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第3話 小さな法則

 星野くんと話すようになってから、大学へ行くのが少しだけ楽になった。


 何か劇的な変化があったわけじゃない。

 毎日一緒にいるようになったわけでもないし、連絡が頻繁に来るわけでもない。

 ただ、講義室に入ったとき、どこかにあの姿があるかもしれないと思うようになった。

 それだけで、朝の足取りが少し軽くなる。


 そういう変化を、自分ではなるべく認めないようにしていた。


 認めてしまうと、期待になる。

 期待は、たいてい裏切られる。

 少なくとも私は、そういうふうに思って生きてきた。


 だから、星野くんと会っても、話しても、なるべくいつも通りでいようとした。

 向こうが気づいていたかどうかは分からないけれど。


「相沢さん」

「……なに」

「今、完全に無視しようとしたでしょ」

「してない」

「してたよ」

「気のせい」

「それ便利だね」


 昼休みの学食は、いつも騒がしい。

 トレーのぶつかる音と、あちこちから聞こえる笑い声と、厨房から漂ってくる揚げ物の匂い。

 私は窓際の端の席で一人で食べるつもりだったのに、気づけば向かいに星野くんが座っていた。


「ここ、いい?」

 と聞かれたのは、もう座ったあとだった。


 断る意味もないので、そのままにしている。


「今日、珍しく早いね」

「三限休講」

「俺も」

「じゃあ、みんなそうなんじゃないの」

「たしかに」


 星野くんはカレーを食べながら、特に中身のない話をする。

 私はうなずいたり、短く返したりするだけだ。

 それでも会話は途切れない。


 不思議な人だと思う。


 そのときも、私はふと周囲に目をやった。


 学食には大勢の学生がいる。

 頭の上に星が見える人も、見えない人もいる。

 大きい星、小さい星、いろいろだ。


 最近、私は前より少しだけ意識してそれを見るようになっていた。


 ノートをつけ始めてから、ただの風景だったものが、急に意味を持ち始めたからだ。


「また見てる」


 星野くんが言った。


「何を」

「人」

「……別に」

「相沢さん、たまにすごい観察してる顔するよね」

「してない」

「してるって」


 私は味噌汁の椀に視線を落とした。

 図星だった。


「心理学とか向いてそう」

「経済学部だけど」

「転部する?」

「しない」

「即答」


 笑いながら言うその声を聞いて、私は少しだけ肩の力を抜いた。


 星野くんは、私の変なところに気づいても、深く追及しない。

 それがありがたかった。


 その日の午後、私は図書館でノートを開いた。


 ここ数日で気づいたことを、箇条書きにしていく。


 星が見える人と見えない人がいる。

 年齢や性別に偏りはなさそう。

 家族同士でも、見える人と見えない人がいる。

 親しいかどうかとも、単純には関係なさそう。


 そこまで書いて、私はペン先を止めた。


 完全に法則がないわけじゃない。

 でも、まだ言い切れるほどのものもない。


 ただ、ひとつだけ、気になっていることがあった。


 小さい星を見た人のことを、私は妙に覚えている。


 駅で別れ際に泣いていたカップル。

 病院の待合室で、ずっと黙っていた老夫婦。

 バイト先で、何度もスマホを見ていた会社員。

 そして、あの日の六番テーブルの男の人。


 全員に共通点があるわけじゃない。

 でも、どこかに「この先、会いにくくなる気配」があった。


 もちろん、後からそう思っているだけかもしれない。

 人は意味を見つけたがる生き物だと、どこかで読んだことがある。

 偶然を法則だと思い込みたくなるのは、たぶん自然なことだ。


 それでも、気になる。


 私はページの端に、小さく書いた。


 仮説

 星の大きさ=その人とあと何回会えるか


 書いた瞬間、心臓が少しだけ速くなった。


 馬鹿みたいだ、と思う。

 こんなの、証明しようがない。

 会える回数なんて、数えられるものじゃない。

 偶然会うことだってあるし、約束して会うことだってある。

 そもそも「会う」の定義すら曖昧だ。


 でも、もしそうだとしたら。


 もし本当に、あの星が「あと何回会えるか」を示しているのだとしたら。


 私は今まで、どれだけの終わりを見過ごしてきたんだろう。


 ぞくりとした。


 そのとき、机の上のスマホが震えた。


 画面を見ると、星野くんからだった。


 『図書館?』


 短い一文。

 私は少し迷ってから返す。


 『そう』


 すぐに返信が来る。


 『窓際?』


 私は思わず顔を上げた。


 図書館の二階、閲覧席の並ぶ静かなフロア。

 少し離れた本棚の陰から、星野くんが手を振っていた。


 私は反射的に、また頭の上を見た。


 何もない。


 分かっていたのに、確認してしまう。


 星野くんは小声で「そこ、座っていい?」と口の形だけで言った。

 私は小さくうなずく。


 向かいの席に座った星野くんは、鞄からノートパソコンを出しながら、紙切れを一枚こちらに滑らせてきた。


 『ほんとにいた』


 私は少しだけ眉をひそめて、ペンで書き返す。


 『何しに来たの』


 星野くんはすぐに返した。


 『課題』

 『あと、相沢さんがいたら面白いと思って』


 私はその紙を見て、少しだけ困る。

 面白い、の意味がよく分からない。


 『何が』


 そう書くと、星野くんは少し考えてから、また書いた。


 『静かな場所で静かな人を見つけると、なんか安心する』


 私はその文字を見たまま、しばらく動けなかった。


 安心する。


 そんなふうに言われたことは、たぶんなかった。


 話しかけにくいとか、近寄りがたいとか、何を考えているか分からないとか。

 そういうことなら、何度かある。

 でも、安心する、は初めてだった。


 私は返事を書けないまま、紙を裏返した。


 星野くんはそれ以上何も言わず、ほんとうに課題を始めた。

 キーボードを打つ音だけが、静かなフロアに小さく響く。


 私はノートに視線を戻したけれど、さっきまで考えていた仮説の文字が、急に現実味を失った。


 もし星が「あと何回会えるか」だとして。

 もし小さいほど終わりが近いのだとして。


 じゃあ、星が見えない人は何なんだろう。


 まだ始まっていないのか。

 数えられないのか。

 それとも、終わりが遠すぎて見えないだけなのか。


 私はそっと顔を上げる。


 向かいに座る星野くんは、真剣な顔で画面を見ていた。

 少しだけ猫背で、前髪が目にかかっている。

 たまに眉を寄せて、すぐにまた力を抜く。


 その頭の上には、やっぱり何もない。


 空白。


 それが今は、ひどくやさしいものに見えた。


 夕方、図書館を出ると、空は薄いオレンジ色に染まっていた。


「課題終わった?」

「一応」

「一応ってことは終わってないんだ」

「提出はできるくらい」

「微妙」


 並んで歩きながら、星野くんが伸びをする。

 私は鞄の紐を握り直した。


「相沢さん、今日バイト?」

「ない」

「じゃあ珍しいね」

「何が」

「こんな時間まで大学いるの」

「……たしかに」


 言われてみればそうだった。

 バイトがある日は、空き時間をつぶしてそのまま駅前へ向かうことが多い。

 何もない日にこんなふうに残るのは、あまりない。


「じゃあ、駅まで送る」

「近いけど」

「俺も駅使うし」

「そう」


 断る理由が見つからなくて、そのまま歩く。


 正門を出たところで、前から女子学生が二人歩いてきた。

 楽しそうに笑いながら、スマホをのぞきこんでいる。


 そのうちの一人の頭の上に、大きな星が見えた。

 もう一人には何もない。


 私はつい目で追ってしまう。


「知り合い?」

「え?」

「今の人」

「違う」

「じゃあ、やっぱり見てた」

「……見てない」

「またそれ」


 星野くんは笑う。

 私はごまかすように前を向いた。


 大きい星。

 あれは何を意味するんだろう。


 あと何回会えるか、だとしたら。

 大きい星の人とは、まだたくさん会えるのだろうか。


 そう考えたとき、不意に胸の奥がちくりとした。


 私は、誰とあと何回会えるんだろう。


 友達と。

 母と。

 バイト先の人たちと。

 そして、今隣を歩いているこの人と。


 数えたくない、と思った。


 数えてしまったら、きっと何かが変わる。

 会うことが、ただ会うことではなくなってしまう。


「相沢さん」


 呼ばれて顔を上げる。


「赤」


 信号だった。

 私は足を止めるのが少し遅れて、横断歩道の手前で立ち止まった。


「危ない」

「……ごめん」

「考えごと?」

「少し」

「難しいやつ?」

「たぶん」

「そっか」


 それだけ言って、星野くんはそれ以上聞かなかった。


 青に変わるまでの短い時間、私は隣に立つその横顔を見た。

 何も知らない顔だと思う。

 私が人の頭の上に星を見ることも、その意味を考えていることも、たぶん想像すらしていない。


 それでいい、と思った。


 知られたくない。

 知られたら、きっと今みたいにはいられない。


 駅に着くと、改札前は人で混んでいた。

 帰宅ラッシュには少し早いけれど、それでも十分に騒がしい。


「じゃあ、また明日」

 と星野くんが言う。


「明日、授業あったっけ」

「一限の英語」

「……ある」

「あるんだ」

「忘れてた」

「ひどい」


 少し笑ってから、星野くんは改札のほうへ向かった。

 私は反対側の売店に寄るつもりで、その場に残る。


 人の流れの中で、星野くんの背中が少しずつ遠ざかる。


 私はまた、見てしまった。


 頭の上には、何もない。


 その空白に、ほっとする。

 同時に、少しだけ不安になる。


 見えないということは、どういうことなんだろう。


 家に帰ってから、私はノートを開いた。


 星野透

 同級生

 星なし

 話しやすい


 その下に、今日の日付を書き足す。


 図書館で会った

 「安心する」と言われた


 そこまで書いて、私はペンを止めた。


 こんなことまで記録する必要があるんだろうか。

 星の観察ノートのはずなのに、だんだん違うものになっている気がする。


 でも、消す気にはなれなかった。


 私はページの余白に、小さく書いた。


 星が見えない人の意味は、まだ分からない。


 そして、その下に、さらにもう一行。


 分からないままでいてほしい気もする。


 書いた瞬間、自分で驚いた。


 どうしてそんなふうに思うのか、ちゃんと言葉にできない。

 ただ、星野くんに星が見えないことだけは、まだ変わらないでいてほしかった。


 私はノートを閉じて、机の引き出しにしまう。


 その夜、眠る前にスマホを見たら、星野くんからまた短いメッセージが来ていた。


 『明日の一限、寝ないように』


 私は少しだけ笑って、返す。


 『そっちこそ』


 送ってから、ベッドに入る。


 暗い天井を見上げながら、私は昼に書いた仮説を思い出していた。


 星の大きさは、あと何回会えるか。


 もしそれが本当なら。

 もし本当にそうなら。


 見えないことは、救いなんだろうか。

 それとも、もっと別の意味なんだろうか。


 答えはまだない。


 でも、分からないままのものがひとつ増えたことだけは、はっきりしていた。


 星のこと。

 そして、星野透のこと。


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