第8話 もう一度見る
本屋にいたあの親子のことが、数日たっても頭から離れなかった。
あの子の頭の上にあった小さな星。
隣にいた母親の大きな星。
見間違いだったのかもしれない。
たまたまそう見えただけかもしれない。
でも、もしもう一度会えたら確かめたいと思ってしまう。
ノートの端に書いた一文を、私は何度も見返していた。
本屋の親子
もう一度見たら同じか確かめたい
そんなことを考えている自分が、少しおかしいとも思う。
でも、気になるものは仕方がなかった。
講義のあと、私は一人で駅前の本屋に向かった。
何か買いたい本があったわけじゃない。
ただ、あの場所に行けば、もしかしたらまた会えるかもしれないと思っただけだ。
自動ドアをくぐると、紙とインクの混ざった静かな匂いがした。
平日の夕方で、店内はこの前より少し空いている。
私は文庫本の棚のあたりをゆっくり歩きながら、さりげなく周囲を見た。
いない。
児童書のコーナーも、雑誌売り場の近くも、それらしい親子はいなかった。
やっぱり、そう簡単には会えないか。
少しだけ肩の力が抜ける。
自分でも何を期待していたのか分からない。
会えたところで、何かが分かるとも限らないのに。
「相沢さん」
不意に名前を呼ばれて、私はびくっとした。
振り向くと、星野くんが立っていた。
「……なんでいるの」
「それ、こっちの台詞」
「私は、たまたま」
「へえ」
「何」
「いや、また本屋なんだなって」
少し笑いながら言う。
私は返事に困って、手近な棚に目をやった。
「星野くんは?」
「参考書見に来た」
「ほんとに?」
「半分ほんと」
「半分は」
「来たら相沢さんいるかなって思った」
「……何それ」
「勘」
そんな勘、あるんだろうかと思う。
でも、星野くんなら言いそうでもあった。
「で、今日は何探してるの」
「別に」
「またそれ」
「本当に、特に何も」
「じゃあ、なんとなく来た?」
「……そう」
「そっか」
それ以上は聞かれなかった。
助かったような、少しだけ物足りないような気もする。
「せっかくだし、少し見る?」
と星野くんが言う。
「何を」
「本。ここ本屋だし」
「知ってる」
「じゃあ案内して」
「私が?」
「相沢さんのおすすめ棚とかありそう」
「ない」
「ありそうだけどなあ」
結局、また並んで店内を歩くことになった。
文庫本の棚を見て、雑誌コーナーを通って、新刊台の前で少し立ち止まる。
星野くんは本当に参考書も見ていたけれど、半分は私に付き合っているだけなのが分かった。
そのことが、少しだけくすぐったい。
「相沢さんって、読むの早い?」
「普通」
「本屋だとちょっと歩くの遅いよね」
「見てるから」
「うん。なんか、一冊ずつちゃんと見てそう」
「……そうかも」
「そういうとこ、ぽい」
ぽい、が何なのか分からない。
でも、なんとなく否定しづらかった。
児童書コーナーの近くまで来たとき、私は思わず足を止めた。
いた。
この前、本屋で見た親子だった。
男の子が床に近い棚の前でしゃがみこんで絵本を見ている。
少し離れたところで、母親がその様子を見守っていた。
私は息を止める。
男の子の頭の上には、やっぱり小さな星があった。
母親の頭の上には、大きな星がある。
同じだった。
胸の奥が、ひやりとする。
でも同時に、妙に静かな気持ちにもなった。
見間違いじゃなかった。
「相沢さん?」
隣で星野くんが小さく呼ぶ。
私ははっとして、視線を戻した。
「……ごめん」
「知ってる人?」
「違う」
「じゃあ、どうしたの」
「なんでもない」
なんでもないわけがない。
でも、なんでもないとしか言えなかった。
もう一度、そっと親子のほうを見る。
男の子は楽しそうに絵本を抱えて、母親に何か話している。
母親は笑ってうなずいている。
どこから見ても、ただの親子だった。
それなのに、頭の上の星だけが、その光景から少し浮いて見える。
小さい星は、やっぱり落ち着かない。
大きい星は、見ていると少し安心する。
でも、その差が何なのかはまだ分からない。
ただ、同じ人には同じ星が見えるらしい。
少なくとも、すぐに変わるものではないのかもしれない。
そのことを、私は頭の中で静かに繰り返した。
「相沢さん、顔こわい」
「え」
「なんか難しいこと考えてる顔」
「してない」
「してるって」
星野くんは少しだけ身をかがめて、私の顔をのぞきこんだ。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
「ならいいけど」
そう言いながらも、少し心配そうだった。
私は親子から目を離して、近くの棚に並ぶ絵本の背表紙を見るふりをした。
でも意識はずっとそっちに引っぱられている。
「これ、相沢さん好きそう」
と星野くんが一冊の絵本を手に取る。
「なんで」
「静かだから」
「絵本に対する感想?」
「あと、ちょっとさみしそう」
「ひどい」
「違う違う。悪い意味じゃなくて」
私は思わず小さく笑ってしまった。
その隙に、少しだけ呼吸が楽になる。
「星野くんって、適当そうで変なとこ見てるよね」
「褒めてる?」
「半分」
「じゃあ半分は受け取っとく」
そんなやりとりをしているあいだに、親子はレジのほうへ歩いていった。
私は反射的にその背中を目で追う。
男の子の小さな星。
母親の大きな星。
やっぱり同じだ。
見えなくなるまで見送ってから、私はようやく息をついた。
「やっぱり気になる人だった?」
と星野くんが聞く。
「……少し」
「ふうん」
「でも、知らない人」
「そっか」
星野くんはそれ以上追及しなかった。
そのことに、少しだけ救われる。
聞かれたら困る。
でも、完全に放っておかれるのも少し違う。
星野くんの距離感は、いつもそのぎりぎりのところにある。
「帰る?」
「……うん」
「じゃあ駅まで」
本屋を出ると、外はもう薄暗くなっていた。
夕方の風が少し冷たい。
駅までの道を並んで歩きながら、私はさっき見た親子のことを考えていた。
同じ人には、同じ星が見える。
少なくとも今日のところは、そう考えてよさそうだった。
星はその場の気分で変わるものじゃない。
もっと別の、簡単には動かない何かに結びついているのかもしれない。
「今日、ほんとに何しに来たの」
と星野くんが言う。
「本屋」
「それは見れば分かる」
「じゃあ、それ」
「雑」
「星野くんこそ」
「俺は参考書」
「半分」
「覚えてるんだ」
「言ったから」
「うれしい」
そう言って笑う。
私は少しだけ視線をそらした。
「相沢さんってさ」
「なに」
「前より、ちょっとだけ話してくれるようになったよね」
「……そう?」
「うん」
「気のせいじゃない」
「それ、俺の台詞取った」
「便利だから」
「ひどいなあ」
でも、少しうれしそうだった。
駅前の信号で止まる。
赤信号の向こうに、制服姿の高校生たちが何人か立っていた。
一人には大きな星があって、一人には小さな星があって、何もない人もいる。
私はそれを見て、また少しだけ考える。
違う。
でも、何が違うのかは分からない。
「また遠く行ってる」
「……少しだけ」
「今日は素直」
「疲れたから」
「それなら仕方ないか」
信号が青に変わる。
人の流れに合わせて歩き出す。
「相沢さん」
「なに」
「もし、なんか困ってるなら言って」
「困ってない」
「じゃあ、困ったら」
「……そのときは」
「うん」
「少し考える」
「即答じゃないんだ」
「簡単には頼らないから」
「知ってる」
星野くんはそう言って、少しだけ笑った。
「でも、待つのは得意だから」
「……前も言ってた」
「言ったっけ」
「言った」
「じゃあ本当だ」
その言い方が少しおかしくて、私はまた小さく笑った。
駅で別れて、一人で電車に乗る。
窓に映る自分の顔は、思ったより疲れていた。
家に帰ると、私は鞄も下ろしきらないうちにノートを開いた。
前に書いたページの下に、今日のことを書き足す。
本屋の親子
もう一度見ても同じ星だった
少し迷ってから、さらに書く。
同じ人には同じ星が見える?
少なくともすぐには変わらない
ペン先を止めて、その文字を見る。
まだ断定はできない。
たまたまかもしれない。
でも、前よりひとつだけ確かなことが増えた気がした。
私はページをめくって、これまでの記録を見返す。
見えた星。
見えなかった星。
大きさの違い。
自分の感じ方。
全部ばらばらなのに、少しずつ何かにつながっている気がする。
でも、その形はまだ見えない。
ノートを閉じようとして、私はふと手を止めた。
ページの端に、今日のことをもうひとつだけ書き足す。
星野くんは今日も星がなかった
それを見て安心した
書いたあとで、少しだけ恥ずかしくなる。
やっぱり最近、このノートはおかしい。
星のことを調べているはずなのに、気づくと星野くんのことまで記録している。
でも、消す気にはなれなかった。
夜、ベッドに入ってからも、私は本屋の親子を思い出していた。
同じ星だった。
それは、少し怖くて、少し安心する事実だった。
見間違いではないと分かったから。
でも、見えているものが本当にそこにあるのだとしたら、やっぱり簡単には考えられないから。
そのあとで、星野くんのことも思い出す。
隣にいてくれたこと。
聞きすぎないでいてくれたこと。
でも、ちゃんと気にしてくれていたこと。
ああいう距離の取り方は、ずるいと思う。
やさしいのに、踏み込みすぎない。
放っておかないのに、無理に聞かない。
そういうところに、少しずつ慣れてしまっている自分がいる。
スマホを見ると、メッセージは来ていなかった。
なのに、少しだけ画面を開いてしまう。
何を期待しているんだろうと思って、私は小さく息をついた。
星の意味はまだ分からない。
でも、分からないままでも、確かめたいことは増えていく。
本屋の親子のことも。
星のことも。
そしてたぶん、星野くんのことも。
目を閉じる直前、私はぼんやりと思った。
見えないものより、
見えてしまったもののほうが、
ずっと気になるのかもしれない。




