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第39話 少しずつ

 その日の帰り道、私はひとりで駅まで歩いた。


 星野くんは途中まで送ると言ってくれたけれど、今日は大丈夫だと断った。

 少しだけ、一人になりたかった。


 風はぬるくて、夕方の空はまだ明るい。

 行き交う学生たちの声が遠くに聞こえる。


 さっきまで星野くんと同じベンチに座っていたことが、まだうまく現実に思えなかった。


 わからなかったよ。

 でも、そうだったらいいなって、勝手に思ってた。

 たぶん、俺の方が先に相沢さんのこと好きだったから。


 何度も何度も、その言葉が頭の中で繰り返される。


 胸の奥が落ち着かない。

 苦しいのに、嫌じゃない。

 むしろ、少しあたたかい。


 でもそのあたたかさに、私はまだちゃんと触れられなかった。


 駅の改札を抜けて、電車に乗る。

 窓に映る自分の顔は、少し疲れて見えた。


「……好きになりそう、って何」


 小さくつぶやいて、私はすぐに視線を落とした。


 あれは、ほとんど反射だった。

 考えて言ったわけじゃない。

 でも、だからこそ本音だったのかもしれない。


 星野くんの言葉を聞いて、胸が揺れた。

 やさしいと思った。

 うれしいとも思った。

 そしてたぶん、もっと知りたいと思った。


 それはもう、十分すぎるほど特別なことのような気がした。


 家に帰ると、母はまだ仕事から戻っていなかった。

 静かな部屋に入って、私は鞄を置き、そのままベッドに倒れ込む。


 天井を見上げる。

 何も考えたくないのに、頭の中は勝手に今日のことを繰り返した。


 星野くんの声。

 困ったような笑い方。

 返事を急がせない言い方。

 静かに待ってくれる目。


 ノートに書いてあったことが、今日の会話の中で何度も重なった。


 私は目を閉じる。


 過去の私は、この人のどこを好きになったんだろう。

 そう考えて、すぐに少しだけおかしくなる。


 今日だけでも、理由はいくつもあった気がしたからだ。


 しばらくして、スマホが震えた。


 画面を見ると、星野くんからだった。


『今日はありがとう』

『無理させてたらごめん』


 私はその文を見て、思わず小さく息を吐いた。


「また謝ってる」


 そうつぶやきながら、少しだけ笑ってしまう。


 少し考えてから、私は返信を打った。


『無理はしてない』

『話せてよかった』


 送って、少し迷う。

 それから、もう一文だけ足した。


『ありがとう』


 送信すると、すぐに既読がついた。


『そっか。ならよかった』

『こっちこそ、ありがとう』


 短いやり取り。

 でも、それだけで胸の奥が少しだけやわらかくなる。


 私はスマホを胸の上に置いて、深く息を吐いた。


 前みたいに戻れるかは分からない。

 そもそも、前の私たちがどこまで進んでいたのかも、まだよく分からない。


 でも、今日話したことで、完全に途切れていた糸が少しだけつながった気がした。


 その夜、私は久しぶりにノートを開かなかった。


 見ればまた何か知れるかもしれない。

 でも今日は、もう十分だった。


 知ったことが多すぎて、胸の中にしまうだけで精一杯だった。


 代わりに、私はスマホのメモを開いた。

 新しいページを作って、少しだけ考える。


 それから、短く打ち込んだ。


『今日のこと』


『星野くんは、私のことを好きだった』

『私は、それを聞いてうれしかった』

『好きになりそうって言った』

『たぶん、本音だった』


 そこまで書いて、指が止まる。


 少し迷ってから、もう一行だけ足した。


『今の私の気持ちとして、ちゃんと知っていきたい』


 打ち終えて画面を見つめる。

 ノートに書かれていた過去の記録とは違う。

 これは、今の私の言葉だった。


 少しだけ安心する。


 忘れてしまったものは多い。

 でも、これからのことまで失くしたわけじゃない。


 そう思えた。


 翌日、大学へ行く支度をしながらも、私はどこか落ち着かなかった。


 鏡の前で髪を整えていても、ふとした瞬間に昨日の会話を思い出してしまう。

 そのたびに、胸の奥が少しだけ熱くなる。


「……だめだ」


 小さくつぶやいて、私は首を振った。


 こんな調子で顔を合わせたら、絶対に変になる。

 でも、だからといって避けたいわけでもなかった。


 むしろ会いたい、と思ってしまう。

 そのことに気づいて、また落ち着かなくなる。


 大学に着いてからも、講義の内容はあまり頭に入らなかった。

 ノートを取っていても、気づくと同じところを何度も見ている。


 休み時間、スマホを見る。

 特に連絡は来ていない。


 それなのに、少しだけ残念に思ってしまった自分に気づいて、私は机に額をつけた。


「重症かも……」


 誰にも聞こえないくらいの声でつぶやく。


 そのとき、頭の上から声がした。


「何が?」


 びくっとして顔を上げると、目の前に真島さんが立っていた。


「うわっ」


「うわって何」


 呆れたように言いながら、真島さんは隣の席に腰を下ろした。


 事故のあと、大学でいちばん変に気を遣わず接してくれている友達だった。

 記憶が曖昧なことも、全部ではないけれど少しだけ話してある。


「顔、赤くない?」


「気のせい」


「いや、たぶん気のせいじゃない」


 じっと見られて、私は思わず視線をそらす。


 真島さんは少しだけ目を細めた。


「……何かあった?」


 その聞き方は軽いのに、ちゃんと逃がしてくれる余白があった。

 私は少しだけ迷ってから、小さく息を吐く。


「ちょっとだけ」


「ふーん」


 真島さんはそれ以上すぐには聞いてこなかった。

 その沈黙がありがたかった。


「昨日、星野くんと話したの」


 自分からそう言うと、真島さんが少しだけ眉を上げる。


「へえ」


「いろいろ、聞いた」


「そっか」


 それだけで終わる。

 でも、その“そっか”の中に、たぶんいろんな意味が含まれていた。


 私は机の上のノートを見つめながら、ぽつりと言った。


「……好きだったみたい、私」


 真島さんは驚いたように目を瞬いた。

 けれど、すぐに変に騒いだりはしなかった。


「みたい、ってことは」


「ノートに書いてあった」

「あと、昨日、本人とも話して」


 そこまで言うと、真島さんは小さく息を吐いた。


「なるほどね」


「しかも」


「うん」


「星野くんも、私のこと好きだったって」


 言った瞬間、自分でまた恥ずかしくなってくる。

 私は思わず顔を伏せた。


 真島さんは数秒黙ってから、静かに言った。


「それは……すごい話だね」


「他人事みたいに言わないで」


「いや、だって実際すごいでしょ」


 少しだけ笑いを含んだ声に、私はようやく肩の力を抜いた。


「で、相沢はどうしたいの」


 その問いに、私はすぐには答えられなかった。


 どうしたいんだろう。

 昨日からずっと考えているのに、まだうまく言葉にならない。


「分かんない」


 正直にそう言う。


「でも、逃げたくはない」

「ちゃんと知りたい」

「前のことも、今のことも」


 真島さんは黙って聞いていた。

 それから、少しだけやわらかい声で言う。


「それでいいんじゃない」


「……いいのかな」


「いいでしょ」

「思い出してからじゃないとだめ、なんてことないし」

「今の相沢がどう思うかの方が、大事じゃない?」


 昨日、星野くんにも似たようなことを言われた。

 そのことを思い出して、胸の奥が少しだけあたたかくなる。


「うん……」


「まあでも」


 真島さんはそこで少しだけ口元を上げた。


「たぶん相沢、もうだいぶ好きになりかけてるよ」


「は?」


「顔見れば分かる」


「分かるわけないでしょ」


「分かるよ」


 即答されて、私は何も言えなくなる。


 真島さんはおかしそうに笑った。


「昨日話しただけでそんな顔してるんだから、分かりやすいって」


「そんな顔って何」


「なんかこう……ふわふわしてる」


「最悪」


「褒めてる」


 全然褒められている気がしない。

 でも、少しだけ笑ってしまった。


 そのとき、教室の後ろの扉が開く音がした。

 何気なくそちらを見る。


 入ってきた人を見た瞬間、胸がどくんと鳴った。


 星野くんだった。


 たぶん、向こうもすぐに私に気づいた。

 一瞬だけ目が合う。


 それだけで、昨日の会話が一気によみがえってくる。


 私は反射みたいに視線をそらした。

 でも、そらしたあとで、逃げたみたいで嫌になる。


 もう一度だけ、そっと顔を上げる。


 星野くんは少しだけ困ったように笑って、それから小さく手を上げた。


 その仕草に、胸の奥がまた熱くなる。


 私はほんの少し迷ってから、ぎこちなく手を上げ返した。


 たったそれだけのことなのに、心臓がうるさい。


「……ほら」


 隣で真島さんが小さく言う。


「分かりやすい」


「うるさい」


 小声で返すと、真島さんは肩をすくめた。


 講義が始まるまでの短い時間。

 それだけなのに、私はもう何度も深呼吸していた。


 昨日、全部が終わったわけじゃない。

 むしろ、始まったばかりなのかもしれない。


 前の私が好きだった人。

 そして、今の私が少しずつ知っていこうとしている人。


 その二つが、まだ完全には重ならない。

 でも、少しずつ近づいている気がした。


 授業の開始を告げるチャイムが鳴る。


 私はノートを開きながら、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


 焦らなくていい。

 急がなくていい。


 それでもきっと、この気持ちは前に進んでいく。


 少しずつ。

 本当に、少しずつ。


実質の最終話、アップロードもれてました

申し訳ありません

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