第11話 分からないまま
今週中に返事がほしい。
そう言われたまま、私はまだ何も返せていなかった。
断りたいわけではない。
でも、うなずいてしまったら何かが少し変わる気がして、言葉が喉の奥で止まる。
講義中も、帰り道も、家にいても、考えているのはそのことばかりだった。
星のことを考えているのか、星野くんのことを考えているのか、自分でもよく分からない。
金曜日の夕方、私はバイト先の喫茶店にいた。
平日のこの時間は、いつも少しだけ中途半端に混む。
授業帰りの学生と、仕事終わりにはまだ早い会社員と、買い物ついでの人たちが、同じ時間に流れ込んでくるからだ。
「相沢さん、窓側お願い」
「はい」
返事をして、水の入ったグラスを三つトレーに乗せる。
窓際の四人席には、家族連れが座っていた。
父親と、母親と、小学生くらいの男の子。
どこから見ても、ふつうの家族だった。
父親は仕事帰りらしく、ネクタイを少しゆるめている。
母親は買い物袋を足元に置いて、男の子にメニューを見せていた。
男の子は楽しそうにデザートの写真を指さしている。
「お水お持ちしました」
「あ、ありがとうございます」
父親が顔を上げる。
その頭の上に、小さな星があった。
今まで見た中でも、かなり小さいほうだった。
白い光が、かすかにそこにある。
見落としてしまいそうなくらい、頼りない。
私は一瞬だけ目を止めて、それからすぐに視線を外した。
母親の頭の上には、中くらいの星がある。
男の子には何もない。
その組み合わせが、なぜか少しだけ引っかかった。
「ご注文お決まりになりましたら、お呼びください」
そう言ってテーブルを離れる。
レジに戻って、次の客を案内して、厨房に伝票を通す。
忙しい時間帯は、余計なことを考えなくて済むから好きだった。
それでも、視界の端にあの家族が入るたび、なんとなく気になった。
父親は何度か男の子に話しかけていた。
でも、男の子はすぐに母親のほうを見る。
父親の言葉を無視しているわけじゃない。
ちゃんと返事もしている。
ただ、ほんの少しだけ間がずれる。
その感じに、私は前のことを思い出した。
六番テーブル。
受け取られなかった小さな包み。
泣き出した女の子。
迎えに来た母親。
あのときも、小さい星は父親の頭の上にあった。
「相沢さん、ちょっと裏お願い」
「はい」
呼ばれて、私はバックヤードに入る。
洗ったグラスを拭いていると、厨房の奥の小さなテレビからニュースの音が流れてきた。
『本日午後、○○県△△市の交差点で乗用車とトラックが衝突し――』
誰かが「え、この近く?」と声を上げる。
『この事故にあった会社員の小松忠之さん42才が搬送先の病院で死亡が確認されました』
私は思わず顔を上げた。
ちょうどそのとき、画面に男性の写真が映った。
一瞬だった。
でも、見覚えがあると思った。
六番テーブル。
小さな包み。
泣いていた女の子。
ドアの前で、ほんの一瞬だけ立ち止まった背中。
あの父親に、似ていた。
心臓が、ひとつ大きく鳴る。
同じ人かどうかは分からない。
名前は聞き取れなかった。
画面はすぐに切り替わって、事故現場の映像に戻る。
似ていただけかもしれない。
私の思い込みかもしれない。
でも、胸の奥がひやりと冷えていく。
「相沢さん?」
「……あ、はい」
「大丈夫? 顔色悪いよ」
「すみません。ちょっと、ぼーっとしてました」
そう答えながらも、頭の中ではさっきの一瞬が何度も繰り返されていた。
あの人だったんだろうか。
六番テーブルの父親。
小さい星のあった人。
もしそうだったら。
そこまで考えて、私はそれ以上先を考えるのをやめた。
ホールに戻ってからも、うまく頭が働かなかった。
注文を間違えるほどではない。
でも、何度も同じことを考えてしまう。
今日の窓際の父親は、ただきっかけだった。
小さい星を見た瞬間に思い出したのは、
今日の家族よりも、前に見たあの父親のほうだった。
受け取られなかった包み。
泣いていた女の子。
少し遅れて入ってきた母親。
そして、父親の頭の上にあった、頼りないくらい小さな星。
閉店まであと一時間というころ、窓際の家族は席を立った。
会計は父親が済ませた。
「ごちそうさまでした」
と母親が言う。
男の子も小さく頭を下げる。
父親は財布をしまいながら、少しだけ疲れた顔で会釈した。
その頭の上の小さな星が、最後まで消えずに残っていた。
家族が店を出たあとも、私はしばらく窓の外を見ていた。
三人の背中はすぐに人混みにまぎれて見えなくなる。
でも、私の頭に残っていたのは、別の背中だった。
ドアの前で、ほんの一瞬だけ立ち止まって、
それからひとりで店を出ていった、六番テーブルの父親。
閉店後、制服のままロッカーの前に立っても、まだ気持ちは落ち着かなかった。
同じ人だったのか。
ただ似ていただけなのか。
分からない。
それでも、あの小さい星と事故のニュースが、
私の中ではもう切り離せなくなっていた。
帰り道、駅までの夜道を歩きながら、私は何度もあの父親のことを思い出していた。
女の子に差し出した小さな包み。
受け取られなかった手。
疲れたような、諦めたような笑み。
あの人のことを、私はほとんど何も知らない。
名前も、事情も、そのあとどうなったのかも。
知っているのは、あの日あの店にいたことと、
頭の上に小さい星があったことだけだ。
それなのに、妙にはっきり覚えている。
電車に揺られながら、私は窓に映る自分の顔を見る。
少し青ざめて見えた。
家に帰ると、鞄も下ろしきらないうちにノートを開いた。
今日の日付を書いて、その下にゆっくり文字を並べる。
喫茶店の家族三人
父 小さい星
母 中くらいの星
子ども 星なし
少し間を空けて、さらに書く。
前に店で見た父親のことを思い出した
あの人にも小さい星があった
今日、事故のニュースを見た
亡くなった四十代の男性が
あの父親に似ていた気がする
同じ人かは分からない
ペン先が止まる。
そのまま、しばらく動けなかった。
でも、書かないままではいられない。
私はもう一行だけ、慎重に書き足した。
小さい星は、命に関わるものかもしれない
書いた瞬間、胸の奥が強くざわついた。
かもしれない。
そう書いたのに、もう半分くらい信じてしまっている自分がいた。
違うかもしれない。
ただ似ていただけかもしれない。
偶然かもしれない。
でも、そう思おうとするほど、あの小さな光が頭から離れなかった。
私はノートを閉じて、ベッドに座り込む。
部屋は静かで、冷蔵庫の音だけが小さく響いていた。
もし小さい星が、本当にそういうものなら。
今まで見てきた小さい星の人たちにも、
これから何かが起こるんだろうか。
あの本屋の男の子は。
学食で見た学生は。
駅前ですれ違った人たちは。
そして、もし。
そこまで考えて、私は息を止めた。
もし、いつか星野くんの頭の上に、
あの小さい星が見えてしまったら。
その想像だけで、指先が冷たくなる。
今は何もない。
それが安心だった。
でも、何もないことが、この先もずっと続くとは限らないのかもしれない。
そう思った瞬間、スマホが震えた。
心臓が跳ねる。
画面を見ると、星野くんからだった。
『おつかれ』
『返事のこと、急かしたみたいになってたらごめん』
私はその文を見つめたまま、すぐには返せなかった。
やさしい、と思う。
でも今は、そのやさしさにさえ少しだけ怖くなる。
返事をしたら、近くなる。
近くなったら、もっといろんなものが見えてしまうかもしれない。
私はしばらく迷ってから、短く打った。
『大丈夫』
『少し考えてるだけ』
送ると、すぐに既読がつく。
『うん』
『相沢さん、ちゃんと考える人だもんね』
その言葉が、今夜は少しだけ苦しかった。
ちゃんと考えている。
だからこそ、怖い。
もし見えているものに本当に意味があるなら、
知らないままではいられない。
でも、知ってしまったら、前みたいには戻れない気がした。
私はスマホを伏せて、目を閉じる。
小さい星。
頼りないくらい小さな光。
消えそうなのに、いちばん強く心に残る光。
あれが何なのか、まだ分からない。
でも今夜の私は、
分からないままではいられなくなっていた。




