第13話 近づくほど
散歩のあとから、星野くんとのやり取りは少しだけ増えた。
増えたといっても、急に何かが変わったわけじゃない。
朝に「おはよう」と来る日があったり、
講義のあとに「今終わった?」と聞かれたり、
帰り道に短いやり取りが続いたりする、その程度だ。
それでも、前より近くなったのは確かだった。
私はそのことがうれしかった。
うれしいと思うたびに、少しだけ怖くもなった。
このままじゃだめだ、と思ったのは、月曜日の昼休みだった。
学食の窓際の席に座って、行き交う人をぼんやり眺めていたとき、
また無意識に、頭の上を見ている自分に気づいた。
星がある人。
ない人。
大きい星。
中くらいの星。
そして、ときどき小さい星。
見つけるたびに、胸の奥が冷える。
こんなふうに、誰かといても、何をしていても、
結局私は星のことばかり気にしてしまう。
それじゃだめだと思った。
せめて星野くんといるときくらい、
人の頭の上なんて見ないでいたい。
そう思った瞬間、それが思っていたよりずっと難しいことのように感じられた。
「相沢さん」
顔を上げると、星野くんが立っていた。
手にはカレーの乗ったトレーを持っている。
「ここ、いい?」
「うん」
向かいに座る。
私は小さく息を吸って、心の中で決めた。
今日は見ない。
星野くんといるあいだは、なるべく見ない。
「今日、混んでるね」
「うん。月曜だからかな」
「月曜ってなんかみんな元気ないのに、学食だけは混むよね」
「それは分かるかも」
笑いながら返して、私は意識して視線を上げないようにした。
周りを見れば、きっとまた頭の上を見てしまう。
だから、なるべく目の前だけを見る。
そうすると自然と、星野くんの顔を見る時間が長くなった。
「……どうしたの」
「え?」
「なんか今日、すごい見るね」
言われて、心臓が跳ねた。
「そう?」
「うん」
星野くんは少しだけ笑って、
「いや、別に嫌じゃないけど」と言った。
私は慌ててうどんに視線を落とす。
「ごめん」
「なんで謝るの」
「なんとなく」
「変なの」
変なのは自分でも分かっていた。
でも、見ないようにしようとすると、こうなるしかなかった。
人を見ないようにして、
星を見ないようにして、
その結果、目の前の人ばかり見てしまう。
そんな自分が少しおかしくて、少し恥ずかしかった。
「この前の散歩、ほんとに無理してなかった?」
星野くんがカレーをひと口食べてから言う。
「してないよ」
「ならいいけど」
「気にしすぎ」
「少しは気にするよ」
そう言って笑う。
その笑い方がやわらかくて、胸の奥が少しだけあたたかくなった。
ちゃんと、この人を見ていようと思う。
星じゃなくて。
まわりじゃなくて。
今、目の前にいる人を。
そう思っていたのに、トレーを返しに立った学生が横を通った瞬間、
視界の端に小さな光が引っかかった。
反射みたいにそちらを見そうになって、私はぎりぎりで目を伏せた。
「相沢さん?」
「……なんでもない」
危なかった。
今、見ていたらたぶん、また引きずっていた。
私は自分の指先を見つめる。
こんなふうに意識しないと止められないことが、少し情けなかった。
「今日、あんまり周り見てないね」
不意に言われて、顔を上げる。
「え?」
「いや、なんとなく。いつもはもう少し、いろいろ見てる感じするから」
「……そうかな」
「うん。今日はずっと前見てる」
前。
つまり、星野くんのほうを。
その意味に気づいて、急に落ち着かなくなる。
「別に、そんなことないよ」
「そっか」
それ以上は聞かれなかった。
でも、気づかれていたことが妙に心に残った。
講義室へ向かう途中も、私はなるべく周りを見ないようにした。
廊下の窓から入る光が明るくて、床に細長い影が落ちている。
「今日、午後の講義出る?」
「出るよ」
「じゃあ一緒に行く?」
「うん」
短いやり取りなのに、胸が少しだけあたたかくなる。
そのあたたかさに集中しようとする。
今は大丈夫。
ちゃんと歩けている。
ちゃんと話せている。
見なくても、平気かもしれない。
そう思った矢先、向こうから歩いてきた女子学生の頭上に、
小さな星が見えた。
息が止まる。
見ないと決めていたのに、
気づいた瞬間にはもう、目が向いていた。
「相沢さん?」
呼ばれて、はっとする。
「ごめん」
「大丈夫?」
「うん」
うまく笑えたか分からなかった。
講義室の前で別れて、私はひとりで席についた。
ノートを開いても、しばらくは何も頭に入ってこない。
やっぱり無理なんだろうか、と思う。
見ないようにしようとしたって、
見えるものは見える。
気にしないようにしたって、
気になるものは気になる。
それでも、さっき少しだけ、
星のことを忘れて話せていた時間があった。
それを思い出す。
ほんの少しだったけど、
ちゃんと目の前の会話に集中できていた。
全部だめだったわけじゃない。
講義が終わってスマホを見ると、メッセージが来ていた。
『終わった?』
私は少しだけ迷ってから、
『今終わった』
と返す。
すぐに、
『中庭いる』
と返ってきた。
教室を出て中庭へ向かう。
午後の光の中で、ベンチのそばに立っている星野くんが見えた。
「おつかれ」
「おつかれ」
それだけで、また少しうれしい。
「これから帰る?」
「うん」
「駅まで一緒に行く?」
「……うん」
並んで歩き出す。
私はまた、心の中で小さく決めた。
今度こそ、なるべく見ない。
中庭を抜けるあいだは、なんとか大丈夫だった。
足元と、少し先の道と、ときどき星野くんの横顔だけを見る。
「今日、静かだね」
「そう?」
「うん。なんか考えごとしてる感じ」
「ちょっとだけ」
「そっか」
それ以上は踏み込んでこない。
そのやさしさに、少し救われる。
駅までの道も、最初はうまくいっていた。
会話は途切れながらも続いたし、
私はなるべく人混みの上を見ないようにしていた。
でも、駅前の信号で立ち止まったときだった。
視界の端に、また小さな星が入る。
反対側で信号待ちをしている、見知らぬ男の人の頭の上。
消えそうなくらい頼りない、小さな星。
胸の奥が一気に冷える。
だめだと思った。
見ないようにしていたぶん、見つけた瞬間の衝撃が大きかった。
「相沢さん」
すぐ隣で呼ばれて、はっとする。
「赤、変わったよ」
「……あ、ごめん」
信号はもう青になっていた。
私は慌てて歩き出す。
「ほんとに大丈夫?」
「うん」
「無理してない?」
「してない」
少しだけ間が空く。
「今日、なんか変だったよね」
星野くんが、責めるでもなく言った。
私は返事ができなかった。
「学食でも、途中から急に黙ったし」
「……ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないよ」
やさしい声だった。
だから余計に苦しくなる。
「ただ、もし何かあるなら、言ってくれていいから」
「……うん」
それしか言えなかった。
本当のことなんて言えるわけがない。
人の頭の上に星が見えるなんて。
小さい星を見ると怖くなるなんて。
そんなことを言ったら、きっと困らせる。
駅に着いて、改札の前で足を止める。
「じゃあ、また連絡する」
星野くんが言う。
「うん」
「今日は……なんか、ごめん。変に聞いて」
「ううん」
「無理しないで」
「星野くんも」
別れて、ひとりで改札を抜ける。
階段を上がりながら、私はさっきのことを何度も思い返していた。
結局、見てしまった。
気にしてしまった。
うまくなんてできなかった。
でも、最初から最後まで全部だめだったわけでもない。
少しだけ、見ないでいられた時間があった。
少しだけ、星のことを忘れて話せた時間があった。
少しだけ、ちゃんと近づけた気がした。
その少しが、今の私には思っていたより大きかった。
電車に乗って、ドアの横に立つ。
窓に映る自分の顔は、少しだけ疲れて見えた。
家に帰ってからも、私はしばらくスマホを手にしたまま、何もできなかった。
星野くんとのやり取りを開いて、
閉じて、
また開く。
今日の私は、たぶん変だった。
気づかれていた。
心配もさせた。
それでも、何もしないままでいるのは嫌だった。
私はメッセージを打つ。
『今日はちょっとぼーっとしててごめん』
送ってから、やっぱり消したくなる。
でも、もう遅い。
少しして、返信が来た。
『気にしてないよ』
『でも、しんどいときはちゃんと言って』
その二行を見て、胸がきゅっとなる。
私はスマホを胸の上に置いて、目を閉じる。
見ないようにすることは、
思っていたよりずっと難しい。
今日も途中で見てしまった。
また失敗した。
それでも、
ほんの少しだけ、
星を忘れて笑えた時間があった。
その時間だけは、本物だったと思う。
でも、
もしこの先もっと好きになったら。
私はまた、
今日よりもっと怖くなるんだろうか。
その答えだけは、
まだ見つからなかった。




