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第9話 見えないもの

 本屋の親子をもう一度見ても、星は同じだった。


 その事実は、思っていたより長く私の中に残った。


 同じ人には同じ星が見える。

 少なくとも、すぐには変わらない。


 そうノートに書いたあとも、私は何度もそのページを開いてしまった。

 確かめられたことはひとつだけなのに、それが思った以上に大きかった。


 星は、気まぐれに現れたり消えたりするものじゃないのかもしれない。


 そう考えると、少しだけ怖い。

 でも同時に、少しだけ安心もする。

 見えているものに、ちゃんと意味があるのだと思えるから。


 その週の金曜日、四限が休講になった。


 珍しく時間が空いて、私は図書館に行こうか、それともまっすぐ帰ろうか迷いながら校舎を出た。

 空は薄く曇っていて、風が少しぬるい。


「相沢さん」


 聞き慣れた声に振り向くと、星野くんがいた。


「今日、もう終わり?」

「……うん」

「俺も」

「そう」

「反応うすいなあ」

「普通」

「じゃあ普通にうれしい」

「何それ」


 星野くんは笑って、私の歩幅に合わせるように隣に並んだ。


「これから帰る?」

「たぶん」

「たぶん?」

「まだ決めてない」

「じゃあ、ちょっと寄り道しない」

「どこ」

「公園」

「急だね」

「急に時間できたから」


 公園。

 そう言われて、私は少しだけ考える。


 断る理由は特にない。

 でも、すぐにうなずくのも少し落ち着かない。


「近い?」

「駅の反対側にあるとこ」

「……ああ」

「知ってる?」

「前に通ったことある」

「じゃあ決まり」

「まだ決めてない」

「今決まった」


 そう言って勝手に歩き出す。

 私は少し迷ってから、そのあとを追った。


 大学から十分ほど歩いたところにある小さな公園は、平日の夕方で人もまばらだった。

 ベンチがいくつかあって、砂場と小さなすべり台がある。

 木の葉が風に揺れて、乾いた音を立てていた。


「なんで公園」

「なんとなく」

「またそれ」

「相沢さんもよく言うじゃん」

「私は本当にそういうときに言ってる」

「俺もだよ」


 信用できるような、できないような返事だった。


 自販機で飲み物を買って、ベンチに座る。

 私は冷たいお茶、星野くんは炭酸だった。


 少し離れた砂場では、小さな女の子が一人で遊んでいた。

 近くのベンチには、その母親らしい人が座ってスマホを見ている。


 私は反射的に、その頭上を見る。


 女の子には何もない。

 母親には中くらいの星があった。


 私は少しだけ目を細める。


 この前の親子とは違う。

 子どもに星がある場合もあれば、ない場合もある。

 母親の星の大きさも違う。


 やっぱり、年齢や立場だけでは決まらないらしい。


「また見てる」


 隣で星野くんが言った。


「……見てない」

「見てたよ」

「少しだけ」

「最近、認める率上がったね」

「面倒だから」

「進歩だ」


 何が進歩なのか分からない。

 でも、前よりこういうやりとりに慣れてきている自分がいる。


「相沢さんって、人のことよく見るよね」

「そうかな」

「うん。顔っていうより、雰囲気?」

「……そんなつもりない」

「でも、ちゃんと見てる感じする」

「星野くんも人のこと見てる」

「俺は相沢さんを見てるだけ」

「それはそれで嫌」

「ひどい」


 そう言いながら、少しも傷ついていなさそうに笑う。

 私は缶のお茶を持ったまま、視線を前に戻した。


 砂場の女の子が、作りかけの山を崩してしまって、少しだけ不満そうな顔をした。

 母親が立ち上がって近づいていく。

 その頭上の星が、夕方の光の中でぼんやり浮かんで見えた。


 中くらいの星。


 大きくもなく、小さくもない。

 そういう星も、もちろんある。


 私はそのことに、今さら気づいた。


 大きいか小さいかばかり気にしていたけれど、そのあいだもある。

 当たり前なのに、ちゃんと考えていなかった。


「どうしたの」

「……別に」

「今、何か気づいた顔した」

「顔で分かるの」

「なんとなく」

「便利だね」

「でしょ」


 少しだけ悔しい。


 私はまた砂場のほうを見る。

 母親はしゃがんで、女の子と一緒に崩れた山を作り直していた。

 女の子はすぐに機嫌を直して笑っている。


 その様子を見ていると、胸の奥のざわつきはあまりなかった。

 小さい星じゃないからかもしれない。

 あるいは、ただ穏やかな光景だからかもしれない。


「相沢さん」

「なに」

「最近、前よりやわらかい」

「……何が」

「雰囲気」

「そんなことない」

「あるよ」

「気のせい」

「またそれ」


 星野くんは炭酸の缶を軽く振りながら、少しだけ空を見上げた。


「最初のころ、もっと話しかけにくかった」

「そう」

「うん。今も静かだけど」

「褒めてないよね」

「褒めてるよ。今のほうがいい」

「勝手」

「勝手です」


 そう言い切られて、私は返す言葉をなくした。


 前よりやわらかい。

 そんなふうに見えているんだろうか。


 自分ではよく分からない。

 でも、もしそうなら、それはたぶん星野くんのせいだ。


 話しかけてくるから。

 隣にいるから。

 黙っていても、変に気まずくならないから。


 そういうことの積み重ねで、少しずつ変わってしまったのかもしれない。


「ねえ」

 と星野くんが言う。

「今度さ」

「なに」

「映画じゃなくて、普通にどっか行かない」

「普通に、って」

「散歩でも、ごはんでも」

「……急だね」

「急かな」

「急」

「じゃあ、今考えといて」

「今?」

「返事は今じゃなくていいから」


 私は缶を持ったまま黙る。


 断りたいわけじゃない。

 でも、すぐにうなずくのも違う気がした。


「考える」

「うん」

「ほんとに考えるだけかも」

「それでもいい」

「……そう」


 星野くんは、そこで無理に押してこなかった。

 そのことに、少しだけほっとする。


 公園を出て駅まで歩く途中、商店街の前で高校生くらいの男の子たちが笑いながら話していた。

 一人には何もなく、一人には小さな星があり、もう一人には中くらいの星がある。


 私はまた、つい見てしまう。


 並んで笑っていても、見えるものは違う。


 その違いが何なのか、まだ分からない。

 でも、きっと人とのあいだにある何かだ。

 そう思う気持ちは、前より少し強くなっていた。


「相沢さん」

「なに」

「今日、何回見たと思う?」

「何を」

「人」

「数えてたの」

「なんとなく」

「気持ち悪い」

「ひどいなあ」

「……ごめん」

「いや、そこまで本気で言ってないでしょ」

「少しは」

「あるんだ」


 星野くんは笑う。

 私も少しだけ笑ってしまう。


 こういう時間が、前より自然になっている。

 それがいいことなのかどうか、まだ分からない。

 でも、嫌ではなかった。


 駅で別れる前、星野くんが言った。


「さっきの、ほんとに返事急がなくていいから」

「……うん」

「でも忘れないで」

「忘れない」

「よかった」


 それだけ言って、手を軽く上げて改札のほうへ行く。

 私はその背中を見送りながら、少しだけ息をついた。


 家に帰ってから、私はノートを開いた。


 今日見たことを、順番に書いていく。


 公園の親子

 子どもには星なし

 母親には中くらいの星


 少し考えてから、次の行に書き足す。


 大きい星と小さい星だけじゃない

 中くらいの星もある


 さらに、その下に。


 年齢や立場で決まるわけではなさそう


 書いてから、私はペンを止めた。


 少しずつ分かることは増えている。

 でも、答えにはまだ遠い。


 それでも前より、見えたものをそのまま怖がるだけではなくなってきた気がする。

 気になる。

 確かめたい。

 整理したい。


 そう思えるようになったのは、たぶん大きい。


 ページを閉じる前に、私は少し迷った。

 それから、端のほうに小さく書く。


 星野くんに、今度どこか行かないかと言われた

 まだ返事はしていない


 その文字を見て、少しだけ頬が熱くなる。


 こんなことまで書く必要はない気もする。

 でも、書いておきたかった。


 星のノートなのに、最近は星野くんのことが増えている。

 それが変だと思いながら、もう消そうとは思わなかった。


 夜、ベッドに入ってからも、私は公園の親子と、駅前の高校生たちのことを思い出していた。


 同じ親子でも違う。

 同じくらいの年齢でも違う。

 星の有無も、大きさも、ばらばらだ。


 見た目では決まらない。

 関係の名前でも決まらない。

 もっと別の何かがある。


 でも、その何かはまだ見えない。


 見えないもののことを、私はずっと考えている。

 頭の上に見える星よりも、本当はその奥にあるもののほうが、ずっと分からない。


 スマホを手に取って、少しだけ迷う。

 それから私は、短くメッセージを打った。


 『今日の話、考える』


 送ってから、少しだけ心臓が速くなる。


 すぐに返事が来た。


 『えらい』

 『でも返事は急がなくていいよ』


 私はその文を見て、小さく息をつく。


 やっぱり、ずるいと思う。

 待つと言いながら、ちゃんと気にさせる。


 私は少し迷ってから、もう一通だけ送った。


 『忘れてないだけ』


 返事はすぐだった。


 『それがうれしい』


 私は画面を伏せて、枕に顔を埋めた。


 頬が少し熱い。


 見えないもののほうが気になる。

 そう思ったばかりなのに、

 今いちばん気になっているのは、

 たぶん星なんかじゃなかった。


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