第04話:旧校舎へ
放課後。
帰りの会が終わるや否や、二人は鞄を持って教室を出た。
「――で。ほんとにここ?」
蒼波が、目の前の建物を見上げて言った。
「うん。……ここ」
白雪姫は、こくりと頷いた。
校舎の裏手。
木立を抜けた先に、その建物はぽつんと佇んでいた。
――かつての、〝桜ケ丘中学校〟の校舎。
もともと、この土地には桜ケ丘小学校と桜ケ丘中学校が、それぞれ別の学校として建っていた。
それが数年前に合併し、今の小中一貫校――桜ケ丘小中学校になったのだ。
中学校には、校舎が二棟あった。
そのうち一棟は、合併の際に取り壊された。
――そして、残されたのが、今二人の目の前にある一棟というわけだ。
「二階建て、やね」
「うん。一階が調理室と技術室で、二階が理科室と美術室」
「詳しいね」
「何の時か忘れたっちゃけど、先生が話してるのを聞いたんよね」
色あせたクリーム色の外壁。
ところどころ罅の入ったコンクリート。
窓ガラスには、内側から埃がびっしりと膜を張っている。
そして、静けさ。
第二グラウンドのほうからは、まだ何の物音も聞こえてこない。
部活動の生徒たちが着替えを終えて出てくるまでには、もう少し時間がある。
――今、ここには二人しかいなかった。
「……ねえ、白雪姫ちゃん」
「うん」
「本当に、ここに人がおると?」
蒼波の声には、はっきりと懐疑の色があった。
――ここへ来るまでの道すがら、白雪姫は事情を説明していた。
昨日から、この旧校舎の方角に妙な霊力の気配を感じること。
それが、ただ建物に溜まった古い霊力とは違うように思えること。
もっとも、〝自分の中の白櫻姫がそう言っている〟という部分だけは、まだ伏せてある。
(……ごめんね、蒼波ちゃん)
心の中で、そっと謝った。
「たぶん、やけど」
「うーん……」
「蒼波ちゃん、もうちょっと近づいてみて? どう?」
「んー……」
蒼波は半信半疑の顔のまま、それでも素直に数歩、建物へ歩み寄った。
そして、そっと目を閉じる。
――数秒。
「…………あ」
琥珀色の瞳が、ぱちりと開いた。
「……ほんとだ」
「感じる?」
「うん。……なんか、ある」
蒼波は、怪訝そうに眉を寄せた。
「たしかに、変な反応。……こんなの、白雪姫ちゃんに言われるまで全然気づかんかった」
「私も、昨日からなんよ」
「……感知、もしかしてうちより上がってない?」
「ど、どうやっちゃろ……」
蒼波は少し悔しそうに、けれど嬉しそうに笑った。
「じゃ、ぐるっと回ってみよっか」
❆
二人は、建物に沿ってゆっくりと歩き出した。
窓の下まで来ると、爪先立ちになって中を覗き込む。
「……うわ」
埃の膜の向こうに見えたのは。
積み上げられた段ボール箱。
脚を上に向けて重ねられた、古い机と椅子。
ビニールシートを被せられた、用途不明の機材。
運動会で使うらしい、色あせた万国旗の束。
「……完全に、物置やね」
「うん。……人が住めるような感じじゃ、ないね」
二階へ続く階段の下には、跳び箱が三段だけ置き去りにされていた。
誰も使わなくなって、それでも捨てられずに残されたものたちが、静かに眠っている。
――ただ。
(……変な感じ)
白雪姫は、窓ガラスに額を寄せたまま思った。
(埃、こんなに積もってるのに)
(なんか……〝誰もいない場所〟って感じが、せん)
うまく言葉にできない。
空気が、まだ動いている――そんな気配。
やがて二人は、建物の側面にある出入り口の前に辿り着いた。
スチール製の、古びた引き戸。
塗装は剥げ、下のほうは錆が浮いている。
「……ここが、出入り口かな」
「やろうね」
「……というか、なんか上にも扉があるっちゃけど」
白雪姫はふと見上げると、上の壁にも同じような扉が取り残されているのが見えた
「え? ――うわほんとだ! なんか面白い……! 浮いてるみたい」
「どうなっちょっと? あれ」
「多分、元々あそこにも通路があって、その通路だけ取り壊されたから、あんな感じに……」
「あ、なるほど……それより、この扉……」
白雪姫は、再び目の前の扉に目をやる。
「開いてるっちゃろうか?」
「流石に閉まっちょるやろ」
「よね――」
――そう。
当然、閉まっているはずだった。
立入禁止の建物なのだ。
念のため。
ほんとうに、念のため。
白雪姫は、そっと引き戸の取っ手に指をかけた。
そして、引いた。
――すう。
「…………」
「…………」
なんの引っかかりもなく。
扉は、驚くほど滑らかに、左へスライドした。
「――開いた⁉」
蒼波が、素っ頓狂な声を上げる。
「…………」
白雪姫は、開いた扉の隙間を、じっと見つめた。
薄暗い廊下。
埃と、古い木の匂い。
――そして、数秒の沈黙のあと。
白雪姫は、そっと扉を引き戻した。
――すちゃ。
「――閉じた⁉」
「……見なかったことにしよう」
「できないよ⁉」
「だ、だって……!」
白雪姫は、真っ青な顔でぶんぶんと両手を振った。
「わ、私、もしかして……壊した?」
「え?」
「霊力の加減が、まだよく分からんくて……! 昨日も岩を軽々持ち上げちゃったし……!」
――そうだ。
今朝も、力任せに自転車のスタンドを蹴って、蒼波に呆れられたばかりだ。
「私が、うっかり鍵ごとこじ開けたんじゃ……⁉」
「落ち着いて、白雪姫ちゃん」
「だってっ、学校の備品を壊したら弁償で……! 私、お金なんて……!」
「落ち着いてって」
蒼波は苦笑しながら、あわあわする友の肩をぽん、と押さえた。
「そんな引っかかりも音もなく開いたっちゃろ。壊したなら、絶対もっと変な感触があるはずやん」
「あ……」
「ちょっと、見して」
蒼波は屈み込み、扉の錠前の部分に顔を近づけた。
――そして。
「…………うわ」
その表情が、すっと引き締まった。
「なに? なんかあった?」
「……見て、これ」
白雪姫も、隣にしゃがみ込む。
――そして、息を呑んだ。
錠前まわりの金属が。
――歪んでいた。
いや、〝歪んでいる〟という言葉では足りない。
まるで飴のように垂れて、捻じれて、そのまま固まっている。
周囲の塗装は黒く焦げ、溶融した金属が涙のように流れ落ちた跡が、そのまま残されていた。
「これ……」
「壊されてる。……それも、こじ開けたとかいうレベルじゃない」
蒼波は、指先で焦げた部分をそっと撫でた。
「高熱で、金属を溶かして。……無理やり変形させたみたい」
「溶かして……⁉」
「うん。バーナーとか、そんな生易しいもんじゃないと思う。……一瞬で、これだけを狙って溶かしてる」
――ぞわり、と。
白雪姫の背中を、冷たいものが走った。
「ちなみに」
蒼波は立ち上がり、ふっと笑って白雪姫を見た。
「白雪姫ちゃんは〝水〟やろ?」
「あ……」
「どう頑張っても、金属を溶かす熱なんて出せんよ。……ほら、犯人じゃない」
「……よ、よかったぁ……」
白雪姫は、へなへなとその場にしゃがみ込んだ。
「弁償せんで済む……」
「そこ⁉ 安心するとこ、そこ⁉」
――だが。
二人の顔から、すぐに笑みは消えた。
残ったのは、ひとつの事実だ。
「……つまり」
白雪姫は、ゆっくりと立ち上がった。
「火の力を使える誰かが、ここの鍵を壊して」
「――中に、入ったってことやね」
蒼波が、静かに引き取った。
「そんなことができるのは、普通の人間じゃない」
「……神子」
「うん。ほぼ間違いない」
――旧校舎の窓ガラスに、二人の姿がぼんやりと映っている。
その向こうの薄暗がりを、白雪姫はじっと見つめた。
(……あの、白櫻姫さん)
心の中で、そっと呼びかける。
(今、中に……その人、いますか?)
『……いいえ』
返事は、すぐに返ってきた。
『気配が、授業中よりもずっと小さくなっております』
(小さく?)
『ええ。……これは、この場所に残された〝残り香〟のようなもの。おそらく、今は不在かと』
(……そっか)
白雪姫は、ふうっと息を吐いた。
――安堵と、少しの拍子抜け。
「蒼波ちゃん」
「うん」
「たぶん、今は……中にいないと思う」
「……なんで分かると?」
「え、えっと。……気配が、さっきより薄い、から」
「? ふうん」
蒼波は少しだけ怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
代わりに、腕を組んで考え込む。
「……ねえ、白雪姫ちゃん。昨日と今日、授業中にずっと気配を感じとったんよね?」
「うん」
「ってことは、その人、何回もここに来とるってことよね」
「……あ」
「一回だけの通りすがりなら、そんなに何度も反応が出るはずないし……」
蒼波の目が、すっと細くなった。
「――たぶん、また来る」
「……いつ?」
「明日か。……もしくは、今日の夜」
――夜。
白雪姫は、ごくりと喉を鳴らした。
「じゃあ、蒼波ちゃん。今日はもう帰って――」
「うん。今夜、もう一回来よう」
「……やっぱり、そうなるよねー……」
――と、そこで。
白雪姫は、ふと思いついて顔を上げた。
「ねえ、蒼波ちゃん。これ、先生に言った方がよくない?」
「翠織先生に?」
「ううん、学校の先生。……だって、不法侵入じゃん」
鍵を壊されて、誰かが勝手に出入りしている。
――どう考えても、事件である。
「私たちで抱え込まんで、ちゃんと大人に――」
「――それはだめ」
蒼波の声が、思いのほか鋭かった。
「え……」
「白雪姫ちゃん。もしその人が、ほんとに神子やったら」
「……うん」
「学校の先生が、何も知らんまま様子を見に来たら――どうなると思う?」
――白雪姫の顔から、血の気が引いた。
脳裏に浮かんだのは、あの夜の光景だ。
紫黒の炎。
なす術もなく吹き飛ばされた、翠織の身体。
――もしその人が、敵だったら。
何の力も持たない先生が、ひとりで、あの扉を開けてしまったら。
「……そっか」
白雪姫は、俯いた。
「……そう、やね。危ないもんね」
「うん。だから、これはうちら側の話」
「……分かった」
――正直に言えば、気は進まなかった。
立入禁止の建物に、夜、勝手に入る。
真面目に生きてきた十二年間が、全力で警鐘を鳴らしている。
――けれど。
(……気になる)
この扉の向こうに、誰かがいる。
白櫻姫が〝懐かしい〟と言った、誰かが。
(……ここまで来たら、もう)
「……ねえ、蒼波ちゃん」
「うん?」
「ひとつだけ、条件つけていい?」
「なに?」
「翠織先生に、ちゃんと話そう」
白雪姫は、まっすぐに友を見た。
「事情を全部話して。……そのうえで、夜、車で連れてきてもらお?」
「…………」
「二人だけでこっそり来るのは、絶対だめ。この前みたいなことがあったら、今度こそ――」
「……うん」
蒼波は、素直に頷いた。
「そうやね。……うちも、あんな思いはもうしたくない」
「うん」
「じゃあ、決まり」
――遠くの第二グラウンドから、ホイッスルの音が聞こえてきた。
部活動が、始まったのだ。
「行こ、白雪姫ちゃん。見つかったら面倒やし」
「うん」
二人は、旧校舎に背を向けて歩き出した。
「――というか、このこと先生に伝えたら、先生の方が面白がらん?」
「わかる」
――最後にもう一度だけ、白雪姫は振り返る。
夕方の光に滲む、色あせた壁。
埃をかぶった、暗い窓。
その奥に、誰かがいる。
(……)
白雪姫は、鞄の持ち手をぎゅっと握りしめた。
(……一体、誰がいるっちゃろ?)
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