第05話:月光に照らされる紅の少女
――その日の夕食は、いつもより少しだけ賑やかだった。
「――で、鍵が溶けてたんです」
「溶けていた?」
箸を止めて、翠織が顔を上げる。
「はい。飴みたいにドロッと垂れて、そのまま固まってて」
蒼波が、両手で歪な形を作ってみせた。
「焦げた跡もありました。……たぶん、一瞬で、錠の部分だけを狙って熱を通した感じです」
「……ふぅん」
「翠織先生。そういうのって、普通の人にできますか?」
「――できないわね」
即答だった。
「バーナーで炙ったなら、周囲の塗装がもっと広く焼けるはずだし、鉄でできた鍵はそんなに簡単に溶けないもの」
翠織は味噌汁の椀を置き、指を組んだ。
「火の霊力を、極めて狭い範囲に、極めて高い密度で収束させた……といったところかしら」
「じゃあ、やっぱり」
「ええ。神子の仕業の可能性は、かなり高いわね」
――白雪姫は、そっと蒼波と顔を見合わせた。
「あの、先生」
「なあに、白雪姫ちゃん」
「その……お願いが、ありまして」
白雪姫は、箸を置いて背筋を伸ばした。
「今夜、もう一度あそこへ行ってみたいんです。……でも、私たちだけで勝手に行くのは、危ないし、よくないと思って」
「だから、先生に一緒に来てほしいんです」
蒼波も、隣で頭を下げる。
「――お願いします」
「…………」
翠織は、しばらく二人を見つめていた。
そして。
「……いいわ」
柔らかく、笑った。
「え、いいんですか⁉」
「ええ。正直、私もかなり気になるもの」
翠織は、ゆらりと立ち上がった。
「学校の敷地内に、正体不明の神子が出入りしている。……これ、放置していい話じゃないのよ」
「あ……」
「本来なら、私が単独で確認しに行くべき案件ね。……でも」
彼女は、ちらりと二人を見下ろした。
「勝手に行かずに、ちゃんと相談してくれたでしょう」
「……はい」
「よくできました」
――ぽん、と。
二人の頭が、順番に撫でられた。
「じゃあ、〝夜間の特別訓練〟ということにしましょう」
「と、特別訓練……」
「そう。真夜中に、教え子を連れて霊力反応の調査に行く。……立派な実地訓練でしょう?」
しれっと言ってのける翠織に、二人は思わず吹き出した。
「ふふっ、なんですかそれ」
「大人には、いろいろと言い訳が必要なのよ」
❆
――夜。
車のヘッドライトが、暗い山道を切り裂いていく。
助手席には蒼波。後部座席には、白雪姫。
行きは坂を下るだけなので、あっという間だ。
窓の外を流れる闇を眺めていると――ふと、頭の中に声が響いた。
『白雪姫』
(……わっ。は、はい)
『少しだけ、お伝えしておきたいことがございます』
(なんですか?)
『翠織様は、わたくしのことをご存じです』
(………………え?)
思わず、白雪姫はぱちぱちと瞬きをした。
(え、ちょ、ちょっと待ってください。先生が?)
『はい』
(な、なんで⁉)
『先日、魔神と戦った夜に。……直接、お話ししましたので』
(――えっ⁉)
白雪姫は、慌てて運転席のほうを見た。
翠織は、涼しい顔でハンドルを握っている。
(そ、そんなの、ひとことも……)
――と、そこまで考えて。
(……あ)
思い出した。
あの夜、目を覚ました時。
自分は翠織の腕に抱かれていた。
――つまり。
(……先生のほうが、私より先に起きちょったっちゃ)
自分が眠っている間、表に出ていたのは白櫻姫だ。
その間に二人が言葉を交わしていたとしても、何もおかしくはない。
(……なるほど)
『黙っていて、申し訳ございません』
(いえ。……というか)
白雪姫は、苦笑した。
(先生、私にずっと気を遣ってくれてたんですね)
『ええ。……あなたに話すのは、わたくしの口からにさせてほしいと。そうお願いしたのです』
(……そっか)
バックミラー越しに、翠織と目が合った。
彼女は、何も知らないような顔で、小さく微笑んだ。
――白雪姫も、微笑み返した。
❆
二十時。
誰もいない校門の前に、車が停まった。
――夜の学校は、しん、と静まり返っていた。
昼間の喧騒が嘘のようだ。
校舎の窓は真っ黒で、風に揺れる木々の影だけが、地面をゆらゆらと這っている。
「……こっちです、先生」
懐中電灯の光を頼りに、三人は校舎裏へと回り込んだ。
木立を抜けた先。
月明かりに照らされた旧校舎が、静かに立っている。
「――ここです」
白雪姫が、扉の錠前を指さす。
翠織は膝をつき、懐中電灯を近づけて、その部分をじっと観察した。
「……なるほど」
指先で、溶融した金属の跡をなぞる。
「これは、確かに人間の業じゃないわね」
「……やっぱり、ですか」
「切断でも、破壊でもない。〝溶かして開けた〟のよ。しかも、必要最小限の範囲だけを」
翠織は立ち上がり、目を細めた。
「相当、火の扱いに習熟しているわね。……荒っぽく見えて、恐ろしく繊細だわ」
「……」
二人は、無言で顔を見合わせた。
――と。
「……そういえば」
蒼波が、ふと辺りを見回した。
「うち、なんで平気やっちゃろ」
「え?」
「いや……夜の学校って、もっと怖いもんやん?」
言われて、白雪姫も気がついた。
「……確かに」
昨日までの自分なら――いや、一週間前の自分なら。
こんな場所、一分だっていたくなかったはずだ。
夜の学校。廃校舎。誰かが忍び込んだ形跡。
――怖い要素しかない。
それなのに。
(……全然、怖くない)
むしろ、不思議なくらい落ち着いている。
「あら」
二人の会話を聞いて、翠織がくすりと笑った。
「それはね。あなたたちが、霊力を感知できるようになったからよ」
「……感知?」
「ええ。……いい機会だから、教えておきましょうか」
翠織は、懐中電灯の光を旧校舎の壁へと向けた。
「こういう廃屋や、深い森。あるいは古いトンネル。……そういう場所って、なぜか怖いでしょう?」
「はい」
「あれはね、実は理由があるの」
――光の輪が、ゆっくりと壁を這っていく。
「そういう場所には、霊力が溜まりやすいのよ。人の手が入らないぶん、流れが滞るから」
「あ……」
「そして、霊力を感知できない普通の人がそこへ立ち入ると、どうなると思う?」
「……えっと」
白雪姫は、少し考えた。
「感じ取れないはずのものを……無理やり、感じてしまう?」
「そのとおり」
翠織は、満足そうに頷いた。
「処理できない情報が、身体に流れ込んでくるの。それが〝寒気〟や〝悪寒〟、〝恐怖〟という感覚になって表に出てくるわけ」
「……なるほど」
「言ってしまえば、動物の本能みたいなものね」
――白雪姫は、思わず旧校舎を見上げた。
なんてことはない、古い建物だ。
「でも、今のあなたたちは違う」
翠織の声が、少しだけ誇らしげになった。
「霊力を感知できるし、制御もできる。だから、無理やり流し込まれることもない」
「じゃあ……」
「ええ。こんなところ、怖いどころか――何日泊まっても平気なはずよ」
「「……いや、それは嫌です」」
二人の声が、綺麗に重なった。
「あら、残念」
❆
――そこで、白雪姫はふと思いついて、口を開いた。
「あの、先生」
「なあに?」
「……幽霊って、いるんですか?」
「――んん?」
蒼波が、ぎょっとした顔でこちらを見た。
「えっと、白雪姫ちゃん……? なんでこのタイミングで……?」
「い、いや、だって」
白雪姫は、慌てて弁解した。
「〝霊力〟って、〝霊〟の字が入ってるやん? それに、こういう場所には霊力が集まりやすいって……」
「……あ」
「だから、もしかして……幽霊も、いるんかなって」
――ふむ、と。
翠織が顎に指を添えた。
そして、あっさりと言った。
「いるわよ」
「「――えっ⁉」」
二人の声が、また綺麗に重なった。
「そんなに驚くこと? あなたたち、魂の存在はもう知っているでしょう」
「そ、そうですけど……!」
「幽霊というのはね。単純に、亡くなった方の魂が、この世に漂っている状態のことよ」
翠織は、淡々と続けた。
「多くは、ただそこにあるだけ。……害はないわ」
「た、ただ、そこにあるだけ……」
「ええ。……でも」
――そこで、声が一段低くなった。
「もし、その漂っている魂が、魔力に浸食されてしまったら?」
「…………あ」
白雪姫の背筋が、ぞくりとした。
「……それが」
「そう。それが――〝魔蝕者〟よ」
「……っ」
脳裏に浮かぶのは、あの夜の異形。
黒い瘴気を噴き上げていた、人型の化け物。
――あれは、元は人間の魂だったのだ。
「ちなみに、動物の魂が浸食された場合は」
「……魔物、ですか」
「そのとおり」
白雪姫は、そっと自分の胸に手を当てた。
――魂。
その存在は、もう疑いようがない。
なにしろ、自分の中には今、千年前の神様の魂が宿っているのだから。
(……幽霊のほうが、よっぽど普通に思えてきた)
『失礼ですね』
(あっ、す、すみません)
❆
「――さて」
翠織が、ぱん、と手を打った。
「そろそろ、中を確認しましょうか」
三人は、扉の前に立った。
――白雪姫は、そっと意識を澄ませる。
(……いる)
昼間よりも、はっきりと。
建物の奥。
一階の、手前から二つ目の部屋あたり。
そこに、確かな霊力の脈動があった。
「……先生。たぶん、今、中にいます」
「……そう」
翠織の表情が、引き締まった。
「じゃあ、方針を決めましょう」
彼女は、二人を交互に見た。
「――中へ入るのは、白雪姫ちゃん。あなた一人よ」
「「……えっ⁉」」
「せ、先生⁉」
蒼波が、真っ先に声を上げた。
「なんで一人なんですか……⁉ 危ないですよ……!」
「落ち着きなさい、蒼波ちゃん」
翠織は、静かに旧校舎を見上げた。
「この建物の中の気配、思っていたよりずっと強固なの。……相当、感知能力が高い相手よ」
「……」
「三人でぞろぞろ入っていったらどうなると思う? ――間違いなく、警戒される」
「あ……」
「逃げられるか、隠れられるか。どちらにせよ、二度と会えなくなるかもしれないわ」
翠織は、蒼波の肩をぽんと叩いた。
「それに、もしここへ誰かが来たら――警備の人でも、近所の方でもね。誰かが外で事情を説明しないと、大騒ぎになるでしょう」
「……それは、そうですけど」
「私と蒼波ちゃんは、外で見張り。……それが一番いいと思うの」
――白雪姫は、扉を見つめた。
「……あの、先生」
「なあに?」
「私で、大丈夫でしょうか」
正直な、不安だった。
自分はまだ、神子になって一週間も経っていない。
「……あら」
翠織は、少し呆れたように笑った。
「そもそも、あそこの気配に最初に気づいたのは誰かしら?」
「……私、です」
「そうよ。あなたが見つけて、あなたが気にして、ここまで来た」
「…………」
「だったら、最初に会うのはあなたであるべきだと思うの」
――そして。
翠織はそっと身を屈めて、白雪姫の耳元に唇を寄せた。
蒼波には聞こえないほどの、微かな声で。
「――それに」
「……」
「あの方がついているんだもの。……安心でしょう?」
「……っ」
白雪姫は、目を見開いた。
そして、こくりと頷く。
(……先生)
『ふふ。頼りにされておりますね』
(……どちらかというと、白櫻姫さんのほうだと思いますけど……)
翠織は身を起こすと、自分の手のひらへ視線を落とした。
――淡い緑の光が、静かに滲み出す。
「私は、いつでも飛び込めるように霊力を練って待機しているわ。……何かあれば、遠慮なく叫びなさい」
「はい」
「白雪姫ちゃん」
蒼波が、ぎゅっと手を握ってきた。
「……気をつけてね」
「うん。ありがと、蒼波ちゃん」
――白雪姫は、深く息を吸った。
そして、扉の取っ手に指をかける。
――すう。
昼間と同じように、それは音もなく、スムーズに開いた。
❆
埃と、古い木の匂い。
冷たい空気が、頬を撫でた。
懐中電灯の光が、暗い廊下を細く切り取っている。
――白雪姫は、そっと一歩を踏み出した。
ぺしっ、とコンクリートでできた床が鳴る。
まずは、手前の部屋。
〝調理室〟と書かれたプレートが、傾いたまま貼りついていた。
「……失礼、します」
小さく呟いて、引き戸を開ける。
――途端に、埃が舞い上がった。
「けほっ……」
中は、想像通りだった。
並んだ調理台の上に、段ボールが山積みになっている。
床には、脚を上に向けた椅子がいくつも重ねられていた。
足の踏み場も、ほとんどない。
――かつては、生徒たちが並んで包丁を握っていたのだろう。
その面影は、もうどこにもなかった。
(……ここじゃ、ない)
気配は、もっと奥。
白雪姫は、段ボールの隙間を縫うように歩き、部屋の奥にある扉へ向かった。
入ってきた側ではなく、隣の部屋へ直接続いているらしい扉だ。
――ノブに、手をかける。
その瞬間。
――ぞわり。
(……っ、濃い)
空気が、違った。
この扉一枚を隔てた向こうに、確かな〝命〟の気配がある。
澄んでいて。
熱くて。
そして、途方もなく――古い。
(……いる)
白雪姫は、胸に手を当てて、ゆっくりと息を整えた。
とはいえ、埃がはいるので深呼吸はできない。
――一回。
――二回。
(……よし)
そして。
彼女は、扉を開けた。
❆
――月の光が、零れ落ちていた。
窓ガラスを通り抜けた青白い光が、埃の粒をきらきらと照らしている。
その光の中に。
――一人の、少女が立っていた。
「…………」
白雪姫の足が、止まる。
窓のほうを向いて、じっと外を眺めている、小柄な後ろ姿。
腰まで届く、豊かな黒髪。
月光を受けて、それは絹のように滑らかな艶を放っていた。
――そして。
ゆっくりと、その少女が振り返る。
深い、黒曜石のような瞳。
あどけなさの残る顔立ちなのに、その表情には、感情のさざ波ひとつない。
――ただ。
振り向いた一瞬。
月の光が横切ったその瞳が。
――紅に、燃えたように見えた。
「…………」
少女は、白雪姫を見た。
白い髪を。
白い瞳を。
そして、その内側にあるものを、見透かすように。
「…………違う」
ぽつり、と。
小さな声だった。
「え……?」
「……あなたは、誰?」
――その、瞬間だった。
「――っ、あ」
白雪姫の胸が、軋んだ。
(……なに、これ)
張り裂けそうな、悲しみ。
喉の奥が焼けるような、切なさ。
それと同時に。
――今すぐ駆け寄って、この子を抱きしめたい。
そんな、狂おしいほどの懐かしさが、胸を突き上げてきた。
自分の感情では、ない。
「…………」
白雪姫は、思わず。
自分の胸に、そっと手を置いた。
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