表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
34/40

第34話 見えないもの

 事故から三日が過ぎた。


 最初の一日は、目を覚ましたり眠ったりを繰り返していた気がする。

 二日目は、医師や看護師に何度も同じような質問をされ、そのたびに自分の記憶の曖昧さを思い知らされた。

 そして三日目の朝、ようやく頭の重さにも少し慣れてきて、私は病室の窓から差し込む光をぼんやり眺める余裕ができていた。


「顔色、昨日よりいいわね」


 母がベッド脇の椅子に座ったまま言う。

 朝から来てくれていたらしい。


「そうかな」

「そうよ。ちゃんと受け答えもできてるし」


 私は小さく笑って、それから枕元の水に手を伸ばした。

 頭痛はまだ少しある。

 でも、耐えられないほどじゃない。

 吐き気も、最初よりはずっとましだった。


 朝の診察に来た医師は、カルテを見ながら穏やかに言った。


「経過は順調ですね。検査でも大きな異常は見られません」

「……はい」

「このまま問題がなければ、明日には退院できるでしょう」


 その言葉に、母がほっとしたように息をつく。


「よかった……」

「ただし、退院後もしばらくは安静にしてください。頭を打っていますから、無理は禁物です。記憶の混乱も、焦らず様子を見ましょう」

「分かりました」


 私はうなずいた。


 明日には退院。

 その響きに少しだけ安心する。

 けれど同時に、病院の外に出てもこの曖昧さが消えなかったらどうしよう、という不安もあった。


 診察が終わったあと、看護師に付き添われて少しだけ廊下を歩くことになった。

 ずっとベッドの上にいたせいで、足元が少し頼りない。

 それでも、病室の外に出るだけで気分が変わる気がした。


「無理しないでくださいね」

「はい」


 ゆっくり歩く。

 白い廊下。

 すれ違う看護師。

 診察室の前で待つ人たち。

 車椅子を押す家族の姿。


 何気なくその人たちを見た瞬間、私は足を止めた。


「……あれ」


「どうしました?」

 看護師が振り返る。


 私は答えず、廊下の向こうを見つめた。


 誰の頭の上にも、何もない。


 何度見ても同じだった。

 人がいて、顔があって、声があって、でもその上には何もない。

 空っぽだった。


 胸の奥がざわつく。


 おかしい。

 だって、前は見えていたはずだ。

 人によって大きさが違って、頭の上に浮かんでいて、それが当たり前だったはずなのに。


「相沢さん?」

「あ……すみません」


 私は慌てて歩き出した。

 でも、心臓の音が少し速くなっているのが分かった。


 病室に戻ると、母がすぐに気づいた。


「どうしたの? 顔色悪いわよ」

「……お母さん」

「なに?」

「星が、ない」


 母がきょとんとする。


「星?」

「みんなの頭の上。何もないの」

「……」


 母は一瞬黙って、それから困ったように笑った。


「夏美、昔もそんなこと言ってたでしょう」

「え?」

「小さいころ。人の頭の上に星が見えるって」

「……昔?」


 その言葉に、頭の奥がかすかに痛んだ。


 小さいころ。

 そんな話をしたことがあったような、なかったような。

 でも、それが“昔だけ”のことだったとは思えない。

 もっと近くまで、それは当たり前にあった気がする。


「心配して、一回ちゃんと検査もしたのよ」

「検査……」

「でも何も異常はなかったし、見えないのが普通だって言われたの。覚えてない?」

「……」


 私は答えられなかった。


 覚えていない、というより、うまく整理できなかった。

 母の言うことはたぶん本当だ。

 でも、自分の中では“見えていた”感覚の方がずっと自然だった。


「頭を打ったから、昔の記憶と今が少し混ざってるのかもしれないわね」


 母はそう言って、安心させるように笑った。

 冗談めかした口調だったけれど、私は笑えなかった。


 見えないのが普通。


 その言葉が、胸の奥に重く沈む。


 もし本当にそうなら、私がずっと見ていたものは何だったんだろう。

 ただの思い込みだったんだろうか。

 でも、あれほどはっきり見えていたものが、そんな簡単に“なかったこと”になるとは思えなかった。


 昼過ぎ、母が売店に行っているあいだ、私は一人でベッドに座っていた。

 静かな病室の中で、時計の音だけがやけに大きく聞こえる。


 ふと、枕元に置かれていた自分のスマホに目がいった。


 事故のあと、母が持ってきてくれたものだ。

 まだあまり触っていなかったけれど、少しだけならいいだろうと思って手に取る。


 電源を入れると、通知がいくつも溜まっていた。


 友達からのメッセージ。

 大学からの連絡。

 不在着信。


 ぼんやり画面を追っていた指が、ある名前のところで止まる。


 星野透。


 その名前を見た瞬間、私は小さく息を止めた。


「……星野くん」


 知っている。

 その名前はちゃんと知っていた。


 顔も思い浮かぶ。

 大学で話したこともある。

 それどころか、もっと普通に、もっと自然に関わっていた気がする。


 通話履歴を開く。

 そこにも、星野透の名前が何度も並んでいた。


 昨日。

 一昨日。

 その前も。


 メッセージの一覧にも、同じ名前がある。

 こんなに頻繁にやり取りしていたなら、きっとかなり近い相手だったはずだ。


 なのに、その“近さ”の中身だけが曖昧だった。


 私は星野くんを知っている。

 それは確かだ。

 でも、どんなふうに話していたのか。

 どんな時間を一緒に過ごしていたのか。

 そこだけが、白くぼやけている。


 トーク画面を開こうとして、指が止まる。


 見れば何か分かるかもしれない。

 でも、知るのが少し怖かった。


 もしそこに、今の自分が知らない自分がいたら。

 もしそこに、思い出せない何かがはっきり残っていたら。


 私はスマホを握ったまま、ゆっくり息を吐いた。


「……何してるの?」


 不意に声がして、顔を上げる。

 売店から戻ってきた母が、病室の入り口に立っていた。


「スマホ、見てた」

「疲れない程度にしなさいよ」

「うん」


 私は画面を消しかけて、少し迷ってから母を見た。


「お母さん」

「なに?」

「星野くんって……私と、仲よかった?」


 母は少しだけ目を丸くしたあと、すぐに自然な顔に戻った。


「星野くん? 大学のお友達でしょう?」

「……うん」

「最近はよく名前聞いてた気がするけど」


 その言い方は曖昧だった。

 知らないのか、知っていて言わないのかは分からない。


「どうしたの?」

「スマホに、名前がいっぱいあったから」

「そう」


 母はそれ以上深くは聞かなかった。

 たぶん、今の私に無理をさせないようにしているんだろう。


 私はもう一度スマホの画面を見る。


 星野透。


 その名前を見ていると、胸の奥が少しだけざわつく。

 嫌な感じじゃない。

 でも、落ち着くわけでもない。


 知っているはずなのに、遠い。

 遠いはずなのに、気になる。


 その感覚の意味が、自分でも分からなかった。


 窓の外では、午後の光が少しずつ傾き始めていた。

 白い壁に差し込む光を見つめながら、私はそっとスマホを伏せる。


 明日、退院する。


 家に帰れば、何か変わるだろうか。

 思い出せることが増えるだろうか。

 それとも、この曖昧さはそのままついてくるんだろうか。


 答えはまだ分からない。


 ただ一つ分かるのは、見えていたはずの星が、もうどこにもないこと。

 そして、星野透という名前だけが、今の私の中に小さな波紋を残していることだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ