第09話:魔物との戦闘 蒼波
放課後の空は、まだ十分に明るかった。
だというのに、その一角だけは、光の届き方がどこかおかしい。
桜ケ丘小中学校の敷地を抜け、緩やかな坂を少しだけ下ったところ。
――廃園となった、桜ケ丘幼稚園。
膝の高さまで伸びた雑草が、風もないのにさわさわと鳴っている。
園庭を囲う金網は所々が捲れ上がり、倉庫はあちこち錆が目立っている。
玄関の引き戸は片方が外れて斜めに傾ぎ、割れた窓ガラスの向こうには、色の抜けた画用紙が数枚、床に散らばっているのが見える。
誰かの描いた絵だ。もう、何が描かれていたのかも分からない。
「……ほんとに、来ちゃったね」
古閑蒼波は、鞄の紐を握りしめたまま呟いた。
その隣で、柊野白雪姫がこくりと頷く。
「うん。……来ちゃった」
真っ白な髪が、夕方に近づきはじめた風にふわりと攫われる。
――昼休み、あの丘の上で白櫻姫が告げたこと。
教室に戻る直前、白雪姫の意識は静かに表へ引き戻された。
そして五時間目、六時間目と、黒板の文字を写す手を動かしながら、頭の中ではずっと会話が続いていたのだ。
『――というわけでございます。放課後、あの園庭へ』
(え、えぇっ……⁉ ま、待って、白櫻姫さん、いつの間にそんな約束を……!)
『あなたと入れ替わっている間に。……申し訳ございません、事後承諾となってしまいましたね』
(ううん、それはいいんですけど……)
ノートの端に、意味のない丸をひとつ書いた。
(……蒼波ちゃん、大丈夫かな)
『大丈夫にするための稽古でございます』
その声は、優しくて――そして、少しも揺らいでいなかった。
「……うん」
だから白雪姫は心の中でそう返したのだ。
「――白雪姫ちゃん」
蒼波の声で、意識が現在へ戻ってくる。
「……ねえ。うちの気のせいやなくて、これ」
蒼波は、園庭の中央あたりへ琥珀色の視線を向けた。
喉が、こくりと動く。
「昼休みより、ずっと濃くなってる」
「うん。……私も、授業中からずっと感じてた」
白雪姫は、胸のあたりにそっと手を当てる。
――魔力。
肌をなぞる、ぬるい水のような不快感。霊力とは似ても似つかない、澱んだ気配。
昼休みに丘の上から感じ取ったときは、膿のような、と白櫻姫は表現していた。
今はもう、膿ではない。
――腫れ上がって、破れる直前だ。
「……うそやろ」
蒼波が、掠れた声を漏らした。
「うち、今やっと分かったっちゃけど。……白雪姫ちゃん、これを昼休みの時点で?」
「え、うん」
「白櫻姫さんは、丘の上から?」
「……たぶん」
「…………」
蒼波は、思わず白雪姫の横顔を見上げた。
自分だって、小さい頃から翠織に鍛えられてきたつもりだ。感知は、少なくとも同年代の神子より得意なはずだった。
なのに――こんなに膨れ上がってから、ようやく気付いた。
(……ほんと、化け物やわ、この二人)
悔しさと、それを上回る安心感が、同時に胸に落ちてくる。
「蒼波ちゃん、あのね」
白雪姫は、鞄を金網の脇にそっと置いた。
「そろそろ、代わるね」
「……うん。お願い」
白雪姫は、静かに目を瞑る。
――白櫻姫さん。
『はい。……失礼いたします』
睫毛が、ゆっくりと持ち上がった。
現れたのは、白銀ではない。
春の光を溶かし込んだような、鮮やかな桜色。
「――お待たせいたしました」
白櫻姫は、セーラー服の襟を指先で整えると、廃園を見据えた。
「間もなく参ります。周りに気付かれる前に、手早く終わらせましょう」
その言葉が、終わるか終わらないか。
――ずぐん、と。
園庭の地面が、内側から膨れ上がった。
「っ……⁉」
黒紫の霧が噴き上がり、雑草がまとめて枯れ落ちる。
霧は渦を巻き、捻じれ、収束し――やがて、輪郭を持った。
太い四肢。低く沈んだ肩。地面を抉るような、二本の白い牙。
――猪だ。
ただし、体長は五メートル。
剛毛の一本一本に禍々しい魔力が絡みつき、蠢いている。
「――魔物……!」
蒼波の背筋を、氷の指がなぞった。
行縢で白雪姫を襲ったというオオカミ型の魔物の話は、聞かされている。
だが、聞くのと見るのとでは、まるで違った。
――魔蝕者とも、魔神とも違う。
あれらには、まだ〝意思〟があった。憎悪でも、嘲笑でも、こちらを人間として見る目があった。
この猪には、それがない。
あるのはただ、飢えだ。
(……魂が、喰われてる……)
翠織の言葉が、耳の奥で蘇る。
――魔物ってね、彷徨っている動物の魂が、魔力に浸食されて生まれるのよ。
だから、あれはもう、猪ではないのだ。
猪だった、なにか。
「蒼波様」
凛とした声が、蒼波の膝の震えを止めた。
「怖いのは結構。震えるのも結構。……ですが、足だけは止めてはなりません」
「――っ、はいっ!」
その瞬間、猪の目に赤い光が灯った。
地面が爆ぜる。
「来ますよ」
突進。
五メートルの質量が、まっすぐに二人へ突っ込んでくる。
蒼波は反射的に脚へ霊力を巡らせ、横へ跳んだ。
風圧が、頬を打つ。
着地の直後、白櫻姫の声が飛んだ。
「蒼波様。あの晩、魔蝕者へ向けて霊力を放ちましたね」
「はっ、はいっ!」
「同じことを、あれに」
言うだけ言って、白櫻姫は動かない。
腕を組み、園庭の隅に立ったままだ。
(……手伝ってくれる気、ゼロやんね⁉)
文句を飲み込んで、蒼波は駆けた。
猪は突進の勢いを殺しきれず、園舎の壁に肩からぶつかり、ぐるりとこちらへ向き直ろうとしている。
――今。
右の手のひらを突き出し、そこへ霊力を注ぎ込む。
掌の内側が熱を持ち、やがて冷んやりとした感触へ変わっていく。
――生まれる。水が、生まれる。
猪が、再び蹄を鳴らした。
まっすぐに、蒼波を見ている。
突っ込んでくる。
「――行けぇっ!」
叫びと同時に、掌が弾けた。
太い水柱が迸る。
それは高圧洗浄機の水流のように、あるいはバケツの水を叩きつけたように、猪の横っ面へ真正面から直撃した。
どぉん、と鈍い音。
五メートルの巨体が、横倒しになる。
「やった……!」
蒼波の頬が、思わず緩んだ。
効いた。届いた。自分の力が、あの巨体を吹き飛ばした。
「――いいえ」
白櫻姫の声は、氷のように冷静だった。
「あれでは、倒せておりません」
「え」
言葉の意味を確かめる暇もなかった。
泥にまみれた猪が、ぶるりと身を震わせて起き上がる。
傷ひとつ、ない。
「そんな……⁉」
「蒼波様。少し、お話をいたしましょう」
「い、今ですか⁉」
「今でございます」
白櫻姫は、猪から視線を外さないまま続けた。
「あなたの力は、水。……ですが今のあなたがしているのは、己の霊力を水へ変え、そのまま浴びせているだけ。それ以上でも、以下でもございません」
「……っ」
図星だった。
蒼波は、水を〝出す〟ことしか知らない。
「よろしいですか。水というものは――変幻自在なのです」
白櫻姫は、右手を静かに掲げた。
「器に注げば器の形に。細い隙間に通せば、細くなる。……そして水は、同じ量でも、束ねて細くするほど勢いを増します。滝より、樋を落ちる水の方が痛いでしょう?」
「……あ」
「さらに極めれば、水は鉄すら断ちます」
「て、鉄を⁉」
「ええ。あなたの霊力の制御が上がれば――いずれ、できましょう」
猪が、地面を蹴った。
「――話は後でっ!」
蒼波は横っ飛びに躱す。
背中すれすれを、牙が通り過ぎていった。
「それに、もうひとつ」
声は、追いかけてくる。
「今のあなたの水は、只の水。清めの力も、断つ力も宿っておりません。……これは、水の気を持つ者の宿命のようなもの。わたくしが生きていた世でも、同じでございました」
「宿命……」
「ゆえに、水の気の者には、神器が要るのです」
その一言に、蒼波の足が半歩止まりかけた。
「神器は、水を操る技量そのものを引き上げます。あるいは、水に別の意味を与える。……水の神子が真に花開くのは、神器の顕現を果たしてから」
「……でも、うち、まだ神器なんて」
「ですから、今は形と勢いを操りなさい」
白櫻姫の声が、ぴしりと空気を打った。
「多く出そうとしてはなりません。少なく、鋭く。……小さな水で、大きな威力を。それを、思い描くのです」
「少なく、鋭く……!」
言われた通りに、蒼波は手のひらへ意識を集めた。
水を、細く。もっと細く。もっと――。
「――っ、あぐ⁉」
できない。
思い描いた形は、掌を離れた瞬間にほどけ、ただの水しぶきになって地面へ落ちた。
しかも、そんな余裕はどこにもない。
右から牙。跳ぶ。着地。左から体当たり。転がる。息が上がる。
制御に意識を割けば、足が遅れる。
足に意識を戻せば、水が崩れる。
(――両方なんて、無理っ……!)
その思考の隙間に、猪が滑り込んだ。
「あっ――」
視界が、ぐるりと回った。
衝撃。
浮遊感。
そして、背中から地面へ叩きつけられる、鈍く重たい音。
「かはっ……!」
肺の空気が、全部押し出された。
園庭の砂が、口の中でざらりと鳴る。
――白櫻姫は、動かなかった。
倒れた蒼波を静かに見下ろしている。
(……身体強化は、切らしておりませんね)
桜色の瞳が、蒼波の全身をなぞる。
(ならば、あの程度で立てぬはずがない。……ここで手を出せば、この子は〝助けられる側〟のまま終わってしまう)
果たして。
「……っ、う……」
砂を握りしめて、蒼波の腕が動いた。
膝が立つ。背が伸びる。
ぼたぼたと落ちる汗も、切れた唇の血も、拭わないまま。
――もう一度、掌に霊力を込めた。
「……まだ、終わっとらんし」
その横顔を見て、白櫻姫の目元が、ほんのわずかに和らいだ。
「――蒼波様。ひとつ、助言を」
「はい……!」
「同時にやろうとするから、どちらも崩れるのです」
白櫻姫は、指を一本立てた。
「まず、足止めを。……動きを封じてから練りなさい」
――あ。
蒼波の中で、何かが噛み合った。
そうだ。
最初から、全部を一度にやろうとしていた。
「――っ、うちの、馬鹿……!」
猪が、四度目の突進に入る。
蒼波は逃げなかった。
掌を、真正面へ突き出す。
込めるのは、細さでも鋭さでもない。ただの、ありったけの水。
「――どいてっ!」
太い奔流が炸裂した。
真正面から食らった猪は、蹄を滑らせ、そのまま横腹から園庭へ叩きつけられる。
起き上がるまで、数秒。
――その数秒が、蒼波のすべてだった。
目を瞑る。
周りの音が、遠のいていく。
(水は、器の形になる)
掌の上に、水がふるりと生まれる。
(勢いは――細くするほど、増す)
球が、ゆがむ。伸びる。薄くなる。
(滝じゃない。樋でもない。もっと、もっと細く――)
水が、平たくなっていく。
(――刃に!)
猪が、起き上がった。
赤い眼が、蒼波だけを見ている。
地面を割って、突っ込んでくる。
だが。
そのときにはもう、蒼波の手のひらの上には――
薄く、細く、研ぎ澄まされた、一枚の水があった。
「いけぇっ‼」
放たれた。
それは、もはや〝水を当てる〟技ではなかった。
空気を裂く、甲高い音。
水の刃は猪の額へ吸い込まれ――岩のように硬い皮膚を、真っ直ぐに切り裂いた。
「――⁉」
鮮血が噴き上がる。
猪の咆哮が、廃園の窓ガラスを震わせた。
「や……った……?」
だが、白櫻姫の表情は変わらない。
「――浅い」
その通りだった。
皮を裂き、肉を裂き、しかし、その奥までは届いていない。
そして、猪は。
――怒っていた。
全身の剛毛が逆立ち、体内の魔力という魔力が、蹄の先まで駆け巡る。
黒紫の湯気が、傷口から立ち上った。
今までとは、圧が違う。
「……っ」
蒼波は、立てなかった。
膝が、笑っている。
あの一撃に、霊力も、意識も、注ぎ込みすぎた。
視界が白く霞み、猪の輪郭が二重に滲む。
(……あ、れ)
足が、動かん。
(うち、ここで――)
突進が、来る。
――ふわり、と。
体が、浮いた。
「え……?」
気付いたときには、風景が流れていた。
自分の背中と膝の裏に、細い腕が回されている。
真っ白な髪が、頬をくすぐった。
「無茶をなさりましたね。もう少し制御の訓練が必要そうです」
桜色の瞳が、すぐそばにあった。
猪は、蒼波がいた場所を突き抜けて、園庭の反対側へ。
そして白櫻姫は、その背後へ、音もなく降り立っていた。
「今の制御――もう少し、疾くできるようになりなさい」
「……はい」
蒼波は、俯いた。
悔しい。悔しくて、堪らない。
けれど、白櫻姫はその項を見下ろして、静かに続けた。
「――ですが、お疲れ様でございました」
「え……」
「よく堪えました。少し、お休みなさい」
草の上へ、そっと下ろされる。
髪を撫でていった手のひらは、驚くほど温かかった。
蒼波の琥珀色の瞳が、緩やかに閉じていく。
「白櫻姫……さん……」
「ええ。ここからは――」
白櫻姫は立ち上がり、猪へ向き直った。
そして、微笑む。
「――白雪姫に、戦っていただきます」
風が、廃園を吹き抜けた。
白い髪が舞い上がり――そして、静かに落ちる。
伏せられた睫毛が、ゆっくりと持ち上がった。
現れた瞳は、桜色ではない。
――雪の匂いがする、透きとおった白銀。
「…………」
白雪姫は、まず蒼波を見た。
泥だらけの制服。切れた唇。それでも、穏やかな寝顔。
次に、自分の両手を見た。
小さくて、細くて、力なんてなさそうな手のひら。
(……蒼波ちゃんが、あんなに頑張ったっちゃもん)
ぎゅ、と握る。
『白雪姫』
頭の中に、涼やかな声が響いた。
『相手は魔物一体。……あなたなら、できます』
「……はい」
白雪姫は、猪へ向き直った。
五メートルの巨躯。血に濡れた額。ぎらつく赤い眼。
昨日までの自分なら、脚が動かなくなっていただろう。
でも、今は。
――白雪姫は、静かに構えを取った。
夢の中で、何十回も吹き飛ばされて覚えた、あの構えを。
「……行くよ」
猪が、嘶いた。
――第二回戦が、始まる。
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