第06話:不死原紅葉
――胸が、痛い。
その痛みには、覚えがなかった。
「…………」
白雪姫は、胸元に手を当てたまま動けずにいた。
月明かりの差し込む技術室。
埃の粒が、青白い光の中をゆっくりと漂っている。
その向こうに立つ少女と、ただ、目が合っていた。
――切なさ。
――嬉しさ。
――焦り。
――そして、後悔。
名前をつけられないほどたくさんの感情が、綯い交ぜになって、胸の奥からとめどなく溢れ出してくる。
(……なんで)
白雪姫は、必死に記憶をたぐった。
腰まで届く、長い黒髪。
黒曜石のような、深い黒の瞳。
――知らない。
どこにも、心当たりがない。
(黒い髪に、黒い目……そんなん、日本人ならみんなそうやん)
街ですれ違ったことくらいは、あるのかもしれない。
同じ電車に乗り合わせたことも、あったのかもしれない。
――けれど。
(すれ違っただけの人に……こんな)
こんな、心臓を素手で握られたような感情が、湧いてくるはずがない。
――ならば。
(……これ、私のじゃない)
答えは、ひとつしかなかった。
(白櫻姫さん……?)
心の中で、そっと呼びかける。
いつもならすぐに返ってくる、涼やかな声。
――それが、ない。
代わりに、胸の奥がぎゅうっと締めつけられた。
喉の奥が熱くなって、目の縁に、じわりと涙が滲む。
泣きたいわけでもないのに。
悲しいわけでもないのに。
(……っ、ちょっと。白櫻姫さん、どうしたんですか)
返事はない。
ただ、声にならない想いだけが、一方通行で流れ込んでくる。
――まるで、閉じた扉の向こうから、誰かがずっと泣いているみたいに。
「…………」
目の前の少女は、微動だにしなかった。
急かすでもなく、警戒するでもなく。
ただ、じっと白雪姫の返事を待っている。
――白雪姫は、手のひらで目元をこすった。
(……とにかく、話さんと)
ここで逃げ帰ったら、きっと二度と会えない。
なぜだかそう思った。
――胸の奥の誰かが、そう言っている気がした。
「……あの」
白雪姫は、一歩だけ足を進めた。
「私、柊野白雪姫。……この学校の、中学部一年です」
「…………」
少女の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
――ほんの、一瞬。
まばたきひとつぶんの間だけ、その表情に何かがよぎった気がした。
「白雪姫……」
「え?」
「……なんでもない」
少女は、すっと目を伏せた。
それきり、揺れは消えていた。
――結局、なんだったのだろう。
訊こうか迷ったが、白雪姫はやめた。
代わりに、ずっと引っかかっていたことを口にする。
「……あの。ひとつ、訊いてもいい?」
自然と、敬語が外れていた。
背丈も、顔つきも、たぶん自分と同じくらい。
それに――〝あなたは誰?〟なんて、あんなふうにまっすぐ訊かれたのだ。
こちらだけ畏まるのも、なんだか変な気がした。
「あなたって……神子、なの?」
――ぴくり、と。
黒髪が、わずかに揺れた。
白雪姫は、慌てて言葉を継いだ。
「あ、えっと、その。表の扉の鍵、溶けとったから……! それに、ここに来てからずっと、変な霊力を感じとって……」
言いながら、自分でもおかしなことを言っている自覚はあった。
つい一週間前の自分なら、絶対に口にしなかった単語だ。
「…………ふうん」
少女は、小さく息を吐いた。
それから、あっさりと頷いた。
「そう。私、神子よ」
「――っ」
「隠しても意味ないでしょ。……あなたも、そうなんだから」
言い切って、少女はようやく身体ごとこちらを向いた。
窓を背にしているせいで、その表情はよく見えない。
「名前は、〝不死原紅葉〟」
――その、瞬間だった。
「……っ、あ」
また、胸が軋んだ。
さっきよりも、ずっと強く。
膝から力が抜けそうになって、白雪姫はとっさに近くの作業台に手をついた。
「……大丈夫?」
「だ、大丈夫。……ごめん、なんでもない」
嘘だった。
なんでもないわけがない。
――〝紅葉〟。
その音を聞いた瞬間、胸の奥の誰かが、確かに震えたのだ。
(……知ってる。白櫻姫さんは、この子を知ってる)
確信に近い予感が、白雪姫の中に落ちてきた。
❆
ふう、と息を吐く。
――冷静になってみれば、この状況は、ずいぶん奇妙だった。
夜の廃校舎。
鍵を溶かして侵入した、正体不明の神子。
――どう考えても、警戒すべき相手のはずだ。
それなのに。
(……この子、名前、教えてくれた)
訊かれてもいないのに、素性を明かしてくれた。
少なくとも――問答無用で襲いかかってくるような相手ではない。
(……たぶん、悪い人じゃない。悪い人なら、白櫻姫さんも何か言ってくるだろうし)
そう思ったら、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
白雪姫は、そろそろと紅葉のほうへ歩み寄る。
「ねえ、紅葉ちゃん……って、呼んでもいい?」
「別に、好きにして」
「じゃあ、紅葉ちゃん。……どうして、こんなところにいると?」
「……こんなところ」
紅葉は、ぐるりと部屋を見回した。
埃をかぶった作業台。積み上げられた段ボール。
「……まあ、確かに〝こんなところ〟ではあるわね」
「……あ」
――そして、その隅に、きちんと畳まれた毛布が置いてあることに、白雪姫はようやく気がついた。
「気になる反応を感知したから、この学校に来たんだけど……泊まる家がないから」
紅葉は、ことりと首をかしげた。
「ここ、夜は誰もいないでしょ? だから、勝手に使わせてもらってるの」
「――住んでると⁉」
思わず、声が裏返った。
「うん」
「う、うんって……!」
白雪姫は、ぱたぱたと手を振り回した。
「だ、だって、電気も水道も通ってないだろうし……! お、親御さんは⁉ 心配してないと⁉」
――それは、なんの気なしの質問だった。
中学生が家に帰らなければ、親が探すに決まっている。
そんな、当たり前の常識のつもりだった。
「親なら、ずっと昔に死んじゃったよ」
――白雪姫の足が、止まった。
「…………あ」
声が出なかった。
「ご、ごめん……!」
白雪姫は、深く頭を下げた。
「ごめんね、私、なにも知らなくて……勝手なこと訊いて……」
「ううん」
紅葉の返事は、驚くほど淡々としていた。
「……あんなのを、親だと思ったことは一度たりともないから、気にしないで」
「…………」
その言葉に含まれたものを、白雪姫は、うまく飲み込めなかった。
――ただ。
(……この子も、なんだ)
自分も、半年前に両親を失った。
あの日から、世界の色が変わってしまったことを覚えている。
この子の〝昔〟が、どんなものだったのかは分からない。
けれど、同じところに立っている気がした。
――ほんの少しだけ、この子が近く感じた。
「……あのさ」
白雪姫は、気を取り直して顔を上げた。
「アパートとか、借りんかったと? その、施設に相談するとか……」
「無理よ」
紅葉は、即答した。
「私、戸籍がないから」
「……こせき?」
「そう。だから身分証も作れないし、部屋も借りられない。銀行の口座だって作れないの」
――戸籍。
言葉としては知っている。
役所とか、書類とか、そういうものだ。
中学一年生の白雪姫には、正直、それがない生活がどういうものなのか、ぴんと来なかった。
――だが、部屋が借りられないのは、どうやら本当らしい。
「……じゃあ、紅葉ちゃん。今まで、どうやって生きてきたと……?」
「森」
「……森?」
「うん。あとは、洞窟。人が来ないところを選んで、転々としてた」
あまりにも平然と言うので、白雪姫は数秒、理解が追いつかなかった。
「え、ええっ⁉ サバイバル⁉」
「そんな大したものじゃないけど」
「じゅ、十分大したことだよ⁉」
――言いながら、白雪姫はふと違和感を覚えた。
月明かりの下、改めて紅葉を見る。
――服は、真新しいとまではいかないが、汚れひとつない。
髪は艶やかで、傷んだ様子もない。
頬も、指先も、健康そのものだ。
森や洞窟で暮らしてきた人の姿には、どう見ても見えなかった。
「……ねえ、紅葉ちゃん」
「なに?」
「その……お金は、どうしてると?」
――紅葉は、少し考えるように黙った。
それから、作業台の上に置いてあった鞄に手を伸ばす。
「見る?」
「え? う、うん……」
――ぱか、と。
留め具が外れた。
「…………」
「…………」
「…………ん?」
最初、白雪姫の目は、それが何なのか処理できなかった。
懐中電灯の光を向ける。
――帯封のかかった、札束。
それが、鞄の底が見えないほど、ぎっしりと詰まっていた。
「――ひえっ⁉」
白雪姫は、飛び上がった。
「な、なななな、なにこれ⁉」
「お金」
「それは見たら分かるっちゃけど⁉」
テレビでしか見たことのない、光景だった。
「……いくら?」
「だいたい、一千万くらい」
「い、いっせんまん……」
ぐらり、と視界が揺れた。
「野生生活かと思ったら、凄まじい大金持ち……⁉」
「大金持ちってほどでもないと思うけど」
紅葉は、心底不思議そうに首をかしげた。
「使い道、あんまりないから減らないだけよ」
「そういう問題やないよ⁉」
❆
白雪姫は、はあはあと肩で息をしながら、床にぺたんと座り込んだ。
――さすがに、情報量が多すぎる。
「……ねえ。なんで、そんなにお金があると?」
「昔のお金を、少しずつ換えてるの」
紅葉は、鞄の留め具をぱちんと閉じた。
「紙幣とか、金とか銀とか。……ずっと昔に隠しておいたものを、必要なぶんだけ、その時代のお金に換える。それだけよ」
「昔って、どれくらい昔……?」
「……そうね」
――そこで、紅葉は初めて、少しだけ考え込む素振りを見せた。
そして、静かに口を開いた。
「私ね。神子の力に目覚めた日から、歳を取らないの」
「…………え?」
「不老不死っていうやつ。……傷もすぐ治るし、そもそも死ねない」
――白雪姫は、瞬きをした。
「え、えっと。それって、比喩とかじゃなくて……?」
「本当のこと」
あっさりと、紅葉は言った。
「だから、ごはんも食べなくていいの。おなかも空かない。……食べようと思えば食べられるけどね」
「た、食べんでいいと⁉」
「うん。あと、体の汚れは術で落とせるから、お風呂もいらない」
紅葉は、自分の袖をつまんで、ひらりと振ってみせた。
「服だけはどうにもならないけど、今はコインランドリーがあるでしょ。あれ、すごく便利。昔は川で洗うしかなかったから、すぐ駄目になって……買う頻度が、ずいぶん減って助かってるの」
「か、川……」
――淡々と語られる、生活。
便利なもの。不便だったもの。
その一つひとつが、白雪姫の知る〝十二歳〟の輪郭から、少しずつはみ出していく。
(……昔って)
嫌な予感がした。
いや――予感というより、確認だ。
胸の奥の熱が、早くそれを訊けと急かしている。
「……ねえ、紅葉ちゃん」
「なに」
「その〝昔〟って。……どれくらい前のこと?」
――紅葉は、ゆっくりと窓の外へ視線を移した。
夜空には、細く欠けた月が浮かんでいる。
千年前も、きっと同じ形で浮かんでいたのだろう。
「――千年」
その声には、何の感慨もなかった。
自分の身長を答えるのと、同じ調子だった。
「千年より、もう少し前かな。……数えるの、途中でやめちゃったから」
「…………っ」
――どくん、と。
白雪姫の心臓が、大きく跳ねた。
千年。
千年前。
――平安時代。
誰かが、頭の中でその言葉を繰り返している。
(――ああ)
その瞬間、白雪姫は、ようやく理解した。
さっきから、胸の奥で溢れ続けているもの。
この、泣き出しそうな熱の正体を。
なぜ、白櫻姫が何も言わないのか。
なぜ、言葉ひとつ返せないほど、心を乱しているのか。
答えは、ずっと目の前に立っていた。
(……この子は)
白雪姫は、震える指先を、そっと胸に押し当てる。
――そこに眠る、千年前の魂に向かって。
(この子は、白櫻姫さんを、知ってる――)
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