表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/40

第10話 返事の前

 『それがうれしい』


 昨夜届いたその一文が、次の日になっても頭のどこかに残っていた。


 たったそれだけの言葉なのに、妙にやさしくて、少し困る。

 重くはない。

 でも軽すぎもしない。

 星野くんの言葉は、いつもその中間にある。


 講義中、ノートを開いても、文字が少しだけ頭に入りにくかった。

 黒板の内容を書き写しながら、私は何度も昨夜のやりとりを思い出してしまう。


 返事は急がなくていい。

 でも忘れないで。

 それがうれしい。


 思い返すたびに、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。


 昼休み、学食の隅の席で一人でおにぎりを食べていると、向かいにトレーが置かれた。


「いた」

「……いたけど」

「探した」

「言い方」

「正直だから」

「またそれ」


 星野くんは当然みたいな顔で座る。

 私は少しだけ視線をそらしながら、お茶を飲んだ。


「今日、静かだね」

「いつも」

「いつもより」

「そう?」

「うん。考えてる顔」

「……そうかも」

「俺のこと?」

「違う」

「即答」

「そこは即答する」


 星野くんは笑って、箸を割った。


「じゃあ何考えてるの」

「いろいろ」

「便利だなあ」

「そっちに言われたくない」

「たしかに」


 そのまま少しだけ沈黙が落ちる。

 でも気まずくはなかった。

 星野くんは普通にごはんを食べて、私はおにぎりの包みをたたむ。


 向こうの席では、四人組の学生がにぎやかに話していた。

 そのうちの一人の頭上に、小さな星が見える。

 隣の二人には何もなく、向かいの一人には中くらいの星があった。


 私はつい、そちらを見てしまう。


 笑っている。

 楽しそうだ。

 でも、見えるものは同じじゃない。


 小さい星を見ると、やっぱり少しだけ胸がざわつく。

 中くらいの星は、まだ判断がつかない。

 大きい星ほど安心しないけれど、小さい星ほど落ち着かなくもない。


「また見てる」

 と星野くんが言った。


「……見てない」

「最近その精度落ちてるよ」

「うるさい」

「何見てたの」

「人」

「知ってる」

「じゃあ聞かないで」

「会話したいから」


 そう言われて、私は少しだけ黙る。


 会話したいから。

 そんな理由で、こんなに自然に話しかけられるのはずるいと思う。


「昨日のこと」

 と星野くんが言った。

「返事、急がなくていいって言ったけど」

「……うん」

「ほんとに急がなくていいからね」

「二回言うんだ」

「気にしてそうだったから」

「してない」

「してる顔」

「顔で決めないで」

「でも分かるよ」


 分かるよ、と言われると少し困る。

 本当に分かっているのかもしれないと思ってしまうから。


「相沢さんって、考え始めるとちゃんと考えるでしょ」

「悪い?」

「全然。むしろえらい」

「子ども扱い」

「してないよ」

「してる」

「じゃあ少しだけ」


 私は思わず小さく笑ってしまった。

 その瞬間、星野くんも少しだけ安心したように笑う。


 その顔を見て、私はまた少しだけ落ち着かなくなる。


 午後の講義が終わったあと、私は図書館に寄った。

 返事を考えたいわけじゃない。

 でも、少し一人になりたかった。


 窓際の席に座って本を開く。

 周囲には静かな空気が流れていて、ページをめくる音だけが小さく響く。


 向かいの席には、参考書を広げた男子学生がいた。

 頭上には何もない。

 少し離れた席で友達同士らしい二人が並んで座っていて、そのうちの一人には大きな星があった。


 私は視線を落とす。


 最近、星を見るたびに考えることが増えた。

 前はただ怖かった。

 今は、怖さより先に意味を探してしまう。


 何もない人。

 小さい星の人。

 中くらいの星の人。

 大きい星の人。


 違いはある。

 でも、まだ名前がつけられない。


 私はノートを取り出して、講義ノートの隅に小さく書いた。


 中くらいの星はまだよく分からない

 小さい星ほどざわつかない

 大きい星ほど安心しない


 書いてから、少しだけ息をつく。


 こうして言葉にすると、少しだけ整理される。

 でも、整理されたからといって答えに近づくわけではない。


「いた」


 またその声がして、私は顔を上げた。


「……なんでいるの」

「それ、今日二回目」

「図書館まで来ると思わない」

「レポートやるつもりで来た」

「ほんとに?」

「七割ほんと」

「残り三割は」

「相沢さんいるかなって」


 私は思わず目を細める。


「勘よすぎない」

「今日はなんとなく」

「便利だね、その言葉」

「でしょ」


 星野くんは私の向かいではなく、ひとつ空けた隣の席に座った。

 その距離が、少しだけありがたかった。


「邪魔?」

「……別に」

「よかった」


 それからしばらく、ほんとうに静かだった。

 星野くんはノートパソコンを開いて何か打ち込み、私は本を読むふりをしながら、あまり内容が頭に入ってこないまま時間だけが過ぎていく。


 隣に人がいるのに、落ち着く。

 それが不思議だった。


 しばらくして、星野くんが小さな声で言った。


「相沢さん」

「なに」

「今、返事いらないから聞いて」

「……うん」

「この前の、別に重く考えなくていいよ」

「……」

「ほんとに散歩でもごはんでも、そういう感じだから」

「分かってる」

「ならいいけど」

「でも」

「うん」

「そういうの、慣れてない」

「知ってる」

「知ってるんだ」

「なんとなく」


 私は少しだけ本を閉じた。


「だから、考える」

「うん」

「ちゃんと」

「うん」

「……その、適当に返事したくないから」

「それ、うれしい」


 また同じことを言う。

 でも今度は、昨日より少しだけまっすぐに聞こえた。


 私はそれ以上何も言えなくなって、視線を机に落とした。


 図書館を出るころには、外はもう夕方だった。

 駅までの道を並んで歩く。

 風が少し涼しい。


「今日、帰ったら何するの」

 と星野くんが聞く。

「たぶんノート書く」

「星の?」

「……なんで知ってるの」

「あるんだ」

「今のは誘導」

「引っかかったね」

「最悪」


 星野くんは声を殺して笑った。


「何書いてるの」

「言わない」

「一行だけ」

「やだ」

「けち」

「そっちがしつこい」

「でも、なんか書いてそうだなとは思ってた」

「なんで」

「相沢さん、頭の中だけで終わらせない感じする」

「……そうかも」

「でしょ」


 私は少しだけ黙る。


 頭の中だけで終わらせない。

 たしかにそうかもしれない。

 書かないと落ち着かない。

 見えたものも、感じたことも、そのままにしておくと散らかるから。


「じゃあさ」

 と星野くんが言う。

「俺のことも書いてる?」

「……」

「その間は書いてるやつ」

「書いてない」

「今のは怪しい」

「怪しくない」

「ほんとに?」

「ほんとに」


 嘘だった。

 でも、言えるわけがない。


 駅前の横断歩道で止まる。

 向こう側には、買い物帰りらしい夫婦と、小さな女の子がいた。

 夫婦のうち、母親には大きな星があり、父親には何もない。

 女の子には小さな星があった。


 私はその組み合わせを見て、少しだけ息を止める。


 また違う。


 親子だから同じでもない。

 家族だから似るわけでもない。

 やっぱり、関係の種類だけでは説明できない。


「相沢さん」

「なに」

「今日ほんとにいっぱい考えてるね」

「……うん」

「珍しく認めた」

「疲れたから」

「それ昨日も聞いた」

「じゃあ今日もそう」

「そっか」


 信号が青に変わる。

 歩き出しながら、私はふと思った。


 返事を考えているのと、星のことを考えているのは、たぶん少し似ている。

 どっちも、まだ名前がつかない。

 でも、確かにそこにある。


 駅で別れる前、星野くんが言った。


「返事、今じゃなくていいけど」

「うん」

「今週中くらいにもらえたらうれしい」

「……急がなくていいって言ったのに」

「急がなくていいけど、うれしいなっていう希望」

「ずるい」

「知ってる」


 そう言って笑う。

 私はため息をつきながらも、少しだけ笑ってしまった。


 家に帰ると、私はすぐにノートを開いた。


 今日のページの上に、まず星のことを書く。


 学食の四人組

 小さい星 一人

 中くらいの星 一人

 星なし 二人


 図書館

 大きい星 一人

 星なし 一人


 駅前の家族

 母 大きい星

 父 星なし

 子ども 小さい星


 その下に、少し考えてから書き足す。


 家族でも同じとは限らない

 中くらいの星はまだ判断できない

 星の有無や大きさは、立場や年齢だけでは決まらない


 ペンを止めて、私はその文字を見つめた。


 少しずつ分かることは増えている。

 でも、分からないことのほうがまだ多い。


 それから、ページの端に小さく書く。


 星野くんに、今週中に返事がほしいと言われた


 その一文だけで、少しだけ胸が落ち着かなくなる。


 私はしばらく迷ってから、さらに書き足した。


 断りたいわけではない

 でも、簡単にうなずくのも違う気がする


 書いたあとで、私はペンを置いた。


 たぶん私は、返事そのものより、

 返事をしたあとに何かが少し変わるかもしれないことを気にしている。


 今のままが心地いいから。

 今の距離が、まだ壊れてほしくないから。


 でも、それはたぶん、

 どうでもいい相手には考えないことだった。


 夜、ベッドに入ってからも、私はノートに書いたその一文を思い返していた。


 断りたいわけではない。


 それはもう、かなり答えに近い気がした。

 でも、近いからこそ、まだ口にしたくなかった。


 スマホを開いて、星野くんとのトーク画面を見る。

 何も送られてきていない。

 それなのに、少しだけ安心する。

 今はまだ、考える時間が残っているから。


 目を閉じながら、私はぼんやりと思った。


 見えないものに名前をつけるのは、

 見えているものの意味を考えるより、

 ずっと難しいのかもしれない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ