第08話:打ち明けられる秘密
青が、どこまでも高い。
雲ひとつない空の下、満開の桜が地平の果てまで咲き誇っている。
風が渡るたび、桜色の花弁が雪のように降りしきり、足元に淡い絨毯を敷いていく。
――精神世界。
白雪姫の魂が存在する、桜色の楽園。
その中央で、二人の少女が向かい合っていた。
どちらも、雪のように真っ白な長い髪。
違うのは、瞳の色だけだ。
――白銀と、桜色。
「本日より、霊力による身体強化を用いた手合わせを行います」
桜色の瞳を持つ少女――椿宮白櫻姫が、袖を静かに払って告げた。
その所作ひとつが、まるで舞のように整っている。
「以前お約束した、修行でございます。本当は昨日から始めたかったのですが、昨夜は紅葉のことで手一杯でしたから遅くなりました」
「て、手合わせ……って」
白雪姫は、思わず一歩下がった。
「私、武術なんて一回もやったことないんですけど……!」
「存じております」
あっさりと頷かれた。
「本来であれば、構えの取り方から一つひとつ、手取り足取りお教えするべきなのでしょうね」
白櫻姫は、少しだけ困ったように眉を下げる。
「ですが、それではどうしても時間がかかります。……いつまた魔物が現れるとも知れませんのに」
「っ……」
白雪姫の喉が鳴った。
――行縢で現れた、オオカミ型の魔物。
――学校のグラウンドに現れた、魔神。
この数日で、日常はあっけないほど簡単に裏返るのだと、嫌というほど思い知らされている。
「ですので」
白櫻姫は、微笑んだ。
「手合わせの中で、お教えいたします。……その方が、覚えも早いでしょうし」
「……はい」
白雪姫は、こくりと頷いた。
頷いてから――ふと、素朴な疑問が浮かんだ。
「あの、白櫻姫さん」
「はい」
「そもそもの話なんですけど……ここって、夢の中ですよね?」
白雪姫は、足元の花弁をつまさきで軽く掻いた。
ふわりと舞い上がった花弁は、確かな質量を持って手のひらに落ちてくる。
――なのに、これは現実ではない。
「夢の中で筋トレしても、現実の体には……その、意味がないんじゃ?」
「……きん、とれ」
白櫻姫が、ぱちりと瞬きをした。
「なんでしょう、それは」
「え、あっ、えっと」
白雪姫は慌てて両手を振った。
「体を鍛える運動のことです! 腕立て伏せとか、そういう……」
「ああ、なるほど。鍛錬のことですね」
納得したように、白櫻姫は顎に指を添える。
「――結論から申し上げれば、あなたの仰るとおりです」
「え」
「肉体を鍛える鍛錬は、この場所では無意味。ここでいくら汗を流したところで、現実のあなたの筋肉が強くなることはございません」
「じゃあ、やっぱり――」
「ですが」
白櫻姫の声が、静かに遮る。
「霊力を制御し、操る技量。武術の型、間合いの感覚。そして、命のやり取りに臨む戦いの経験――これらは、いくらでも積むことができます」
「……どうして?」
「肉体が覚えるのではないからです」
白櫻姫は、自分の胸元にそっと手を当てた。
「霊力の波長を合わせる感覚も、体のさばき方も、覚えているのは筋肉ではありません。頭と――魂でございます。まあ、〝体が覚える〟という言葉もありますが、あれを正確に言うならば、〝魂が覚える〟と言った方がいいでしょう」
「魂……」
「ええ。ゆえに、ここで身につけたものは、そのまま現実のあなたの動きとなって表れます」
ふ、と白櫻姫の表情が和らいだ。
「それに、肉体そのものは霊力でいくらでも強化できます。そちらの手ほどきは、翠織様や紅葉にお任せいたしましょう」
「……なるほど」
白雪姫は、ぐっと拳を握った。
――理屈は、分かった。
分かってしまったからには、もう逃げ道はない。
「……お願いします、白櫻姫さん」
「ええ。では」
桜が、ざあ、と鳴った。
「――参ります」
その一言を、白雪姫は最後まで聞き取ることができなかった。
❆
視界が、消し飛んだ。
「――かはっ⁉」
腹部に衝撃。
白雪姫の体は、桜の花弁を巻き上げながら十数メートルも後ろへ吹き飛ばされ、地面を二度、三度と跳ねた。
「っ、う……!」
なんとか手をついて起き上がる。
――見えなかった。
まったく、見えなかったのだ。
「身体強化は施しておりますね。よろしい」
いつの間にか、白櫻姫は数歩先に立っていた。
息ひとつ、乱れていない。
「では、次」
「ちょ、ちょっと待っ――」
言い終わる前に、桜色の影が消えた。
(左っ!)
感覚だけで身を捻る。
だが、そこに掌底はなかった。
――下。
「あぐっ……!」
「実戦で相手は待ってくれませんよ」
膝を蹴り払われ、体が宙に浮く。落ちてきたところへ、肘が背中に落ちた。
地面に叩きつけられる。
「――っ、はぁ、はぁ……」
速い。
霊力による身体強化で、動体視力もそれなりに上がっているはずだった。それは白雪姫自身、肌で分かっている。
昨日までの自分なら、蒼波の投げるノートの切れ端すら見失っていたのだから。
なのに――追えない。
(というか、そもそも……!)
武術を齧ったことすらない白雪姫には、どういう動きが基本なのかも分からない。
拳が来る、と思えば蹴りが来る。
蹴りに備えれば掌底が来る。
掌底を警戒すれば、肘が顎をかすめる。
まるで、こちらの読みを一つずつ丁寧に潰していくかのように、白櫻姫は打撃の方法を変えてくるのだ。
「構えが硬すぎます。肩の力を抜きなさい」
「む、無理っ、力抜いたら――」
言い切る前に、また吹き飛ばされた。
「力むほど、次の動きが遅れます」
「わ、分かってるんですけど……これは……」
起き上がる。
吹き飛ばされる。
起き上がる。
また、吹き飛ばされる。
――何度目かも、もう分からない。
ここは精神世界で、今の白雪姫は魂だけの存在だ。だから、現実の肉体に傷はつかない。
つかない、はずなのに。
(……痛い……!)
痛いものは、痛かった。
息が上がる。視界が滲む。
それでも、白雪姫は立った。
――翠織先生を守りたい。
――蒼波ちゃんを守りたい。
――そして、紅葉ちゃんを。
それが、この体を貸してくれた人への、たった一つの返し方な気がしたから。
「――っ!」
桜色の影が、また消える。
考えるより先に、体が動いた。
右へ傾けた頬のすぐ横を、白い袖が通り過ぎていく。
風が、耳を撫でた。
「――あっ」
当たらなかった。
初めて、白櫻姫の攻撃が、当たらなかった。
「やった……!」
喜びが、声になって零れた。
――零れた、その瞬間。
「隙ありです」
ぱん、と軽い音がした。
空になった脇腹へ、掌底が吸い込まれる。
「……ぁ」
三度回転して、白雪姫は花弁の海に沈んだ。
――大の字。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
肩で大きく息を吸う。吸っても吸っても、足りない気がする。
視界いっぱいに、桜と、青空。
ひらり、ひらりと、花弁が顔の上に落ちてくる。
こつん、と足音が近づいてきて、桜色の瞳が空を遮った。
「――今のは、惜しかったですね」
白櫻姫は、屈み込んで、白雪姫の額に張りついた前髪をそっと払った。
「初日で躱されるとは、思っておりませんでしたよ」
「……ほんとに?」
「ええ。ですが、躱した後に喜ぶのはおやめなさい。戦いは、躱してからが始まりでございます」
「……はぁい」
白雪姫は、力なく返事をした。
けれど、その口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
「本日の修行は、これまで」
白櫻姫が立ち上がり、手を差し伸べる。
「よく堪えられました。――おやすみなさい、白雪姫」
その手を掴もうとした指先が、桜の花弁のように溶けていく。
――白雪姫の意識は、白い朝へと引き上げられていった。
❆
「白雪姫ちゃーん、体操服入れた?」
「入れた! ……あっ、嘘、入れてない!」
朝の宿泊部屋は、騒々しい。
白雪姫と蒼波は、畳の上に鞄を広げて、学校へ向かう支度に追われていた。
体のあちこちが、妙に重い。
(……夢の中で殴られたのに、なんで筋肉痛みたいになってると……?)
白雪姫が首を捻っていると、窓際から声がかかった。
「白雪姫」
紅葉だった。
昨夜と同じ場所に、同じ姿勢で座っている。本当に一睡もしていないらしい。
「なあに、紅葉ちゃん」
「学校で、何かあったら」
紅葉は、窓の外へ視線を向けたまま言った。
「帰ってきたときに、教えて」
「……何かって?」
「何かは、何か」
そっけない答えだった。
けれど、その黒い瞳の奥に、微かな熱があることに、白雪姫は気付いていた。
――白櫻姫ちゃん。
昨夜、この部屋で零された、あの小さな声。
「……うん。分かった」
白雪姫は、笑顔で頷いた。
「ちゃんと、教えるね」
「うん」
「じゃあ、行ってきます!」
二人分の足音が、廊下を駆けていく。
残された紅葉は、しばらくその音の余韻を聞いていた。
❆
昼休み。
桜ケ丘小中学校の敷地は、緩やかな丘の上に広がっている。
その一番高いところに、古びた石碑がぽつんと立っていた。
もとは何かの記念碑だったのだろう。刻まれた文字は苔に埋もれ、もう半分も読めない。
その台座に、二人の少女が並んで腰かけていた。
眼下には家々や田園が広がり、遠くに行縢山の稜線が青くかすんでいる。
「――それで、わざわざこんなとこまで連れてきて。大事な話?」
「うん。……大事な話」
白雪姫は、膝の上で手を握った。
――ずっと、迷っていた。
いつ言うべきか。どう言うべきか。
でも、昨夜、紅葉の横顔を見ていて、思ったのだ。
――隠しごとは、いつか誰かを一人にしてしまう。
「蒼波ちゃん。あの日……魔神を倒したの、通りすがりの神子さんじゃないんよ」
「……え?」
「私の中に、いるの」
白雪姫は、そっと自分の胸に手を当てた。
「千年前の、神子の魂が」
風が、丘を吹き抜けた。
蒼波は固まっている。
それから、白雪姫は順を追って話した。
夢の中で出会った、自分と同じ白い髪の少女のこと。
名を、椿宮白櫻姫ということ。
平安の世に生き、魔神を討って神となり、そして千年前に神界で処刑されたということ。
あの夜、白雪姫の意識が途切れたあと、表に出て戦っていたのが彼女だということ。
――そして、翠織は既にそれを知っていること。
「…………」
語り終えても、蒼波はしばらく口を開かなかった。
琥珀色の瞳が、ゆっくりと白雪姫の全身をなぞる。
髪。瞳。頬。喉元。
まるで、そこに継ぎ目でも探すかのように。
「……うそ、やろ」
やがて、零れたのはその一言だった。
「嘘じゃないよ」
「あ、いや、その話を嘘だって言ってるっちゃなくて――」
蒼波は、こほん、と咳払いして姿勢を正す。
「――有り得ないんよ、そんなの」
「え?」
「うちのお父さん、お寺の住職やから。魂の話は、小さい頃から嫌というほど聞かされてて」
蒼波は、白雪姫の方へ向き直った。
その表情は、いつもの明るさが抜け落ちて、真剣そのものだった。
「一つの体には、一つの魂。……それが大前提」
「……うん」
「一つの器に、二つの魂。それって、普通は――肉体の方が耐えられんのよ」
白雪姫の背筋が、ひやりとした。
「仮に、体が耐えられたとしても」
蒼波は、指を二本立てた。
「二つの魂が、一つの脳と、一つの意識を共有するっていうことは……お互いが、お互いを押しのけ合うっていうこと」
「押しのけ、合う……」
「そんな状態が長く続けば、いつ精神に影響が出てもおかしくない。記憶が飛んだり、自分が誰か分からなくなったり――お父さんは、そういう話をいくつも知ってる」
白雪姫は、思わず自分の手のひらを見つめた。
――そんなふうに、考えたこともなかった。
昨日、初めて桜の下で稽古をつけてもらって。
授業中に他愛もない話をして。
それが、そんなに危ういことだったなんて。
「……なのに、白雪姫ちゃんは平然としてる……」
蒼波は、ため息をついた。
「白雪姫ちゃんの体と魂が、異常に強靭なのか。それか――その、白櫻姫さんっていう人の制御が、恐ろしいくらい上手なのか」
その言葉に、白雪姫は少しだけ考えて。
そして、ふわりと笑った。
「じゃあ、白櫻姫さんが凄いんだと思うよ」
「……即答やね」
「? だって私、霊力の感知とか制御を習い始めたの、つい最近だよ?」
白雪姫は、足をぶらぶらと揺らした。
「それに今朝も、夢の中でぼこぼこにされたっちゃもん」
「なにそれ、怖っ……」
蒼波は、半目になって、それから肩の力を抜いた。
「……分かった。とりあえず、信じる」
「ほんと?」
「うん。でも一個だけ、約束して」
蒼波は、小指を差し出した。
「体にちょっとでも異常が出たら――頭が痛いとか、記憶が飛んだとか。……どんな小さいことでもいいから、絶対にうちに教えて」
「……うん。約束する」
小指と小指が、絡んだ。
――それから、蒼波は少しだけ口ごもって。
「あと……あのさ」
「なに?」
「その、白櫻姫さんに伝えてほしいっちゃけど」
蒼波は、膝の上で指を組んだ。
「――うちらを助けてくれて、ありがとうって」
風が、二人の髪を攫っていく。
白雪姫は、その言葉を聞いて。
――静かに、目を瞑った。
「白雪姫ちゃん?」
「……それは」
瞼の裏で、桜が舞う。
「蒼波ちゃんが、直接伝えてほしいかな」
「え、直接って、どうやっ――」
その瞬間だった。
白雪姫の体から、ふ、と力が抜けた。
まるで糸が緩むように、肩の線が変わる。
そして、ゆっくりと――瞼が上がった。
現れたのは、白銀ではなかった。
春の光を溶かし込んだような、鮮やかな桜色。
「……あら?」
その唇から、涼やかな声が零れる。
「わたくし、修行で疲れて眠っておりましたのに。急に入れ替わって、どうしたのです、白雪姫――」
言いかけて、その視線が隣へ滑った。
石碑の上で、完全に硬直している少女。
「…………ああ」
桜色の瞳が、柔らかく細められた。
「なるほど。そういうことでございますか」
そして、白櫻姫は居住まいを正すと、蒼波に向かって深々と頭を下げた。
「――はじめまして」
声は、白雪姫のものだ。
同じ声帯、同じ高さ、同じ響き。
なのに、蒼波の全身に鳥肌が走った。
「白雪姫から、話は聞いておいでかと存じます。……わたくし、椿宮白櫻姫と申します」
「――……っ」
蒼波は、息を呑んだ。
慇懃で、どこか古めかしい言葉遣い。
背筋の伸びた、寸分の乱れもない所作。
そして何より――こちらの内側まで見透かすような、あの桜色の瞳。
一瞬で、丘の上の空気が変わっていた。
昼休みの校庭のざわめきが、遠い。
(……違う)
蒼波は、ゆっくりと唾を飲み込んだ。
(この人は――白雪姫ちゃんじゃ、ない)
「して」
白櫻姫が、ふわりと首を傾げた。
「白雪姫は、なぜわたくしと入れ替わったのでしょう? ……心当たりがおありですか」
「あ、え、っと」
蒼波は、あわてて姿勢を正した。
寺で叩き込まれた礼儀が、反射的に背筋を伸ばさせる。
「古閑蒼波と申します。白雪姫ちゃんの……その、友人です」
「存じ上げております。白雪姫が、いつも嬉しそうに話しておりますので」
「そ、そうなんですか」
頬が、熱くなった。
大好きな――いや、大切な白雪姫が自身のことを話してくれていたと思うと。
こほん、と一つ咳払いをして、蒼波は膝に手を置く。
「――あの日のことを、お伝えしたくて。白雪姫ちゃんに伝言を頼んだら、直接言ったほうがいいって言われて、それで」
深く、頭を下げた。
「魔神から助けてくださって、ありがとうございました」
――静寂。
白櫻姫は、しばらく黙って蒼波のつむじを見つめていた。
それから、ゆるやかに首を横に振る。
「お礼でしたら、白雪姫に仰ってください」
「え……?」
「あの子が、助けを求めたのです」
白櫻姫は、空を見上げた。
「わたくしと入れ替わる直前まで……あの子は最後まで、あなたと翠織様の身を案じておりました。……わたくしは、その願いに応えたにすぎません」
「…………」
蒼波は、顔を上げた。
――白雪姫ちゃんらしい、と思った。
思って、それから、首を横に振った。
「それでも」
「……はい?」
「それでも、あなたがいなかったら」
蒼波の琥珀色の瞳が、まっすぐに桜色を射抜いた。
「私は、ここにいませんでした」
――ふ、と。
白櫻姫の表情が、柔らかくほどけた。
「……そう、でございますか」
「はい」
「では、有り難く頂戴いたします。――ありがとう、蒼波様」
その微笑みは、白雪姫のものとは似て非なる、大人びた柔らかさを孕んでいた。
「――さて」
白櫻姫が、瞼を閉じかける。
「用件は済みましたようですし、白雪姫に戻しま――」
「あっ、待って!」
思わず、蒼波が身を乗り出した。
「え、その、あの、待ってください」
「……はい?」
「せっかくですし、その……どうせなら、この昼休みの間くらい、そのままでいたらどうでしょう?」
蒼波は、髪の先を指に巻きつけながら、視線を逸らした。
「私、もうちょっと……あなたと、話してみたいです」
白櫻姫は、目を丸くして。
それから、くすりと笑った。
「――承りました」
❆
それからの時間は、ほとんど蒼波の質問で埋まった。
「白櫻姫さんって、何歳なんですか?」
「十二でございます」
「……え?」
蒼波は、間抜けな声を出した。
「十二歳のときに神となりましたので、それきり、歳は取っておりません」
白櫻姫は、セーラー服の袖を整えながら平然と答える。
「もっとも、紅葉も同じでございますね。あの子も、十二で止まっている」
「紅葉ちゃんのこと、やっぱり知ってるんですね」
「ええ」
白櫻姫は、遠くの山並みへ視線を送った。
「わたくしと同じ時代を生きた神子です。……わたくしにとっては、たった一人の親友」
「親友……」
「霊力の開花が叶わず、落ちこぼれと嗤われていた子でした」
その声には、懐かしさと、痛みが半分ずつ混じっていた。
「まさか、あの子が力に目覚めていたとは。……しかも、不老不死などという、厄介な形で」
「……その、紅葉ちゃんには」
蒼波は、慎重に言葉を選んだ。
「自分が白雪姫ちゃんの中にいること、話したんですか?」
「――いいえ」
即答だった。
「まだ、話しておりません。白雪姫には打ち明けましたが……あの子には、まだ」
「どうして?」
白櫻姫は、しばらく黙っていた。
石碑の苔を、指先でそっとなぞる。
「……別れ方が、悪すぎたのです」
「別れ方」
「あの子の制止する手を振り払い、戦へ赴きました。植物で縛りつけて、遠くへ運ばせて。……そうして、わたくしは神界に旅立った。あの子に見守られながら」
風が止んだ。
「紅葉から見れば、わたくしはあの日に死んだのでしょう。それから千年、あの子は一人だった」
白櫻姫は、自嘲するように口の端を上げる。
「その咎を背負ったまま――久しぶり――などと微笑むには……少しばかり、罪悪感が勝るのです。気持ちの整理が、まだ」
「…………」
蒼波は、膝を抱えた。
千年。
その重さを、まだ十二年しか生きていない自分が測れるはずもない。
でも。
「……あの」
「はい」
「紅葉ちゃんは、あなたに会うために、今日まで生きてきたのかもしれないですよ」
――桜色の瞳が、大きく見開かれた。
「…………」
「あ、いや、すみません。勝手なこと言って」
「いいえ」
白櫻姫は、緩やかに首を振った。
「白雪姫も、同じことを申しました」
「え」
「まったく、同じことを」
彼女は、ふ、と息を漏らすように笑う。
その笑みは、泣く寸前の子供のそれに、少しだけ似ていた。
「……そうかもしれませんね」
その一言を、春の風が攫っていった。
❆
やがて、昼休みの終わりを告げる予鈴が、丘の下から微かに聞こえてきた。
「あ、そろそろ戻らないと」
蒼波が立ち上がる。
――だが、白櫻姫は動かなかった。
「白櫻姫さん?」
「…………」
彼女は、石碑の上から、丘の裏手をじっと見下ろしていた。
その視線の先。
学校の敷地のすぐ外に、低い屋根の建物がある。
雑草に呑まれた園庭。割れた窓ガラス。錆びついた倉庫や遊具。
――廃園となった、桜ケ丘幼稚園。
「蒼波様。……あれは、なんという建物でしょう」
「え? あそこは、うちらが生まれるより前に潰れた幼稚園ですけど……」
言いながら、蒼波の顔から血の気が引いた。
「……もしかして」
「ええ」
白櫻姫の声から、温もりが消えた。
「魔力です」
その一言で、丘の上の空気が張りつめる。
「まだ薄い。生まれかけの、膿のような気配です。……ですが、確かに膨らんでいるようですね」
「膨らむって……」
「魔物は、魔力の溜まった場所に出現します」
白櫻姫は、ゆっくりと立ち上がった。
スカートの裾が、風に揺れる。
「この育ち方であれば――おそらく、夕方頃には、あそこに姿を現しましょう」
「そんな……!」
蒼波は、拳を握りしめた。
――夕方、つまりは放課後。
あの幼稚園に、生徒が近づくことはない。
だが。
「……でも、放置は、できないです」
蒼波の声は、震えていた。
それでも、逃げてはいなかった。
「魔物は、霊力を求めて彷徨うって、翠織先生が言ってました。学校には、私たちがいる。小学部の子たちもいる」
彼女は、幼稚園を睨みつけた。
「――絶対に、近づかせられません」
白櫻姫は、その横顔をじっと見つめていた。
恐れを呑み込んで、それでも前を向く目。
千年前、庭の隅でうずくまっていたあの子が、いつか見せた目と、どこか似ている。
――ならば。
「……丁度いいですね」
「え?」
白櫻姫の唇が、緩やかな弧を描いた。
それは優しく、そして――逃れようのない笑|みだった。
「蒼波様。あなたの資質を見込んで申し上げます」
彼女は、真っ直ぐに蒼波へ向き直る。
「夕刻、あの魔物を使って――訓練をいたしましょう」
「……え。えっ、訓練、ですか⁉」
「ええ」
「まっ、待ってください、魔物を使ってって、そんな、的みたいに……!」
「翠織様や紅葉に頼るのは、容易いこと」
白櫻姫の声が、静かに蒼波の言葉を押しとどめた。
「けれど、あなたが望むのは、そういうことではないはずです」
「…………」
「――白雪姫を守り、あの子の隣に立ち続けたいのでしょう?」
蒼波の肩が、跳ねた。
「そのためには、力だけでは足りません。神子としての経験と――覚悟が要ります」
風が、二人の間を抜けていく。
丘の下から、昼休みの終わりを告げる本鈴が鳴り始めた。
蒼波は、俯いて。
それから、長い息を、ゆっくりと吐き出した。
「――分かりました」
顔を上げた琥珀色に、迷いはもうなかった。
「私に、稽古をつけてください。白櫻姫さん」
「結構」
白櫻姫は、満足げに頷いた。
「では、夕刻に」
――桜ケ丘の丘の上を、春の風が吹き抜けていく。
「……あなたならば、近いうちに神器の顕現もできるでしょう」
その風の下で、廃園の草むらが、生き物のように、ゆらりと揺れた。
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