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第14話 離れたいわけじゃない

 次の日の朝、目が覚めた瞬間に、私はスマホを見た。


 通知は来ていなかった。


 それを確認して、少しだけ安心する。

 同時に、胸の奥が妙に落ち着かない。


 昨日のことを思い出す。


 見ないようにしようとして、結局見てしまったこと。

 星野くんに変だと思われたこと。

 心配をかけたこと。

 それでも、少しだけうれしかったこと。


 全部が中途半端に胸に残っていた。


 このままはよくない、と思った。


 近づくほど怖くなるなら、

 少しだけ距離を取ったほうがいいのかもしれない。


 そうすれば、こんなふうに振り回されることも減るかもしれない。


 私は布団の中でスマホを伏せて、小さく息を吐いた。


 今日は自分から連絡しない。


 そう決める。


 たったそれだけのことなのに、

 決めた瞬間から、もう少し苦しかった。


 大学へ向かう電車の中でも、

 講義が始まる前でも、

 私は何度もスマホに触りそうになった。


 でも、見ない。

 自分からは開かない。


 そう思って鞄にしまう。


 しばらくして、やっぱり気になって取り出す。

 画面は静かなままだった。


 何も来ていない。


 それを見て、ほっとしたような、

 少しだけ拍子抜けしたような気持ちになる。


 来ないほうがいい、と思っていたはずなのに。


 一限の講義中も、私はあまり集中できなかった。

 ノートを取りながら、ふとした拍子にスマホのことを考えてしまう。


 休み時間になって、机の上に置いたスマホを見た。

 通知はない。


 別におかしなことじゃない。

 毎日必ず連絡が来るわけじゃないし、

 朝からずっとやり取りするような関係でもない。


 分かっているのに、落ち着かなかった。


 昼休み、学食へ向かう途中でも、

 ポケットの中のスマホが気になった。


 振動した気がして取り出してみる。

 何も来ていない。


 自分でも嫌になる。


 来ないほうがいい。

 来たら、また気持ちが揺れる。

 また期待して、また怖くなる。


 そう思うのに、

 来ないと来ないで、落ち着かない。


 学食でひとり席に座って、私はうどんを前にスマホを伏せた。

 見ないほうがいい。

 そう思っているのに、数分おきに気になってしまう。


 結局、食べ終わる前にまた画面を見た。


 何もない。


 胸の奥が、少しだけ沈む。


 その沈み方に、自分で驚いた。


 来なくてよかった、じゃない。

 来ないことに、少し傷ついているみたいだった。


 そんな自分を認めたくなくて、私は慌ててスマホを鞄にしまった。


 午後の講義が始まっても、気持ちは落ち着かなかった。

 黒板の文字を写しながら、頭のどこかでずっと別のことを考えている。


 もし今日、このまま何も来なかったら。


 そう考えて、すぐに打ち消す。

 そのほうがいいはずだ。

 そのほうが、きっと楽なはずだ。


 講義の終わりが近づいたころ、机の中でスマホが震えた。


 心臓が跳ねる。


 私はすぐには取り出せなかった。

 数秒遅れて、そっと画面を見る。


 星野くんからだった。


 『今日、帰り一緒?』


 たったそれだけの文なのに、

 胸の奥が一気に騒がしくなる。


 私は画面を見つめたまま、動けなかった。


 断ったほうがいい。

 今日はやめたほうがいい。

 少し距離を取るって、朝、自分で決めた。


 そう思いながら、返信画面を開く。


 今日は先に帰るね


 と打つ。


 少し見つめて、消す。


 ちょっと疲れてる


 と打つ。


 それも消す。


 ごめん、また今度


 そこまで打って、指が止まる。


 また今度。


 その言葉が、思っていたより冷たく見えた。


 今度って、いつだろう。

 また今度を繰り返していたら、

 そのまま少しずつ離れてしまうんじゃないか。


 そんなことを考えてしまった瞬間、

 胸の奥がひやりとした。


 私はしばらく画面を見つめたまま、

 結局、全部消した。


 そして、


 うん


 とだけ打って送った。


 送信した瞬間、少しだけほっとしている自分に気づく。


 だめだ、と思った。


 距離を取ろうとしたのに、

 たった一言で崩れてしまった。


 講義が終わって教室を出るころには、

 もう自分が何をしたいのか分からなくなっていた。


 中庭へ向かう足取りは、昨日より少しだけ重い。


 ベンチのそばに立っていた星野くんが、私に気づいて手を上げた。


「おつかれ」

「おつかれ」


 その声を聞いただけで、

 胸の奥の緊張が少しだけほどける。


 それがまた困った。


「今日、講義長かった?」

「ちょっとだけ」

「俺も最後のほう全然集中できなかった」

「そうなんだ」

「うん。眠くて」


 少し笑う。

 私もつられて少しだけ笑ってしまう。


 それだけのことなのに、

 会えてよかったと思ってしまう。


 駅までの道を並んで歩く。

 昨日みたいに、無理に周りを見ないようにすることはしなかった。

 でも、今日は星のことより、

 自分の気持ちのほうが落ち着かなかった。


 離れたほうがいいと思ったのに、

 こうして一緒にいると安心する。


 安心するのに、

 その安心が怖い。


「今日、なんか静かだね」

 星野くんが言う。


「そう?」

「うん。疲れてる?」

「少しだけ」

「そっか」


 それ以上は聞いてこない。

 でも、少しだけ私の顔を見ている気配がした。


 駅前の信号で立ち止まる。

 人の流れをぼんやり見ながら、私は自分の手を軽く握った。


「……あのさ」

 不意に星野くんが言う。


「うん?」

「昨日、変に聞いてごめん」

「え」

「なんか気にしてるなら言って、みたいなやつ」

「ううん」


 私は首を振る。


「気にしてないよ」

「ならいいけど」


 少しだけ間が空く。


「でも今日も、ちょっと変」

 星野くんが、困ったように笑った。


 胸が詰まる。


「ごめん」

「だから、謝ってほしいわけじゃないって」

「……うん」

「ただ、俺なんかしたかなって、ちょっと思っただけ」


 その言葉に、足元が揺れるみたいな気がした。


 違う。

 星野くんが何かしたわけじゃない。

 むしろ逆だ。

 やさしくされるたびに、困っているのは私のほうだ。


「してないよ」

 私は少し急いで言った。

「星野くんは、何もしてない」

「そっか」


 信号が青に変わる。

 人の流れに合わせて歩き出しながら、

 私は自分の言葉を頭の中で繰り返していた。


 何もしてない。


 本当にそうだった。

 何も悪くない。

 悪くないのに、距離を取ろうとしたのは私だ。


 駅に着くまでのあいだ、

 会話は途切れがちだった。

 気まずいわけじゃない。

 でも、どこか少しだけ、うまく息が合わない感じがした。


 改札の前で足を止める。


「じゃあ、また」

 星野くんが言う。


「うん」

「今日はありがと」

「……ううん」


 それだけ言って別れる。


 ひとりで電車に乗ってからも、

 私はさっきの「俺なんかしたかなって、ちょっと思っただけ」を何度も思い返していた。


 距離を取ろうとしただけのつもりだった。


 でも、距離を取るって、

 相手にはちゃんと伝わってしまうんだと思った。


 しかも、思っていたより簡単に。


 家に帰って、鞄を机の横に置く。

 制服のまま椅子に座って、しばらく動けなかった。


 疲れていた。

 でもそれは、講義のせいじゃなかった。


 机の上には、いつもの星のノートが置いたままだった。

 見たくないと思ったのに、

 私はそれを開いてしまう。


 今日見た星のことを書くつもりだったわけじゃない。

 なのに、気づけばペン先は別の言葉を書いていた。


 星野くんと距離を取ろうとしたのに、できなかった。


 書いてから、私はしばらくその一文を見つめた。


 誰に見せるわけでもないのに、

 それは思っていたよりずっと、

 認めたくない本音みたいに見えた。


 離れたいわけじゃない。


 たぶん、最初からそうだった。


 私はただ、

 近づいて怖くなる自分から逃げたかっただけだ。


 ノートの上に手を置いて、ゆっくり息を吐く。


 星野くんと距離を取ろうとしたのに、できなかった。


 その一文は、

 今日いちばん認めたくなかったことを、

 私の代わりに先に知っているみたいだった。


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