここまで読んでいただきありがとうございます!

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