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第36話 残された言葉

 星野くんが帰ったあとも、私はしばらく部屋で動けなかった。


 玄関で交わした短いやり取りを、何度も頭の中でなぞる。

 知っている顔だった。

 知っている声だった。

 ちゃんと会話もできた。


 それなのに、胸の奥に残ったざわつきだけが、どうしても説明できない。


 ただの友達なら、あんなふうにはならない気がする。

 でも、じゃあどんな相手だったのかと考えると、その先だけが白く曖昧になる。


 私はベッドに腰を下ろし、枕元のスマホを手に取った。


 画面を開く。

 昨日から何度も見ている、星野透の名前がそこにある。


 通話履歴にも、メッセージにも、何度も残っていた名前。

 こんなに頻繁にやり取りしていたなら、きっと仲はよかったのだと思う。

 少なくとも、ただの顔見知りや、たまに話すだけの相手ではない。


 トーク画面を開く。


『今どこ?』

『もう着く』

『ごめん、ちょっと遅れる』

『分かった』


 短い言葉ばかりだった。

 何気ないやり取りばかりだった。

 でも、その何気なさが、かえって距離の近さを感じさせる。


 気を遣いすぎず、でも雑でもない。

 そんなやり取りが、いくつも続いていた。


 さらに少しだけ遡る。


『講義終わった?』

『終わった』

『じゃあ、いつものとこ』

『了解』


 私はその文を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。


「……いつものとこ、って何」


 思わずつぶやく。

 その“いつもの”を、私は知らない。


 たしかに仲はよかったのだろう。

 会うことも多かったのだろう。

 でも、それ以上のことは分からなかった。


 どうしてこんなに連絡を取っていたのか。

 何をきっかけに近くなったのか。

 私にとって星野くんがどんな存在だったのか。


 そこだけが、きれいに抜け落ちている気がした。


 スマホを伏せて、私は天井を見上げる。


 仲がよかった。

 それはもう、たぶん間違いない。


 なのに、その事実を知っても、胸のざわつきの正体までは見えてこない。

 むしろ分からないことが増えた気さえした。


 しばらくぼんやりしていると、ふと机の上の二冊のノートが目に入った。

 何気なく手を伸ばし、机の前に座る。


 一冊は、星のことを書いていたノート。

 もう一冊は、星野くんのことを書いていたノートだった。


 どちらも見覚えはある。

 けれど、自分で書いたはずの中身だけが、今の私には少し遠い。


 私は少しためらってから、星野くんのノートを開いた。


 最初のページに、ただ一つ。


 名前


 星野くん


 それだけが書かれていた。


 次のページには、見出しのように「第一印象」とあって、その下に箇条書きが並んでいる。


 よく笑う。

 話しかけやすい。

 距離の詰め方が自然。

 押しつけがましくない。


 私は黙ったまま、その文字を目で追った。


 次のページ。


 話し方


 相手の返事を急がせない。

 無理に聞き出さない。

 「言いたくないならいいよ」と言える人。

 軽く冗談を言って空気を和らげる。


 その一つ一つが、今日会った星野くんの姿と重なっていく。


 さらにめくる。


 よく言うこと


「なんでもない顔じゃないけど」


「今日も変」


「寝不足?」


「ひとりで抱えすぎないで」


「言えないなら、言えるところだけでもいいんじゃない」


 私はそこで、少しだけ息を止めた。


 どの言葉も、ただ書き留めたというより、残しておきたかったみたいだった。


 次のページには「性格」とあった。


 やさしい。

 よく気がつく。

 人を安心させる。

 相手のペースを尊重する。

 困っている人を放っておけない。


 その次には「しぐさ」。


 困ったように笑う。

 少し首をかしげる。

 ペットボトルを膝の上で回す癖。

 ドアを押さえて待っていてくれる。

 自然に隣を歩く。


 私は思わず指を止めた。


 こんなふうに、細かく書いていたんだ。


 ただ仲がいいだけで、ここまで見るだろうか。

 ただの友達相手に、こんなふうに言葉を拾って、しぐさを覚えて、書き残したりするだろうか。


 胸の奥が、また少しざわつく。


 次のページには、少しだけためらうような字で見出しが書かれていた。


 好きなところ(まだ自覚なし)


 笑うと安心する。

 一緒にいると息がしやすい。

 どうでもいい話ができる。

 沈黙でも気まずくならない。


「……まだ自覚なし、って」


 小さくつぶやいた声が、自分でも少し震えていた。


 その言葉だけで、当時の自分がどこにいたのか、少しだけ見える気がした。

 まだ認めきれていないのに、もう十分に特別だったのだ。


 そこでふいに、視界がにじんだ。


「……え」


 思わず目を瞬く。

 泣くような場面じゃないはずなのに、なぜだか涙が滲んでいた。


 悲しいわけじゃない。

 苦しいのとも少し違う。

 ただ胸の奥が、きゅうっと締めつけられるみたいに痛かった。


 指先でそっと目元を押さえてから、私はまたページをめくった。


 一緒にしたこと


 学食へ行った。

 ベンチで話した。

 講義へ一緒に移動した。

 カフェでお茶をした。

 駅まで一緒に歩いた。


 気になったこと


 女子から普通に話しかけられていた。

 友達が多そう。

 「悩みは多少ある」と言っていた。

 私を心配してくれている。


 文字を追うたびに、胸の奥が静かに揺れた。


 仲がよかった。

 それだけじゃない。


 私はたぶん、星野くんのことをずっと見ていた。

 知ろうとしていた。

 気にしていた。

 気づけば、少しずつ特別になっていた。


 でも、それでもまだ、決定的な言葉は出てこない。


 次のページをめくる。


 そこには「星について」と書かれていた。


 初めて確認した時は中サイズ。

 翌日、少し小さくなっていた。

 カフェで一瞬揺れたように見えた。

 原因は不明。


 その下には「仮説」。


 時間で変化する?

 人と話すと変わる?

 感情と関係がある?

 悩みと関係がある?

 私と話しても変わる?


 私は眉を寄せた。


 星野くんのことを書いたノートの中に、星のことまで混ざっている。

 それはたぶん、私の中でその二つが無関係じゃなかったからだ。


 星野くんを見ていた。

 星も見ていた。

 その変化の理由を知りたかった。


 どうしてそこまで気にしていたのか。

 どうしてそんなふうに観察していたのか。


 答えは、もうかなり近くまで来ている気がした。


 ページをめくる。

 その中で、あるページに目が止まった。


 端の方に、小さく書かれた一文。


『ちゃんと伝えたい』


 私は瞬きをした。


 自分の字だ。

 見慣れた、自分の筆跡。


 その短い言葉を見ただけで、胸の奥がまた強く締めつけられる。

 にじんだ視界の向こうで、文字が少しだけ揺れた。


 次のページをめくる。

 そこには、また少しだけ不自然な余白があった。

 何かを書こうとして、やめたみたいな跡。


 さらにめくる。


 そして、あるページで、私は完全に手を止めた。


『星野くんに、ちゃんと好きって言う』


 心臓が、大きく鳴った。


 その文字を見た瞬間、頭の中が一度真っ白になる。


「……え」


 声が、かすれた。


 もう一度見る。

 何度見ても同じだった。


 星野くんに、ちゃんと好きって言う。


 ぽろりと、涙がノートの上に落ちた。


 どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。


 意味は分かる。

 言葉としては、何も難しくない。

 なのに、それが自分の字で書かれているという事実だけが、うまく現実に結びつかなかった。


 私は、この人を好きだったらしい。

 でも、その言葉を書いた時の自分が、どんな顔をしていたのかは分からない。


 胸の奥がざわつく。

 でも、それは“思い出した”感覚とは違った。


 知っただけだ。

 記録として、自分の気持ちを知っただけ。


 今の私は、その気持ちそのものを思い出せない。


 好きだったはずなのに。

 伝えたいと思うほど大事だったはずなのに。

 その理由も、その温度も、今の私の中にははっきり残っていない。


 それが、ひどく不思議で、少しだけ怖かった。


 私はノートを持ったまま、椅子の背にもたれた。


 もしこれを事故の前に書いたのだとしたら。

 私はそのあと、どうしたんだろう。


 ちゃんと伝えたんだろうか。

 それとも、伝えられなかったんだろうか。


 そして何より、星野くんはどう思っていたんだろう。


 そこだけは、ノートを見ても分からない。


 私が好きだったことは分かる。

 伝えようとしていたことも分かる。

 でも、それに対して星野くんがどんな気持ちを持っていたのかは、どこにも書いていない。


 もしかしたら、何も知らなかったのかもしれない。

 もしかしたら、もう伝えていたのかもしれない。

 もしかしたら――


 考えかけて、私は小さく首を振った。


 分からない。

 想像しても、答えにはならない。


 そのとき、スマホが小さく震えた。


 びくりとして画面を見る。

 通知には、星野くんの名前が表示されていた。


『今日はありがと。無理すんなよ』


 たったそれだけのメッセージ。


 短い。

 いつも通りみたいに見える。

 でも今の私には、その“いつも通り”が分からない。


 私は返信画面を開いたまま、しばらく指を止めた。


 この人は、私の気持ちを知っているんだろうか。

 知らないんだろうか。


 もし知っていたら、今日どんな気持ちでここに来たんだろう。

 もし知らないなら、私はこれからどうすればいいんだろう。


 何度か文字を打っては消して、結局、短く返した。


『来てくれてありがとう。星野くんも休んでね』


 送信すると、すぐに既読がついた。

 それだけで、胸が少しだけ落ち着かなくなる。


 私はスマホを伏せて、もう一度ノートに目を落とした。


『星野くんに、ちゃんと好きって言う』


 その文字は、さっきよりもずっと重く見えた。


 私はこの人を好きだったらしい。

 でも、星野くんが私をどう思っていたのかは分からない。

 今の私が、これからどうしたいのかも、まだ分からない。


 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。


 このまま何も知らないままでは、たぶん前に進めない。


 事故の前の私が何を伝えようとしていたのか。

 星野くんと、どんな時間を過ごしていたのか。

 そして、あの人が私をどう思っていたのか。


 それを知るには、たぶん――本人に聞くしかない。


 その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が少しだけ強く鳴った。


 怖い、と思う。

 でも同時に、知りたいとも思う。


 忘れてしまった自分の気持ちを、他人から教えてもらうのは少し怖い。

 それでも、知りたい。

 知らないままにしておく方が、もっと苦しい気がした。


 窓の外は、もうすっかり夕暮れになっていた。

 薄い橙色の光が机の上のノートを照らしている。


 私はそのページにそっと指を置く。


「……聞くしか、ないよね」


 小さくつぶやいた声は、静かな部屋の中にすぐ溶けていった。


 返事はない。

 でも、その言葉を口にしたことで、胸の中にあった曖昧な迷いが、ほんの少しだけ形を持った気がした。


 失くしたものを取り戻せるかは分からない。

 知ったところで、前の自分に戻れるとも限らない。


 それでも。


 星野くんのことを、このまま分からないままにはしたくなかった。


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