第1話 星を見る人
いつからだっただろう。
人の頭の上に、光る星が見えるようになったのは。
夜だけじゃない。
昼でも、雨でも、屋内外、至る所でも見えた。
まるでそこにあるのが当たり前みたいに、静かに浮かんでいる。
もちろん、全員に見えるわけじゃない。
見える人もいれば、何もない人もいる。
星には大きさがあった。
手のひらに乗るくらい大きなものもあれば、爪の先ほどの小さな光もある。
色はどれも似ていて、白に近い、少し青い光。
瞬きもしないし、揺れもしない。
ただ、その人の頭上に、ぴたりと寄り添うように浮かんでいる。
最初、それに気がついた時は、私は熱でもあるのかと思った。
小学校の帰り道だった。
ランドセルがやけに重くて、信号待ちの列に並びながらぼんやり前を見ていた。
すると、前に立っていた女の人の頭の上に、小さな光があった。
虫かと思った。
でも、羽音はしない。
風が吹いても動かない。
目をこすっても消えない。
家に帰って母にその話をしたら、「疲れてるんじゃない?」と笑われた。
病院にも連れて行かれたけれど、視力も脳波も異常なし。
そのうち私も、誰かに言うのをやめた。
言ったところで、信じてもらえない。
それに、困ることもなかったからだ。
星は見えるだけだった。
触れられないし、消せないし、増やせない。
誰かに「頭の上に何かあるよ」と言っても、相手はきょとんとするだけだった。
だから私は、見えていないふりを覚えた。
見えても気にしない。
気づいても口にしない。
そうしているうちに、星はだんだん、電柱や信号みたいなものになっていった。
そこにあるけれど、いちいち意味を考えないもの。
少なくとも、あの日までは。
大学二年の春、私は駅前のカフェでアルバイトをしていた。
平日の夕方は、いつも少しだけ中途半端に混む。
授業帰りの学生と、仕事終わりにはまだ早い会社員と、買い物ついでの人たちが、同じ時間に流れ込んでくるからだ。
「相沢さん、テーブル六番お願い」
「はい」
返事をして、トレーを持つ。
アイスコーヒーが二つと、チーズケーキが一つ。
六番テーブルには、スーツ姿の男の人と、小さな女の子が座っていた。
親子には見えなかった。
男の人は四十代くらいで、女の子はまだ小学校に上がる前くらい。
少し緊張した空気が流れていて、女の子はストローの袋を指先でいじっていた。
「ご注文おそろいです」
「あ、はい。ありがとうございます」
男の人がぎこちなく頭を下げる。
その頭の上に、星が見えた。
小さい。
今まで見た中でも、かなり小さいほうだった。
白い光が、かすかにそこにある。
見落としてしまいそうなくらい、頼りない。
私は一瞬だけ目を止めて、それからすぐに視線を外した。
珍しくもない。
小さい星の人なんて、今まで何人も見てきた。
ただ、そのとき少しだけ気になったのは、女の子のほうには何も見えなかったことだった。
テーブルを離れ、レジに戻る。
次の注文を受けて、ミルクを補充して、洗い終わったグラスを棚に戻す。
忙しい時間帯は、余計なことを考えなくて済むから好きだった。
それでも、視界の端にあのテーブルが入るたび、なんとなく気になった。
男の人は何度も水を飲んでいた。
女の子はほとんどしゃべらない。
やがて、男の人がポケットから何かを取り出した。
小さな包みだった。
ハンカチか、髪留めか、そのくらいの大きさ。
「これ……前に、ほしいって言ってたやつ」
声は小さくて、ここまではっきり聞こえたわけじゃない。
でも、口の動きと差し出し方で、なんとなく分かった。
女の子は包みを見た。
それから男の人を見た。
受け取らない。
代わりに、首を横に振った。
男の人の顔が、少しだけ固まる。
そのとき、店のドアベルが鳴った。
新しい客が入ってきて、私はそちらへ向かわなければならなかった。
「いらっしゃいませ」
声を出しながらも、意識の半分は六番テーブルに残っていた。
注文を受けて、会計をして、レシートを渡す。
ほんの数分。
でもその数分のあいだに、空気は変わっていた。
女の子が泣いていた。
声を上げるような泣き方ではない。
唇をきゅっと結んで、目からだけ涙をこぼしている。
男の人は何か言っていた。
必死に、でもうまく届いていないような顔で。
やがて、店の外から一人の女性が入ってきた。
三十代後半くらい。
女の子はその人を見るなり椅子を降りて、駆け寄った。
「ごめんなさい、遅れて」
女性は男の人に軽く頭を下げた。
男の人も立ち上がる。
その顔には、疲れたような、諦めたような笑みが浮かんでいた。
女性の頭の上には、何もない。
女の子の頭の上にも、やっぱり何もない。
男の人の頭の上の星だけが、かすかに光っていた。
会計は女性が済ませた。
女の子の手を引いて、先に店を出る。
男の人は少し遅れて、ひとりで出口へ向かった。
ドアの前で、ほんの一瞬だけ立ち止まる。
振り返るでもなく、誰かを呼ぶでもなく、ただ立ち止まって、それから出ていった。
その背中を見送ったとき、胸の奥に、妙なざわつきが残った。
何だったんだろう、今の。
そう思ったけれど、答えは出ない。
いつものように、私はその違和感を忙しさの中に押し込めた。
その日のバイト終わり、店長がバックヤードでスマホを見ながら「あっ」と声を上げた。
「どうしたんですか」
「いや、さっき店にいた子、いたじゃん。小さい女の子」
「……六番のお客さんですか?」
「そうそう。あの子、迷子の掲示で見たことある気がして」
店長はスマホの画面をこちらに向けた。
地域ニュースの記事だった。
数日前のものらしい。
離れて暮らす父親との面会交流をめぐり、親族間でトラブル。
見出しだけで、胸が冷えた。
詳しい事情までは書かれていなかった。
ただ、子どもの引き渡し場所で口論になったこと、今後しばらく当事者同士の接触を控えるよう調整が進んでいることが、簡単に載っていた。
「これ、たぶん違う人かもだけど」
「……そうですね」
私はそう答えた。
でも、違わない気がした。
あの男の人の、ぎこちない笑い方。
女の子の泣きそうな顔。
遅れて入ってきた女性の、慣れたような疲れた表情。
全部が、記事の短い文章にぴたりとはまってしまう。
その夜、帰りの電車の窓に映る自分の顔を見ながら、私は何度もあの小さな星を思い出していた。
もしあれが、体調とか運勢とか、そういうものじゃないとしたら。
もしあの光が、もっと別の何かを示しているのだとしたら。
そんなことを考えたのは、久しぶりだった。
家の最寄り駅で降りる。
改札を抜けて、夜風の中を歩く。
住宅街は静かで、遠くで犬が一度だけ吠えた。
マンションの階段を上がりながら、私はふと、今日一日のことを頭の中でなぞった。
朝、大学で顔を合わせた友達。
講義室ですれ違った先輩。
カフェに来た常連客。
帰りの駅で肩がぶつかりそうになったサラリーマン。
その中に、星が見えた人は何人もいた。
大きいものも、小さいものも。
でも、あんなふうに気になったのは初めてだった。
部屋に入って、電気をつける。
鞄を床に置き、制服代わりの黒いシャツを脱ぎながら、私は急に落ち着かなくなった。
何年も見続けてきたくせに、私は星の意味を何ひとつ知らない。
知らないままでも困らないと思っていた。
でももし、あれが人と人のあいだに起こる何かを示しているのなら。
知らないままでいるのは、少し怖かった。
机の前に座り、ノートを開く。
白いページを前にして、しばらくペンが止まる。
こんなこと、書いてどうするんだろう。
誰に見せるわけでもないのに。
それでも私は、ページのいちばん上に小さく書いた。
星について
その下に、今日見たことを思い出せる限り並べていく。
六番テーブル。
男の人。小さい星。
女の子。星なし。
後から来た女性。星なし。
会話は少ない。
女の子は泣いていた。
たぶん、もうしばらく会えない。
最後の一文を書いたところで、私は手を止めた。
――もうしばらく会えない。
どうして、そんなふうに思ったんだろう。
記事を見たからかもしれない。
あの空気を見たからかもしれない。
ただの想像だ。根拠なんてない。
なのに、その言葉だけが妙に引っかかった。
私はペンを置き、ノートを閉じた。
考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。
星は見える。
それだけだ。
意味なんて、まだ分からない。
分からないはずなのに。
ベッドに入って目を閉じると、暗闇の中に、あの小さな光が浮かんだ。
消えそうなくらい小さいのに、目をそらせない光。
あれが何を示しているのか。
もし本当に意味があるのなら、私はいつか知ってしまうのだろうか。
知りたいような、知りたくないような気持ちのまま、私は浅い眠りに落ちていった。
そのときはまだ、知らなかった。
あの夜ノートに書いた一行が、
これから先、私の人との関わり方を全部変えてしまうことを。




