第32話 言おうとした日
朝、目が覚めた瞬間から、今日はちゃんと話そうと思っていた。
理由はうまく言えない。
昨日の帰り道に交わした「また明日」が、思っていたよりずっと胸に残っていたからかもしれない。
それとも、何も言えないまま時間だけが過ぎていくことに、もう耐えられなくなっていたからかもしれない。
布団の中でしばらく天井を見つめてから、私はゆっくり起き上がった。
洗面台の前に立つ。
鏡の中の自分の頭上には、今日も星があった。
小さい光。
見慣れたとはまだ言えないけれど、もう驚きはしない。
ただ、その小ささに胸がざわつく。
家を出て、空を見上げる。
星野くんの星も、同じ大きさだった。
同じだ、と思う。
その事実に少しだけ息が詰まる。
私の星と、星野くんの星は、ずっと同じようにそこにある。
同じように小さくなっていく。
それが何を意味しているのか分からないまま、今日まで来てしまった。
でも今日は、言う。
私にも星が出たこと。
ずっと見えていたこと。
こわいこと。
それでも、明日も会いたいと思ってしまうこと。
そこまで考えて、私は小さく息を吐いた。
言葉にしてしまえば、何かが変わる気がした。
でも、変わらないままの方がもっとこわい。
大学へ向かう道の途中でも、私は何度も心の中で言う練習をした。
私にも星が出たんだ。
たぶん、同じものだと思う。
ずっと言えなくてごめん。
こわい。
どれも不自然で、どれも足りない気がした。
でも完璧な言い方なんて、たぶん最初からない。
教室に入ると、星野くんはまだ来ていなかった。
私は席に座って、鞄を机の横にかける。
落ち着かない。
今日はちゃんと話すと決めたはずなのに、まだ本人がいないだけでこんなに緊張するなんて思わなかった。
少しして、後ろのドアが開く音がした。
「おはよ」
振り向くと、星野くんが立っていた。
「……おはよう」
「何、その顔」
「どの顔」
「なんか、朝から決意してそうな顔」
「何それ」
「分かりやすい」
「そんなことない」
「ある」
「……ない」
「あるって」
いつもの調子で笑う声。
私はそれにつられて少しだけ口元をゆるめた。
「今日は昨日より元気そう」
「そう見える?」
「少なくとも、一昨日よりは」
「比較対象が細かい」
「ちゃんと見てるから」
「……」
「何」
「別に」
「またそれ」
「ほんとに別に」
「信用ないなあ」
後ろの席に座る気配がする。
私は前を向いたまま、指先をぎゅっと握った。
今、振り向けば言えるかもしれない。
でも教室にはまだ人が多い。
朝のざわめきの中で話すことじゃない気がして、私はそのまま口を閉じた。
一限の講義が始まる。
先生の声が遠く聞こえる。
ノートを取る手は動いているのに、頭の中では別のことばかり考えていた。
いつ言う。
どこで言う。
どうやって言う。
休み時間。
昼休み。
帰り道。
今日のどこかで、ちゃんと話す。
そう決めているのに、時間が進むほど緊張は増していく。
一限が終わると、星野くんが後ろから声をかけてきた。
「相沢さん」
「何」
「今日、ほんとに何かある?」
「……何で」
「朝からずっと、何か言いたそう」
「そんなに?」
「そんなに」
「……」
「当たってる?」
「……半分くらい」
「半分なんだ」
「全部じゃない」
「じゃあ残り半分は?」
「言わない」
「意味ないじゃん」
「ある」
「どこに」
「私の中に」
「何それ」
少し笑う声。
そのやり取りに救われながら、私はやっぱり言えなかった。
次の教室へ向かう途中、廊下の端で人の流れが切れた瞬間があった。
窓際に薄い光が落ちている。
今なら、と思う。
「あの」
「ん?」
「私、ちょっと話したいことが――」
そこまで言ったところで、後ろから同じ講義を受けていた学生に声をかけられた。
「星野、次のレポートさ」
「あ、うん」
会話が途切れる。
私は口を閉じた。
星野くんはすぐにこちらを見た。
「ごめん、何?」
「……何でもない」
「いや、今絶対何でもなくなかったでしょ」
「あとでいい」
「あとで?」
「……うん」
「分かった」
分かった、と言ってくれる。
それだけで少しだけ安心して、同時に逃げてしまったことが苦しくなる。
昼休みは、結局友達も一緒になってしまった。
四人で学食の席に座り、他愛ない話をしながら食べる。
笑うことはできる。
返事もできる。
でも、心のどこかはずっと落ち着かないままだった。
向かいに座る星野くんが、時々こちらを見る。
たぶん、朝からの様子を気にしている。
私はそのたびに視線をそらした。
食後、友達と別れて廊下を歩いていると、星野くんが隣に並んだ。
「さっきの、あとでってやつ」
「……うん」
「今日のうち?」
「今日のうち」
「じゃあ待つ」
「待たなくていい」
「いや、待つよ」
「何で」
「相沢さんが珍しく自分から話したいって言ったから」
「……珍しい?」
「かなり」
「そう」
「だから、ちゃんと聞く」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
ちゃんと聞く。
それだけのことなのに、逃げ場がなくなる。
でも同時に、逃げたくないとも思う。
「……うん」
私は小さくうなずいた。
午後の講義は、午前よりもっと落ち着かなかった。
今日のうちに話すと約束してしまったからだ。
もう先延ばしにはできない。
帰り道には、きっと言う。
私にも星が出たこと。
同じ大きさで変わっていること。
こわいこと。
でも、こわいだけじゃないこと。
最後の一つを考えるたびに、胸が苦しくなる。
こわいだけじゃない。
明日も会いたい。
こうして隣を歩く時間が終わってほしくない。
だからこそ、星がこわい。
講義が終わる。
教室の空気が一気にほどけて、椅子を引く音や話し声が重なる。
「帰る?」
と星野くんが聞く。
「……うん」
「じゃ、一緒に行こ」
「うん」
鞄を持って立ち上がる。
教室を出て、階段を下りて、校舎の外へ出る。
夕方の空は薄く曇っていた。
駅までの道を並んで歩く。
昨日と同じ道。
でも今日は、昨日よりずっと静かだった。
「緊張してる?」
と星野くんが言う。
「……してない」
「してる顔」
「顔で判断しないで」
「分かりやすいんだから仕方ない」
「そればっかり」
「だってほんとだし」
「便利だね」
「便利だよ」
少しだけ笑う。
でも、そのあとすぐに沈黙が戻る。
交差点が近づく。
信号は赤だった。
私たちは歩道の端で立ち止まる。
車の音。
人の話し声。
風の気配。
私は自分の指先を見つめて、それからゆっくり顔を上げた。
「星野くん」
「ん?」
「私、話したいことがある」
言えた。
たったそれだけなのに、胸が大きく鳴る。
「うん」
星野くんは、まっすぐこちらを見た。
「聞くよ」
その声がやさしくて、余計に喉が詰まる。
「私……」
そこで言葉が止まる。
何から言えばいいのか分からない。
星のこと。
こわいこと。
ずっと言えなかったこと。
全部が一度に押し寄せてきて、うまくまとまらない。
「ゆっくりでいいよ」
と星野くんが言う。
私は小さく息を吸った。
そのときだった。
視界の端で、信号が変わった気がした。
人の流れが少し動く。
私はちゃんと確認しないまま、一歩前に出ていた。
頭の中はまだ、言わなきゃ、でいっぱいだった。
「相沢さん!」
強く名前を呼ばれる。
はっとして顔を上げた瞬間、近くで短いブレーキ音がした。
何が起きたのか分かるより先に、腕を強く引かれる。
体が大きく傾く。
視界が揺れる。
ぶつかる音。
地面の硬さ。
息が詰まる。
一瞬遅れて、頭の奥に鈍い痛みが走った。
うまく息ができない。
何かを言おうとしても、声にならない。
ぼやける視界の中で、すぐ近くに星野くんの姿が見えた。
倒れたまま、こちらに手を伸ばしている。
「相沢さん、大丈夫」
声が聞こえる。
でも遠い。
「相沢さん!」
ごめん、と思った。
言おうとしていたことも、
まだ何も伝えられていないことも、
一瞬で遠ざかっていく。
視界の端で、空が揺れていた。
その向こうにあったはずの星が、見えた気がした。
でも次の瞬間には、もう何も分からなくなっていた。




