第2話 星のない星野くん
次にノートを開いたのは、その三日後だった。
講義がひとつ休講になって、空いた時間を図書館でつぶしていた帰りだったと思う。
駅前のカフェに向かうにはまだ少し早くて、でも家に帰るには中途半端で、私は大学の中庭にあるベンチに座っていた。
四月の終わりの風は、あたたかいというより、まだ少しだけ冷たい。
木々の葉はやわらかい緑色をしていて、見上げると光が細かく揺れていた。
膝の上には、あのノートがある。
星について。
自分で書いたその五文字が、思った以上に落ち着かない。
たった一度書いただけなのに、もう後戻りできないことを始めてしまったような気がした。
私はページを開いて、三日前のメモを見返した。
六番テーブル。
男の人。小さい星。
女の子。星なし。
後から来た女性。星なし。
会話は少ない。
女の子は泣いていた。
たぶん、もうしばらく会えない。
最後の一文だけが、やっぱり浮いて見えた。
根拠なんてない。
ただ、そう思っただけだ。
でも、もし本当にあの星に意味があるなら。
大きさに何か法則があるなら。
見える人と見えない人の違いに理由があるなら。
少しだけ、確かめてみたいと思ってしまった。
私は新しいページを開いた。
星が見える人。
見えない人。
大きい人。
小さい人。
思いつくままに項目を書いてみる。
年齢、性別、関係性、会う頻度。
書いているうちに、自分がひどく変なことをしている気分になった。
人の頭の上の星を観察して、分類して、法則を探そうとしている。
冷静に考えれば、かなり気味が悪い。
「何それ、レポート?」
すぐ横から声がして、私は思わず肩を跳ねさせた。
顔を上げると、知らないうちに誰かがベンチの端に立っていた。
同じ学部の男子だった。
たしか、何度か同じ講義で見かけたことがある。
名前まではすぐに出てこない。
でも、見覚えはあった。
「あ、ごめん。驚かせた」
「……ううん」
その人は悪びれた様子もなく、私の隣ではなく、ベンチの前にしゃがみこんだ。
視線の高さを合わせるみたいに、少しだけ首をかしげる。
「相沢さん、だよね」
「そうだけど」
「やっぱり。経済史の授業、一緒でしょ」
「……たぶん」
「たぶんって」
少し笑う声に、からかわれている感じはなかった。
ただ、距離の詰め方が自然すぎて、私は少しだけ戸惑った。
そのとき、反射みたいに私はその人の頭上を見た。
何もなかった。
思わず、もう一度見る。
やっぱり何もない。
見慣れた空白だった。
星が見えない人は珍しくない。
でも、こうして真正面から確認すると、妙に印象に残る。
「どうしたの」
「え?」
「いや、なんか今、すごい見られた気がして」
「……見てない」
「見てたよ」
「気のせい」
苦し紛れにそう返すと、その人は「ふうん」とだけ言って立ち上がった。
「隣、座っていい?」
「……どうぞ」
断る理由もなくて、私はノートを少し閉じる。
その人はベンチの端に腰を下ろした。
近すぎず、遠すぎず、ちょうどいい距離だった。
「何書いてたの」
「別に」
「別にって顔じゃなかったけど」
「顔に出てた?」
「ちょっと」
私はノートの表紙を指で押さえた。
見られたくない、というより、説明できない。
「授業のメモ?」
「違う」
「日記?」
「違う」
「じゃあ秘密か」
「……まあ」
その人はそれ以上は聞いてこなかった。
無理に覗き込むこともしない。
ただ、前を向いたまま「あったかいね」と言った。
私はつられて空を見上げた。
雲が薄く広がっていて、日差しはやわらかい。
たしかに、座っているぶんにはちょうどいい気温だった。
「バイト行く前?」
「……なんで知ってるの」
「この前、駅前のカフェにいたよね」
「え」
「友達と行った。たぶん気づいてなかったと思うけど」
言われてみれば、見たことがある気もした。
でも、カフェには毎日いろんな人が来る。
制服を着て働いていると、客の顔は覚えても、大学で結びつかないことが多い。
「そのときも、なんか忙しそうだった」
「忙しかったから」
「そっか」
会話が途切れる。
気まずいわけではないけれど、続ける理由も見つからない沈黙だった。
なのに、その沈黙は不思議と重くなかった。
「俺、星野」
ふいに、その人が言った。
「星野透」
「……ああ」
名前を聞いて、ようやく思い出す。
出席確認のとき、何度か聞いたことがあった。
前のほうの席に座ることもあれば、後ろにいることもある。
いつも誰かとつるんでいるわけではないけれど、一人で浮いている感じもしない。
そういう人だった気がする。
「相沢さんは?」
「知ってるんじゃないの」
「確認」
「相沢夏美」
「うん。合ってた」
それだけで満足したみたいに、星野くんは笑った。
私はまた、つい頭の上を見そうになる。
でも、さすがに二度も三度も見たら不自然だ。
見なくても分かっている。
何もない。
星野透の頭の上には、星が見えない。
その事実に、なぜか少しだけ安心した。
「相沢さんって、いつも一人でいるよね」
「悪い?」
「悪くはない」
「ならいいでしょ」
「うん、いいと思う」
否定も肯定も強くしない言い方だった。
観察されているようでいて、決めつけられてはいない。
その感じが少しだけ楽だった。
「でも、話しかけにくい」
「……よく言われる」
「やっぱり」
「別に怒ってるわけじゃないんだけど」
「知ってる」
「なんで」
「今、怒ってない顔してるから」
そんなことを言われて、私は少しだけ困った。
自分の顔なんて、自分ではよく分からない。
風が吹いて、ノートの端がめくれた。
私は慌てて押さえる。
その拍子に、ページの隅に書いた文字が少しだけ見えてしまった。
星について
しまった、と思ったときには遅かった。
「星?」
「……見た?」
「ごめん、勝手に見たわけじゃない」
「別にいいけど」
よくない。
でも、今さら取り繕うのも変だった。
「天体とか好きなの?」
「違う」
「じゃあ占い?」
「もっと違う」
「じゃあ何」
「……何でもない」
星野くんは少しだけ黙った。
それから、あっさり引いた。
「そっか」
その引き方が、ありがたかった。
普通なら、気になるとか、教えてよとか、もう少し食い下がるところだと思う。
でも星野くんは、そこで止まった。
私はノートを閉じて、鞄にしまった。
「そろそろバイト」
「今から?」
「うん」
「駅前まで?」
「そう」
「じゃあ途中まで一緒」
断る間もなく、星野くんは立ち上がった。
でも、勝手に先を歩くことはしない。
私が立つのを待っている。
「……いつもこうなの」
「何が」
「人との距離」
「近い?」
「少し」
「気をつける」
「別に、嫌ってほどじゃないけど」
言ってから、少しだけ後悔した。
変な言い方だったかもしれない。
でも星野くんは、また少し笑っただけだった。
「じゃあ、そのくらいで」
大学の正門を出て、駅までの道を並んで歩く。
夕方前の通りはまだ人が多くて、自転車が何台も横を抜けていった。
会話は途切れ途切れだった。
取っている講義のこと。
学食の新メニューが微妙だったこと。
中庭のベンチは昼になると埋まること。
本当にそれだけの、どうでもいい話。
でも私は途中で気づいた。
この人と話していると、変に気を使わなくていい。
盛り上げなくてもいいし、沈黙を埋めなくてもいい。
何か面白いことを言わなきゃいけない感じもない。
ただ隣を歩いているだけで、会話が続いてしまう。
駅前の信号が見えてきたところで、星野くんが言った。
「相沢さん」
「なに」
「今度、経済史のノート見せて」
「急に」
「一回、途中から寝た」
「正直」
「正直だから許して」
「嫌」
「即答だ」
「自分で取って」
「冷たいなあ」
そう言いながら、全然困っていない顔をしている。
私は少しだけ笑ってしまった。
たぶん、その瞬間だったと思う。
星野くんが、少し目を丸くしたのは。
「……今、初めて笑った?」
「失礼」
「いや、なんか」
「何」
「ちゃんと笑うんだなって」
「笑うけど」
「そりゃそうか」
信号が青に変わる。
人の流れにまぎれて、私たちは横断歩道を渡った。
カフェの前まで来ると、私は足を止める。
「じゃあ、ここで」
「うん。バイト頑張って」
「星野くんは?」
「このあとサークル」
「入ってたんだ」
「幽霊部員だけど」
そう言って手を軽く上げる。
私は小さく会釈を返した。
店に入る直前、なんとなく振り返る。
星野くんはまだ少し先を歩いていて、夕方の光の中に背中が溶けかけていた。
その頭の上には、やっぱり何もない。
私はそこで、また少しだけ安心した。
理由は分からない。
星が見えない人なんて、今までいくらでもいた。
なのに、星野くんに星がないことだけは、妙にほっとした。
この人は大丈夫。
なぜか、そんなふうに思った。
その日の夜、私はまたノートを開いた。
新しいページの上に、少し迷ってから名前を書く。
星野透
同級生
星なし
そこまで書いて、ペンが止まる。
何を書けばいいのか分からなかった。
会った回数か、話した内容か、印象か。
観察対象みたいに書くのは変だと思ったし、かといって何も書かないのも落ち着かない。
結局、私はその下に一行だけ足した。
話しやすい。
書いてから、変なの、と思った。
ノートは星のことを記録するためのもののはずなのに、まるで友達の印象メモみたいだ。
私は苦笑して、ページを閉じる。
そのとき、スマホが震えた。
見慣れない通知だった。
大学の学内アプリ。
個人メッセージが一件届いている。
開くと、短い文が表示された。
星野透
『さっき言い忘れた。ノート、無理ならいいから。あと、バイト終わり気をつけて』
私はしばらく、その画面を見ていた。
たったそれだけの文なのに、妙にまっすぐだった。
軽いのに、雑じゃない。
距離が近いようでいて、踏み込みすぎてもいない。
私は返信欄を開いて、閉じて、また開いた。
『ノートは無理』
と打って、消す。
少し考えてから、別の文を入れた。
『今日はありがとう』
送信してしまってから、少しだけ早まった気がした。
でも、もう取り消せない。
数秒後、すぐに返事が来る。
『こちらこそ。また授業で』
それだけだった。
私はスマホを伏せて、ベッドに倒れこんだ。
天井を見上げる。
今日一日で、何かが大きく変わったわけじゃない。
特別な約束をしたわけでもない。
ただ、同じ講義の男子と少し話して、一緒に駅まで歩いただけだ。
それなのに、胸のどこかに小さな余白ができたみたいだった。
人と関わるのは、嫌いじゃない。
ただ、少し怖いだけだ。
近づけば、いつか失うかもしれない。
言葉にしなくても、そういう予感だけはずっとあった。
でも、星野くんの頭の上には何もない。
だから大丈夫だと、私は思った。
その安心が、どれくらい危ういものなのかも知らないまま。




