第33話 空白
目を開けると、白い天井が見えた。
少し遅れて、消毒液の匂いに気づく。
頭が重い。
体もだるい。
長く眠っていたというより、浅い眠りの底を何度も行き来していたような感覚だった。
ここがどこなのか、すぐには分からない。
ぼんやりしたまま視線を動かして、点滴の管と、白いカーテンと、ベッド脇の機械を見つける。
そこでようやく、病院だと思い至った。
「夏美?」
すぐ近くで声がした。
顔を向けると、母が椅子から身を乗り出していた。
「よかった。分かる?」
「……うん」
声は少しかすれていたけれど、返事はできた。
母は大きく息をついて、何度もうなずく。
「ちゃんと分かる? お母さん、分かる?」
「……分かる」
そう答えると、母は目に見えて力を抜いた。
「ちょっと待っててね」
そう言って、母は枕元のナースコールに手を伸ばした。
「目が覚めました。はい、今、受け答えもできます……お願いします」
受話器を戻してからも、母は落ち着かない様子で私の顔を見ていた。
「すぐ来るからね」
「……うん」
私はもう一度、天井を見上げた。
病院。
母。
自分の名前。
そこまでは分かる。
でも、どうしてここにいるんだろう。
考えようとすると、頭の奥が鈍く痛んだ。
反射的に手を動かしかけて、腕に違和感を覚える。
点滴の管がつながっていた。
少しして、看護師が病室に入ってきた。
「気がつかれたんですね」
やわらかい声がする。
「分かりますか?」
「……はい」
看護師は私の顔をのぞき込みながら、いくつか短く確認していく。
名前、呼びかけへの反応、気分の悪さの有無。
私はゆっくり答えた。
「先生をお呼びしますね」
看護師はそう言って、母に小さくうなずいた。
さらに少しして、医師が病室に入ってきた。
母もベッドのそばで姿勢を正す。
「相沢さん、分かりますか。ここは病院です」
医師が穏やかな声で言う。
「……はい」
「お名前は言えますか」
「相沢……夏美です」
「今日は何年の何月か分かりますか」
少し考える。
答えられる。
でも、その間に妙な不安が差し込む。
答えられることと、答えられないことがある気がした。
いくつかの質問に答えたあと、医師は小さくうなずいた。
「意識ははっきりしていますね。会話も問題ありません」
母がほっとしたように息をつく。
私は唇を少し湿らせてから、聞いた。
「……私、どうしてここに」
母と医師が一瞬だけ視線を交わした。
「交通事故です」
医師が言う。
「昨日の夕方、道路で車と接触して転倒しました。頭を打っています」
「……事故」
その言葉が、うまく自分の中に落ちてこない。
事故。
昨日。
夕方。
そこに何かがあるはずなのに、手を伸ばしても届かないみたいだった。
「大きな外傷はありません。打撲と擦り傷が中心です。ただ、頭を打った影響で、一時的に記憶が曖昧になっている可能性があります」
「記憶……」
「はい。頭を打ったあとに、事故の前後のことを思い出しにくくなるのは珍しくありません。多くは時間とともに少しずつはっきりしてきます。ただ、どのくらい戻るか、いつ戻るかには個人差があります。今は無理に思い出そうとしないでください」
私は黙ってうなずいた。
事故の前後。
思い出しにくい。
その説明は、妙にしっくりきた。
たしかに、昨日のことを考えようとすると、途中から何もない。
朝は。
大学は。
そこまでは、たぶん分かる。
でも、その先が曖昧だ。
何か大事なことがあった気がする。
でも、その輪郭がぼやけていて、つかめない。
「気分は悪くないですか」
医師が聞く。
「少し……頭が痛いです」
「それは自然な反応です。吐き気は?」
「少しだけ」
「分かりました。無理せず休んでください」
医師たちはいくつか注意事項を話してから病室を出ていった。
看護師が点滴を確認し、カーテンを少し整えてから続いて出ていく。
病室に静けさが戻る。
母がベッドのそばに座り直した。
「びっくりしたよ」
と、母が小さく言う。
「連絡が来たとき、本当に……」
「……ごめん」
「謝らなくていいの。ちゃんと話せるようになってよかった」
母の声はやわらかかった。
私は少しだけ目を伏せる。
「……事故って、私だけだったの?」
気づけば、そう聞いていた。
母は少し困ったように眉を寄せた。
「詳しいことは、お母さんもまだよく分からないの。病院から連絡が来て、慌てて来たから……」
「……そう」
「今はあまり考えなくていいって、先生も言ってたでしょう」
「うん」
私は目を閉じた。
頭の奥に、何かが引っかかっている。
誰かの声。
呼ばれた気がする。
強く名前を呼ばれたような。
でも、その先がない。
「無理に考えなくていいよ」
母が言う。
「先生もそう言ってたし」
「……うん」
私はもう一度目を開けた。
ぼんやりと天井を見上げる。
そのとき、ふと違和感を覚えた。
何だろう。
何かを確かめたい気がする。
私はゆっくり顔を少し動かした。
窓の方を見る。
白いカーテンの隙間から、夕方の薄い光が差し込んでいた。
それだけだった。
私は少しだけ眉を寄せる。
何を見ようとしたんだろう。
自分でも分からないまま、今度はそっと手を上げて、自分の頭の上に触れようとした。
でも当然、何かに触れるわけでもない。
包帯の感触が少しあるだけだ。
「どうしたの?」
と母が聞く。
「……ううん」
私は手を下ろした。
何かが足りない気がした。
でも、それが何なのか分からない。
夕方を過ぎるころ、父も病室に来た。
必要以上に明るく振る舞おうとしているのが分かって、少しだけ申し訳なくなる。
でも、その明るさに救われもした。
「大したことなくてよかったよ」
父が言う。
「頭打ったって聞いたときは焦ったけどな」
「……ごめん」
「だから謝るなって。気をつけろ、で終わる話ならそれでいい」
そう言って笑う。
私は小さくうなずいた。
気をつけろ、で終わる話。
本当にそうならいいのに、と思う。
夜になって、両親がいったん帰ることになった。
母は最後まで心配そうだったけれど、看護師に促されてようやく立ち上がった。
「何かあったらすぐ呼ぶのよ」
「うん」
「無理して考えないこと」
「分かった」
「明日また来るから」
「……うん」
病室に一人になる。
静かだった。
機械の音と、廊下を通る足音だけが時々聞こえる。
私は目を閉じた。
昨日のことを思い出そうとする。
朝、起きて。
大学に行って。
講義を受けて。
そこまでは、何となくつながる。
でも、その先が急に曇る。
誰かと話していた気がする。
何かを言おうとしていた気がする。
大事なことだった気がする。
でも、そこから先は空白だった。
空白の手前に、感情だけが残っている。
焦り。
緊張。
ためらい。
それから――やさしい声。
ゆっくりでいいよ。
不意に、その言葉が頭の奥に浮かんだ。
私ははっとして目を開ける。
誰の声だろう。
知っている気がする。
すごく近くで聞いた気がする。
でも、思い出せない。
胸の奥がざわつく。
思い出せそうで思い出せないことが、こんなに落ち着かないなんて知らなかった。
私はゆっくり息を吐いて、もう一度天井を見た。
白い天井。
白い壁。
静かな病室。
何かが終わったような気がした。
でも、何が終わったのかも分からない。
窓の外は、もう暗くなっていた。
私はもう一度だけ、何となく窓の方を見た。
ガラスには、病室の白い明かりを背にした自分の姿が、薄く映っていた。
ぼんやりとした輪郭。
見慣れているはずの自分なのに、どこか違うものを見ているような気がした。
何が違うのかは分からない。
ただ、胸の奥に小さな空白だけが残る。
それなのに、どうしてか少しだけ寂しいと思った。




