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第6話 本屋の二時

 土曜日の朝、目が覚めた瞬間に、私は今日がその日だと思い出した。


 駅前の本屋、二時くらい。


 約束ではない。

 待ち合わせでもない。

 ただ、気が向いたら行くことになっているだけ。


 そう自分に言い聞かせても、胸の奥は朝から落ち着かなかった。


 行くかどうかを決めるだけなのに、どうしてこんなに時間がかかるんだろうと思う。

 服を選んではやめて、髪を結んではほどいて、結局いつもとあまり変わらない格好に落ち着いた。

 白いブラウスに薄いカーディガン、紺のスカート。

 鏡の前に立ってみても、特別どこかへ行く人には見えない。


 それで少し安心して、少しだけ物足りなかった。


 昼を過ぎても、私はまだ迷っていた。


 行かなかったらどうなるだろう。

 たぶん星野くんは、本当に怒らない。

 そういう人だ。

 来なかったら来なかったで、そういう日なんだなと思う、と言っていた顔を思い出す。


 でも、行ったらどうなるんだろう。


 それも分からない。


 私は机の上のノートを見た。

 開くつもりはなかったのに、気づけば手が伸びている。


 星野透

 同級生

 星なし

 話しやすい

 「安心する」と言われた

 「心配になる」と言われた

 映画に誘われた

 約束は苦手だと言った

 来週の土曜、駅前の本屋、二時くらい


 最後の一行を見ていると、急に現実味が増す。


 私はノートを閉じた。


 行くか行かないかで、こんなに迷うのは変だ。

 でも、たぶん行かなかったら、あとで少し後悔する。

 そう思った時点で、もう答えは出ていたのかもしれない。


 家を出たのは、一時半を少し過ぎたころだった。


 駅前は休日らしく人が多い。

 家族連れ、買い物袋を提げた人、友達同士で笑いながら歩く学生。

 その流れの中を歩きながら、私は何度も心の中で言う。


 約束じゃない。

 もし会えなくても、それで終わり。

 別に何でもない。


 なのに、本屋の看板が見えた瞬間、心臓が少しだけ速くなった。


 入口の前で立ち止まる。

 ガラス扉の向こうに、人の出入りが見える。

 私は一度だけ深呼吸して、中に入った。


 冷房のひんやりした空気と、紙の匂い。

 新刊コーナーの平台には色とりどりの表紙が並んでいて、奥の雑誌棚には人が集まっている。


 私はとりあえず文庫の棚のほうへ向かった。

 まだ二時には少し早い。

 先に来ているかもしれないし、来ていないかもしれない。


 来ていなかったら、少し本を見て帰ればいい。

 そう思っていたのに、文庫コーナーの角を曲がったところで、私はすぐにその姿を見つけた。


 星野くんは棚の前に立って、本を一冊手に取っていた。

 黒いTシャツに薄いグレーのシャツを羽織っていて、大学で見るより少しだけラフに見える。

 横顔は真剣そうなのに、どこか力が抜けている。


 私は足を止めた。


 来ていた。


 当たり前のことなのに、それだけで胸の奥がふっと軽くなる。


 その瞬間、星野くんが顔を上げた。

 目が合う。

 一拍遅れて、少しだけ笑う。


「来た」


 その一言が、思っていたよりずっとまっすぐで、私は少しだけ困った。


「……来た」

「ほんとに来ると思わなかった」

「ひどい」

「半分くらい」

「半分は思ってたんだ」

「うん。来たらうれしいな、くらい」


 そう言って本を棚に戻す。

 私は反射的に、その頭の上を見た。


 何もない。


 いつも通りの空白。

 それを見て、少しだけ息をつく。


「また見た」

「見てない」

「今日は見た」

「気のせい」

「土曜でもそれなんだ」


 星野くんは笑って、棚の前を少し空けた。


「本、好き?」

「普通」

「また普通」

「嫌いじゃない」

「じゃあ、今日はそれで」


 並んで棚を見る。

 文庫、新書、エッセイ、旅行本。

 休日の本屋は静かすぎず、うるさすぎず、ちょうどいいざわめきがある。


「相沢さん、どんなの読むの」

「小説」

「どんな」

「静かなやつ」

「静かなやつって何」

「説明しにくい」

「相沢さんっぽい」


 私は少しだけ眉をひそめる。


「私っぽいって、何」

「大きい事件が起きなくても読める感じ」

「褒めてる?」

「褒めてる」


 たぶん褒められている。

 でも、少しだけ納得がいかない。


「星野くんは」

「俺は、表紙で選ぶことある」

「適当」

「でも意外と当たる」

「外れたら」

「それも思い出」


 そう言って笑う顔を見て、私は少しだけ肩の力を抜いた。


 大学の外で会うのは、思っていたより変じゃなかった。

 もっと気まずいかと思っていたのに、並んで本を見ているだけで、ちゃんと落ち着く。


 むしろ、大学の中より少しだけ静かに話せるぶん、楽かもしれない。


「これ、好きそう」


 星野くんが一冊差し出してくる。

 淡い色の表紙の短編集だった。


「なんで」

「なんとなく」

「またなんとなく」

「相沢さん、なんとなくで生きてるとこあるから」

「失礼」

「でも当たってない?」

「……少しだけ」


 受け取って裏表紙を見る。

 たしかに嫌いじゃなさそうだった。


「星野くんは?」

「俺?」

「好きな本」

「難しいな。読みやすいのは好き」

「ざっくり」

「あと、読んだあと少しだけ人にやさしくなれるやつ」

「……何それ」

「あるじゃん、そういう本」

「分からなくはないけど」


 私はその言い方が少し好きだと思った。

 人にやさしくなれるやつ。

 そういう言葉を、星野くんはたまに自然に言う。


 本屋の中をゆっくり一周して、結局私たちは何冊か手に取っては戻し、また別の棚へ移る、を繰り返した。

 買うかどうかより、一緒に見て回ること自体が目的みたいだった。


 それでも不思議と退屈しない。


 雑誌コーナーの近くまで来たとき、前の通路に小さな男の子と母親がいた。

 男の子は絵本を抱えていて、母親はしゃがんで何か話している。


 私は何気なくそちらを見て、息を止めた。


 母親の頭の上に、小さな星があった。


 小さい。

 かなり小さい。


 胸の奥がひやりと冷える。


 男の子は無邪気に笑っている。

 母親も笑い返している。

 どこから見ても、ただの休日の親子だ。


 でも、あの小さな星が目に入った瞬間、私は勝手にその先を想像してしまう。

 この人は、この子とあと何回会えるんだろう。

 それは、少ないんだろうか。


「相沢さん?」


 呼ばれて、私ははっとした。


「……ごめん」

「大丈夫?」

「うん」

「顔、白いけど」

「ちょっと、ぼーっとしただけ」


 嘘だ。

 でも本当のことは言えない。


 星野くんは少しだけ心配そうに私を見る。

 その視線がつらくて、私は目をそらした。


「外、出る?」

「え」

「人多いし、ちょっと疲れたなら」


 私は少し迷ってから、うなずいた。


 本屋を出ると、外の空気は少しぬるかった。

 駅前の広場には人が行き交っていて、遠くで子どもの笑い声がする。


「ごめん」

 と私は言った。

「せっかく誘ってくれたのに」

「謝るほどじゃないよ」

「でも」

「ほんとに。体調悪いなら休んだほうがいいし」


 星野くんは責めるような言い方をしない。

 それがありがたい反面、少しだけ申し訳なくなる。


「座る?」

 と聞かれて、私は広場の端のベンチに腰を下ろした。

 星野くんも隣に座る。

 少しだけ間を空けて。


「水、買ってくる」

「いい」

「いいから」


 返事を待たずに、自販機のほうへ行ってしまう。

 私はその背中を見送りながら、膝の上で手を握った。


 だめだ、と思う。

 知らない人の星に、こんなふうに引きずられていたらきりがない。

 ただ小さい星が見えただけだ。

 何が起こるかなんて分からない。

 そもそも仮説が合っている保証もない。


 それなのに、胸のざわつきが消えない。


 少しして戻ってきた星野くんは、冷たい水のペットボトルを差し出した。


「ありがと」

「どういたしまして」


 キャップを開けて一口飲む。

 冷たさが喉を通って、少しだけ落ち着く。


「本屋、苦手だった?」

「違う」

「じゃあ、人混み?」

「……たぶん」

「そっか」


 たぶん、じゃない。

 本当は星だ。

 でも、そう言えない以上、曖昧にするしかない。


「無理させたならごめん」

「無理ではない」

「じゃあよかった」


 少し沈黙が落ちる。

 私はペットボトルのラベルを見つめたまま、言葉を探した。


「……来てよかった」

 気づけば、そう言っていた。


 星野くんが隣で少しだけ動く気配がする。


「え」

「途中でああなったけど」

「うん」

「でも、来なきゃよかったとは思ってない」


 言いながら、自分で少し恥ずかしくなる。

 こんなこと、わざわざ言わなくてもいいのに。


 でも星野くんは、しばらく黙ってから、やわらかく笑った。


「それ聞けたなら、今日かなり成功」

「成功って」

「相沢さんが来てくれた時点で成功だけど」

「……そういうこと普通に言うよね」

「だめ?」

「だめじゃないけど、困る」

「困らせたいわけじゃないんだけどな」


 その声が少しだけやさしくて、私はまた視線を落とした。


 困る。

 でも、嫌じゃない。

 そのことがいちばん困る。


「少し歩く?」

 と星野くんが言う。

「本屋はもういいとして、川沿いのほうなら人少ないし」

「川沿い?」

「駅の裏。十分くらい」

「……行く」


 自分でも驚くくらい、素直に返事をしていた。


 駅前の喧騒を抜けて少し歩くと、本当に人通りは減った。

 川沿いの遊歩道には風が通っていて、木陰が涼しい。

 ベンチがいくつか並んでいて、犬の散歩をしている人が遠くに見える。


「こっち、たまに来る」

 と星野くんが言った。

「考えごとしたいとき」

「考えごと、するんだ」

「ひどいな。するよ」

「しなさそう」

「相沢さんの中の俺、どうなってるの」

「わりと適当」

「否定できない」


 少し笑って、また歩く。


 さっきまでのざわつきが、少しずつほどけていくのが分かった。

 人が少ないだけで、こんなに違うんだと思う。


「相沢さん」

「なに」

「今日、来るか迷った?」

「……迷った」

「やっぱり」

「分かるの」

「なんとなく」

「便利」

「相沢さんに言われたくない」


 私は少しだけ笑った。


「でも来てくれた」

「うん」

「ありがとう」

「……うん」


 ありがとう、と言われるたびに、胸のどこかが静かに揺れる。


 川面に光が反射して、きらきらしていた。

 私はそれを見ながら、ふと思う。


 こういう時間を、私はあとでノートに書くんだろうか。


 たぶん書く。

 でも、何て書けばいいのか分からない。


 本屋に行った。

 途中で気分が悪くなった。

 水を買ってもらった。

 川沿いを歩いた。


 事実だけなら、それで足りる。

 でも本当に残るのは、たぶんそういうことじゃない。


 来てよかったと思ったこと。

 隣にいると少し落ち着くこと。

 約束じゃない形でも、会えたことがうれしかったこと。


 そういうことばかりが、胸の中に残っていく。


 帰るころには、空が少しだけやわらかい色になっていた。


「今日はここで」

 と駅の近くで星野くんが言う。

「送るとこまで行くと、また気使わせそうだし」

「……気は使ってない」

「じゃあ、少しだけ」

「少しだけって何」

「俺の気持ちの問題」


 私は少しだけ笑ってしまった。


「また、こういうのでもいい?」

 と星野くんが聞く。

「約束じゃないやつ」

「……いいよ」

「ほんとに?」

「気が向いたら」

「向かせる努力する」


 前にも聞いたその言葉に、今度は少しだけ慣れた気がした。


「じゃあ、また」

「うん。また」


 別れてから、私は一人で改札を抜けた。

 階段を上がりながら、ふと振り返りたくなる。

 でも振り返らなかった。


 代わりに、頭の中で今日のことをなぞる。


 本屋の二時。

 来た、と言われたこと。

 来てよかった、と返したこと。

 川沿いの風。

 ありがとう、という声。


 家に帰って、夕飯のあと、私は机に向かった。


 ノートを開く。

 星野くんのページを見る。


 しばらく迷ってから、今日の日付を書いた。


 本屋で会った

 来た、と言われた

 途中で少し気分が悪くなった

 水を買ってくれた

 川沿いを歩いた

 「来てよかった」と言った

 また、こういうのでもいいかと聞かれた


 そこまで書いて、私はペンを止めた。


 やっぱり、これはもう星のノートじゃない。

 でも、今日のことを残したいと思ってしまう。


 ページの余白に、小さく書く。


 約束じゃなくても、会えた


 その下に、少し迷ってから、もう一行。


 会えて、うれしかった


 書いた瞬間、胸が熱くなる。

 私はすぐにノートを閉じた。


 認めたくないわけじゃない。

 でも、言葉にすると少しだけ戻れなくなる気がする。


 ベッドに入ってからも、私は今日のことを思い出していた。


 本屋で見た小さな星のことも、まだ胸のどこかに残っている。

 でもそれ以上に、星野くんの「来た」という声が残っていた。


 待っていたみたいな言い方だと思った。

 実際に待っていたのかは分からない。

 でも、そう聞こえた。


 それだけで、今日一日が少し特別になってしまう。


 暗い部屋の中で、私は目を閉じる。


 星野くんの頭の上には、今日も何もなかった。


 それなのに、会えたことがこんなにうれしいなら。

 もしいつか、そこに何かが見えてしまったら。


 私は、どうなってしまうんだろう。


 考えたくない未来が、まだ遠い場所で、静かに形を持ち始めている気がした。


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