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第4話 数えたくないもの

 一限の英語は、思っていたよりちゃんと起きられた。


 起きられたというより、夜のあいだ何度か目が覚めて、そのまま眠りが浅かっただけかもしれない。

 目覚ましが鳴る少し前に目を開けて、天井を見ながら、私はしばらく動けなかった。


 星のことを考えていた。


 正確には、星野くんのことを考えていたのだと思う。

 でも、それを認めるのは少し悔しい気がして、私は布団をはねのけて起き上がった。


 洗面所の鏡に映る自分の顔は、少しだけ眠そうだった。

 髪をまとめて、薄くリップだけ塗る。

 大学へ行く日は、だいたいいつもそれくらいだ。


 駅までの道を歩きながら、私はすれ違う人たちの頭上を見た。


 大きな星。

 小さな星。

 何もない人。


 見えるものはいつもと同じなのに、前よりずっと気になる。

 ノートをつけ始めてから、私はたぶん、前よりこの世界を落ち着かなく見ている。


 大学に着いて講義室へ入ると、まだ席は半分も埋まっていなかった。

 私はいつもの後ろ寄りの端の席に座る。

 鞄からノートとペンケースを出していると、少しして隣の椅子が引かれた。


「起きてる」

「……失礼」


 見なくても分かる声だった。


「いや、昨日あんなこと言ってたから」

「忘れてただけ」

「それが危ないんだって」


 星野くんはそう言って、机に教科書を置いた。

 私は少しだけ眉をひそめる。


「なんで隣」

「だめ?」

「だめじゃないけど」

「じゃあいいじゃん」


 いいじゃん、で済ませるのがずるいと思う。

 でも本気で嫌なわけではないから、何も言えない。


 講義が始まるまでのあいだ、教室にはざわざわした声が満ちていた。

 前の席の女子二人が課題の話をしていて、その斜め前では男子が眠そうに机に突っ伏している。


 私は何気なく視線を動かして、また人の頭上を見てしまう。


「また見てる」


 小声で言われて、私は前を向いた。


「見てない」

「今日それ何回目」

「知らない」

「便利だなあ、その返し」


 星野くんは笑いをこらえるみたいに肩を揺らした。

 私は少しだけむっとする。


「そんなに人のこと見てる?」

「見てる」

「……失礼」

「でも嫌な感じじゃないよ」

「どういう意味」

「観察してる感じ」

「それ、嫌な感じじゃないの」

「相沢さんの場合は、なんか違う」


 何が違うのか聞こうとしたところで、先生が入ってきた。

 講義が始まり、教室が静かになる。


 私はノートを開きながら、さっきの言葉を少しだけ引きずっていた。


 観察してる感じ。


 たしかにそうだ。

 私は最近、前よりずっと人を見ている。

 星のせいで。

 意味を知りたいと思ってしまったせいで。


 でも、そのことを星野くんにだけは知られたくなかった。


 講義の途中、私は一度だけ隣を見た。


 星野くんは意外と真面目に板書を写していた。

 字は少し雑だけど、ちゃんと聞いている。

 前髪が少し落ちてきていて、たまに無意識にかき上げる。


 その頭の上には、やっぱり何もない。


 私はそこで、ほんの少しだけ息をついた。


 講義が終わると、星野くんが伸びをした。


「寝なかったね」

「子どもじゃないんだから」

「でも途中ちょっと危なかった」

「危なくない」

「いや、まばたき長かった」

「見すぎ」

「相沢さんが人のこと見るから」


 そう言って立ち上がる。

 私は教科書を鞄にしまいながら、少しだけ考えた。


「……今日、次あるの」

「二限空き。相沢さんは?」

「私も」

「じゃあコーヒー飲みに行こうよ」

「学食?」

「いや、自販機のとこ」

「微妙」

「微妙って言うなあ」


 でも結局、私は断らなかった。


 講義棟の裏手にある休憩スペースは、午前中だとまだ人が少ない。

 ベンチと自販機が並んでいて、屋根の隙間から日差しが落ちている。


 星野くんはカフェオレ、私はブラックの缶コーヒーを買った。


「苦くない?」

「慣れてる」

「大人」

「同い年だけど」

「精神年齢の話」


 缶を開ける音が重なる。

 私はベンチの端に座り、少し離れて星野くんも座った。


「相沢さんって、昔からそんな感じ?」

「そんな感じって」

「静か」

「……たぶん」

「小さいころから?」

「たぶん」


 曖昧な返事ばかりしている自覚はある。

 でも、簡単に説明できることでもなかった。


 私は昔から、人より少しだけ考えすぎる。

 見なくていいものまで見て、気にしなくていいことまで気にする。

 星が見えるようになってからは、なおさらだった。


「星野くんは」

「俺?」

「昔からそんな感じ?」

「そんな感じって」

「距離近い」

「ひどい言い方だな」


 笑いながら、星野くんは少し考える。


「どうだろ。別に誰にでもってわけじゃないけど」

「そうなんだ」

「うん。相手による」

「……へえ」


 その返事に、なぜか少しだけ落ち着かなくなる。

 相手による、の中に自分が入っていることを意識してしまったからかもしれない。


「相沢さんは、話してるとちゃんと返してくれるから」

「普通じゃない?」

「普通じゃない人もいる」

「それはそう」

「あと、無理して合わせない感じがいい」

「褒めてる?」

「褒めてる」


 私は缶を持ったまま視線を落とした。

 こういうふうに、まっすぐ言葉にされるのは苦手だ。


 そのとき、休憩スペースの入口から男女二人が入ってきた。

 たぶん同じ学年の学生だと思う。

 並んで歩いているけれど、少し気まずそうな空気がある。


 私は反射的にそちらを見た。


 男子の頭の上に、小さな星があった。

 女子のほうには何もない。


 胸の奥が、ひやりとする。


 男子は何か言いかけて、やめた。

 女子は自販機の前で財布を出しながら、目を合わせない。

 やがて飲み物を買うと、二人はほとんど会話もないまま出ていった。


「知り合い?」


 星野くんの声で、私は我に返る。


「違う」

「そっか」

「……なんで」

「いや、急に顔変わったから」


 私は缶を握る指先に力を入れた。

 そんなに分かりやすかっただろうか。


「相沢さんってさ」

「なに」

「たまに、すごく遠くに行くよね」

「遠く?」

「目の前にいるのに、全然違うこと考えてる顔する」


 私はすぐに返事ができなかった。


 図星だった。

 星を見た瞬間、私はいつも少しだけその人の未来を考えてしまう。

 この人は誰と、あと何回会えるんだろう。

 今の相手とは、もうすぐ会えなくなるんだろうか。

 そんなことを、勝手に。


「……悪い?」

「悪くない」

「じゃあいいでしょ」

「うん。でも、ちょっと気になる」


 気になる、と言われると困る。

 踏み込まれたくないのに、拒絶したいわけでもない。


「言いたくないならいいけど」

 と星野くんは続けた。

「なんか、たまに心配になる」


 私は思わず顔を上げた。


 心配。


 まただ。

 安心するとか、心配になるとか。

 星野くんは、私がうまく受け取れない言葉を、あまりためらわずに口にする。


「そんな顔しなくても」

「どんな顔」

「びっくりしてる顔」

「……してない」

「してるよ」


 少し笑ってから、星野くんは缶を振った。

 中身はもうほとんど残っていないらしい。


「でも、無理に話さなくていいから」

「……うん」

「その代わり、危なそうなときはちゃんと言って」

「危なそうって」

「信号見てないとか」

「それは昨日だけ」

「昨日見たから言ってる」


 私は少しだけ笑った。

 ほんの少しだけ。

 でも星野くんはそれを見て、満足そうに目を細めた。


 二限が終わって、午後の講義まで少し時間が空いた。

 私は図書館へ行くつもりだったけれど、その前に一度だけノートを見たくなった。


 人の少ない廊下の端で、鞄からノートを取り出す。

 立ったままページを開いて、昨日の続きに書き足した。


 仮説

 星の大きさ=あと何回会えるか


 小さい星を見ると、不穏な空気を感じることが多い

 ただし、後づけの可能性あり


 そこまで書いて、少し迷う。

 それから、別のページを開いた。


 星野透

 同級生

 星なし

 話しやすい

 「安心する」と言われた


 今日の日付を書いて、その下に足す。


 「心配になる」と言われた


 書いた瞬間、私は自分で変だと思った。

 どうしてこんなことまで残しているんだろう。

 星の記録ではなく、言葉の記録だ。


 でも、消せなかった。


 その日の帰り道、私は一人で駅へ向かった。

 星野くんは午後から別の講義があると言って、途中で別れた。


 夕方のホームは人が多い。

 私は列に並びながら、前に立つ人の頭上をぼんやり見た。


 小さな星。

 何もない人。

 中くらいの星。


 見えるたびに、胸のどこかがざわつく。


 数えたくない、と思う。

 でも、見えてしまう。


 もし本当に、あれが会える回数なら。

 私はこれから、人と会うたびにそれを意識してしまうのだろうか。


 そんなの、息苦しい。


 電車に揺られながら、窓に映る自分を見る。

 私はたぶん、前より少しだけ疲れた顔をしていた。


 家に帰って、夕飯を食べて、シャワーを浴びて。

 いつも通りのことを全部終えてから、私は机に向かった。


 ノートを開く。


 今日見た小さな星のことを書こうとして、やめた。

 知らない学生二人のことを、これ以上勝手に記録するのは違う気がした。


 代わりに、ページの下に一文だけ書く。


 知ってしまうと、普通に会えなくなる気がする


 その文字を見て、私はしばらく動けなかった。


 たぶん、それがいちばん怖いことだった。


 終わりがあることじゃない。

 終わりを意識した瞬間に、今が今のままでいられなくなること。


 会うたびに数えてしまう。

 あと何回だろうと考えてしまう。

 それはきっと、ただ一緒にいる時間を壊してしまう。


 私はノートを閉じて、両手で顔を覆った。


 星の意味なんて、知らないままでよかったのかもしれない。


 そう思うのに、もう前みたいには戻れない。


 机の上のスマホが震えた。


 画面を見ると、星野くんからだった。


 『今日の英語のノート、最後のとこうつせてない』

 『写真送ってもらっていい?』


 私は少しだけ息を吐く。

 なんだ、そんなことかと思って、少し安心する自分がいた。


 『いいよ』


 送ると、すぐに既読がついた。

 少しして、今度は別のメッセージが来る。


 『あと』

 『今日、ありがとう』


 私は画面を見つめたまま止まった。


 ありがとう。

 それだけの、何でもない言葉。

 でも今日は、その一言が妙に胸に残った。


 私は少し考えてから返す。


 『何に対して?』


 返事はすぐだった。


 『一緒にコーヒー飲んでくれたこと』

 『相沢さん、たまに断りそうだから』


 思わず、笑ってしまう。


 たしかに断りそうだ。

 実際、少し迷った。

 でも断らなかった。


 私は指先で画面をなぞってから、短く返した。


 『別に、あれくらいなら』


 送信して、少しだけ間が空く。


 『じゃあまた今度、あれくらいのことに付き合って』


 その文を見た瞬間、胸の奥が小さく鳴った。


 私はすぐには返せなかった。

 断る理由はない。

 でも、簡単にうなずくのも少し怖い。


 人と近づくのは、数えたくないものを増やすことに似ている。


 それでも、私はしばらくしてから打ち込んだ。


 『気が向いたら』


 送ると、すぐに返事が来る。


 『じゃあ、向くように頑張る』


 私はスマホを伏せて、机に額をつけた。


 困る。

 こういう返しは、少し困る。


 でも嫌じゃない、と思ってしまう自分が、いちばん困る。


 その夜、ベッドに入ってからも、私はしばらく眠れなかった。


 小さな星のこと。

 数えたくないもののこと。

 そして、星の見えない星野透のこと。


 見えないから安心しているのか。

 安心したいから、見えないことに意味を持たせているのか。


 分からない。


 分からないまま、私は目を閉じた。


 暗闇の中で浮かぶのは、光る星ではなく、昼間に聞いた言葉だった。


 また今度、あれくらいのことに付き合って。


 たったそれだけの約束にもならない言葉が、どうしてこんなに残るのか、まだ知らなかった。


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