第12話 散歩なら
次の講義が始まる前、私はスマホの画面を何度も見ていた。
返事をしなければと思いながら、短い文ほど難しい。
断るわけじゃない。
でも、うなずくこともまだできない。
しばらく迷ってから、私はようやく打ち込んだ。
『散歩なら』
送ったあとで、これでは返事になっていない気もした。
でも、それ以上の言葉は出てこなかった。
少しして、星野くんから返事が来る。
『ありがとう』
それだけだった。
私はその文字を見つめたまま、しばらく動けなかった。
責めるでもなく、確かめるでもなく、喜びすぎるでもない。
その静かさに、少しだけ救われる。
土曜日の午後、駅前で待ち合わせた。
夏の終わりに近い日差しはまだ明るいのに、風だけが少しやわらかくなっていた。
改札の近くには人が多くて、待っているあいだも何人もの頭の上に星が見えた。
大きい星。
中くらいの星。
何もない人。
見慣れているはずなのに、最近は小さい星を探してしまう。
「相沢さん」
名前を呼ばれて顔を上げる。
星野くんが、少し息を切らして立っていた。
「ごめん、待った?」
「ううん。今来たところ」
「よかった」
それだけのやり取りなのに、少しだけ緊張する。
前にも何度か話しているのに、今日はそれとは違った。
散歩。
ただ歩くだけ。
それだけなのに、前より少しだけ意味がある気がする。
「どっち行く?」
「任せる」
「じゃあ、川のほう」
駅前のにぎやかな通りを抜けて、私たちは並んで歩き出した。
恋人らしいことは何もない。
手をつなぐわけでもないし、肩が触れるほど近くもない。
でも、離れすぎてもいない。
その半端な距離が、今の私たちにはちょうどよかった。
「バイト、大変だった?」
「昨日はちょっと忙しかった」
「金曜だもんね」
「うん。平日の夕方って、変に混むから」
「分かる。俺のバイト先もそんな感じ」
そんなふうに、途切れたり続いたりしながら会話をする。
特別な話は何もしていないのに、不思議と気まずくはなかった。
川沿いの道に出ると、人通りが少し落ち着いた。
犬を散歩させている人。
ベンチに座って話している高校生。
ジョギングをしている男の人。
私は何気なく前を見て、それからすぐに視線を止めた。
向こうから歩いてくる男の人の頭の上に、
小さな光が見えた。
胸の奥が、ひやりとする。
今まで見た中でも、かなり小さい。
見落としてしまいそうなくらい、頼りない光。
足が少しだけ止まりそうになる。
「相沢さん?」
呼ばれて、私ははっとした。
「……あ、ごめん」
「どうした?」
「なんでもない」
そう答えて、また歩き出す。
でも、一度見てしまったものは簡単には消えなかった。
あの人にも、小さい星。
昨日のニュースが頭をよぎる。
六番テーブルの父親らしき人の写真。
この近くで起きた事故。
四十代の男性。
違う、と思おうとする。
ただの偶然かもしれない。
小さい星の人なんて、今までだっていた。
それでも、胸のざわつきは消えなかった。
「ほんとに大丈夫?」
「うん」
「無理してない?」
「してないよ」
言いながら、自分でも少しだけ嘘っぽいと思った。
星野くんはそれ以上聞かなかった。
そのことにほっとして、同時に少しだけ申し訳なくなる。
しばらく歩くと、川沿いに小さな公園が見えた。
ブランコとベンチがあるだけの、静かな場所だった。
「ちょっと座る?」
「うん」
ベンチに並んで座る。
少し離れているのに、立っているときより近く感じた。
風が吹いて、木の葉が小さく揺れる。
遠くで子どもの声がした。
「……返事、変だったよね」
気づくと、私はそう言っていた。
「散歩なら、ってやつ?」
「うん」
「変っていうか、相沢さんっぽいなって思った」
「なにそれ」
「ちゃんと考えてくれてる感じする」
あの夜にも似たことを言われた気がして、私は少しだけ黙る。
ちゃんと考えている。
だから、進めない。
「ごめん」
「なんで謝るの」
「待たせてるから」
「待つのは別にいいよ」
星野くんはそう言って、川のほうを見た。
その横顔は穏やかで、無理に明るくしている感じもなかった。
「俺、急がせたいわけじゃないし」
「……うん」
「ただ、相沢さんともっと話したいだけ」
その言葉に、胸の奥が少しだけやわらかくなる。
うれしい、と思う。
ちゃんとうれしい。
それなのに、同じくらい怖い。
もっと話したい。
もっと近くなりたい。
そう思うほど、見たくないものまで見えてしまう気がする。
私は視線を落として、自分の手元を見る。
指先が少しだけこわばっていた。
「相沢さん?」
名前を呼ばれて顔を上げる。
星野くんの頭の上には、何もなかった。
それだけで、少しだけ息がしやすくなる。
でも、その安心は長く続かなかった。
公園の前の道を、自転車を押した女性が通る。
その頭の上に、小さな星が見えた。
私は反射的にそちらを見てしまう。
女性は買い物袋をかごに入れて、ゆっくり歩いている。
どこにでもいそうな、ふつうの人だった。
そのふつうの人の頭の上に、
消えそうなくらい小さな光がある。
胸の奥がまた冷える。
「……相沢さん?」
二度目に呼ばれて、私はようやく視線を戻した。
「ごめん」
「さっきから、なんか上の空」
「そう見える?」
「うん。少し」
困らせている。
そう思って、胸が痛くなる。
本当は、今日をちゃんと楽しい日にしたかった。
散歩なら、と自分で言ったくせに。
会いたかったのも本当なのに。
なのに私は、目の前の星野くんより、
通りすがりの誰かの頭の上ばかり気にしている。
「昨日、ちょっと嫌なニュース見て」
気づけば、そこまで口にしていた。
「ニュース?」
「うん。事故の」
「……そっか」
星野くんはそれ以上詳しく聞かなかった。
聞かないでいてくれることがありがたくて、少しだけ苦しい。
「それで、ちょっと引きずってるだけ」
「なら、今日はあんまり無理しないほうがよかった?」
「ううん」
私は首を振る。
「来てよかった」
それは本当だった。
星野くんは少しだけ笑う。
「ならよかった」
その笑い方を見て、私はまた思う。
うれしい。
でも、怖い。
この人といる時間が増えるほど、
私はきっと、もっといろんなことを気にしてしまう。
街を歩けば、誰かの星が見える。
電車に乗れば、また別の誰かの星が見える。
そのたびに、私は立ち止まってしまうかもしれない。
星が見えなければ、
私はもっと素直に笑えたんだろうか。
そんなことを考えてしまって、
私は自分で少し驚いた。
星が見えなければよかった、とは思わない。
でも、見えなければ、
もう少しだけ素直でいられたのかもしれないとは思った。
「そろそろ戻る?」
星野くんが言う。
空を見ると、日が少し傾いていた。
「うん」
ベンチを立って、また並んで歩き出す。
来たときより少しだけ沈黙が多い。
でも、それが嫌なわけではなかった。
駅に近づくにつれて、人通りが増える。
私はなるべく前だけを見るようにした。
誰かの頭の上を見ないように。
小さい星を探さないように。
それでも、視界の端に光が入る気がして落ち着かない。
「今日はありがとう」
改札の前で、星野くんが言った。
「こちらこそ」
「散歩、楽しかった」
「……うん」
本当に楽しかった。
それも嘘じゃない。
でも、楽しいだけでは終われなかった。
「また、こういうのでもいい?」
星野くんが少しだけ遠慮がちに聞く。
私はすぐには答えられなかった。
断りたいわけじゃない。
むしろ、また会いたいと思っている。
でも、また同じように、
歩きながら誰かの星を見てしまうかもしれない。
そのたびに、今日みたいにうまく笑えなくなるかもしれない。
少し迷ってから、私は小さくうなずいた。
「……散歩なら」
また同じ言葉だった。
星野くんは一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「うん。散歩なら」
その言い方がやさしくて、胸が少し痛くなる。
改札を抜けて、私はひとりでホームへ向かった。
電車を待ちながら、ガラスに映る自分の顔を見る。
少し疲れている。
でも、それだけじゃない。
私は今日、ちゃんと楽しかった。
ちゃんと会えてうれしかった。
それなのに、同じくらい不安だった。
近づきたいのに、近づくのが怖い。
その理由が星のせいだと認めてしまったら、
もう前みたいには戻れない気がした。
電車が来て、ドアが開く。
乗り込んで、つり革につかまる。
向かいに立った会社員の頭の上に、
中くらいの星が見えた。
私は目をそらす。
見えること自体が嫌なんじゃない。
ただ、意味を持ち始めてしまったのが怖かった。
家に帰るころには、空はすっかり暗くなっていた。
部屋に入って鞄を置く。
スマホを見ると、星野くんから短いメッセージが届いていた。
『今日はありがとう』
『無理させてたらごめん』
私はその文を見て、しばらく動けなかった。
やさしい。
だから余計に、ちゃんと向き合わなければいけない気がする。
でも、向き合うほど怖い。
私は少し迷ってから、返事を打つ。
『こちらこそありがとう』
『楽しかった』
送ってから、少しだけ間を空けて、もう一文だけ足した。
『でも、少しこわかった』
打ってから、しまったと思う。
これでは意味が分からない。
消そうか迷っているうちに、既読がついた。
しばらくして返ってきたのは、
『そっか』
『言ってくれてありがとう』
それだけだった。
私はスマホを握ったまま、ベッドに座る。
説明できない。
小さい星のことも、昨日のニュースのことも、
近づきたいのに素直になれない理由も。
何も言えていないのに、
少しだけ伝わってしまった気がした。
私は目を閉じる。
今日の散歩。
川沿いの風。
ベンチの距離。
星野くんの「ありがとう」。
その全部がやさしくて、
だからこそ、私は何度も立ち止まりそうになった。
進みたい。
でも、進むのが怖い。
その二つを同時に抱えたまま、
私はしばらく暗い部屋に座っていた。




