第31話 少しだけ約束
朝、目が覚めると、最初に天井を見た。
そのあとで、ああ、と思い出す。
確認しなくても分かっているのに、私はやっぱり鏡の前に立っていた。
少しだけ顔を上げる。
頭の上に、淡い星が浮かんでいる。
昨日と同じ。
小さいまま、静かにそこにある。
私は息をついて、支度を始めた。
もう驚きはしない。
でも慣れたわけでもない。
見えるたびに胸の奥がざわつくのは、たぶん今日も変わらない。
家を出て、空を見上げる。
曇り空の向こうに見える星野くんの星も、同じ大きさだった。
同じだ、と思う。
そのたびに少しだけ安心して、同時に少しだけこわくなる。
自分だけじゃないことに救われるのに、ふたりとも同じだという事実からは逃げられない。
大学へ向かう足取りは、昨日より少しだけ軽かった。
理由は分からない。
たぶん、昨日の最後に「次こそ」と思えたからだ。
教室に入ると、今日は星野くんがまだ来ていなかった。
私は席に座って、鞄からノートを出す。
少しだけ落ち着かない。
昨日、駅で言えなかったことを思い出す。
あのとき、もう少しだけ勇気があれば何か変わったんだろうか。
でも、変わった先が何なのかは分からない。
後ろのドアが開く音がして、私は思わず振り向いた。
「おはよ」
星野くんが、いつも通りの顔で立っていた。
「……おはよう」
「今日は昨日よりちょっとまし」
「何が」
「顔」
「失礼」
「でもほんと」
「そんなにひどかった?」
「昨日はだいぶ」
「……見すぎじゃない」
「見える位置にいるから」
「言い訳」
「事実」
そのやり取りに、少しだけ笑ってしまう。
星野くんがそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「今の方がいい」
「何が」
「その顔」
「……うるさい」
「はいはい」
後ろの席に座る気配がする。
私は前を向きながら、少しだけ肩の力を抜いた。
講義が始まるまでの短い時間、私は何度か振り向きそうになった。
言おうと思えば、今だって言えるのかもしれない。
でも、朝の教室のざわめきの中では、やっぱり言葉がまとまらなかった。
一限が終わると、星野くんが机を軽く叩いた。
「次、移動だよ」
「分かってる」
「ほんとに?」
「子どもじゃない」
「今日はちょっと危なっかしいから」
「まだ言うの」
「言う」
「しつこい」
「心配してるだけ」
「……」
「ほら、行こ」
並んで教室を出る。
廊下は人が多くて、肩が触れそうなくらい近いのに、話したいことはやっぱり言えない。
次の教室へ向かう途中、階段の踊り場で少しだけ人の流れが途切れた。
窓から薄い光が入って、床に白く広がっている。
「相沢さん」
「何」
「今日、昼どうする?」
「どうするって」
「学食混んでたら外でもいいし」
「外?」
「コンビニでも買って、どっか座るとか」
「……別にいいけど」
「じゃあそうしよ」
「決めるの早いね」
「迷ってると混むから」
「合理的」
「でしょ」
その何でもない会話が、妙にうれしかった。
昼の予定を一緒に決める。
それだけのことなのに、少し先の時間が自然に約束されたみたいで、胸の奥がやわらかくなる。
昼休み、学食は案の定混んでいて、私たちはコンビニでパンと飲み物を買って校舎裏のベンチに座った。
風は少し強かったけれど、外の方が気が楽だった。
「なんか久しぶりな気がする」
と星野くんが言う。
「何が」
「こういうの」
「そう?」
「最近、相沢さんずっと余裕なさそうだったから」
「……そんなことない」
「ある」
「またそれ」
「だってほんとだし」
「便利だね、その言い方」
「便利だよ」
パンの袋を開けながら、星野くんが少しだけ笑う。
私は缶のプルタブを開けて、小さく息をついた。
今なら、少しは話せるかもしれない。
そう思うのに、やっぱり核心には触れられない。
「昨日さ」
と星野くんが言った。
私は顔を上げる。
「駅で、何か言おうとしてたよね」
「……」
「無理に聞くつもりはないけど」
「……うん」
「もし言えるようになったらでいいから」
やわらかい声だった。
待ってくれているのが分かる。
そのことがありがたくて、苦しい。
「……そのうち」
と私は言った。
「うん」
「ちゃんと話す」
「そっか」
「……たぶん」
「たぶんなんだ」
「絶対って言うと、言えなくなりそうだから」
「何それ」
「分かんない」
「でも、相沢さんっぽい」
「どういう意味」
「慎重」
「それ、遠回しに面倒って言ってる?」
「言ってない」
「今ちょっと思ったでしょ」
「少しだけ」
「ひどい」
「否定しきれない」
笑ってしまう。
星野くんも笑う。
その時間が、思っていたよりずっとやさしかった。
話せてはいない。
でも、話すつもりだとは言えた。
それだけで少しだけ前に進めた気がした。
午後の空き時間、図書館に寄ることになった。
課題の参考資料を探すためだったけれど、半分くらいは一緒にいるための口実みたいにも思えた。
「これ、前に言ってたやつ?」
と星野くんが本棚の前で聞く。
「うん、たぶんそれ」
「たぶん?」
「表紙までは覚えてない」
「雑」
「必要なとこだけ分かればいいの」
「相沢さんらしい」
「何それ、今日そういうの多くない?」
「観察の成果」
「やめて」
「無理」
小声でそんなやり取りをしながら、本を探す。
静かな場所なのに、不思議と気まずくなかった。
返却カウンターの近くで、星野くんが借りる本を手にしながら言った。
「これ終わったら、今度ちゃんと見せて」
「何を」
「ノート」
「……何で」
「前、ちょっと気になるって言ったら隠したでしょ」
「隠してない」
「隠してた」
「見せるほどのものじゃないし」
「じゃあ余計気になる」
「面倒」
「言った」
「言ってない」
「顔に出てる」
「出てない」
そんなふうに言い合ってから、星野くんが少しだけ真面目な声になる。
「でも、今度でいいから」
「……」
「見せたくなったらでいい」
私は返事をしなかった。
できなかった、の方が近い。
ノート。
そこには、星のことも、言えないことも、少しずつ書いてある。
見せられるわけがない。
でも、見せたくないとも言い切れない自分がいた。
図書館を出るころには、空が少しだけ明るくなっていた。
雲の切れ間から薄い光が落ちて、校舎の窓が白く光っている。
「今日、ちょっとだけ元気になった?」
と星野くんが聞く。
「……少しだけ」
「よかった」
「何で星野くんが安心するの」
「心配してたから」
「ずっと?」
「まあ、それなりに」
「曖昧」
「全部言うと調子乗るでしょ」
「乗らない」
「どうだか」
「失礼」
「二回目」
「数えてるの?」
「なんとなく」
「暇なんだ」
「昨日も同じこと言ってた」
「……ほんとだ」
「覚えてた」
「そこは忘れて」
「無理」
駅までの道を、今日は昨日よりゆっくり歩いた。
急ぐ理由がないみたいに、自然と歩幅がそろう。
交差点の手前で信号が赤になって、私たちは立ち止まった。
夕方の風が少しだけ冷たい。
「そういえば」
と星野くんが言う。
「何」
「来週の課題、まだ手つけてない」
「早くない?」
「早いけど、どうせまた分かんないとこ出る」
「人任せ」
「頼りにしてる」
「都合いいね」
「うん」
「否定しないんだ」
「しない」
「……ひどい」
「じゃあ今度、ちゃんと教えて」
「今度、ね」
「うん、今度」
その“今度”が、胸に残る。
今度。
また会う前提の言葉。
次があることを疑っていない声。
信号が青に変わる。
私たちはまた歩き出した。
駅の前で別れるとき、星野くんが軽く手を上げた。
「じゃあまた明日」
「……うん」
「明日はもう少し普通だといいね」
「普通って何」
「今日くらい」
「曖昧」
「でも昨日よりよかった」
「……そうかも」
「じゃ、また」
「また明日」
その言葉を交わしたあと、私は少しだけその場に立ち止まった。
また明日。
今度。
ちゃんと教えて。
どれも軽い言葉のはずなのに、今日は妙に大事に思えた。
家に帰って、鏡の前に立つ。
頭の上の星は、まだそこにあった。
小さいまま、静かに光っている。
机に向かって、先に星のノートを開く。
今日も星は同じ大きさだった。
朝、鏡で見たときも、空を見上げたときも、帰ってきてからも、ずっと同じだった。
星野くんの星と、私の星は同じ大きさだった。
今のところ、昨日から大きな変化はない。
そこまで書いて、ノートを閉じる。
少しだけ息をついてから、今度はもう一冊を開いた。
今日は少しだけ普通に笑えた。
昼の予定を一緒に決めたり、図書館に行ったり、帰り道に今度の話をしたりした。
どれも大したことじゃないのに、少し先のことを一緒に話せるのがうれしかった。
未来の約束みたいで、少し安心した。
でも、安心しきれない。
星を見るたびに、何かが近づいている気がする。
それでも今日は、明日が来ることを少しだけ信じたくなった。
私は最後に、小さく書き足した。
次こそ、ちゃんと話したい。
でも今日は、また明日って言えただけで少しうれしかった。
書き終えてノートを閉じる。
胸の奥にはまだ不安が残っている。
それでも今日は、その不安の隣に、少しだけやわらかいものがあった。




