第5話 約束にならない約束
次の週、私は星野くんといる時間が少しずつ増えていることに気づいた。
気づいた、というより、気づかないふりができなくなった、のほうが近いかもしれない。
講義の前にたまたま会う。
空き時間に図書館の前で見つかる。
帰り道が重なる。
学食で向かいに座られる。
ひとつひとつは偶然と言えなくもない。
でも、それが何度も続くと、さすがに偶然だけでは片づけにくい。
それでも不思議なのは、嫌だと思わないことだった。
むしろ、今日は会わないのかな、と思ってしまう日がある。
そういう自分を認めるのは、まだ少しだけ抵抗があった。
「相沢さん」
「……なに」
「今、絶対よくないこと考えてた」
「失礼」
「顔に出てる」
「出てない」
「出てるって」
昼休み、講義棟の階段の踊り場。
窓から差し込む光が床に四角く落ちていて、そこに私と星野くんの影が並んでいた。
私は次の授業までの時間をここでつぶすことが多い。
人が少なくて、静かで、落ち着くからだ。
それをいつの間にか星野くんも知っていて、たまにこうして現れる。
「またここ」
「悪い?」
「悪くない。見つけやすくて助かる」
「何が」
「相沢さん」
さらっと言われて、私は返事に詰まる。
星野くんは本当に、こういうことを変に構えず言う。
「今日、バイト?」
「ある」
「何時から」
「四時」
「じゃあまだ少しあるね」
「あるけど」
「コーヒー」
「また?」
「また」
私は少しだけ迷うふりをした。
でも、たぶん顔には出ていたと思う。
断る気があまりないことが。
「……五分だけ」
「短いなあ」
「十分にすると長くなるから」
「理屈がよく分からない」
そう言いながら、星野くんはうれしそうだった。
自販機の前まで歩くあいだ、私は何度か周囲の人の頭上を見た。
最近はもう、ほとんど癖になっている。
大きな星。
小さな星。
何もない人。
見えるたびに、胸の奥で何かが引っかかる。
でも、星野くんの隣にいると、そのざわつきが少しだけ遠のく気がした。
自販機の前で、私はまたブラックを選ぶ。
星野くんは今日はミルクティーだった。
「甘そう」
「疲れてるから」
「何に」
「生きるのに」
「大げさ」
缶を持ってベンチに座る。
今日は風が少し強くて、木の葉が足元に転がってきた。
「相沢さんって、休みの日なにしてるの」
「急に」
「気になった」
「別に普通」
「普通って何」
「家にいるとか」
「インドア」
「悪い?」
「悪くない。似合う」
「似合うって何」
星野くんは少し笑って、缶を揺らした。
「本読むとか?」
「たまに」
「映画は」
「家でなら」
「友達と遊んだりは」
「たまに」
「全部たまにだ」
「毎回じゃないから」
私は答えながら、少しだけ不思議な気持ちになっていた。
こういう話を、私はあまり人にしない。
聞かれれば答えるけれど、自分から広げることはほとんどない。
でも星野くん相手だと、完全に閉じるほどでもない。
「星野くんは」
「俺?」
「休みの日」
「寝る」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど、かなり寝る」
「もったいない」
「休みの日にしかできない贅沢だよ」
「おじいちゃんみたい」
「ひどいな」
笑い合ってから、少しだけ沈黙が落ちる。
でも、その沈黙はやっぱり苦しくない。
私は缶の縁を指でなぞりながら、ふと思った。
こういう時間を、私はもう記録できない。
ノートに書こうと思えば書ける。
でも、書いた瞬間に何かが変わってしまう気がする。
星の観察ではなく、思い出の採集みたいになってしまう。
「そういえば」
と星野くんが言った。
「今度、映画行かない?」
私は顔を上げた。
「映画?」
「うん。駅前のとこ」
「誰と」
「相沢さんと」
「……なんで」
「なんでって、誘ってるから」
あまりにも普通の言い方で、私は一瞬言葉を失った。
映画。
二人で。
それはもう、かなりはっきりした約束に近い。
「別に深い意味はないよ」
と星野くんは続けた。
「この前、家で映画見るって言ってたから、映画嫌いじゃないんだなと思って」
「嫌いじゃないけど」
「じゃあいいじゃん」
「よくないかもしれない」
「なんで」
「……なんとなく」
自分でもひどい返しだと思う。
なんとなく、で断られたら普通は困る。
でも星野くんは、少しだけ首をかしげただけだった。
「じゃあ、映画じゃなくてもいい」
「え」
「本屋でもいいし、ごはんでもいいし、散歩でもいいし」
「選択肢が雑」
「要するに、大学の外でも会ってみたいってこと」
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
大学の外でも会ってみたい。
それは、今までの偶然や流れとは違う。
ちゃんと会おうとする意思だ。
私はとっさに、星野くんの頭上を見た。
何もない。
空白。
いつも通りの、何もない頭上。
それを見て、少しだけ安心する自分がいる。
でも同時に、別の不安も生まれる。
もしここで約束をしたら。
もし会う回数を、自分で増やそうとしたら。
私はそれを数えてしまうんじゃないだろうか。
あと何回会えるか、なんて。
そんなことを考えたくないのに。
「相沢さん?」
呼ばれて、私ははっとした。
「……ごめん」
「また遠く行ってた」
「行ってない」
「行ってたよ」
星野くんは少しだけ真面目な顔になる。
「そんなに嫌なら、ほんとに気にしなくていいから」
「嫌ってわけじゃ」
「じゃあ、何」
私はすぐに答えられなかった。
嫌じゃない。
むしろ、うれしいのかもしれない。
でも、うれしいと思うほど怖くなる。
近づいたぶんだけ、失うときが怖い。
そんなの、まだ何も始まっていないのに考えることじゃない。
分かっているのに、止められない。
「……約束するの、あんまり得意じゃない」
気づけば、そう言っていた。
星野くんは少しだけ目を丸くした。
でも、笑わなかった。
「そっか」
「うん」
「破るのが嫌?」
「……たぶん」
「破られるのが嫌、とかじゃなくて?」
「それもあるかもしれないけど」
私は缶を見つめたまま続ける。
「約束すると、その日までずっと気になるから」
「楽しみで?」
「そういうのじゃなくて」
「不安で?」
「……たぶん」
そこまで言ってから、私は少しだけ後悔した。
こんな話をするつもりじゃなかった。
でも星野くんは、しばらく黙ってから、静かに言った。
「じゃあ、約束じゃなくていいよ」
私は顔を上げる。
「え」
「約束って思わなくていい」
「でも」
「たとえば、来週の土曜、もし気が向いたら駅前の本屋に行く」
「……うん」
「で、もし相沢さんも気が向いたら来る」
「それ、待ち合わせでは」
「待ち合わせっぽいけど、約束ではない」
「違いが分からない」
「俺の中では違う」
少し笑ってから、星野くんは続けた。
「来なかったら来なかったで、そういう日なんだなって思う」
「そんな軽くていいの」
「軽いほうが来やすいでしょ」
「……まあ」
私は少しだけ考えた。
それはたしかに、約束よりは息がしやすい。
絶対に行かなきゃいけないわけじゃない。
行けなかったらどうしようと、今から構えなくていい。
でも結局、会うための口実には違いない。
「土曜、何時」
と、気づけば聞いていた。
星野くんが少しだけ笑う。
「二時くらい」
「曖昧」
「約束じゃないから」
「ずるい」
「相沢さん向けに調整してる」
私は缶の残りを一気に飲んだ。
少しぬるくなっていて、苦みが強かった。
「……行けたら行く」
「うん」
「行けなくても怒らないで」
「怒らない」
「ほんとに」
「ほんとに」
その返事があまりにも自然で、私は少しだけ力を抜いた。
その日のバイト中、私は何度も土曜日のことを思い出してしまった。
レジを打ちながら。
コーヒーを運びながら。
洗い物をしながら。
来週の土曜、二時くらい、駅前の本屋。
約束じゃない。
でも、会うつもりの話。
それを考えるたび、胸の奥が落ち着かなくなる。
うれしいのか、不安なのか、自分でもよく分からない。
閉店後、バックヤードでエプロンを外していると、店長が言った。
「相沢さん、最近なんか機嫌いい?」
「え」
「いや、前よりちょっとやわらかい顔してる」
「そんなことないです」
「そう?」
私はロッカーの扉を閉めながら、少しだけ気まずくなる。
そんなに分かりやすいんだろうか。
帰り道、駅のホームで私はまた人の頭上を見た。
小さな星の人がいる。
大きな星の人もいる。
何もない人もいる。
その中で、ふと考える。
もし星が本当に「あと何回会えるか」なら。
自分から会いに行くことは、その数を使うことになるんだろうか。
それとも、もともと決まっている回数の中に、そういう約束も含まれているんだろうか。
考えても答えは出ない。
でも、考えずにはいられない。
家に帰ってから、私はノートを開いた。
しばらく迷って、星野くんのページを見る。
星野透
同級生
星なし
話しやすい
「安心する」と言われた
「心配になる」と言われた
その下に、今日の日付を書いた。
映画に誘われた
約束は苦手だと言った
来週の土曜、駅前の本屋、二時くらい
そこまで書いて、私はペンを止める。
やっぱり、これはもう星の記録じゃない。
でも消せない。
ページの余白に、小さく書く。
約束じゃないなら、怖くないと思った
書いたあとで、それも少し違う気がした。
怖くないわけじゃない。
ただ、怖さより先に、会いたい気持ちが少しだけ勝っただけだ。
私はその下に、さらに一行足した。
たぶん、会いたいと思っている
書いた瞬間、胸が熱くなった。
誰に見せるわけでもないのに、見つかってしまったみたいな気分になる。
私は慌ててノートを閉じた。
ベッドに入っても、なかなか眠れなかった。
来週の土曜まで、まだ何日もある。
それなのに、もう気になっている。
約束は苦手だと言ったくせに。
約束じゃない形にしてもらったくせに。
結局、私はその日を待ってしまっている。
暗い部屋の中で、私は目を閉じる。
星野くんの頭の上には、今日も何もなかった。
それなのに、どうしてこんなに怖いんだろう。
見えないから安心していたはずなのに。
見えないまま、失うことだってあるのかもしれないと、ふと考えてしまった。
その考えを振り払うように、私は毛布を引き上げる。
まだ何も始まっていない。
ただ、本屋に行くかもしれないだけだ。
それだけのことだ。
そう言い聞かせても、胸の奥の小さなざわめきは、なかなか静かにならなかった。




