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第35話 帰る場所

 翌日の午前、私は退院した。


 会計を待つあいだ、待合の椅子に座ってぼんやり人の流れを見ていた。

 昨日と同じように、誰の頭の上にも星はない。

 それを確かめるたび、胸の奥に小さな空洞が広がるような気がした。


「夏美、立てる?」

「うん」


 母に声をかけられて立ち上がる。

 まだ少しふらつくけれど、歩けないほどじゃない。

 病院の自動ドアを抜けると、外の空気は思ったよりぬるくて、夏の匂いがした。


 たった数日いただけなのに、外の世界が少し遠く感じる。

 車に乗り込んでシートベルトを締めると、ようやく本当に病院を出るんだという実感が湧いた。


「帰ったらちゃんと休むのよ」

「分かってる」

「友達に連絡するにしても、無理しないこと」

「……うん」


 その言葉に、私は少しだけ視線を落とした。


 友達。

 その中に、星野くんも入るんだろうか。


 昨日見たスマホの履歴が頭をよぎる。

 通話履歴にも、メッセージにも、何度も残っていた名前。

 星野透。


 知っているはずなのに、近さの中身だけが分からない。

 その違和感は、病院を出た今も消えていなかった。


 家に着くと、玄関の匂いに少しだけほっとした。

 靴を脱いで廊下を歩く。

 見慣れたはずの家の中は、どこか静かで、少しだけよそよそしい。


「お昼はあとでいい?」

「うん。ちょっと部屋行く」

「無理しないでね」


 母にそう言われて、私は二階へ上がった。


 自室のドアを開ける。


 机、本棚、ベッド、カーテン。

 全部いつものままだった。

 何も変わっていないはずなのに、部屋の真ん中に立ったまま、私はしばらく動けなかった。


 戻ってきた。

 そのはずなのに、ちゃんと戻れていない気がする。


 ゆっくりベッドに腰を下ろす。

 枕元に置いたスマホを手に取って、しばらく画面を見つめた。


 昨日は開けなかったトーク画面を、今日は少しだけ開いてみる。


 星野透。


 画面の中には、短いやり取りがいくつも並んでいた。


『今どこ?』

『もう着く』

『ごめん、ちょっと遅れる』

『分かった、待ってる』


 何気ない言葉ばかりだ。

 でも、その何気なさが逆に胸に引っかかった。


 こんなふうに連絡を取り合う相手だったんだ。

 もっと気軽に、もっと当たり前に。


 スクロールする指先が少し止まる。

 そこに並ぶ言葉の温度は、たしかに近い。

 けれど、その時間を過ごしていたはずの自分の気持ちだけが、どうしても思い出せなかった。


「……仲よかったんだ」


 つぶやいてみても、どこか他人事みたいだった。


 写真の一覧も開いてみる。

 大学の友達と一緒に撮ったものが何枚かある。

 その中に、星野くんもいた。


 並んで写っている。

 同じ場所にいて、同じ時間を過ごしていた証拠が、こんなにはっきり残っている。


 なのに私は、そのとき何を話して、どんなふうに笑っていたのかを思い出せない。


 胸の奥が少しだけ苦しくなって、私はスマホを伏せた。


 そのとき、階下でインターホンの音が鳴った。


 来客だろうか、とぼんやり思っていると、少しして母の声が聞こえた。


「夏美ー」


 私はドアの方を見る。


「なにー?」

「お友達、来てるわよ」


 心臓が、どくんと鳴った。


 お友達。


 その言い方に、なぜか嫌な予感にも似た緊張が走る。

 私はゆっくり立ち上がって、部屋を出た。


 階段を下りる足が、少しだけ重い。

 玄関の方へ向かう。

 そして廊下の先に立つ姿が見えた瞬間、私は息を止めた。


 星野くんだった。


 見覚えのある顔。

 ちゃんと知っている顔。

 名前も分かる。


 でも、胸の奥が小さく揺れる理由だけが分からない。


「……星野くん」

「よかった。起きてた」


 少しだけ安心したように、星野くんが笑う。

 その笑い方にも見覚えがあった。

 たぶん、何度も見てきたはずの顔だ。


「退院したって聞いたから。顔、見に来た」

「……そっか」

「大丈夫?」

「うん。まだちょっと頭痛いけど」


 そこまで答えてから、私はふと気づく。


 どうしてこの人は、こんなに自然にここにいるんだろう。

 どうして母も、当たり前みたいに家に通しているんだろう。


 大学の友達だから。

 それだけなら説明はつく。


 でも、それだけじゃない気がした。


「星野くんも……怪我、大丈夫なの?」


 口をついて出た言葉に、自分で少し驚く。

 どうしてそんなことを聞いたのか、分からなかった。


 星野くんは一瞬だけ目を見開いて、それからすぐに小さく笑った。


「俺は平気。かすり傷みたいなもんだから」

「……そうなんだ」


 怪我。

 どうして私は今、それを聞いたんだろう。


 頭の奥が、また少しだけ鈍く痛む。


 星野くんはそんな私を気づかうように、少しだけ声をやわらげた。


「無理して思い出さなくていいから」

「え?」

「いや……まだ本調子じゃないだろ」


 その言い直し方が、妙に引っかかった。

 まるで、私が何かを思い出せていないことを知っているみたいだった。


 でも、問い返す前に母が横から口を挟む。


「立ち話もなんだし、上がってもらう?」

「あ、いえ。今日は顔見に来ただけなんで」


 星野くんはそう言って、軽く首を振った。

 その遠慮の仕方が、逆に少しだけ寂しく見えた。


「ほんとに大丈夫?」

 私が聞くと、星野くんは一瞬だけ黙ったあと、いつもの調子を作るみたいに笑った。


「それ、こっちの台詞」

「……そっか」


 私も少しだけ笑う。

 ちゃんと会話はできる。

 気まずすぎるわけでもない。

 なのに、どこか見えない膜が一枚あるみたいだった。


 前は、こんな距離じゃなかった気がする。

 でも、じゃあどんな距離だったのかと聞かれると、答えられない。


「また連絡する」

「うん」

「ちゃんと休めよ」

「星野くんも」


 短いやり取りのあと、星野くんは玄関を出ていった。


 ドアが閉まる音がして、家の中が静かになる。

 私はしばらくその場に立ったまま、閉じた扉を見つめていた。


「優しそうな子ね」

 母が何気なく言う。


「……うん」

「心配して来てくれたのね」

「そう、みたい」


 それだけ答えて、私はゆっくり階段を上がった。


 部屋に戻ってベッドに座る。

 さっきまでの会話を頭の中でなぞってみる。


 星野くん。

 知っている顔。

 知っている声。

 普通に話せる相手。


 なのに、胸の奥に残るざわつきだけが消えない。


 どうしてあの人が来たとき、あんなに心臓が鳴ったんだろう。

 どうして顔を見ただけで、少しだけ苦しくなったんだろう。

 どうして私は、あの人の怪我を気にしたんだろう。


 考えれば考えるほど、分からなくなる。


 私は枕元のスマホを手に取った。

 画面には、さっきまで開いていた星野くんとのトークが残っている。


 その一番上にある名前を、私はじっと見つめた。


 星野透。


 知っているはずなのに、知らないことが多すぎる。

 でもきっと、私が忘れているのは、どうでもいいことじゃない。


 そんな気がした。


 窓の外では、夕方の光が少しずつ薄れていく。

 私はスマホを握ったまま、静かな部屋の中でひとり目を閉じた。


 星が消えたこと。

 思い出せない時間。

 そして、星野くんのこと。


 何かがつながっている気がするのに、その形だけがまだ見えなかった。


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