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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第02章:不死の炎
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第08話:打ち明けられる秘密

 青が、どこまでも高い。


 雲ひとつない空の下、満開の桜が地平の果てまで咲き誇っている。


 風が渡るたび、桜色の花弁が雪のように降りしきり、足元に淡い絨(じゅう)毯(たん)を敷いていく。


 ――精神世界。


 白雪姫(こゆき)の魂(たましい)が存在する、桜色の楽(らく)園(えん)。


 その中央で、二人の少女が向かい合っていた。


 どちらも、雪のように真っ白な長い髪。


 違うのは、瞳の色だけだ。


 ――白銀と、桜色。


「本日より、霊(れい)力(りょく)による身体強化を用いた手合わせを行います」


 桜色の瞳を持つ少女――椿(つばきの)宮(みや)白櫻姫(こさき)が、袖(そで)を静かに払って告げた。


 その所作ひとつが、まるで舞のように整っている。


「以前お約束した、修行でございます。本当は昨日から始めたかったのですが、昨夜は紅葉(もみじ)のことで手一杯でしたから遅くなりました」


「て、手合わせ……って」


 白雪姫(こゆき)は、思わず一歩下がった。


「私、武術なんて一回もやったことないんですけど……!」


「存じております」


 あっさりと頷(うなず)かれた。


「本来であれば、構えの取り方から一つひとつ、手取り足取りお教えするべきなのでしょうね」


 白櫻姫(こさき)は、少しだけ困ったように眉を下げる。


「ですが、それではどうしても時間がかかります。……いつまた魔(ま)物(もの)が現れるとも知れませんのに」


「っ……」


 白雪姫(こゆき)の喉(のど)が鳴った。


 ――行(むか)縢(ばき)で現れた、オオカミ型の魔物。


 ――学校のグラウンドに現れた、魔(ま)神(じん)。


 この数日で、日常はあっけないほど簡単に裏返るのだと、嫌というほど思い知らされている。


「ですので」


 白櫻姫(こさき)は、微(ほほ)笑(え)んだ。


「手合わせの中で、お教えいたします。……その方が、覚えも早いでしょうし」


「……はい」


 白雪姫(こゆき)は、こくりと頷いた。


 頷いてから――ふと、素朴な疑問が浮かんだ。


「あの、白櫻姫(こさき)さん」


「はい」


「そもそもの話なんですけど……ここって、夢の中ですよね?」


 白雪姫(こゆき)は、足元の花弁をつまさきで軽く掻(か)いた。


 ふわりと舞い上がった花弁は、確かな質量を持って手のひらに落ちてくる。


 ――なのに、これは現実ではない。


「夢の中で筋トレしても、現実の体には……その、意味がないんじゃ?」


「……きん、とれ」


 白櫻姫(こさき)が、ぱちりと瞬(まばた)きをした。


「なんでしょう、それは」


「え、あっ、えっと」


 白雪姫(こゆき)は慌てて両手を振った。


「体を鍛(きた)える運動のことです! 腕立て伏せとか、そういう……」


「ああ、なるほど。鍛(たん)錬(れん)のことですね」


 納得したように、白櫻姫(こさき)は顎(あご)に指を添える。


「――結論から申し上げれば、あなたの仰るとおりです」


「え」


「肉体を鍛える鍛錬は、この場所では無意味。ここでいくら汗を流したところで、現実のあなたの筋肉が強くなることはございません」


「じゃあ、やっぱり――」


「ですが」


 白櫻姫(こさき)の声が、静かに遮(さえぎ)る。


「霊力を制御し、操る技量。武術の型、間合いの感覚。そして、命のやり取りに臨む戦いの経験――これらは、いくらでも積むことができます」


「……どうして?」


「肉体が覚えるのではないからです」


 白櫻姫(こさき)は、自分の胸元にそっと手を当てた。


「霊力の波(は)長(ちょう)を合わせる感覚も、体のさばき方も、覚えているのは筋肉ではありません。頭と――魂でございます。まあ、〝体が覚える〟という言葉もありますが、あれを正確に言うならば、〝魂が覚える〟と言った方がいいでしょう」


「魂……」


「ええ。ゆえに、ここで身につけたものは、そのまま現実のあなたの動きとなって表れます」


 ふ、と白櫻姫(こさき)の表情が和(やわ)らいだ。


「それに、肉体そのものは霊力でいくらでも強化できます。そちらの手ほどきは、翠(み)織(おり)様や紅葉(もみじ)にお任せいたしましょう」


「……なるほど」


 白雪姫(こゆき)は、ぐっと拳を握った。


 ――理屈は、分かった。


 分かってしまったからには、もう逃げ道はない。


「……お願いします、白櫻姫(こさき)さん」


「ええ。では」


 桜が、ざあ、と鳴った。


「――参ります」


 その一言を、白雪姫(こゆき)は最後まで聞き取ることができなかった。





❆





 視界が、消し飛んだ。


「――かはっ⁉」


 腹部に衝撃。


 白雪姫(こゆき)の体は、桜の花弁を巻き上げながら十数メートルも後ろへ吹き飛ばされ、地面を二度、三度と跳ねた。


「っ、う……!」


 なんとか手をついて起き上がる。


 ――見えなかった。


 まったく、見えなかったのだ。


「身体強化は施(ほどこ)しておりますね。よろしい」


 いつの間にか、白櫻姫(こさき)は数歩先に立っていた。


 息ひとつ、乱れていない。


「では、次」


「ちょ、ちょっと待っ――」


 言い終わる前に、桜色の影が消えた。


(左っ!)


 感覚だけで身を捻(ひね)る。


 だが、そこに掌(しょう)底(てい)はなかった。


 ――下(した)。


「あぐっ……!」


「実戦で相手は待ってくれませんよ」


 膝を蹴り払われ、体が宙に浮く。落ちてきたところへ、肘が背中に落ちた。


 地面に叩(たた)きつけられる。


「――っ、はぁ、はぁ……」


 速い。


 霊力による身体強化で、動体視力もそれなりに上がっているはずだった。それは白雪姫(こゆき)自身、肌で分かっている。


 昨日までの自分なら、蒼(あお)波(ば)の投げるノートの切れ端すら見失っていたのだから。


 なのに――追えない。


(というか、そもそも……!)


 武術を齧(かじ)ったことすらない白雪姫(こゆき)には、どういう動きが基本なのかも分からない。


 拳が来る、と思えば蹴りが来る。


 蹴りに備えれば掌底が来る。


 掌底を警戒すれば、肘が顎(あご)をかすめる。


 まるで、こちらの読みを一つずつ丁寧に潰していくかのように、白櫻姫(こさき)は打撃の方法を変えてくるのだ。


「構えが硬すぎます。肩の力を抜きなさい」


「む、無理っ、力抜いたら――」


 言い切る前に、また吹き飛ばされた。


「力(りき)むほど、次の動きが遅れます」


「わ、分かってるんですけど……これは……」


 起き上がる。


 吹き飛ばされる。


 起き上がる。


 また、吹き飛ばされる。


 ――何度目かも、もう分からない。


 ここは精神世界で、今の白雪姫(こゆき)は魂だけの存在だ。だから、現実の肉体に傷(きず)はつかない。


 つかない、はずなのに。


(……痛い……!)


 痛いものは、痛かった。


 息が上がる。視界が滲(にじ)む。


 それでも、白雪姫(こゆき)は立った。


 ――翠(み)織(おり)先生を守りたい。


 ――蒼(あお)波(ば)ちゃんを守りたい。


 ――そして、紅葉(もみじ)ちゃんを。


 それが、この体を貸してくれた人への、たった一つの返し方な気がしたから。


「――っ!」


 桜色の影が、また消える。


 考えるより先に、体が動いた。


 右へ傾(かたむ)けた頬のすぐ横を、白い袖が通り過ぎていく。


 風が、耳を撫でた。


「――あっ」


 当たらなかった。


 初めて、白櫻姫(こさき)の攻撃が、当たらなかった。


「やった……!」


 喜びが、声になって零(こぼ)れた。


 ――零れた、その瞬間。


「隙(すき)ありです」


 ぱん、と軽い音がした。


 空になった脇腹へ、掌底が吸い込まれる。


「……ぁ」


 三度回転して、白雪姫(こゆき)は花弁の海に沈んだ。


 ――大の字。


「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……」


 肩で大きく息を吸う。吸っても吸っても、足りない気がする。


 視界いっぱいに、桜と、青空。


 ひらり、ひらりと、花弁が顔の上に落ちてくる。


 こつん、と足音が近づいてきて、桜色の瞳が空を遮った。


「――今のは、惜(お)しかったですね」


 白櫻姫(こさき)は、屈(かが)み込んで、白雪姫(こゆき)の額(ひたい)に張りついた前髪をそっと払った。


「初日で躱(かわ)されるとは、思っておりませんでしたよ」


「……ほんとに?」


「ええ。ですが、躱した後に喜ぶのはおやめなさい。戦いは、躱してからが始まりでございます」


「……はぁい」


 白雪姫(こゆき)は、力なく返事をした。


 けれど、その口元は、ほんの少しだけ緩(ゆる)んでいた。


「本日の修行は、これまで」


 白櫻姫(こさき)が立ち上がり、手を差し伸べる。


「よく堪(こら)えられました。――おやすみなさい、白雪姫(こゆき)」


 その手を掴もうとした指先が、桜の花弁のように溶けていく。


 ――白雪姫(こゆき)の意識は、白い朝へと引き上げられていった。





❆





「白雪姫(こゆき)ちゃーん、体操服入れた?」


「入れた! ……あっ、嘘、入れてない!」


 朝の宿泊部屋は、騒(そう)々(ぞう)しい。


 白雪姫(こゆき)と蒼(あお)波(ば)は、畳の上に鞄を広げて、学校へ向かう支(し)度(たく)に追われていた。


 体のあちこちが、妙に重い。


(……夢の中で殴られたのに、なんで筋肉痛みたいになってると……?)


 白雪姫(こゆき)が首を捻(ひね)っていると、窓際から声がかかった。


「白雪姫(こゆき)」


 紅葉(もみじ)だった。


 昨夜と同じ場所に、同じ姿勢で座っている。本当に一睡もしていないらしい。


「なあに、紅葉(もみじ)ちゃん」


「学校で、何かあったら」


 紅葉(もみじ)は、窓の外へ視線を向けたまま言った。


「帰ってきたときに、教えて」


「……何かって?」


「何かは、何か」


 そっけない答えだった。


 けれど、その黒い瞳の奥に、微(かす)かな熱があることに、白雪姫(こゆき)は気付いていた。


 ――白櫻姫(こさき)ちゃん。


 昨夜、この部屋で零された、あの小さな声。


「……うん。分かった」


 白雪姫(こゆき)は、笑顔で頷いた。


「ちゃんと、教えるね」


「うん」


「じゃあ、行ってきます!」


 二人分の足音が、廊下を駆けていく。


 残された紅葉(もみじ)は、しばらくその音の余(よ)韻(いん)を聞いていた。





❆





 昼休み。


 桜(さくら)ケ(が)丘(おか)小中学校の敷地は、緩やかな丘の上に広がっている。


 その一番高いところに、古びた石碑がぽつんと立っていた。


 もとは何かの記念碑だったのだろう。刻まれた文字は苔に埋もれ、もう半分も読めない。


 その台座に、二人の少女が並んで腰かけていた。


 眼下には家々や田(でん)園(えん)が広がり、遠くに行縢山の稜(りょう)線(せん)が青くかすんでいる。


「――それで、わざわざこんなとこまで連れてきて。大(おお)事(ごと)な話?」


「うん。……大事な話」


 白雪姫(こゆき)は、膝の上で手を握った。


 ――ずっと、迷っていた。


 いつ言うべきか。どう言うべきか。


 でも、昨夜、紅葉(もみじ)の横顔を見ていて、思ったのだ。


 ――隠しごとは、いつか誰かを一人にしてしまう。


「蒼(あお)波(ば)ちゃん。あの日……魔神を倒したの、通りすがりの神(み)子(こ)さんじゃないんよ」


「……え?」


「私の中に、いるの」


 白雪姫(こゆき)は、そっと自分の胸に手を当てた。


「千年前の、神子の魂が」


 風が、丘を吹き抜けた。


 蒼(あお)波(ば)は固まっている。


 それから、白雪姫(こゆき)は順を追って話した。


 夢の中で出会った、自分と同じ白い髪の少女のこと。


 名を、椿(つばきの)宮(みや)白櫻姫(こさき)ということ。


 平安の世に生き、魔神を討(う)って神となり、そして千年前に神界で処刑されたということ。


 あの夜、白雪姫(こゆき)の意識が途切れたあと、表に出て戦っていたのが彼女だということ。


 ――そして、翠(み)織(おり)は既にそれを知っていること。


「…………」


 語り終えても、蒼(あお)波(ば)はしばらく口を開(ひら)かなかった。


 琥(こ)珀(はく)色(いろ)の瞳が、ゆっくりと白雪姫(こゆき)の全身をなぞる。


 髪。瞳。頬。喉元。


 まるで、そこに継(つ)ぎ目でも探すかのように。


「……うそ、やろ」


 やがて、零れたのはその一言だった。


「嘘じゃないよ」


「あ、いや、その話を嘘だって言ってるっちゃなくて――」


 蒼(あお)波(ば)は、こほん、と咳払いして姿勢を正す。


「――有り得ないんよ、そんなの」


「え?」


「うちのお父さん、お寺の住職やから。魂の話は、小さい頃から嫌というほど聞かされてて」


 蒼(あお)波(ば)は、白雪姫(こゆき)の方へ向き直った。


 その表情は、いつもの明るさが抜け落ちて、真剣そのものだった。


「一つの体には、一つの魂。……それが大前提」


「……うん」


「一つの器に、二つの魂。それって、普通は――肉体の方が耐えられんのよ」


 白雪姫(こゆき)の背筋が、ひやりとした。


「仮に、体が耐えられたとしても」


 蒼(あお)波(ば)は、指を二本立てた。


「二つの魂が、一つの脳と、一つの意識を共有するっていうことは……お互いが、お互いを押しのけ合うっていうこと」


「押しのけ、合う……」


「そんな状態が長く続けば、いつ精神に影響が出てもおかしくない。記憶が飛んだり、自分が誰か分からなくなったり――お父さんは、そういう話をいくつも知ってる」


 白雪姫(こゆき)は、思わず自分の手のひらを見つめた。


 ――そんなふうに、考えたこともなかった。


 昨日、初めて桜の下で稽古をつけてもらって。


 授業中に他愛もない話をして。


 それが、そんなに危(あや)ういことだったなんて。


「……なのに、白雪姫(こゆき)ちゃんは平然としてる……」


 蒼(あお)波(ば)は、ため息をついた。


「白雪姫(こゆき)ちゃんの体と魂が、異常に強(きょう)靭(じん)なのか。それか――その、白櫻姫(こさき)さんっていう人の制御が、恐ろしいくらい上手なのか」


 その言葉に、白雪姫(こゆき)は少しだけ考えて。


 そして、ふわりと笑った。


「じゃあ、白櫻姫(こさき)さんが凄いんだと思うよ」


「……即答やね」


「? だって私、霊力の感知とか制御を習い始めたの、つい最近だよ?」


 白雪姫(こゆき)は、足をぶらぶらと揺らした。


「それに今朝も、夢の中でぼこぼこにされたっちゃもん」


「なにそれ、怖っ……」


 蒼(あお)波(ば)は、半目になって、それから肩の力を抜いた。


「……分かった。とりあえず、信じる」


「ほんと?」


「うん。でも一個だけ、約束して」


 蒼(あお)波(ば)は、小指を差し出した。


「体にちょっとでも異常が出たら――頭が痛いとか、記憶が飛んだとか。……どんな小さいことでもいいから、絶対にうちに教えて」


「……うん。約束する」


 小指と小指が、絡んだ。


 ――それから、蒼(あお)波(ば)は少しだけ口ごもって。


「あと……あのさ」


「なに?」


「その、白櫻姫(こさき)さんに伝えてほしいっちゃけど」


 蒼(あお)波(ば)は、膝の上で指を組んだ。


「――うちらを助けてくれて、ありがとうって」


 風が、二人の髪を攫(さら)っていく。


 白雪姫(こゆき)は、その言葉を聞いて。


 ――静かに、目を瞑(つむ)った。


「白雪姫(こゆき)ちゃん?」


「……それは」


 瞼(まぶた)の裏で、桜が舞う。


「蒼(あお)波(ば)ちゃんが、直接伝えてほしいかな」


「え、直接って、どうやっ――」


 その瞬間だった。


 白雪姫(こゆき)の体から、ふ、と力が抜けた。


 まるで糸が緩むように、肩の線が変わる。


 そして、ゆっくりと――瞼が上がった。


 現れたのは、白銀ではなかった。


 春の光を溶かし込んだような、鮮やかな桜色。


「……あら?」


 その唇(くちびる)から、涼(すず)やかな声が零れる。


「わたくし、修行で疲れて眠っておりましたのに。急に入れ替わって、どうしたのです、白雪姫(こゆき)――」


 言いかけて、その視線が隣へ滑(すべ)った。


 石碑の上で、完全に硬直している少女。


「…………ああ」


 桜色の瞳が、柔(やわ)らかく細められた。


「なるほど。そういうことでございますか」


 そして、白櫻姫(こさき)は居(い)住(ず)まいを正すと、蒼(あお)波(ば)に向かって深々と頭を下げた。


「――はじめまして」


 声は、白雪姫(こゆき)のものだ。


 同じ声帯、同じ高さ、同じ響き。


 なのに、蒼(あお)波(ば)の全身に鳥肌が走った。


「白雪姫(こゆき)から、話は聞いておいでかと存じます。……わたくし、椿(つばきの)宮(みや)白櫻姫(こさき)と申します」


「――……っ」


 蒼(あお)波(ば)は、息を呑んだ。


 慇(いん)懃(ぎん)で、どこか古めかしい言葉遣い。


 背筋の伸びた、寸分の乱れもない所作。


 そして何より――こちらの内側まで見透かすような、あの桜色の瞳。


 一瞬で、丘の上の空気が変わっていた。


 昼休みの校庭のざわめきが、遠い。


(……違う)


 蒼(あお)波(ば)は、ゆっくりと唾を飲み込んだ。


(この人は――白雪姫(こゆき)ちゃんじゃ、ない)


「して」


 白櫻姫(こさき)が、ふわりと首を傾(かし)げた。


「白雪姫(こゆき)は、なぜわたくしと入れ替わったのでしょう? ……心当たりがおありですか」


「あ、え、っと」


 蒼(あお)波(ば)は、あわてて姿勢を正した。


 寺で叩き込まれた礼儀が、反射的に背筋を伸ばさせる。


「古(こ)閑(が)蒼(あお)波(ば)と申します。白雪姫(こゆき)ちゃんの……その、友人です」


「存じ上げております。白雪姫(こゆき)が、いつも嬉しそうに話しておりますので」


「そ、そうなんですか」


 頬が、熱くなった。


 大好きな――いや、大切な白雪姫(こゆき)が自身のことを話してくれていたと思うと。


 こほん、と一つ咳(せき)払(ばら)いをして、蒼(あお)波(ば)は膝に手を置く。


「――あの日のことを、お伝えしたくて。白雪姫(こゆき)ちゃんに伝言を頼んだら、直接言ったほうがいいって言われて、それで」


 深く、頭を下げた。


「魔神から助けてくださって、ありがとうございました」


 ――静寂。


 白櫻姫(こさき)は、しばらく黙って蒼(あお)波(ば)のつむじを見つめていた。


 それから、ゆるやかに首を横に振る。


「お礼でしたら、白雪姫(こゆき)に仰ってください」


「え……?」


「あの子が、助けを求めたのです」


 白櫻姫(こさき)は、空を見上げた。


「わたくしと入れ替わる直前まで……あの子は最後まで、あなたと翠(み)織(おり)様の身を案じておりました。……わたくしは、その願いに応えたにすぎません」


「…………」


 蒼(あお)波(ば)は、顔を上げた。


 ――白雪姫(こゆき)ちゃんらしい、と思った。


 思って、それから、首を横に振った。


「それでも」


「……はい?」


「それでも、あなたがいなかったら」


 蒼(あお)波(ば)の琥珀色の瞳が、まっすぐに桜色を射抜いた。


「私は、ここにいませんでした」


 ――ふ、と。


 白櫻姫(こさき)の表情が、柔らかくほどけた。


「……そう、でございますか」


「はい」


「では、有(あ)り難(がた)く頂(ちょう)戴(だい)いたします。――ありがとう、蒼(あお)波(ば)様」


 その微笑みは、白雪姫(こゆき)のものとは似て非なる、大人びた柔らかさを孕んでいた。


「――さて」


 白櫻姫(こさき)が、瞼を閉じかける。


「用件は済みましたようですし、白雪姫(こゆき)に戻しま――」


「あっ、待って!」


 思わず、蒼(あお)波(ば)が身を乗り出した。


「え、その、あの、待ってください」


「……はい?」


「せっかくですし、その……どうせなら、この昼休みの間くらい、そのままでいたらどうでしょう?」


 蒼(あお)波(ば)は、髪の先を指に巻きつけながら、視線を逸(そ)らした。


「私、もうちょっと……あなたと、話してみたいです」


 白櫻姫(こさき)は、目を丸くして。


 それから、くすりと笑った。


「――承(うけたまわ)りました」





❆





 それからの時間は、ほとんど蒼(あお)波(ば)の質問で埋(う)まった。


「白櫻姫(こさき)さんって、何歳なんですか?」


「十二でございます」


「……え?」


 蒼(あお)波(ば)は、間抜けな声を出した。


「十二歳のときに神となりましたので、それきり、歳は取っておりません」


 白櫻姫(こさき)は、セーラー服の袖を整えながら平然と答える。


「もっとも、紅葉(もみじ)も同じでございますね。あの子も、十二で止まっている」


「紅葉(もみじ)ちゃんのこと、やっぱり知ってるんですね」


「ええ」


 白櫻姫(こさき)は、遠くの山(やま)並(な)みへ視線を送った。


「わたくしと同じ時代を生きた神子です。……わたくしにとっては、たった一人の親(しん)友(ゆう)」


「親友……」


「霊力の開花が叶わず、落ちこぼれと嗤(わら)われていた子でした」


 その声には、懐かしさと、痛みが半分ずつ混じっていた。


「まさか、あの子が力に目覚めていたとは。……しかも、不(ふ)老(ろう)不(ふ)死(し)などという、厄介な形で」


「……その、紅葉(もみじ)ちゃんには」


 蒼(あお)波(ば)は、慎重に言葉を選んだ。


「自分が白雪姫(こゆき)ちゃんの中にいること、話(はな)したんですか?」


「――いいえ」


 即答だった。


「まだ、話しておりません。白雪姫(こゆき)には打ち明けましたが……あの子には、まだ」


「どうして?」


 白櫻姫(こさき)は、しばらく黙っていた。


 石碑の苔(こけ)を、指先でそっとなぞる。


「……別れ方が、悪すぎたのです」


「別れ方」


「あの子の制止する手を振り払い、戦(いくさ)へ赴(おもむ)きました。植物で縛(しば)りつけて、遠くへ運ばせて。……そうして、わたくしは神界に旅立った。あの子に見守られながら」


 風が止(や)んだ。


「紅葉(もみじ)から見れば、わたくしはあの日に死んだのでしょう。それから千年、あの子は一人だった」


 白櫻姫(こさき)は、自(じ)嘲(ちょう)するように口の端(はし)を上げる。


「その咎(とが)を背負ったまま――久しぶり――などと微笑むには……少しばかり、罪悪感が勝(まさ)るのです。気持ちの整理が、まだ」


「…………」


 蒼(あお)波(ば)は、膝を抱えた。


 千年。


 その重さを、まだ十二年しか生きていない自分が測(はか)れるはずもない。


 でも。


「……あの」


「はい」


「紅葉(もみじ)ちゃんは、あなたに会うために、今日まで生きてきたのかもしれないですよ」


 ――桜色の瞳が、大きく見開かれた。


「…………」


「あ、いや、すみません。勝手なこと言って」


「いいえ」


 白櫻姫(こさき)は、緩やかに首を振った。


「白雪姫(こゆき)も、同じことを申しました」


「え」


「まったく、同じことを」


 彼女は、ふ、と息を漏らすように笑う。


 その笑みは、泣く寸前の子供のそれに、少しだけ似ていた。


「……そうかもしれませんね」


 その一言を、春の風が攫っていった。





❆





 やがて、昼休みの終わりを告げる予鈴が、丘の下から微かに聞こえてきた。


「あ、そろそろ戻らないと」


 蒼(あお)波(ば)が立ち上がる。


 ――だが、白櫻姫(こさき)は動かなかった。


「白櫻姫(こさき)さん?」


「…………」


 彼女は、石碑の上から、丘の裏手をじっと見下ろしていた。


 その視線の先。


 学校の敷地のすぐ外に、低い屋根の建物がある。


 雑草に呑まれた園(えん)庭(てい)。割れた窓ガラス。錆(さ)びついた倉庫や遊具。


 ――廃園となった、桜ケ丘幼稚園。


「蒼(あお)波(ば)様。……あれは、なんという建物でしょう」


「え? あそこは、うちらが生まれるより前に潰れた幼稚園ですけど……」


 言いながら、蒼(あお)波(ば)の顔から血の気(け)が引いた。


「……もしかして」


「ええ」


 白櫻姫(こさき)の声から、温(ぬく)もりが消えた。


「魔(ま)力(りょく)です」


 その一言で、丘の上の空気が張りつめる。


「まだ薄い。生まれかけの、膿(うみ)のような気配です。……ですが、確かに膨らんでいるようですね」


「膨らむって……」


「魔物は、魔力の溜まった場所に出現します」


 白櫻姫(こさき)は、ゆっくりと立ち上がった。


 スカートの裾(すそ)が、風に揺れる。


「この育ち方であれば――おそらく、夕方頃には、あそこに姿を現しましょう」


「そんな……!」


 蒼(あお)波(ば)は、拳を握りしめた。


 ――夕方、つまりは放課後。


 あの幼稚園に、生徒が近づくことはない。


 だが。


「……でも、放置は、できないです」


 蒼(あお)波(ば)の声は、震えていた。


 それでも、逃げてはいなかった。


「魔物は、霊力を求めて彷(さ)徨(まよ)うって、翠(み)織(おり)先生が言ってました。学校には、私たちがいる。小学部の子たちもいる」


 彼女は、幼稚園を睨みつけた。


「――絶対に、近づかせられません」


 白櫻姫(こさき)は、その横顔をじっと見つめていた。


 恐れを呑み込んで、それでも前を向く目。


 千年前、庭の隅(すみ)でうずくまっていたあの子が、いつか見せた目と、どこか似ている。


 ――ならば。


「……丁度いいですね」


「え?」


 白櫻姫(こさき)の唇が、緩やかな弧(こ)を描いた。


 それは優しく、そして――逃(のが)れようのない笑(え)|みだった。


「蒼(あお)波(ば)様。あなたの資質を見込んで申し上げます」


 彼女は、真(ま)っ直(す)ぐに蒼(あお)波(ば)へ向き直る。


「夕刻、あの魔物を使って――訓練をいたしましょう」


「……え。えっ、訓練、ですか⁉」


「ええ」


「まっ、待ってください、魔物を使ってって、そんな、的(まと)みたいに……!」


「翠(み)織(おり)様や紅葉(もみじ)に頼るのは、容易(たやす)いこと」


 白櫻姫(こさき)の声が、静かに蒼(あお)波(ば)の言葉を押しとどめた。


「けれど、あなたが望むのは、そういうことではないはずです」


「…………」


「――白雪姫(こゆき)を守り、あの子の隣に立ち続けたいのでしょう?」


 蒼(あお)波(ば)の肩が、跳ねた。


「そのためには、力(ちから)だけでは足りません。神子としての経験と――覚悟が要(い)ります」


 風が、二人の間を抜けていく。


 丘の下から、昼休みの終わりを告げる本(ほん)鈴(れい)が鳴り始めた。


 蒼(あお)波(ば)は、俯(うつむ)いて。


 それから、長い息を、ゆっくりと吐き出した。


「――分かりました」


 顔を上げた琥珀色に、迷いはもうなかった。


「私に、稽古をつけてください。白櫻姫(こさき)さん」


「結構」


 白櫻姫(こさき)は、満足げに頷いた。


「では、夕刻に」


 ――桜ケ丘の丘の上を、春の風が吹き抜けていく。


「……あなたならば、近いうちに神(じん)器(ぎ)の顕(けん)現(げん)もできるでしょう」


 その風の下で、廃園の草むらが、生き物のように、ゆらりと揺れた。





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