第30話 言えないまま
朝、目が覚めて最初にしたのは、鏡を見ることだった。
洗面台の前に立って、少しだけ顔を上げる。
鏡の中の自分の頭上に、淡い星が浮かんでいた。
昨日見つけたものと同じ。
夢じゃなかったのだと、改めて思う。
小さい光。
でも、確かにそこにある。
私はしばらく鏡の前で動けなかった。
見えてしまうと、もう見なかったことにはできない。
顔を洗って、支度をして、家を出る。
玄関の扉を閉めたあと、私はまた足を止めた。
見上げる。
曇った朝の空の向こうに、星野くんの星が見える。
そして、自分の頭の上にも同じものがある。
同じ大きさだった。
胸の奥が、ゆっくり冷えていく。
昨日はただ、自分にも出たことがこわかった。
でも今日は、それだけじゃない。
星野くんの星と、自分の星が同じ大きさでそこにある。
それが意味することを考えたくなくて、私はすぐに視線を落とした。
大学へ向かう道のりが、いつもより少し長く感じた。
教室に入ると、星野くんはもう来ていた。
席に着く前に目が合う。
「おはよ」
「……おはよう」
「今日は昨日より元気ないね」
「会ってすぐそれ言う?」
「分かりやすいから」
「そればっかり」
「だってほんとだし」
「……普通」
「もうその返し、信用ないって」
少し笑う声。
私は曖昧に口元だけ動かして、自分の席に座った。
いつも通りのやり取り。
それなのに、今日はその“いつも通り”が少し遠い。
後ろに星野くんがいる。
振り向けば話せる距離にいる。
なのに、言いたいことだけが喉の奥で止まったままだった。
一限が始まっても、内容はほとんど頭に入らなかった。
ノートを開いて、先生の言葉を書き留めるふりをしながら、別のことばかり考えてしまう。
言わなきゃ。
自分にも星が出たこと。
しかも、星野くんの星と同じ大きさだったこと。
昨日よりまた少し小さく見えたこと。
言わなきゃいけない。
そう思うのに、どう言えばいいのか分からない。
講義の途中、私は何となく窓の方を見た。
曇ったガラスに、教室の中がぼんやり映っている。
その中に、自分の姿と、頭の上の小さな光が見えた。
まだある。
当たり前みたいにそこにあるのが、余計にこわかった。
「相沢さん」
後ろから小さな声がする。
「……何」
「またぼーっとしてる」
「してない」
「してる」
「してない」
「してるって」
「……うるさい」
「はいはい」
その軽いやり取りに、少しだけ救われる。
でも同時に、苦しくもなる。
こんなふうに話せるのに。
こんなに近いのに。
どうして一番大事なことだけ言えないんだろう。
休み時間、私は廊下に出た。
人の少ない窓際まで歩いて、ガラスに映る自分を見る。
頭の上の星は、やっぱり消えていない。
私はそっと空を見上げた。
曇り空の向こうに見える星野くんの星も、同じくらい小さい。
同じだ。
その事実が、何度確かめても胸に重く落ちる。
「またそこにいた」
声がして振り向くと、星野くんが立っていた。
「……何」
「何って、次の教室行く途中」
「そう」
「相沢さんこそ、最近よく窓のとこいるね」
「別に」
「別に、好きだね」
「星野くんも好きでしょ」
「俺はそんなに使わない」
「使ってる」
「じゃあおあいこ」
「……そうかも」
少しだけ笑うと、星野くんがほんの少し安心したような顔をした。
その顔を見て、胸の奥がまた揺れる。
今なら言えるかもしれない、と思った。
「あの」
「ん?」
「……いや」
「何」
「何でもない」
「絶対何でもなくないでしょ」
「……そうだけど」
「じゃあ言って」
「今じゃなくていい」
「今じゃなくていいの」
「……うん」
「そっか」
それ以上、無理に聞いてこない。
そのやさしさがありがたくて、でも逃げ道にもなってしまう。
「じゃ、次遅れるよ」
と星野くんが言う。
「……うん」
「行こ」
「うん」
並んで歩きながら、私はさっきの“あの”を何度も心の中で繰り返していた。
その先に続くはずだった言葉は、結局どこにも出てこなかった。
昼休み、私は学食の端の席でぼんやり味噌汁を見ていた。
食欲はあまりない。
でも何も食べないと、また心配される気がした。
「ちゃんと食べてる?」
向かいから声がして顔を上げると、星野くんがトレーを持って立っていた。
「……食べてる」
「それで?」
「食べてるうちに入る」
「入らない気がする」
「入る」
「じゃあ、あと半分は食べて」
「何その条件」
「今日の相沢さん、放っとくとほんとに何も食べなさそうだから」
「そんなことない」
「ある」
「……少しだけ」
「やっぱり」
向かいに座る。
その自然さに、また少しだけ胸が痛くなる。
「昨日からずっと変だよね」
と星野くんが言った。
私は箸を持つ手を止めた。
「……そう?」
「そう」
「普通だよ」
「普通じゃないって」
「……」
「何かあった?」
その聞き方はやわらかい。
責めるみたいじゃなくて、ただ気にしているだけの声だった。
私は少しだけ視線を落とした。
言えるかもしれない。
今なら。
ここで言えばいい。
私にも星が出た。
しかも、同じ大きさだった。
こわい。
あなたの星が小さくなるたびに、自分の星も同じように小さくなっていくのがこわい。
そこまで頭の中では言えたのに、口は動かなかった。
「……大したことじゃない」
やっと出たのは、それだけだった。
星野くんは少しだけ黙って、それから小さく息を吐いた。
「大したことじゃない顔じゃないけど」
「顔で判断しないで」
「分かりやすいんだから仕方ない」
「……ひどい」
「ひどくないよ。心配してるだけ」
「……」
「無理に言わなくてもいいけど、ほんとにしんどかったらちゃんと言って」
ちゃんと言って。
その言葉が、胸の奥に静かに沈む。
「……うん」
私はそれしか言えなかった。
午後の講義も、気づけば終わっていた。
ノートには文字が並んでいるのに、内容はほとんど残っていない。
帰り支度をしていると、後ろから声がした。
「今日、駅まで一緒?」
「……うん」
「じゃ、行こ」
教室を出て、並んで歩く。
夕方の空は朝より少しだけ明るかったけれど、雲はまだ厚い。
見上げなくても、自分の頭の上に星があることを意識してしまう。
「今日、ほんとに大丈夫?」
と星野くんが聞く。
「大丈夫」
「その返事もあんまり信用ない」
「ひどい」
「今日二回目」
「数えてるの」
「なんとなく」
「暇なんだ」
「相沢さん見てるよりは暇じゃない」
「何それ」
「いや、ずっと上の空だから」
「……そんなに?」
「そんなに」
少しだけ笑う声。
でも、その奥に心配が残っているのが分かる。
駅が近づく。
別れるまで、あと少し。
今なら言えるかもしれない。
そう思って、私は一度だけ足をゆるめた。
「あの」
「ん?」
「私――」
そこまで言って、止まる。
言葉が続かない。
喉の奥で、何かが引っかかったみたいに動かない。
星野くんは急かさずに待っていた。
その待ち方がやさしくて、余計に言えなくなる。
「……ごめん」
結局、私は目をそらした。
「何で謝るの」
「何か、言おうとしたけど」
「うん」
「やっぱり、いい」
「そっか」
責める声じゃなかった。
ただ少しだけ、寂しそうに聞こえた。
そのことが、胸に残る。
駅の前で立ち止まる。
「じゃあ、また明日」
と星野くんが言う。
「……うん」
「明日こそ、少し元気だといいけど」
「努力する」
「努力でどうにかなるやつ?」
「たぶん」
「じゃあ期待しとく」
「しないで」
「する」
「……勝手にして」
少しだけ笑い合う。
その一瞬だけ、いつもの距離に戻れた気がした。
でも、電車に乗って一人になると、すぐにまた胸の奥が重くなる。
家に帰って、部屋の鏡の前に立つ。
頭の上の星は、まだそこにあった。
机に向かって、ノートを開く。
今日も星は消えていなかった。
朝、鏡で見たときも、大学の窓ガラスでも、帰ってきてからも、ずっと同じようにあった。
星野くんの星と、同じ大きさだった。
それがずっとこわい。
少し手を止めてから、続きを書く。
今日も言えなかった。
何度も言おうと思った。
今なら言えるかもしれないと思うたびに、結局何も言えなくなる。
近くにいるほど言えない。
こんなに話しているのに、一番大事なことだけが言えない。
ペン先が少し止まる。
それから、ゆっくり書き足した。
このままじゃだめだと思う。
次こそ、ちゃんと話したい。
書き終えて、私はしばらくその一文を見つめていた。
次こそ。
そう思わないと、明日が来るのがこわかった。




