第34話 見えないもの
事故から三日が過ぎた。
最初の一日は、目を覚ましたり眠ったりを繰り返していた気がする。
二日目は、医師や看護師に何度も同じような質問をされ、そのたびに自分の記憶の曖昧さを思い知らされた。
そして三日目の朝、ようやく頭の重さにも少し慣れてきて、私は病室の窓から差し込む光をぼんやり眺める余裕ができていた。
「顔色、昨日よりいいわね」
母がベッド脇の椅子に座ったまま言う。
朝から来てくれていたらしい。
「そうかな」
「そうよ。ちゃんと受け答えもできてるし」
私は小さく笑って、それから枕元の水に手を伸ばした。
頭痛はまだ少しある。
でも、耐えられないほどじゃない。
吐き気も、最初よりはずっとましだった。
朝の診察に来た医師は、カルテを見ながら穏やかに言った。
「経過は順調ですね。検査でも大きな異常は見られません」
「……はい」
「このまま問題がなければ、明日には退院できるでしょう」
その言葉に、母がほっとしたように息をつく。
「よかった……」
「ただし、退院後もしばらくは安静にしてください。頭を打っていますから、無理は禁物です。記憶の混乱も、焦らず様子を見ましょう」
「分かりました」
私はうなずいた。
明日には退院。
その響きに少しだけ安心する。
けれど同時に、病院の外に出てもこの曖昧さが消えなかったらどうしよう、という不安もあった。
診察が終わったあと、看護師に付き添われて少しだけ廊下を歩くことになった。
ずっとベッドの上にいたせいで、足元が少し頼りない。
それでも、病室の外に出るだけで気分が変わる気がした。
「無理しないでくださいね」
「はい」
ゆっくり歩く。
白い廊下。
すれ違う看護師。
診察室の前で待つ人たち。
車椅子を押す家族の姿。
何気なくその人たちを見た瞬間、私は足を止めた。
「……あれ」
「どうしました?」
看護師が振り返る。
私は答えず、廊下の向こうを見つめた。
誰の頭の上にも、何もない。
何度見ても同じだった。
人がいて、顔があって、声があって、でもその上には何もない。
空っぽだった。
胸の奥がざわつく。
おかしい。
だって、前は見えていたはずだ。
人によって大きさが違って、頭の上に浮かんでいて、それが当たり前だったはずなのに。
「相沢さん?」
「あ……すみません」
私は慌てて歩き出した。
でも、心臓の音が少し速くなっているのが分かった。
病室に戻ると、母がすぐに気づいた。
「どうしたの? 顔色悪いわよ」
「……お母さん」
「なに?」
「星が、ない」
母がきょとんとする。
「星?」
「みんなの頭の上。何もないの」
「……」
母は一瞬黙って、それから困ったように笑った。
「夏美、昔もそんなこと言ってたでしょう」
「え?」
「小さいころ。人の頭の上に星が見えるって」
「……昔?」
その言葉に、頭の奥がかすかに痛んだ。
小さいころ。
そんな話をしたことがあったような、なかったような。
でも、それが“昔だけ”のことだったとは思えない。
もっと近くまで、それは当たり前にあった気がする。
「心配して、一回ちゃんと検査もしたのよ」
「検査……」
「でも何も異常はなかったし、見えないのが普通だって言われたの。覚えてない?」
「……」
私は答えられなかった。
覚えていない、というより、うまく整理できなかった。
母の言うことはたぶん本当だ。
でも、自分の中では“見えていた”感覚の方がずっと自然だった。
「頭を打ったから、昔の記憶と今が少し混ざってるのかもしれないわね」
母はそう言って、安心させるように笑った。
冗談めかした口調だったけれど、私は笑えなかった。
見えないのが普通。
その言葉が、胸の奥に重く沈む。
もし本当にそうなら、私がずっと見ていたものは何だったんだろう。
ただの思い込みだったんだろうか。
でも、あれほどはっきり見えていたものが、そんな簡単に“なかったこと”になるとは思えなかった。
昼過ぎ、母が売店に行っているあいだ、私は一人でベッドに座っていた。
静かな病室の中で、時計の音だけがやけに大きく聞こえる。
ふと、枕元に置かれていた自分のスマホに目がいった。
事故のあと、母が持ってきてくれたものだ。
まだあまり触っていなかったけれど、少しだけならいいだろうと思って手に取る。
電源を入れると、通知がいくつも溜まっていた。
友達からのメッセージ。
大学からの連絡。
不在着信。
ぼんやり画面を追っていた指が、ある名前のところで止まる。
星野透。
その名前を見た瞬間、私は小さく息を止めた。
「……星野くん」
知っている。
その名前はちゃんと知っていた。
顔も思い浮かぶ。
大学で話したこともある。
それどころか、もっと普通に、もっと自然に関わっていた気がする。
通話履歴を開く。
そこにも、星野透の名前が何度も並んでいた。
昨日。
一昨日。
その前も。
メッセージの一覧にも、同じ名前がある。
こんなに頻繁にやり取りしていたなら、きっとかなり近い相手だったはずだ。
なのに、その“近さ”の中身だけが曖昧だった。
私は星野くんを知っている。
それは確かだ。
でも、どんなふうに話していたのか。
どんな時間を一緒に過ごしていたのか。
そこだけが、白くぼやけている。
トーク画面を開こうとして、指が止まる。
見れば何か分かるかもしれない。
でも、知るのが少し怖かった。
もしそこに、今の自分が知らない自分がいたら。
もしそこに、思い出せない何かがはっきり残っていたら。
私はスマホを握ったまま、ゆっくり息を吐いた。
「……何してるの?」
不意に声がして、顔を上げる。
売店から戻ってきた母が、病室の入り口に立っていた。
「スマホ、見てた」
「疲れない程度にしなさいよ」
「うん」
私は画面を消しかけて、少し迷ってから母を見た。
「お母さん」
「なに?」
「星野くんって……私と、仲よかった?」
母は少しだけ目を丸くしたあと、すぐに自然な顔に戻った。
「星野くん? 大学のお友達でしょう?」
「……うん」
「最近はよく名前聞いてた気がするけど」
その言い方は曖昧だった。
知らないのか、知っていて言わないのかは分からない。
「どうしたの?」
「スマホに、名前がいっぱいあったから」
「そう」
母はそれ以上深くは聞かなかった。
たぶん、今の私に無理をさせないようにしているんだろう。
私はもう一度スマホの画面を見る。
星野透。
その名前を見ていると、胸の奥が少しだけざわつく。
嫌な感じじゃない。
でも、落ち着くわけでもない。
知っているはずなのに、遠い。
遠いはずなのに、気になる。
その感覚の意味が、自分でも分からなかった。
窓の外では、午後の光が少しずつ傾き始めていた。
白い壁に差し込む光を見つめながら、私はそっとスマホを伏せる。
明日、退院する。
家に帰れば、何か変わるだろうか。
思い出せることが増えるだろうか。
それとも、この曖昧さはそのままついてくるんだろうか。
答えはまだ分からない。
ただ一つ分かるのは、見えていたはずの星が、もうどこにもないこと。
そして、星野透という名前だけが、今の私の中に小さな波紋を残していることだった。




