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第38話 君の言葉

 星野くんが、ゆっくりと口を開く。


 その瞬間、私は無意識に息を止めていた。


「わからなかったよ」


 静かな声だった。


 責めるようでも、困らせるようでもない。

 ただ、正直に答えてくれている声だった。


 星野くんは少しだけ視線を落とした。


「でも……そうだったらいいなって、勝手に思ってた」


 胸の奥が、どくんと鳴る。


 私は何も言えないまま、星野くんの次の言葉を待った。


「相沢さんが俺のこと、少しでも特別に思ってくれてたらいいなって」


 その言い方が、あまりにも静かで、あまりにもやさしくて、胸が苦しくなる。


 星野くんは困ったように少し笑った。


「たぶん、俺の方が先に相沢さんのこと好きだったから」


 世界が、一瞬だけ止まった気がした。


「……今それ言うの、ずるいよな」


 小さく付け足されたその一言で、ようやく息ができるようになる。

 でも、胸の奥はさっきよりずっと苦しかった。


 私は言葉を失ったまま、星野くんを見つめた。


 うれしい、と思った。

 たぶん。


 でも、その感情に今の私はうまく名前をつけられなかった。


 ただ、どうしようもなく泣きそうだった。


「……ずるい」


 やっと出た声は、思っていたよりもずっと小さかった。


 星野くんが少しだけ眉を下げる。


「ごめん」


「謝らないで」


 反射みたいにそう言ってから、私は自分の膝の上を見つめた。


 謝ってほしいわけじゃない。

 困らせたいわけでもない。

 ただ、胸の中がぐちゃぐちゃで、どう受け止めればいいのか分からなかった。


「私、ちゃんと分からないの」


 ぽつりとこぼす。


「ノートを見て、好きだったらしいって知った」

「今、星野くんの話を聞いて、うれしいって思った気もする」

「でも、それが今の気持ちなのか、前の私の気持ちの残りなのか……分からなくて」


 言いながら、喉の奥が少し痛くなる。


「ごめん」

「こんなの、言われても困るよね」


「困らないよ」


 星野くんはすぐにそう言った。


 その即答が、少しだけ意外で、私は顔を上げる。


「困らない」


 もう一度、星野くんは繰り返した。


「分からないなら、分からないままでいいと思う」

「無理に今すぐ答え出さなくていいし」

「思い出さなきゃいけないわけでもない」


 やわらかい声だった。

 でも、その言葉の一つ一つは、まっすぐ胸に落ちてきた。


「……でも」


「うん」


「それじゃ、ずるくない?」


 自分でも何を言いたいのか、うまくまとまっていなかった。

 それでも、言わずにはいられなかった。


「私だけ何も分かってなくて」

「星野くんは、前から知ってることがいっぱいあって」

「好きだったって言われても、私、ちゃんと返せないし」


 そこで言葉が詰まる。


「それって、すごく……ずるい気がする」


 最後の方は、ほとんど消えそうな声だった。


 星野くんは少し黙って、それから小さく息を吐いた。


「じゃあ、おあいこにしようか」


「……え?」


「俺も、相沢さんが何考えてるか、前からずっと分かんなかったし」


 思わず顔を上げると、星野くんは少しだけ笑っていた。


「近い気はしてた」

「でも、踏み込んでいいのか分からなかった」

「やさしくしたら迷惑かもしれないし、離れたらそれはそれで後悔しそうだったし」


 その言葉に、胸が小さく揺れる。


「だから、たぶんずっと同じだったよ」

「相沢さんのこと気にしてたけど、相沢さんがどう思ってるかは分からなかった」


 私は黙ってその言葉を聞いていた。


 同じ。

 その言葉が、少しだけ救いみたいに思えた。


「事故の前も?」


 気づけば、そう聞いていた。


 星野くんの表情が、ほんの少しだけ静かになる。


「……うん」


「そのときも、言わなかったの?」


「言えなかった、かな」


 困ったように笑う。

 その笑い方が、ノートに書いてあった通りで、また胸が痛くなる。


「タイミング、ずっと見てた気がする」

「今じゃないな、とか」

「今日は違うな、とか」

「そんなことばっか考えてたら、結局ちゃんと言えなかった」


 私は唇をきゅっと結んだ。


 ノートには、『ちゃんと好きって言う』と書いてあった。

 星野くんも、言えなかったと言う。


 もしかしたら私たちは、同じところで立ち止まったままだったのかもしれない。


「……じゃあ」


 声が少し震える。


「私が事故に遭わなかったら、どうなってたと思う?」


 聞いたあとで、ひどく残酷なことを聞いた気がした。

 でも、知りたかった。


 星野くんはすぐには答えなかった。

 少しだけ空を見て、それから静かに言う。


「分かんない」


 その答えが、かえって本当のことみたいに聞こえた。


「でも」

「ちゃんと話したかったとは思ってた」


 私はその言葉を、黙って受け止める。


「逃げたままにはしたくなかった」

「相沢さんが何を言おうとしてたのか、ちゃんと聞きたかったし」

「俺も、自分の気持ちはちゃんと伝えたかった」


 風が吹いて、木の葉が揺れた。

 遠くで誰かの笑い声がする。

 大学の中庭はいつも通りのはずなのに、ここだけ少し違う場所みたいだった。


「……そっか」


 それしか言えなかった。


 でも、その短い言葉の中に、いろんな気持ちが混ざっていた。


 うれしい。

 苦しい。

 申し訳ない。

 知れてよかった。

 知ってしまって苦しい。


 どれも本当で、どれもまだ整理できなかった。


「相沢さん」


 名前を呼ばれて、顔を上げる。


「今、返事しなくていいから」


 私は目を瞬いた。


「返事って……」


「俺が好きだって言ったことに」


 あまりにもまっすぐ言われて、胸がまた大きく鳴る。


「今の相沢さんに、無理させたくない」

「思い出したから答える、とか」

「思い出せないから答えられない、とか」

「そういうふうにしてほしくない」


 星野くんは、私を見ていた。

 静かで、逃げない目だった。


「今の相沢さんが、これからどう思うかでいい」


 その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。


 やさしい。

 やさしすぎる、と思った。


 だから余計に、泣きたくなる。


「……そんなの」


 声が震える。


「そんなこと言われたら……」


 そこで言葉が途切れる。

 胸の奥が熱くて、うまく息ができない。


「好きになりそうじゃん」


 言ってから、自分で何を言ったのか分かって、息が止まった。


 星野くんも、目を見開いていた。


 数秒、時間が止まる。


「……ごめん」


 思わず顔を伏せる。

 耳まで熱いのが分かった。


「いや」

「ごめんじゃないけど」


 星野くんの声が、少しだけ揺れていた。


 私は顔を上げられないまま、膝の上で手を握る。


「違うの」

「違わないけど、違うっていうか」

「今の、ちゃんとした意味じゃなくて」


 何を言っているのか自分でも分からなくなる。

 頭の中が熱くて、言葉がまとまらない。


 そのとき、隣で小さく笑う気配がした。


 恐る恐る顔を上げると、星野くんが困ったように笑っていた。


「うん」


「……うん、って何」


「ちゃんと分かってる」


 その言い方がやさしくて、私はまた泣きそうになる。


「分かってるから、大丈夫」


 大丈夫。

 その一言に、張っていたものが少しだけゆるむ。


 私は小さく息を吐いた。


「……私、たぶん」

「まだ何も戻ってない」


「うん」


「でも、知れてよかった」


 星野くんは何も言わなかった。

 ただ、静かに聞いてくれていた。


「知らないままだったら、たぶんもっと苦しかった」

「だから……話してくれてありがとう」


 そう言うと、星野くんは少しだけ目を細めた。


「こっちこそ」

「聞いてくれてありがとう」


 また沈黙が落ちる。


 でも今度の沈黙は、前より少しだけやわらかかった。


 私はベンチの前の地面を見つめながら、ゆっくり息を吸う。


 全部が解決したわけじゃない。

 記憶は戻っていない。

 自分の気持ちも、まだはっきりしない。


 それでも、ひとつだけ確かなことがあった。


 私はもう、この人のことを“分からない誰か”としては見られない。


 過去の私が好きだった人。

 そして今の私も、たぶんまた、ちゃんと知りたいと思っている人。


「星野くん」


「うん?」


「……また、話してもいい?」


 聞くと、星野くんは少しだけ驚いた顔をして、それからやわらかく笑った。


「もちろん」


 その返事に、胸の奥が少しだけあたたかくなる。


 すぐに何かを取り戻せるわけじゃない。

 前みたいになれる保証もない。


 でも、ここからなら始められるかもしれないと思った。


 失くした時間の続きを。

 あるいは、前とは少し違う新しい続きを。


 ベンチの横を風が通り過ぎる。

 私はその気配を感じながら、そっと目を細めた。


 まだ怖い。

 でも、もう少しだけ知りたい。


 その気持ちだけは、今の私のものだと思えた。


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