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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第02章:不死の炎
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第06話:不死原紅葉

 ――胸が、痛い。


 その痛みには、覚えがなかった。


「…………」


 白雪姫(こゆき)は、胸元に手を当てたまま動けずにいた。


 月明かりの差し込む技(ぎ)術(じゅつ)室(しつ)。


 埃の粒が、青白い光の中をゆっくりと漂っている。


 その向こうに立つ少女と、ただ、目が合っていた。


 ――切なさ。


 ――嬉しさ。


 ――焦り。


 ――そして、後(こう)悔(かい)。


 名前をつけられないほどたくさんの感情が、綯(な)い交(ま)ぜになって、胸の奥からとめどなく溢れ出してくる。


(……なんで)


 白雪姫(こゆき)は、必死に記憶をたぐった。


 腰まで届く、長い黒髪。


 黒曜石のような、深い黒の瞳。


 ――知らない。


 どこにも、心当たりがない。


(黒い髪に、黒い目……そんなん、日本人ならみんなそうやん)


 街ですれ違ったことくらいは、あるのかもしれない。


 同じ電車に乗り合わせたことも、あったのかもしれない。


 ――けれど。


(すれ違っただけの人に……こんな)


 こんな、心臓を素手で握られたような感情が、湧いてくるはずがない。


 ――ならば。


(……これ、私のじゃない)


 答えは、ひとつしかなかった。


(白櫻姫(こさき)さん……?)


 心の中で、そっと呼びかける。


 いつもならすぐに返ってくる、涼やかな声。


 ――それが、ない。


 代わりに、胸の奥がぎゅうっと締めつけられた。


 喉の奥が熱くなって、目の縁に、じわりと涙が滲む。


 泣きたいわけでもないのに。


 悲しいわけでもないのに。


(……っ、ちょっと。白櫻姫(こさき)さん、どうしたんですか)


 返事はない。


 ただ、声にならない想いだけが、一方通行で流れ込んでくる。


 ――まるで、閉じた扉の向こうから、誰かがずっと泣いているみたいに。


「…………」


 目の前の少女は、微動だにしなかった。


 急かすでもなく、警戒するでもなく。


 ただ、じっと白雪姫(こゆき)の返事を待っている。


 ――白雪姫(こゆき)は、手のひらで目元をこすった。


(……とにかく、話さんと)


 ここで逃げ帰ったら、きっと二度と会えない。


 なぜだかそう思った。


 ――胸の奥の誰かが、そう言っている気がした。


「……あの」


 白雪姫(こゆき)は、一歩だけ足を進めた。


「私、柊(ふき)野(の)白雪姫(こゆき)。……この学校の、中学部一年です」


「…………」


 少女の瞳が、ほんのわずかに揺れた。


 ――ほんの、一瞬。


 まばたきひとつぶんの間だけ、その表情に何かがよぎった気がした。


「白雪姫(こゆき)……」


「え?」


「……なんでもない」


 少女は、すっと目を伏せた。


 それきり、揺れは消えていた。


 ――結局、なんだったのだろう。


 訊こうか迷ったが、白雪姫(こゆき)はやめた。


 代わりに、ずっと引っかかっていたことを口にする。


「……あの。ひとつ、訊いてもいい?」


 自然と、敬(けい)語(ご)が外れていた。


 背丈も、顔つきも、たぶん自分と同じくらい。


 それに――〝あなたは誰?〟なんて、あんなふうにまっすぐ訊かれたのだ。


 こちらだけ畏(かしこ)まるのも、なんだか変な気がした。


「あなたって……神(み)子(こ)、なの?」


 ――ぴくり、と。


 黒髪が、わずかに揺れた。


 白雪姫(こゆき)は、慌てて言葉を継いだ。


「あ、えっと、その。表の扉の鍵、溶けとったから……! それに、ここに来てからずっと、変な霊(れい)力(りょく)を感じとって……」


 言いながら、自分でもおかしなことを言っている自覚はあった。


 つい一週間前の自分なら、絶対に口にしなかった単語だ。


「…………ふうん」


 少女は、小さく息を吐いた。


 それから、あっさりと頷いた。


「そう。私、神子よ」


「――っ」


「隠しても意味ないでしょ。……あなたも、そうなんだから」


 言い切って、少女はようやく身体ごとこちらを向いた。


 窓を背にしているせいで、その表情はよく見えない。


「名前は、〝不(ふ)死(じ)原(わら)紅葉(もみじ)〟」


 ――その、瞬間だった。


「……っ、あ」


 また、胸が軋(きし)んだ。


 さっきよりも、ずっと強く。


 膝から力が抜けそうになって、白雪姫(こゆき)はとっさに近くの作業台に手をついた。


「……大丈夫?」


「だ、大丈夫。……ごめん、なんでもない」


 嘘だった。


 なんでもないわけがない。


 ――〝紅葉(もみじ)〟。


 その音を聞いた瞬間、胸の奥の誰かが、確かに震えたのだ。


(……知ってる。白櫻姫(こさき)さんは、この子を知ってる)


 確信に近い予感が、白雪姫(こゆき)の中に落ちてきた。





❆





 ふう、と息を吐く。


 ――冷静になってみれば、この状況は、ずいぶん奇妙だった。


 夜の廃校舎。


 鍵を溶かして侵入した、正体不明の神子。


 ――どう考えても、警(けい)戒(かい)すべき相手のはずだ。


 それなのに。


(……この子、名前、教えてくれた)


 訊かれてもいないのに、素性を明かしてくれた。


 少なくとも――問答無用で襲いかかってくるような相手ではない。


(……たぶん、悪い人じゃない。悪い人なら、白櫻姫(こさき)さんも何か言ってくるだろうし)


 そう思ったら、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。


 白雪姫(こゆき)は、そろそろと紅葉(もみじ)のほうへ歩み寄る。


「ねえ、紅葉(もみじ)ちゃん……って、呼んでもいい?」


「別に、好きにして」


「じゃあ、紅葉(もみじ)ちゃん。……どうして、こんなところにいると?」


「……こんなところ」


 紅葉(もみじ)は、ぐるりと部屋を見回した。


 埃をかぶった作業台。積み上げられた段(だん)ボール。


「……まあ、確かに〝こんなところ〟ではあるわね」


「……あ」


 ――そして、その隅に、きちんと畳まれた毛布が置いてあることに、白雪姫(こゆき)はようやく気がついた。


「気になる反応を感知したから、この学校に来たんだけど……泊まる家がないから」


 紅葉(もみじ)は、ことりと首をかしげた。


「ここ、夜は誰もいないでしょ? だから、勝手に使わせてもらってるの」


「――住んでると⁉」


 思わず、声が裏返った。


「うん」


「う、うんって……!」


 白雪姫(こゆき)は、ぱたぱたと手を振り回した。


「だ、だって、電気も水道も通ってないだろうし……! お、親御さんは⁉ 心配してないと⁉」


 ――それは、なんの気なしの質問だった。


 中学生が家に帰らなければ、親が探すに決まっている。


 そんな、当たり前の常識のつもりだった。


「親なら、ずっと昔に死んじゃったよ」


 ――白雪姫(こゆき)の足が、止まった。


「…………あ」


 声が出なかった。


「ご、ごめん……!」


 白雪姫(こゆき)は、深く頭を下げた。


「ごめんね、私、なにも知らなくて……勝手なこと訊いて……」


「ううん」


 紅葉(もみじ)の返事は、驚くほど淡々としていた。


「……あんなのを、親だと思ったことは一度たりともないから、気にしないで」


「…………」


 その言葉に含まれたものを、白雪姫(こゆき)は、うまく飲み込めなかった。


 ――ただ。


(……この子も、なんだ)


 自分も、半年前に両親を失った。


 あの日から、世界の色が変わってしまったことを覚えている。


 この子の〝昔〟が、どんなものだったのかは分からない。


 けれど、同じところに立っている気がした。


 ――ほんの少しだけ、この子が近く感じた。


「……あのさ」


 白雪姫(こゆき)は、気を取り直して顔を上げた。


「アパートとか、借りんかったと? その、施設に相談するとか……」


「無理よ」


 紅葉(もみじ)は、即答した。


「私、戸(こ)籍(せき)がないから」


「……こせき?」


「そう。だから身分証も作れないし、部屋も借りられない。銀行の口座だって作れないの」


 ――戸(こ)籍(せき)。


 言葉としては知っている。


 役所とか、書類とか、そういうものだ。


 中学一年生の白雪姫(こゆき)には、正直、それがない生活がどういうものなのか、ぴんと来なかった。


 ――だが、部屋が借りられないのは、どうやら本当らしい。


「……じゃあ、紅葉(もみじ)ちゃん。今まで、どうやって生きてきたと……?」


「森」


「……森?」


「うん。あとは、洞窟。人が来ないところを選んで、転々としてた」


 あまりにも平然と言うので、白雪姫(こゆき)は数秒、理解が追いつかなかった。


「え、ええっ⁉ サバイバル⁉」


「そんな大したものじゃないけど」


「じゅ、十分大したことだよ⁉」


 ――言いながら、白雪姫(こゆき)はふと違和感を覚えた。


 月明かりの下、改めて紅葉(もみじ)を見る。


 ――服は、真新しいとまではいかないが、汚れひとつない。


 髪は艶やかで、傷んだ様子もない。


 頬も、指先も、健康そのものだ。


 森や洞窟で暮らしてきた人の姿には、どう見ても見えなかった。


「……ねえ、紅葉(もみじ)ちゃん」


「なに?」


「その……お金は、どうしてると?」


 ――紅葉(もみじ)は、少し考えるように黙った。


 それから、作業台の上に置いてあった鞄(かばん)に手を伸ばす。


「見る?」


「え? う、うん……」


 ――ぱか、と。


 留め具が外れた。


「…………」


「…………」


「…………ん?」


 最初、白雪姫(こゆき)の目は、それが何なのか処理できなかった。


 懐中電灯の光を向ける。


 ――帯(おび)封(ふう)のかかった、札(さつ)束(たば)。


 それが、鞄の底が見えないほど、ぎっしりと詰まっていた。


「――ひえっ⁉」


 白雪姫(こゆき)は、飛び上がった。


「な、なななな、なにこれ⁉」


「お金」


「それは見たら分かるっちゃけど⁉」


 テレビでしか見たことのない、光(こう)景(けい)だった。


「……いくら?」


「だいたい、一千万くらい」


「い、いっせんまん……」


 ぐらり、と視界が揺れた。


「野生生活かと思ったら、凄まじい大金持ち……⁉」


「大金持ちってほどでもないと思うけど」


 紅葉(もみじ)は、心底不思議そうに首をかしげた。


「使い道、あんまりないから減らないだけよ」


「そういう問題やないよ⁉」





❆





 白雪姫(こゆき)は、はあはあと肩で息をしながら、床にぺたんと座り込んだ。


 ――さすがに、情(じょう)報(ほう)量(りょう)が多すぎる。


「……ねえ。なんで、そんなにお金があると?」


「昔のお金を、少しずつ換えてるの」


 紅葉(もみじ)は、鞄の留め具をぱちんと閉じた。


「紙(し)幣(へい)とか、金(きん)とか銀とか。……ずっと昔に隠しておいたものを、必要なぶんだけ、その時代のお金に換(か)える。それだけよ」


「昔って、どれくらい昔……?」


「……そうね」


 ――そこで、紅葉(もみじ)は初めて、少しだけ考え込む素振りを見せた。


 そして、静かに口を開いた。


「私ね。神子の力に目覚めた日から、歳(とし)を取らないの」


「…………え?」


「不(ふ)老(ろう)不(ふ)死(し)っていうやつ。……傷もすぐ治るし、そもそも死ねない」


 ――白雪姫(こゆき)は、瞬(まばた)きをした。


「え、えっと。それって、比喩とかじゃなくて……?」


「本当のこと」


 あっさりと、紅葉(もみじ)は言った。


「だから、ごはんも食べなくていいの。おなかも空かない。……食べようと思えば食べられるけどね」


「た、食べんでいいと⁉」


「うん。あと、体の汚れは術で落とせるから、お風呂もいらない」


 紅葉(もみじ)は、自分の袖をつまんで、ひらりと振ってみせた。


「服だけはどうにもならないけど、今はコインランドリーがあるでしょ。あれ、すごく便利。昔は川で洗うしかなかったから、すぐ駄目になって……買う頻度が、ずいぶん減って助かってるの」


「か、川……」


 ――淡々と語られる、生活。


 便利なもの。不便だったもの。


 その一つひとつが、白雪姫(こゆき)の知る〝十二歳〟の輪(りん)郭(かく)から、少しずつはみ出していく。


(……昔って)


 嫌な予感がした。


 いや――予感というより、確認だ。


 胸の奥の熱が、早くそれを訊けと急かしている。


「……ねえ、紅葉(もみじ)ちゃん」


「なに」


「その〝昔〟って。……どれくらい前のこと?」


 ――紅葉(もみじ)は、ゆっくりと窓の外へ視線を移した。


 夜空には、細く欠けた月が浮かんでいる。


 千年前も、きっと同じ形で浮かんでいたのだろう。


「――千年」


 その声には、何の感慨もなかった。


 自分の身長を答えるのと、同じ調子だった。


「千年より、もう少し前かな。……数えるの、途中でやめちゃったから」


「…………っ」


 ――どくん、と。


 白雪姫(こゆき)の心臓が、大きく跳ねた。


 千年。


 千年前。


 ――平安時代。


 誰かが、頭の中でその言葉を繰り返している。


(――ああ)


 その瞬間、白雪姫(こゆき)は、ようやく理解した。


 さっきから、胸の奥で溢れ続けているもの。


 この、泣き出しそうな熱の正体を。


 なぜ、白櫻姫(こさき)が何も言わないのか。


 なぜ、言葉ひとつ返せないほど、心を乱しているのか。


 答えは、ずっと目の前に立っていた。


(……この子は)


 白雪姫(こゆき)は、震える指先を、そっと胸に押し当てる。


 ――そこに眠る、千年前の魂(たましい)に向かって。


(この子は、白櫻姫(こさき)さんを、知ってる――)





ここまで読んでいただきありがとうございます!

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